概要
松山の生まれ。俳句と短歌を「写生」で作り直し、「月並み」を退けた。結核で脊椎が崩れ、寝たきりで『病牀六尺』を新聞に書いた。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」。野球を愛し、「ベースボール」を「野球」と訳した一人。34歳。
所属
日本本文
正岡常規。 「つねのり」。 「升」(のぼる)。 「子規」。 「ホトトギス」。 「血を吐くまで鳴く」。 「喀血」。 1889年。 「子規」の号は、 その年から。 伊予国松山。 1867年10月14日。 「慶応3年9月17日」。 父常尚は、 藩士。 「酒」。 1872年、 死んだ。 「母八重」。 「大原観山の娘」。 「祖父観山に、 漢学」。 「松山中学」。 「自由民権」。 「演説」。 1883年、 上京。 「叔父、 加藤恒忠」。 「共立学校」。 「大学予備門」。 1884年。 「夏目金之助」。 「同級」。 「1889年、 親しく」。 「漱石」。 「子規の号」。 「野球」。 「ベースボール」。 「捕手」。 「『野球』(のぼーる)」。 「雅号」。 「升」。 「子規が、 『野球』と、 訳したのは、 中馬庚の、 『野球』とは、 別」。 「『打者』『走者』『四球』『直球』」。 「子規が、 訳した」。 「2002年、 野球殿堂」。 1890年、 帝国大学国文科。 1892年、 「退学」。 「『獺祭書屋俳話』」。 『日本』新聞。 陸羯南。 「子規は、 『日本』に、 入った」。 「月給15円」。 「俳句分類」。 「江戸の俳句を、 分類した」。 「12万句」。 「月並み」。 「宗匠俳句」。 「子規は、 『月並み』と、 言った」。 「写生」。 「中村不折」。 「洋画」。 「写生」。 「見たままを」。 1893年、 「芭蕉雑談」。 「芭蕉の句は、 悪句が多い」。 「蕪村」。 1897年、 『俳人蕪村』。 1895年、 日清戦争。 「従軍記者」。 「大連」。 「戦争は、 終わっていた」。 「帰りの船で、 喀血」。 「神戸」。 「須磨」。 「松山」。 「漱石の下宿」。 「愚陀仏庵」。 「52日」。 10月、 東京。 「根岸」。 「子規庵」。 1896年、 「脊椎カリエス」。 「寝たきり」。 「7年」。 1897年、 『ホトトギス』。 「柳原極堂」。 「松山」。 1898年、 「高浜虚子」。 「東京」。 「『歌よみに与ふる書』」。 「『貫之は下手な歌よみにて、 古今集はくだらぬ集に有之候』」。 「万葉」。 「根岸短歌会」。 「伊藤左千夫、 長塚節、 岡麓」。 「アララギ」。 「子規の、 写生」。 1899年、 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」。 「1895年10月」。 「奈良」。 「柿」。 「子規は、 柿が、 好きだった」。 「鐘は、 東大寺の」。 「法隆寺に、 した」。 1900年、 「病牀六尺」。 1902年5月から9月。 『日本』。 「127回」。 「病牀六尺、 これが我世界である」。 「悟りといふ事は、 如何なる場合にも、 平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、 悟りといふ事は、 如何なる場合にも、 平気で生きて居る事であった」。 「仰臥漫録」。 「日記」。 「食べたものを、 全部、 書いた」。 「牛乳、 粥、 鰹の刺身、 菓子パン」。 「麻痺剤」。 「モルヒネ」。 「『わが病を、 母に、 言え』」。 「絶叫」。 「号泣」。 「律」。 「妹」。 「看病」。 「『病人の、 看病は、 律が』」。 「『律は、 理屈っぽい』」。 「『律は、 強情』」。 「『律が、 いなければ』」。 1902年9月18日。 「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」 「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」 「をとゝひのへちまの水も取らざりき」。 「絶筆三句」。 「虚子が、 筆を」。 「子規が、 書いた」。 「板に、 紙を」。 9月19日、 午前1時。 34歳。 「糸瓜忌」。 「獺祭忌」。 「田端」。 「大龍寺」。 「子規居士」。 「墓碑銘」。 「自分で、 書いた」。 「正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十円」。 「月給四十円」。 「最後に」。