ヴラド串刺し公

概要
ワラキアの公がオスマンの使者のターバンを頭に釘で打ち、貢納を拒み、ドナウを渡って2万人を殺し、メフメト2世が来ると2万人の串刺しの森で迎えた。オスマンは退いた。ドイツのパンフレットが「血を飲む」と刷り、400年後にストーカーが読んだ。
場所
44.92°N 25.46°E · ルーマニア
関わった人(1)
ヴラド3世AD1431年–AD1476年 · 公本文
15世紀の半ば、ドナウ川の北に広がるワラキア公国は、二つの大国のはざまにあった。南ではオスマン帝国が勢いを増し、1453年にはメフメト2世がコンスタンティノープルを落としていた(コンスタンティノープル陥落)。北と西にはハンガリー王国がある。ワラキアの公は、オスマンに貢ぎ物を納めて従うか、ハンガリーと結んで抗うかを、たえず選ばされていた。公の位をめぐって一族どうしが争い、どちらかの大国の後ろ盾を得た者が、もう一方を追い落とした。
ヴラド3世は、その渦の中で育った。父のヴラド2世は、オスマンと戦うために作られた騎士団「竜騎士団」に加わっていたことから「ドラクル(竜)」と呼ばれ、息子のヴラドは「ドラクラ(竜の子)」と呼ばれた。少年のころ、ヴラドは弟ラドゥとともに、父がオスマンに忠誠を誓うしるしとして人質に差し出され、何年もオスマンの宮廷で過ごした。父と兄はその間に、ワラキアの貴族たちに殺されている。

ヴラドは1448年にいったん公の位に就いたがすぐに追われ、1456年に、ハンガリーの後ろ盾で再び位を取り戻した。この2度目の治世で、彼は恐るべき名を残す。自分に逆らう貴族、罪人、盗賊、そして交易で対立したトランシルヴァニアのドイツ系の商人たちを、次々に処刑した。好んで使ったのが、尖った杭で人の体を貫き、地面に立てて晒す串刺しの刑である。「串刺し公(ツェペシュ)」という呼び名はここから来た。
1461年、ヴラドはオスマンへの貢ぎ物を止め、オスマンと手を切った。ルーマニアやドイツに伝わる話では、オスマンの使者が公の前でターバンを脱がなかったため、ヴラドはターバンを使者の頭に釘で打ちつけさせたという。ただしこれは後の物語に出てくる逸話で、事実かどうかは分からない。その年の冬、ヴラドは凍ったドナウ川を渡ってオスマンの領土へ攻め込み、町や村を焼いた。ヴラド自身がハンガリー王に送った手紙には、殺した者の数を2万3千人あまりと数え上げている。

1462年の春、メフメト2世はみずから大軍を率いてワラキアへ攻め込んだ。兵力で大きく劣るヴラドは、正面からの戦いを避け、退きながら井戸に毒を入れ、畑を焼き、敵の行く手を荒れ野にした。6月には夜襲をかけてスルタンの陣に斬り込んだが、スルタンを討ち取ることはできなかった。それでも、都トゥルゴヴィシテに近づいたオスマン軍が目にしたのは、串刺しにされたおびただしい数の捕虜の死体だった。ビザンツの歴史家の記録では、その数は2万にのぼり、長さ数キロにわたって杭が並んでいたという。数には誇張があるとみられるが、この光景がスルタンの軍に強い衝撃を与えたことは確かとされる。
オスマン軍は都を落とさずに引き揚げた。しかし、それはヴラドの勝利を意味しなかった。メフメト2世は、オスマンの宮廷で育った弟ラドゥをワラキアの公に据えて、ワラキアの貴族たちを味方につけた。孤立したヴラドはハンガリーへ逃れたが、ハンガリー王マーチャーシュは彼を捕らえ、10年以上にわたって幽閉した。ヴラドが3度目に公の位に就いたのは1476年のことで、その年の暮れか翌年の初めには、オスマン方との戦いの中で殺された。
ヴラドの名は、彼の死の前から、ヨーロッパ中に広まっていた。広めたのは、グーテンベルクの活版印刷から間もない印刷術である。ドイツの各地で、ヴラドの残虐を語る小冊子が何度も刷られた。串刺しにされた人々の前で平然と食事をする公の木版画が添えられ、子どもを焼いて母親に食べさせた、といったおぞましい話が並んだ。被害を受けたトランシルヴァニアのドイツ系の商人たちの恨みが話のもとにあり、ハンガリー王が彼を幽閉したことを正当化するために広めたという見方もある。こうした話は、恐ろしい読み物として大いに売れた。一方、ロシアに伝わった物語では、ヴラドは残酷ではあっても、正義と秩序を重んじる君主として描かれている。

それから400年以上たった1897年、アイルランド出身の作家ブラム・ストーカーが、トランシルヴァニアの吸血鬼の伯爵を主人公にした小説『ドラキュラ』を発表した。伯爵の名は、ヴラドの呼び名ドラクラから取られている。ただし、ストーカーがヴラドの生涯や串刺しの話をどこまで知っていたかについては議論があり、彼が参考にした本にはヴラドの残虐についての記述はほとんど無かったとも言われる。吸血鬼とヴラドを強く結びつけたのは、小説そのものより、20世紀の映画や研究書のほうだった。
ルーマニアでは、ヴラドは外敵に立ち向かい、国の独立を守ろうとした君主として評価されてもいる。残虐な暴君か、厳しくも国を守った英雄か。その評価は、どちらの側から彼を見るかによって、いまも分かれている。