『竹取物語』

概要
「今は昔、竹取の翁といふものありけり」。竹から出た娘が五人の貴公子に無理な宝を求め、帝を退け、月へ帰る。物語の中で作り話の面白さを作った最初。『源氏物語』が「物語の出で来はじめの親」と呼んだ。作者は分からない。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
本文
「今は昔、竹取の翁といふものありけり」。物語はこう始まる。野山で竹を取って暮らす翁が、ある日、根元の光る竹を見つけ、中に三寸ほどの小さな女の子がいるのを見つける。翁と妻はその子を育てる。その後、翁が竹を取るたびに、節と節のあいだに黄金の入った竹が見つかり、翁は豊かになっていった。女の子は三月ほどで美しい娘に育ち、なよ竹のかぐや姫と名づけられた。
姫の美しさを聞いて、多くの男たちが屋敷の周りに集まった。最後まで諦めなかったのは、身分の高い五人の貴公子である。姫は結婚の条件として、それぞれにこの世にあるかどうかもわからない宝を求めた。仏が使った石の鉢、蓬莱の山にある玉の枝、火に焼けない火鼠の皮衣、龍の首の珠、燕の持つ子安貝である。

五人の失敗の話は、この物語のいちばん面白いところである。石の鉢を求められた皇子は、遠い天竺へは行かず、山寺の古い鉢を持ってきて見破られる。玉の枝を求められた皇子は、職人に偽物を作らせて、苦労話までこしらえるが、代金を払ってもらえない職人たちが屋敷に押しかけて嘘がばれる。皮衣は焼けてしまい、龍を探しに海へ出た大納言は嵐に遭って散々な目に遭い、子安貝を取ろうとした中納言は高いところから落ちて命を落とす。それぞれの話の終わりには、「恥を捨てる」「甲斐なし」といった言葉の由来を、だじゃれで説くおちがついている。
貴公子たちを退けた姫のもとに、ついに帝が心を寄せる。帝は姫を宮中に迎えようとするが、姫は応じない。二人は三年ほど手紙を交わし合った。やがて姫は、月を見ては泣くようになり、自分は月の都の者で、八月十五日の夜に迎えが来ると打ち明ける。帝は二千人の兵を送って屋敷を守らせたが、天から降りてきた人びとの前に、兵たちは力を失い、弓を引くこともできなかった。

姫は翁と媼に別れの手紙を書き、帝には手紙と不死の薬を残した。天の羽衣を着せられると、人の世の思いは消え、姫は月へ昇っていった。帝は、姫のいない世で不死の薬など何になろうと言い、天に最も近い駿河の国の山の頂で、手紙と薬を焼かせた。多くの兵士を連れて登ったことから、その山を富士の山と名づけた、と物語は結ぶ。不死の薬にかけた名だとも読める。その煙はいまも雲の中へ立ち上っている、という一文で物語は終わる。
物語が書かれた年代も、作者も分かっていない。9世紀の後半から10世紀の初めごろ、漢文や仏典の教養を持つ男性の手になると考えられており、作者として何人かの名が挙げられてきたが、どれも決め手がない。五人の貴公子のうち何人かは、7世紀末から8世紀初めの実在の人物の名に似せてあり、当時の権力者を皮肉ったのではないかという説もある。また、中国の西南部に伝わる昔話に、竹から生まれた娘が求婚者に難題を出すよく似た話があり、両者の関係も議論されてきたが、結論は出ていない。
この物語の新しさは、仮名で書かれた、作り話としての物語だったことにある。それまでの日本の書き物は、漢文の歴史書や、和歌や、言い伝えを記したものが中心だった。『竹取物語』は、昔話の骨組みに、求婚者たちの滑稽な失敗や、帝との心の通い合い、別れの悲しみを書き込み、読ませるための物語に仕上げた。10世紀の初めには、仮名で書かれた初めての勅撰の和歌集として『古今和歌集』も編まれる。仮名で書くことが、宮廷の文化の表舞台に出てきた時代だった。

およそ百年後、紫式部は『源氏物語』の中で、この作品を「物語の出で来はじめの親」と呼んでいる。物語というものが生まれたときの祖先、という意味である。平安の宮廷の女性たちは、こうした物語を絵とともに楽しみ、やがて自分たちの手で新しい物語を書くようになった。
かぐや姫の話は、その後も絵本や芝居、映画やアニメーションの形で語り直され、日本でもっともよく知られた物語の一つになった。月から来た姫が月へ帰っていくという筋は、千年を超えて、人が去っていくことの悲しみを伝え続けている。