概要
ポンポーザの修道院(フェラーラの近く)で、聖歌を早く覚えさせる方法を作って、同僚に嫉妬されて、アレッツォへ。司教テオダルドゥスの下で聖歌隊の教師。『ミクロログス』(1026年頃、音楽理論の教科書。中世で最も写された)。譜線、ソルミゼーション、「グイードの手」。ローマで教皇ヨハネス19世に会った(1028年頃)。ローマの空気が体に合わず、帰った。「歌い手は10年学んでも、簡単な交唱を暗記できない。私の方法なら、子供が1か月で」。
関わったできごと(1)
グイードの記譜法AD1025年頃 · 考えた本文
991年か992年頃(自分の手紙から逆算)。パリの近くのサン・モール・デ・フォッセで生まれた、という説(フランスの学者)と、イタリア(アレッツォかフェラーラ)という説。ベネディクト会士。
ポンポーザ修道院(アドリア海に近い、フェラーラの東の沼地。当時、イタリアで最も学問のある修道院の一つ)。修道士ミカエルと共に、聖歌を教えた。新しい方法で。修道士たちが、これまでの何分の一かの時間で、歌えるようになった。
同僚が嫉妬した、と彼は書く。「私の方法が広まると、私たちは無用になる」。1025年頃、ポンポーザを出た(追われた、あるいは自分で出た)。アレッツォへ。アレッツォには修道院がなく、司教座聖堂があった。司教テオダルドゥスが、彼を大聖堂の聖歌隊の教師にした。
『ミクロログス・デ・ディシプリーナ・アルティス・ムシケ(音楽の技法の規律についての小論)』(1026年頃)。20章。モノコルド(一弦の測定器)、音の名(A〜G)、テトラコルド、8つの旋法、ネウマ、多声(オルガヌム)、旋律の作り方(歌詞の母音を音に対応させる方法まで)。中世の音楽の教科書として、写本が70以上残る(グレゴリウス以後、最も写された音楽の本)。
『アンティフォナリウム(交唱集)の序文』(1030年頃)。新しい記譜の説明。「私は、この交唱集を、線と色を使って書いた。歌い手は、教師なしで、これを見て歌える」。線(赤いF、黄色いC。他に黒い線)。音符を、線の上と線の間に。
『修道士ミカエルへの書簡』(1032年頃)。ローマ行きの報告と、ソルミゼーションの説明。教皇ヨハネス19世が、彼の交唱集の噂を聞いて、三度、使者を送った。ローマへ。教皇は本を見て、「不思議なもののように」眺めて、規則を聞いて、自分で、見たことのない交唱を、歌ってみた。歌えた。「彼は、私が他の人に言われても信じなかったであろうことを、自分で確かめた」。教皇は彼にローマに留まるよう求めたが、夏の空気(マラリア)が体に合わず、冬に戻ると約束して、去った。
ソルミゼーション。聖ヨハネの祝日の賛歌「ウト・クェアント・ラクシス」の6行が、それぞれC、D、E、F、G、Aで始まる。「Ut queant laxis / REsonare fibris / MIra gestorum / FAmuli tuorum / SOLve polluti / LAbii reatum / Sancte Iohannes」(「あなたのしもべたちが、ゆるやかな声で、あなたの行いの奇跡を歌えるように、汚れた唇の罪を清めてください、聖ヨハネよ」)。旋律の最初の音が、順に上がる。この6音(ヘクサコルド)を、C、F、Gの3か所から始めて、重ねて、全音域を歌う(「ムタツィオ」=乗り換え)。
「グイードの手」。左手の掌を開いて、指の関節と先に、19の音(Γ ut から e la まで)を割り当てる。教師が右手で指の関節を指し、生徒が歌う。楽譜のない教室での、可視化。中世と近世の音楽の教科書に、必ず描かれた(グイード自身の著作には、この図はない。後の人が彼の名で作った)。
晩年。アヴェッラーナ(カマルドリ会の隠修院、グッビオの近く)へ移った、という説と、アレッツォに留まったという説。1033年5月17日に死んだ、と伝える(確かでない)。
アレッツォの街に、彼の像(1882年、サルヴィーニ作)と、彼の名の広場と、音楽学校と、国際合唱コンクール(グイード・ダレッツォ)。
「ウト」は17世紀にイタリアで「ド」に(Dominus から、あるいは歌いやすさから。ジョヴァンニ・バッティスタ・ドーニが自分の名から取った、という話もある)。「シ」は、Sancte Iohannes から、16世紀に。ドレミファソラシド。世界の半分が、それで歌っている。