東ローマ千年

概要
ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。
この物語について
476年に滅びたのは、ローマの西半分でしかない。では、残った東半分は何だったのか。本人たちは最後までローマ人と名乗っていた。

「ビザンツ帝国」という呼び名は、16世紀以降の西欧の学者が使い始めたもので、当人たちが名乗ったことは一度もない。彼らは自分たちを「ローマ人(ロマイオイ)」と呼び、国を「ローマ人の国」と呼んだ。1453年に都が落ちるまで、皇帝はアウグストゥスから途切れずに続くローマ皇帝のつもりでいた。この物語は、その千年をローマの続きとして並べ直す試みである。
始まりは330年のコンスタンティノープル遷都にある。コンスタンティヌス帝はボスポラス海峡に面したギリシア人の町ビュザンティオンを新しい都に作り替えた。三方を海に囲まれ、陸側だけを守ればよい岬で、ヨーロッパとアジア、黒海と地中海を結ぶ十字路にあたる。帝国の重心は、すでに富と人口の多い東へ移っていた。395年、テオドシウス帝が死ぬと二人の息子が東西を分けて治め、この分割がそのまま固まっていく。
西はその後、ゲルマン系の諸集団に土地を奪われていき、476年に最後の皇帝が退位させられる。ただし東の宮廷から見れば、これは西の皇帝位が空いたというだけのことで、帝国が滅んだわけではなかった。イタリアを治めた東ゴート王テオドリックも、形のうえでは東の皇帝から認められた支配者という立場をとっている。

最初の頂点は、6世紀のユスティニアヌス1世の時代に来た。農民の出の叔父から帝位を継いだ彼は、旧帝国の西半分を取り戻すことを本気で目指した。532年、競馬の党派が手を組んで起こした「ニカの乱」で都が炎に包まれ、皇帝は逃げ出しかけた。このとき皇后テオドラが「帝衣はよい経帷子になる」と言って踏みとどまらせたと、同時代の歴史家プロコピオスは書いている。踊り子の出と伝えられる皇后の一言で帝位は救われ、反乱は競馬場での虐殺で終わった。焼け跡には、わずか5年ほどで巨大な円蓋を持つ聖堂ハギア・ソフィアが建てられる。
同じ頃、ローマ法の集大成も進められた。何百年分の勅法と法学者の学説を整理した『ローマ法大全』は、のちに西欧で再発見され、大陸ヨーロッパの法の土台になる。その一方で、529年には異教の哲学の拠点だったアテナイのアカデメイアが閉じられたとされる。ローマ法を残し、ギリシア哲学の学園を閉じる。キリスト教の帝国としてのローマの姿がここに見える。

西への遠征を率いたのは将軍ベリサリウスだった。533年、北アフリカのヴァンダル王国をわずか一年ほどで滅ぼし、続いてイタリアへ渡ってローマを取り戻す。だが東ゴートとの戦いは長引いた。東ゴート王トティラが反撃してローマを二度奪い、一時は市がほとんど無人になったとプロコピオスは伝える。イタリアの戦争が終わったのは20年近く後で、取り戻した半島は戦争で荒れ果てていた。しかもユスティニアヌスの死から3年後の568年にはランゴバルド人が侵入し、半島の大半はまた失われる。
拡大の勢いを止めたのは、541年に始まったユスティニアヌスの疫病だった。エジプトから都に入った疫病は、一日に何千人もの死者を出したと記録される。プロコピオスの記述は、のちに腺ペストと確かめられる病の、最初の詳しい観察とされる。正確な死者数は分からないが、人口と税収の落ち込みは帝国の力を長く削いだ。そのプロコピオスは、表向きの戦史で皇帝を称えながら、生前には公にしなかった『秘史』では皇帝夫妻を悪し様に罵っている。同じ人が同じ時代を二通りに書いた例である。

東では、ペルシアのサーサーン朝が数百年来の宿敵だった。ホスロー1世とは532年に「永遠の平和」を結んだが、長くはもたなかった。7世紀初め、ペルシア軍はシリア、エジプトを奪い、都の対岸まで迫る。610年に即位したヘラクレイオスは、自ら軍を率いてペルシアの奥へ攻め込み、628年ごろまでに失地を取り戻した。ところが両帝国が消耗しきったところへ、アラビア半島から新しい勢力が現れる。636年のヤルムークの戦いで敗れ、シリアとパレスティナ、続いてエジプトが失われた。皇帝は「シリアよさらば」と言って去ったと伝えられるが、これは後世の記録による。
ヘラクレイオスの治世は、帝国の性格が変わった時代でもあった。行政の言葉はラテン語からギリシア語に移り、皇帝は「バシレウス」と称されるようになる。ラテン語の西半分も、穀倉のエジプトも失い、残ったのはアナトリアとバルカンの一部、ギリシア語を話す正教の国だった。史家はこのあたりから「ビザンツ」と呼び分けることが多い。
それでも都は持ちこたえた。717年から翌年にかけて、ウマイヤ朝の大軍が陸と海から都を囲んだコンスタンティノープル包囲とギリシア火では、即位したばかりのレオン3世が三重の城壁と、水の上でも燃える「ギリシア火」で艦隊を焼き、包囲を退けた。この火の成分はいまも分かっていない。この勝利で、イスラム勢力が東からヨーロッパへ入る道はしばらく閉ざされた。

8世紀から9世紀には、聖像を拝むことの是非をめぐる聖像破壊論争が国を二分した。最終的に843年に聖像崇敬が認められ、正教の礼拝のかたちが定まる。そのあいだにローマ教皇との関係はしだいに冷えていった。9世紀の総主教フォティオスは、教皇と互いに相手を退ける対立を起こしている。彼はまた、自分が読んだ本280冊ほどの要約を残した。その多くは原本が失われていて、古代の書物を知る貴重な手がかりになっている。
9世紀は、帝国が北へ文化を送り出した世紀だった。863年ごろに始まるスラヴ語への伝道で、テッサロニキ出身の兄弟キュリロスとメトディオスはスラヴ語を書くための文字を作り、典礼をスラヴ語に訳した。隣国ブルガリアでは君主ボリス1世が860年代に洗礼を受ける。その子シメオン1世はコンスタンティノープルで教育を受けた人で、西欧の使節に「半分ギリシア人」と評された。彼は帝都の城壁の前に軍を進め、皇帝の称号を求めた。こうして名乗られた「ツァーリ」はカエサルに由来する語で、のちにロシアの君主の称号になる。

その頃の帝国を立て直したのがマケドニア朝である。始祖のバシレイオス1世は農民の出で、馬の扱いを見込まれて宮廷に入り、皇帝ミカエル3世に取り入って共同皇帝となったのち、867年、酔った皇帝を寝室で殺させて帝位に就いた。血なまぐさい始まりだったが、この王朝のもとで帝国はおよそ150年、攻勢に出る。961年には将軍ニケフォロス・フォカスがアラブ人に奪われていたクレタ島を130年あまりぶりに取り戻し、のちに皇帝になった彼は「サラセン人の青白い死」と恐れられた。帝室の正統な子は宮殿の紫の部屋で生まれ、「緋色の生まれ」と呼ばれた。紫は、ティルスの染料以来のローマ皇帝の色である。
北のルーシとの関係も、この時代に決まった。988年ごろ、キエフの大公ウラジーミル1世は皇帝の妹アンナとの結婚と引き換えに洗礼を受け、民をドニエプル川に入れて一斉に洗礼させたと伝えられる。このキエフ・ルーシの改宗によって、いまのロシア、ウクライナ、ベラルーシは東ローマの文化圏に入り、正教とキリル文字を受け継いだ。皇帝の身辺を守る「ヴァリャーグ親衛隊」にはスカンディナヴィアやルーシの戦士が雇われ、のちにノルウェー王になるハラルド苛烈王もその一人だった。

マケドニア朝の頂点はバシレイオス2世である。彼は長く宿敵だったブルガリアと戦い続け、1014年のクレイディオンの戦いで大勝した。捕虜1万4千とも1万5千ともいわれる兵の目をつぶし、100人ごとに一人だけ片目を残して帰らせたと伝えられる。プレスパ湖の島に拠ったブルガリアの王サムイルは、帰ってきた兵を見て倒れ、まもなく死んだという。1018年、第一次ブルガリア帝国は帝国に併合され、皇帝は「ブルガリア人殺し」と呼ばれるようになった。ただしこのあだ名が広く使われるのは後の時代で、数字にも誇張があるとみられている。
1054年、ローマ教皇の使節とコンスタンティノープル総主教が互いを破門し、東西教会の分裂が起きた。当時はよくある衝突の一つと受け止められたが、のちに振り返ると、西のカトリックと東の正教が分かれた節目になった。
本当の危機は東から来た。1071年のマンジケルトの戦いで、皇帝ロマノス4世はセルジューク朝のアルプ・アルスランに敗れて捕らえられる。戦いそのものの損害は壊滅的ではなかったが、その後の内紛のあいだにトルコ系の人々がアナトリアの奥まで入り込み、帝国は兵と税の供給源を失い始めた。内陸にはやがてルーム・セルジューク朝が根を下ろす。

混乱を収めたのは、1081年に即位したアレクシオス1世コムネノスだった。1091年のレヴニオンの戦いでは、北から侵入した遊牧民ペチェネグを壊滅させ、娘のアンナは一つの民が一日で消えたと書いた。彼は西の教皇に傭兵の援助を求めたが、やって来たのは思いもよらない規模の十字軍だった。その娘アンナ・コムネナが晩年に書いた『アレクシアス』は、十字軍を迎える東側から見た同時代の記録で、西の騎士たちの粗野さと野心を冷ややかに描いている。
致命傷は、異教徒ではなく同じキリスト教徒から与えられた。1202年に出発した第四回十字軍は、輸送を請け負ったヴェネツィアへの借金を返せず、さらに帝位争いに巻き込まれて、聖地ではなくコンスタンティノープルへ向かった。1204年4月、十字軍は都を落とし、三日にわたって略奪した(第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪)。艦隊を率いたヴェネツィアの元首エンリコ・ダンドロは高齢で、目が見えなかったとされる。聖遺物や財宝は西へ運ばれ、サン・マルコ聖堂の青銅の馬はいまもヴェネツィアにある。

1261年、亡命政権のニカイアが都を取り戻したが、帝国は二度と大きくならなかった。小アジアでは1243年にモンゴルがルーム・セルジューク朝を破り、その空白から小さな君侯国の一つ、オスマン家が伸びてくる。1389年のコソヴォの戦いのあとセルビアは属国になり、オスマンのバヤズィト1世は1394年から何年も都を囲んだ。彼が1402年にティムールに敗れて捕らえられなければ、都はそのとき落ちていたかもしれない。
最後は1453年5月29日に来た。メフメト2世の大砲が城壁を崩し、コンスタンティノープル陥落のなかで最後の皇帝コンスタンティノス11世は姿を消した。遺体は確認されていない。ハギア・ソフィアはモスクになり、都はオスマン帝国の首都になった。

その後も「ローマ」の名は消えなかった。オスマンのスルタンは「ローマのカエサル」を名乗り、モスクワの君主は帝国の後継者を自任して「第三のローマ」と呼ばれ、ツァーリを名乗った。西ではすでに800年、カール大帝が教皇から帝冠を受けて「もう一人のローマ皇帝」が立っており、その系譜を引く神聖ローマ帝国は1806年まで続く。ローマ帝国はひとつの国である以上に、多くの国が引き継ぎたがる名前になった。東欧の文字と信仰、ヨーロッパの法、そして古代ギリシアの書物の多くは、この千年の国を通ってわたしたちに届いている。
この物語が起きた場所
筋(72)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ティルスの紫できごとBC1500年頃生まれながらの紫アクキガイ科の巻貝の鰓下腺から、ごく微量だけ取れる分泌物。空気と日光にさらすと、黄から緑、青を経て、深い赤紫に変わる。1グラムの染料に貝が1万個要る。だからこの色は、王と神官と高位の官職の色になった。ローマでは皇帝以外が全身を紫に染めることを禁じ、ビザンツでは皇后の産室を紫の石で覆って「生まれながらの紫(ポルフュロゲネトス)」と呼んだ。1453年のコンスタンティノープル陥落のころには、製法はほぼ途絶えていた。ティルス
- ササン朝ペルシア国AD224年(アルダシール1世がパルティアを破る) – AD651年(ヤズデギルド3世の死)400年の宿敵。互いに消耗しきったところへイスラム勢力が来るパルティアに代わってイラン高原を取り、ゾロアスター教を国の宗教として整えた。400年にわたってローマ・東ローマと戦い、最後は消耗しきったところへイスラム勢力が来る。
- コンスタンティノープル遷都できごとAD330年始まり。帝国の重心が東へ移る帝国の重心が東へ移った。この都はこの後1100年以上続く。コンスタンティノープル
- ローマ帝国の東西分割できごとAD395年テオドシウスの死で東西に分けられ、二度と一つに戻らなかった。
- 東ローマ帝国国AD395年(テオドシウスの死による東西分割) – AD1453年(コンスタンティノープル陥落)主役西が消えたあとも1000年続いた、ローマの東半分。自分たちはずっとローマ人と名乗っていた。版図は縮みつづけ、最後は城壁の内側だけになる。
- ヴァンダル王国国AD435年(ローマとの協定) – AD534年(東ローマによる征服)ユスティニアヌスが一年で滅ぼしたライン川を渡り、ガリアとイベリアを通り抜けて、海を渡ってアフリカに国を建てた。ローマの穀倉を握り、艦隊でローマを略奪する。ユスティニアヌスの軍が一年で滅ぼした。
- 西ローマ帝国の滅亡できごとAD476年滅びたのは西半分だけ最後の皇帝が退位させられた。古代の終わりの目印として使われるが、当時そう感じた人はいなかった。ラヴェンナ
- ユスティニアヌス1世人物AD482年頃 – AD565年11月14日地中海の旧領を一時取り戻し、ローマ法を集大成した。ハギア・ソフィアを建てる。
- テオドリックのイタリア統治できごとAD493年ゴート人が軍を担い、ローマ人が行政を担う。元老院も法もそのまま使った。ボエティウスを重用し、そして処刑した。その死後、東ローマが攻め込む。ラヴェンナ
- 東ゴート王国国AD493年(テオドリックのラヴェンナ入城) – AD553年(ゴート戦争の終わり)ユスティニアヌスが20年かけて滅ぼしたテオドリックがオドアケルを殺してイタリアを取った。ローマの元老院と法をそのまま使い、ゴート人は軍だけを担う。彼の死後、東ローマが攻め込んで20年の戦争になる。
- テオドラ人物AD500年頃 – AD548年芸人の娘から皇后になった。ニカの乱で逃げようとした夫を思いとどまらせたと伝わる。
- ベリサリウス人物AD500年頃 – AD565年一度も負けなかった将軍ペルシアを破り、ニカの乱を鎮め、ヴァンダルを一年で滅ぼし、東ゴートからローマとラヴェンナを取った。皇帝に疑われて呼び戻され、フン人がコンスタンティノープルに迫ると老兵300で追い返した。盲目の乞食になったという伝説は、事実ではない。
- プロコピオス人物AD500年頃 – AD565年頃ペストの最初の記述カイサリアの法律家で、ベリサリウスの秘書として戦争に従った。『戦史』8巻でその戦争を、『建築について』で皇帝の建物を、『秘史』で皇帝夫妻の悪行を書いた。疫病の記録は、ペストの最初の記述として読まれる。
- アテナイのアカデメイア閉鎖できごとAD529年ユスティニアヌスが異教の学校を閉じた。古代の学問が公に終わった年としてよく引かれるが、学者は東へ移って続けている。アテナイ
- ホスロー1世の改革できごとAD531年「永遠の平和」は12年で破れた税を土地の測量に基づく定額にし、軍を国が養う騎兵に変えた。ササン朝の最盛期で、アテナイを追われた哲学者を受け入れ、インドから『パンチャタントラ』とチェスを得た。クテシフォン
- ニカの乱できごとAD532年1月13日帝衣はよい経帷子戦車競走の青組と緑組が手を組み、「勝て(ニカ)」と叫んで街を焼き、別の皇帝を立てた。逃げようとした皇帝を皇后テオドラが「帝衣はよい経帷子だ」と止め、ベリサリウスが競技場で3万人を殺した。焼けた聖堂の跡にハギア・ソフィアが建つ。コンスタンティノープル
- ユスティニアヌスの再征服できごと533年最初の頂点。ただし長続きしない北アフリカとイタリアを取り戻した。ただし戦費と疫病で国は疲れ、この領土は次の世代で失われる。ラヴェンナ(総督府)
- ローマ法大全できごとAD534年ローマ法がここで集大成され、後世のヨーロッパ法の土台になる千年分のローマ法を整理して一つにまとめた。中世以降のヨーロッパ法の土台になる。コンスタンティノープル
- ベリサリウスのローマ奪還できごとAD536年12月9日取り戻したものは前より小さかった60年ぶりにローマ皇帝の軍がローマに入った。翌年、東ゴートが一年囲み、水道を切った。以後20年の戦争でイタリアは荒れ、ローマの人口は数万に落ちる。取り戻したものは、取り戻す前より小さかった。ローマ
- ハギア・ソフィアの完成できごとAD537年当時の技術の限界で建てた大聖堂。900年後にモスクへ、いまは博物館と礼拝所を行き来している。コンスタンティノープル
- ユスティニアヌスの疫病できごと541年再征服の勢いを止めた記録に残る最初のペストの大流行。死者の数は史料によって大きく違うが、再征服の勢いはここで止まった。コンスタンティノープル

- トティラのローマ占領できごとAD546年12月17日ローマが40日無人に東ゴート戦争の11年目。トティラが1年囲んだローマに、イサウリア人の兵が門を開けた。市民は500人しか残っていなかった。壁を壊し、元老院議員を連れ去った。ローマが40日無人になった。ベリサリウスが翌年戻したが、ローマは二度と大都市に戻らなかった。ローマ
- プロコピオス『秘史』できごとAD550年頃同じ人が同じ時代を二通りに書いた皇帝の戦争を公式に書いた歴史家が、同じ皇帝と皇后を悪魔と娼婦として描く本を隠して書いた。1623年にヴァチカンで見つかった。同じ人が同じ時代を二通りに書いた、稀な例になる。コンスタンティノープル
- トティラ人物? – AD552年7月二度ローマを取ったバドゥイラ。541年、負け続けていた東ゴートの王に。イタリアの奴隷と農民を軍に入れ、ベリサリウスから半島を取り返し、ローマを二度取った。ナルセスが来て、タギナエで敗れ、逃げる途中で死んだ。「彼は敵の女を犯させなかった」とプロコピオスが書いた。
- 絹の秘密できごとAD552年絹の作り方は、中国が数千年、外に出さなかった。蚕の卵を国外へ持ち出せば死罪である。ローマとビザンツは、代金を金で払い続けた。プロコピオスによれば、552年、インドから来た修道士たちがユスティニアヌス帝に申し出て、中央アジアへ戻り、卵を持ち帰った。杖の中に隠したという話は、別の書き手が伝える。真偽は確かめられない。しかし6世紀半ば以降、ビザンツ帝国が自前で絹を生産し始めたことは確かである。皇帝の工房が独占し、紫の絹は帝室の色になった。コンスタンティノープル
- ランゴバルドのイタリア侵入できごとAD568年取り戻した3年後に失ったユスティニアヌスが20年かけて取り戻したイタリアを、皇帝の死の3年後に別のゲルマン人が北から取った。半島は以後1300年、一つの国にならない。ラヴェンナ

- ヘラクレイオス人物AD575年頃 – AD641年2月11日ササン朝に勝った直後、イスラム軍に東方の領土を奪われた。公用語をギリシア語に改める。
- ヘラクレイオスの治世できごと610年ラテン語をやめ、ギリシア語の国になるササン朝に勝った直後、疲れきったところをイスラム軍に突かれて東方を失う。公用語がラテン語からギリシア語に変わる。コンスタンティノープル
- ヤルムークの戦いできごとAD636年8月シリアよさらばヘラクレイオスの大軍が、砂嵐の日に、ハーリドの率いるアラブ軍に六日かけて崩された。皇帝は「シリアよさらば、敵にとって何とよい国か」と言って去った。ローマは700年治めたシリアを、二度と取り戻さない。ヤルムーク川(位置は特定されていない)

- 第一次ブルガリア帝国国AD681年(ビザンツとの条約) – AD1018年(バシレイオス2世による併合)340年隣り合い、最後はバシレイオス2世が滅ぼした草原から来たブルガールがスラヴ人の上に建て、ビザンツから改宗し、キリル文字を育てた。シメオンはコンスタンティノープルを脅かし、バシレイオス2世に滅ぼされる。
- レオン3世(イサウリア朝)人物AD685年頃 – AD741年6月18日ギリシア火シリアの農民の子。718年、コンスタンティノープルを囲んだアラブ艦隊をギリシア火で焼き、飢えと寒さで退けた。帝国を救った。726年、聖像。「私は皇帝で司祭」。ユダヤ人に強制改宗を命じた。『エクロガ』。息子コンスタンティノス5世が、もっと激しくした。
- ヴェネツィア共和国国AD697年(最初のドージェの選出。伝承) – AD1797年(ナポレオンによる解体)属領から始まり、第四回十字軍で帝都を略奪した潟の上に建った都市が、1100年続いた。東ローマの属領から始まり、第四回十字軍で帝都を略奪し、地中海東部の海を握った。ナポレオンが一言で終わらせる。
- コンスタンティノープル包囲とギリシア火できごと717年イスラム勢力の東欧進出をここで止めたウマイヤ朝の大軍を、城壁と燃える液体を吹きつける兵器で退けた。イスラム勢力の東欧進出はここで止まる。コンスタンティノープル

- 聖像破壊論争できごと726年像を拝むのは偶像崇拝かをめぐって100年争った。西方教会との溝が深まり、1054年の分裂につながる。コンスタンティノープル
- カール大帝人物AD748年頃 – AD814年西にもう一人「ローマ皇帝」が立つ西ヨーロッパの大半をまとめ、教皇から皇帝の冠を受けた。古典の写本を集めさせ、学問を復興させる。
- カール大帝の戴冠できごとAD800年12月25日西にもう一人「ローマ皇帝」が現れた教皇が西の皇帝として冠を授けた。西ヨーロッパが独自の帝国を名乗りはじめる。アーヘン

- フォティオス人物AD810年頃 – AD893年頃失われた本280冊の要約俗人の学者が6日で総主教になり、ローマ教皇と互いに破門し合った。「フィリオクェ」を西方の誤りとして責め、スラヴへの伝道を送った。『ビブリオテカ』は失われた本280冊の要約で、古代の知識の多くがそこにしかない。
- バシレイオス1世人物AD811年 – AD886年8月29日馬丁から皇帝にマケドニア(トラキア)のアルメニア系の農民。ブルガリアの捕虜として育った。コンスタンティノープルで馬丁、相撲、皇帝ミカエル3世の寵臣。皇帝の愛人を妻にさせられ、共同皇帝になり、皇帝を殺した。19年。『バシリカ法典』の準備、パウリキアニ派の討伐、フォティオスの復帰。狩りで鹿に引きずられて死んだ。
- キュリロス人物AD827年頃 – AD869年2月14日兄メトディオスとスラヴ人に伝道し、そのために文字を作った。キリル文字に名が残る。
- スラヴ語への伝道できごとAD863年スラヴ世界に文字と正教を送り出す聖書をスラヴの言葉に訳すために、新しい文字が作られた。のちのキリル文字の元になる。モラヴィア(位置は特定されていない)
- シメオン1世人物AD864年頃 – AD927年半分ギリシア人コンスタンティノープルで学び、「半分ギリシア人」と呼ばれた。皇帝を名乗り、ビザンツを何度も破り、コンスタンティノープルの城壁の下まで来た。プレスラフに黄金の教会を建て、スラヴ語の文学の最初の黄金時代を作った。
- ブルガリアの改宗できごとAD864年ボリス1世がビザンツから洗礼を受け、ローマとコンスタンティノープルを天秤にかけて自前の教会を得た。スラヴ語の典礼がここで育つ。プリスカ

- フォティオスの分裂できごとAD867年1054年の前の分裂総主教フォティオスが教皇ニコラウス1世を破門し、教皇はその前にフォティオスを破門していた。ブルガリアをどちらの教会に置くか、信条に「子からも」を入れるか。1054年の分裂の、前の分裂。コンスタンティノープル

- マケドニア朝の始まりできごとAD867年9月24日酔った皇帝を寝室でアルメニア系の農民の子が、馬の調教で皇帝ミカエル3世に気に入られ、共同皇帝になり、酔った皇帝を寝室で殺した。バシレイオス1世。189年の王朝。法典、征服、文芸復興。ビザンツで最も長く、最も強い時代を、殺人で始めた。コンスタンティノープル
- ボリス1世人物? – AD907年ビザンツから洗礼を受け、ローマと交渉して自前の大主教を得た。キュリロスの弟子を受け入れ、スラヴ語の典礼を育てる。退位して修道院に入り、反乱した息子の目を潰した。
- ニケフォロス2世フォカス人物AD912年 – AD969年12月11日サラセン人の青白い死カッパドキアの軍人の家。クレタ、アレッポ、キリキア、アンティオキア。「サラセン人の青白い死」。皇帝の寡婦テオファノと結婚して皇帝に。修道士のように暮らし、兵に金を使い、民に嫌われた。妻の愛人ヨハネス・ツィミスケスに寝室で殺された。「ニケフォロス、起きよ」。
- シメオンの皇帝称号できごとAD913年ツァーリの始まりブルガリアの王がコンスタンティノープルの城壁の前で総主教に冠を受け、「ブルガリア人とローマ人の皇帝」を名乗った。ビザンツは認めなかったが、ツァーリという称号はここから始まり、ロシアが受け継ぐ。プレスラフ
- ウラジーミル1世人物AD958年頃 – AD1015年民をドニエプルに入れて洗礼兄を殺してキエフを取り、異教の神々を並べ、それから宗教を選んだ。イスラームは酒を禁じるから駄目、と。コンスタンティノープルの皇女を妻に求め、洗礼を受け、民をドニエプルに入れて洗礼させた。聖人。
- バシレイオス2世人物AD958年 – AD1025年12月15日ブルガリア人殺し5歳で共同皇帝、18歳で親政、49年。結婚せず、本を読まず、戦った。ブルガリアを30年かけて滅ぼし、クレイディオンで1万5000人の捕虜の目を潰して100人に1人だけ片目を残して帰した。「ブルガリア人殺し」。ルーシに妹を嫁がせ、ウラジーミルを改宗させた。彼の死でビザンツは最大で、それから衰えた。
- クレタの奪回できごとAD961年3月135年ぶりアラブの海賊の島を、ニケフォロス・フォカスが8か月囲んで取り戻した。135年ぶり。エーゲ海がビザンツの海に戻った。ニケフォロスは2年後に皇帝になり、キリキアとアンティオキアも取り、寝室で妻の愛人に殺された。ハンダクス(イラクリオン)

- キエフ・ルーシの改宗できごとAD988年この選択でロシア・ウクライナがビザンツ文化圏に入る東方正教を選んだことで、この地域はビザンツの文化圏に入った。ロシア・ウクライナ双方が起源とする。キーウ

- クレイディオンの戦いできごとAD1014年7月29日100人ごとに片目バシレイオス2世が30年の戦争の決着をつけた。谷の柵を裏から回って、1万5000人を捕えた。100人ごとに片目を残して、他は両目を潰して、サムイルの所へ帰した。サムイルは列を見て倒れ、2日後に死んだ。4年後、ブルガリアはビザンツの州になった。クレイディオン

- サムイル人物? – AD1014年10月6日プレスパ湖の島コミトプリ兄弟の末。ビザンツが東ブルガリアを取った後、西で40年戦った。986年、トラヤヌスの門でバシレイオスを破った。オフリドに都。997年、皇帝。兄弟の子を殺し、娘の恋人を殺した。1014年、目を潰された1万5000人を見て倒れ、2日で死んだ。プレスパ湖の島に墓。
- ハラルド苛烈王人物AD1015年 – AD1066年9月25日ヴァリャーグ15歳でスティクレスタから逃げ、キエフでヴァリャーグになり、コンスタンティノープルの親衛隊長として地中海で戦い、金を持って帰ってノルウェー王になった。デンマークと15年戦い、イングランドを取りに行って、橋の向こうで死んだ。最後のヴァイキング。
- セルジューク朝国AD1037年(トゥグリル・ベグの自立) – AD1194年(最後のスルタンの戦死)マンジケルトでアナトリアを開けた相手トルコ系の遊牧民がイランを取り、バグダードのカリフを保護下に置いた。マンジケルトでビザンツを破ってアナトリアを開き、マドラサを各地に建てる。ニザームルムルクが行政を整えた。
- 東西教会の分裂できごとAD1054年ローマとコンスタンティノープルが互いを破門した。ヨーロッパが二つの信仰圏に分かれる。コンスタンティノープル
- アレクシオス1世コムネノス人物AD1057年 – AD1118年8月15日アレクシアスマンジケルトから10年、帝国は崩れかけていた。1081年、24歳で帝位を取った。ノルマンにデュラキオンで負け、ペチェネグに負け、レヴニオンで勝ち、十字軍を通し、ニカイアを取り戻した。37年。娘アンナが『アレクシアス』を書いた。コムネノス朝100年の始まり。
- マンジケルトの戦いできごとAD1071年8月26日アナトリアという人と兵の供給源を失いはじめるセルジューク朝がビザンツ皇帝を捕虜にした。アナトリアがテュルクの土地になりはじめ、十字軍を呼ぶ遠因になる。マンジケルト

- ルーム・セルジューク朝国AD1077年 – AD1308年アナトリア内陸を取った隣国マンジケルトのあと、アナトリア内陸に建った。ここでトルコ語が話されはじめ、いまのトルコの元になる。コンヤにルーミーが住み、キャラバンサライが街道に並んだ。
- アンナ・コムネナ人物AD1083年12月1日 – AD1153年頃皇女にして歴史家。父の治世を書いた『アレクシアス』は、十字軍を東側から見た同時代の記録になる。
- レヴニオンの戦いできごとAD1091年4月29日一つの民が一日でペチェネグがトラキアを荒らし、コンスタンティノープルに迫った。アレクシオス1世は敵の草原の民クマンを雇い、一日で潰した。「一つの民が、一日で消えた」。20年、負け続けたビザンツの最初の勝ち。4年後、アレクシオスは教皇に兵を頼み、十字軍が来た。レヴニオン

- エンリコ・ダンドロ人物AD1107年頃 – AD1205年90歳を過ぎた盲目のドージェが、第四回十字軍の船賃を払えない騎士たちをコンスタンティノープルへ向けさせた。帝都の略奪で、ヴェネツィアは海の帝国になる。
- 『アレクシアス』できごとAD1148年頃十字軍を東側から見た同時代の記録皇女が父の治世と第1回十字軍を書いた。西欧の騎士を東側から観察した、女性の手による同時代史。コンスタンティノープル

- 第三回十字軍のアッコン攻囲できごとAD1191年7月12日獅子心王とサラディンエルサレムを失って四年、イングランドとフランスの王が海から来て、二年囲まれていたアッコンを落とした。獅子心王は捕虜2700人を殺し、サラディンと戦って勝ち、エルサレムには入らずに帰った。アッコン
- 第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪できごとAD1204年致命傷。与えたのは同じキリスト教徒だった聖地へ向かうはずの十字軍が、同じキリスト教の都を略奪した。ビザンツはこれ以後立ち直れない。コンスタンティノープル
- 第四回十字軍できごとAD1204年4月12日二度と大きくならなかったエジプトへ行くはずが、ヴェネツィアへの船賃を払えず、ザラを落とし、ビザンツの亡命皇子に雇われ、コンスタンティノープルを3日略奪した。聖ソフィアに娼婦を座らせた。四頭の馬はヴェネツィアへ。ラテン帝国57年。ビザンツは1261年に戻ったが、二度と大きくならなかった。コンスタンティノープル

- キョセ・ダグの戦いできごとAD1243年モンゴル軍がルーム・セルジュークを破った。アナトリアの中央権力が消え、小さな君侯国が並ぶ。その一つがオスマンになる。キョセ・ダグ(位置は特定されていない)

- オスマン帝国国AD1299年頃 – AD1922年(スルタン制の廃止)最後にこの帝国に滅ぼされるアナトリア北西の小さな君侯国から始まり、コンスタンティノープルを落とし、三大陸にまたがった。19世紀に外から削られ、第一次世界大戦の敗戦で解体する。
- バヤズィト1世(雷帝)人物AD1360年 – AD1403年3月8日コンスタンティノープルを囲んだコソヴォで父が殺された天幕で即位し、弟をその場で絞めた。動きが速くて「雷」と呼ばれた。ニコポリスで十字軍を潰し、コンスタンティノープルを囲み、アンカラでティムールに捕えられた。檻に入れられたという話は敵の側の作り。捕虜のまま死んだ。
- コソヴォの戦いできごとAD1389年6月15日セルビアが属国にセルビアのラザル公とオスマンのムラト1世が、両方とも死んだ。ムラトは天幕でセルビアの騎士に刺され、ラザルは捕えられて斬られた。セルビアは属国になり、この日を600年語り続ける。コソヴォの野

- コンスタンティノープル陥落できごとAD1453年5月29日終わりオスマン帝国が1100年続いた東ローマを滅ぼした。中世の終わりの目印として使われる。コンスタンティノープル

- バルカン戦争できごとAD1912年オスマン帝国が弱ると、バルカン半島の小国たちは残る領土を狙った。1912年、セルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロが同盟を組んで攻め、オスマンはヨーロッパの領土のほとんどを失う。翌年、分け前をめぐって、今度はブルガリアとかつての同盟国が戦った。勝ったセルビアは勢いづき、オーストリアとの対立を深める。一年後、サラエヴォで放たれた銃弾が、この半島の争いを世界大戦に変えた。ハドリアノポリス(エディルネ)
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
キリスト教のひろがり15件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。ローマ人の物語11件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ11件を共有 / ギボンが1776年に出しはじめた、トラヤヌスからコンスタンティノープル陥落までの1300年。「なぜ滅びたか」を問う型はここで作られた。イスラム世界10件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史9件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。帝国と独立8件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。民族移動の時代7件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。交易路とお金5件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。草原の帝国4件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。『地中海』で読む歴史3件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『アラブが見た十字軍』で読む十字軍3件を共有 / 同じ200年を、襲われた側の年代記だけで書き直した本。彼らはそれを「フランク人の襲来」と呼んだ。女性の権利2件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。考えることの歴史2件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。誰が書き残したか2件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。コテンラジオで聞く歴史2件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『ローマ人の物語』で読むローマ2件を共有 / 塩野七生が15年かけて15巻で書いた、建国から西の帝国の終わりまで。このデータベースの第一期と同じ範囲になる。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史2件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス2件を共有 / 「ルネサンス」という時代の像そのものを作った本。150年たっても、まだその像の中にいる。大航海時代1件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。古代オリエント1件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。二つの大戦1件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。都市の歴史1件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。ヴァイキング1件を共有 / 襲撃者として現れ、交易者になり、入植者になった。北アメリカにも、ロシアにも、イングランドにも痕跡がある。表現の歴史1件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。『疫病と世界史』で読む歴史1件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『繁栄』で読む歴史1件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀1件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。『暴力と不平等の人類史』で読む格差1件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。『物質文明・経済・資本主義』で読む三つの層1件を共有 / 毎日の暮らし、市場での取引、そしてその上に乗る資本主義。ブローデルは経済を三層に分けた。『リオリエント』で読む世界経済1件を共有 / 1800年まで、世界経済の中心はアジアだった。ヨーロッパは、その列に遅れて並んだ客にすぎない。教育の歴史1件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。法と裁判の歴史1件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。言葉と文字の歴史1件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。