バッハ『マタイ受難曲』の初演

概要
聖金曜日、ライプツィヒの聖トマス教会。二組の合唱と二組の管弦楽が向かい合う。福音書の言葉を語る福音史家、群衆の叫び、そして時間を止めて心情を歌うアリア。バッハはこの町の教会音楽の責任者として、毎週カンタータを書き、学校で少年たちにラテン語も教えていた。当時、この曲は特別扱いされていない。彼の死後、楽譜は使われなくなり、100年、誰も演奏しなかった。
場所
51.34°N 12.37°E · ドイツ
関わった人(1)
ヨハン・ゼバスティアン・バッハAD1685年3月31日–AD1750年7月28日 · 作曲した本文
ライプツィヒは人口3万ほどの商業都市だった。大学があり、年に3回の大市には各地から商人が集まった。1723年、38歳のヨハン・ゼバスティアン・バッハがこの町の聖トマス教会のカントルに就任した。市の主要な教会の音楽をすべて取り仕切る責任者であり、付属の聖トマス学校で寄宿生の少年たちを教え、監督する教師でもある。
この選任はすんなりとは決まらなかった。市参事会がまず選んだのはハンブルクで名声の高かったテレマンで、彼が辞退すると次にダルムシュタットのグラウプナーに声をかけ、これも主君に引き留められて実らなかった。バッハは三番手だった。参事会員の一人は、最良の人物が得られないので中程度の人物で我慢するしかない、という趣旨の発言を議事録に残している。宮廷楽長として器楽曲を書いてきたケーテンから、町の教会音楽家への転身だった。

仕事は重かった。日曜日と祝日ごとに、礼拝のためのカンタータを用意し、パート譜を写させ、少年たちと町楽師を稽古し、演奏する。バッハは着任から数年のうちに、毎週のように新作を書き下ろし、年間の礼拝暦をほぼ一巡する曲集を少なくとも3年分作り上げた。学校で課されたラテン語の授業は、自分の給料から代理を雇ってしのいだ。少年たちの質や人数、演奏者の手当てをめぐって、市参事会とはたびたび衝突した。
一年でいちばん重い礼拝が、受難週の聖金曜日の午後に行われる晩課だった。福音書のイエスの受難の記事を、独唱と合唱と器楽で演じる「受難曲」が演奏される。ライプツィヒでこれが始まったのは1721年のことで、聖トマス教会と聖ニコライ教会が年ごとに交代で受け持った。バッハは着任の翌年、1724年に『ヨハネ受難曲』を聖ニコライ教会で初演している。

『マタイ受難曲』(BWV244)の初演は、聖トマス教会の1727年4月11日の聖金曜日とされる。長いあいだ1729年4月15日と考えられてきたが、1970年代の研究で台本の刊行時期などが洗い直され、いまは1727年説が有力である。ただし確証はない。台本は、郵便局の役人で詩人のピカンダー(本名クリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィ)が書いた。演奏は、途中に1時間ほどの説教をはさんで、前後2部で計3時間におよんだ。
この曲のいちばん目立つ特徴は、編成を二つに分けたことにある。二組の合唱と二組の管弦楽が左右に分かれ、問いと答えを交わす。冒頭の合唱「来たれ、娘たちよ、ともに嘆け」では、一方が「見よ」と呼びかけ、他方が「誰を」と問い返し、「花婿を」と答える。その上に、少年たちの声で、誰もが知るコラール「おお、罪なき神の小羊」の旋律が重なる。嘆き、問い、祈りの三つの層が、最初の数分で同時に鳴る。

物語を進めるのは福音史家(テノール)で、マタイ福音書26章と27章の言葉をそのまま、語るように歌う。感情を交えない語りだが、ペテロが鶏の鳴き声を聞いてイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣く場面だけは、旋律が大きくうねって垂れ下がる。イエス(バス)の言葉には、弦楽器の持続する和音が光輪のように付き添う。その光輪が消えるのは、十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ぶ一度きりである。群衆は合唱が受け持ち、「バラバを」「十字架につけよ」と荒々しい叫びを短いフーガで畳みかける。
物語は、ところどころで止まる。止まったところで、自由詩によるアリアが、聞き手の心の動きを歌う。ペテロの否認の直後に置かれたアルトのアリア「憐れみたまえ、わが神よ」は、独奏ヴァイオリンが涙のような旋律を絡ませる、全曲でもっとも知られた一曲である。そしてもう一つの層が、会衆がふだん歌っている賛美歌の旋律によるコラールである。「おお、血と傷にまみれた御頭」の旋律は、和声を変えながら5回現れ、そのうち1回はイエスが息を引き取った直後に、ひそやかに歌われる。会衆にとってこれは鑑賞のための演奏会ではなく、福音の言葉を聞き、自分の罪を思い、祈る礼拝だった。

バッハはこの曲を大切にしていたらしい。1736年に手を入れ直して再演し、そのとき自筆の総譜を、福音書の言葉の部分だけ赤いインクで書き分けるほど丁寧に清書した。1742年ごろにも演奏された記録がある。それでも、当時の聞き手にとって、これは毎年の受難節の演目の一つにすぎず、特別な名作として扱われたわけではなかった。説教をはさんで長い宗教曲を聞く習慣自体が、啓蒙の時代とともに薄れていった。
1750年にバッハが死ぬと、『マタイ受難曲』は使われなくなった。自筆譜は次男のカール・フィリップ・エマヌエルに受け継がれ、のちにベルリンの収集家の手に渡る。18世紀後半のバッハは、古風で難解な対位法の名人として、一部の専門家や弟子筋に名を知られるだけの存在になり、世間では彼の息子たちのほうが有名だった。それでも楽譜は散逸せずに残った。およそ100年後の1829年、ベルリンで20歳のフェリックス・メンデルスゾーンがこれを取り出して上演し、バッハは「再発見」される(マタイ受難曲の復活上演)。