グーテンベルクの活版印刷

概要
書物が手写しから機械の複製になった。考えが広がる速さが根本から変わる。
関わった人(1)
グーテンベルクAD1400年頃–AD1468年 · 当人本文
15世紀の半ばまで、ヨーロッパの本はすべて手で書き写されていた。修道院の写字室や、大学の町の写字職人が、一字一字を羊皮紙や紙に写す。聖書一冊を写すには、一人で1年以上かかることもあった。本は高価で、限られた人のものだった。写すたびに誤りが入り、写本ごとに文章が少しずつ違っていた。
活字そのものは中国と朝鮮に先にあった。11世紀の中国では、畢昇の活字が焼いた粘土の活字を作ったと記録されている。朝鮮では金属活字が13世紀に使われ、1377年に刷られた『直指』の印刷は、現存する最古の金属活字本とされる。紙もまた、中国で生まれて何世紀もかけて西へ伝わってきたものだった。

ヨハネス・グーテンベルクは、1400年ごろにドイツのマインツで生まれた。都市の有力な家の出だったが、町の内紛で故郷を離れ、1430年代にはライン川上流のシュトラスブルクにいた。そこで巡礼者向けの金属の鏡を作る事業を共同で起こし、同時に何かの秘密の技術を研究していたことが、仲間との裁判の記録から分かっている。1440年代の終わりにマインツへ戻ると、商人ヨハン・フストから多額の資金を借りて、印刷の工房を開いた。
グーテンベルクの新しさは、ばらばらにあった技術を一つの工程にまとめたことにある。同じ形の活字を大量に正確に作るための手持ちの鋳型。鉛、錫、アンチモンを混ぜた、すぐに固まって縮みにくい合金。金属の活字によくなじむ、亜麻仁油をもとにした油性のインク。そして、ぶどうやオリーブを搾る機械を転用した、紙に均一に圧をかける印刷機。どれか一つでは本は刷れない。全部が揃って初めて、同じページを何百枚でも刷れるようになった。

漢字は数千字あるが、ラテン文字は大文字と小文字、記号を合わせても数百に収まる。少ない種類の活字を組み替えれば、どんな文章でも組める。活字が生きるのはこちらの側だった。
工房の初期の仕事として知られるのは、小さな文法書や暦、そして1454年から翌年にかけて刷られた免罪符の証書である。トルコと戦うキプロス王国のために教会が売り出したもので、名前と日付を書き込む欄を空けた同じ文面を、何千枚も刷る必要があった。印刷は、まずこうした実用の需要に応えて商売になった。

1455年ごろ、一ページに42行を組んだ聖書が完成した。2巻で1200ページを超える大部の本である。刷られたのはおよそ180部とされ、多くは紙に、一部は高価な羊皮紙に刷られた。手書きの写本に見劣りしないよう、字の形は写本の書体に似せ、章の頭の飾り文字や彩色は、買い手が後から職人に描かせた。のちに教皇となるエネア・シルヴィオ・ピッコローミニは、1455年に書いた手紙の中で、フランクフルトで見たこの聖書の刷り本を、眼鏡なしで読めるほど字がはっきりしていると称えている。いまも50部近くが、一部が欠けたものも含めて世界の図書館に残っている。
だが、発明者は事業で報われなかった。同じ1455年、出資者のフストが貸した金の返済を求めて訴え、グーテンベルクは工房の設備の多くを手放した。フストは、グーテンベルクの職人だったペーター・シェッファーと組んで印刷を続け、1457年には刷った年と刷った者の名を入れた詩篇を出している。グーテンベルクはその後も印刷に関わったとみられるが、晩年はマインツの大司教から年金を受けて暮らし、1468年に死んだ。

技術は急速に広がった。1462年、マインツが大司教の座をめぐる争いで攻め落とされると、職人たちが各地へ散った。彼らは印刷の技を携えて、イタリア、フランス、ネーデルラントへ移っていった。50年で、ヨーロッパの印刷所は数百か所に増え、とりわけヴェネツィアは出版の中心となった。1500年までに刷られた本は、推計で数百万冊から1000万冊にのぼるとされる。写本の時代の蔵書量を、一世代で追い越している。
刷られたのは聖書だけではない。暦、文法書、医学書、古代ギリシア・ローマの古典、物語、そして教会が売る免罪符の証書も刷られた。1453年のコンスタンティノープル陥落のあと西へ逃れた学者たちが持ち込んだギリシア語の古典は、印刷によって初めて多くの人の手に届くようになった。同じ本が同じ文章で大量に出回るため、学者たちは同じ版の同じページを指して議論できるようになった。

1517年、ヴィッテンベルクでマルティン・ルターが95か条の論題を示すと、それは数週間のうちに刷られてドイツ中に広まった。ルターはその後も、ドイツ語の短い小冊子を次々に書き、印刷所はそれを大量に刷った。教会を支える免罪符を刷った技術が、教会を割る文書を刷った。教会を支える技術と、教会を割る技術が同じものだった。
印刷は、知識の広がる速さを変えただけではない。各地の言葉で書かれた本が大量に出回ることで、書き言葉の綴りや文法がまとまり、国ごとの言語が形作られていった。科学者は観察の結果を図版とともに正確に複製して共有できるようになり、権力者は布告を、反対する者は批判を、同じ速さでばらまけるようになった。新聞が生まれるのは17世紀の初めである。考えが広がる速さが根本から変わったのは、ここからになる。