物語

中華の統一

出てくるできごと BC4500ごろ – BC202
できごと 26人物 24国 2
この物語に出てくる図版:Bamboo book - unfolded - UCR
この物語に出てくる『孫子』の兵法から。Bamboo book - unfolded - UCR Wikimedia Commons vlasta2, bluefootedbooby on flickr.com · CC BY 2.0

概要

殷を倒した周から、初めて中国をひとつにした秦まで。800年かけて「天下」という考えが育つ。

この物語について

なぜ中国は、割れても割れても一つに戻るのか。その型は、最初の統一より前に作られている。

黄河の中流域では、紀元前5千年紀にはすでに、粟を育て、土器を焼き、濠で囲んだ村に暮らす人々がいた。西安の近くで見つかった半坡の村はその代表である。やがてこの地域に、青銅器と文字を持つ王朝が現れる。殷である。殷の王は占いで国を動かし、亀の甲羅や牛の骨に刻んだ問いと答えが、漢字の最も古い姿として大量に残った。前13世紀ごろの王武丁の妃で、自ら軍を率いたとされる婦好の墓は、1976年に盗掘を受けていない状態で見つかり、青銅器や玉器が千点を超えて出てきた。

婦好墓と像(紀元前1200年頃、武丁の治世)
婦好Wikimedia Commons Gary Todd from Xinzheng, China · CC0

前1046年ごろ(年代には諸説ある)、西の渭水の盆地から起こった周の武王が、殷の紂王を牧野で破った。周の人々は、この王朝交代に理屈を与えた。天は徳のある者に天下を治める命令、すなわち天命を与え、徳を失った王からはそれを取り上げる。殷が滅びたのは、天命が周に移ったからだ、と。牧野の戦い(殷周革命)で立てられたこの考えは、以後三千年、中国で王朝が替わるたびに繰り返し語られることになる。新しい王朝は武力で前の王朝を倒しても、自分こそ天命を受けた正統な継承者だと名乗る。天下は一つであり、正統な支配者は一人しかいない、という前提がここで生まれた。

周は一族と功臣を各地に封じて治めた。武王を助けた太公望(呂尚)は東の斉に封じられ、斉は塩と商業で栄えた。王の権威が保たれている間、この仕組みは働いた。だが前771年、周の都は西北の異民族に攻め落とされ、王は殺される。翌年、周は東の洛邑へ都を移した。この東遷のあと、周の王は祭祀の中心としての重みは保ったものの、諸侯を従わせる力を失う。春秋時代の始まりである。

晋の文公、国に復帰する(李唐画『晋文公復国図』、1140年)
晋の文公Wikimedia Commons Attributed to Li Tang · Public domain

春秋時代は、力のある諸侯が「覇者」として王を立てながら諸国をまとめた時代だった。十九年の放浪の末に晋の君主となった文公は、前632年の城濮の戦いで南の大国楚を破り、覇者となった。それでも、この時代にはまだ礼と家柄が物を言った。鄭の宰相子産が前536年に刑法を青銅の鼎に鋳込んで公にしたとき、隣国の賢人は、民が法の文字を知れば争うようになると非難した。法を書いて示すことは、まだ新しい考え方だったのである。

この乱れた世をどう収めるか。その問いに答えようとした人々が現れた。魯の孔子は、周の初めの礼を理想とし、為政者が徳を身につけ、親子・君臣の秩序を正すことで世は治まると説いた。生前はどの国にも重く用いられなかったが、弟子たちが言葉を『論語』にまとめた。老子は人為を捨てて自然に従うことを説いたとされるが、その人物の実像ははっきりしない。墨子は身分を超えて人を等しく愛すること(兼愛)と侵略戦争の否定(非攻)を説き、儒家と並ぶ大きな学派を作った。呉の将軍孫武の名で伝わる兵法書は、戦わずに勝つことを最上とした。

水牛に乗る老子と従者
老子Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

南では、呉と越が激しく争った。楚から亡命した伍子胥は呉を助けて前506年に楚の都を陥とし、父と兄を殺した楚の平王の墓を暴いてその屍を鞭打ったと『史記』は伝える。のち呉は越王勾践を会稽山に追い詰めたが、勾践は屈辱に耐えて国力を蓄え、前473年に呉を滅ぼした。苦い肝をなめて恨みを忘れなかったという話は、「臥薪嘗胆」の成語として残っている。

前5世紀、北の大国晋は、実権を握った三つの家臣の家、韓・魏・趙に分割された。前403年、周の王はこの三家を正式に諸侯と認める。家臣が主家を乗っ取ることを、天下の王が公認したのである。こうして始まる戦国時代には、もはや覇者が王を立てる建前すら薄れ、七つの大国が生き残りをかけて争った。戦争の規模も変わった。貴族が戦車で戦う時代から、農民を大量に徴兵する歩兵の時代へ。勝つためには、国の隅々まで人と物を動かす仕組みが要る。

『東周列国志』の挿絵に描かれた勾践
勾践Wikimedia Commons 清蔡奡評點 · Public domain

その仕組みを最も徹底して作ったのが、西の辺境の秦だった。前4世紀半ば、秦の孝公に用いられた商鞅は、民を五戸・十戸の組に分けて互いに監視させ、罪を連帯で負わせた。爵位を家柄ではなく戦場で取った敵の首の数で与え、農業と戦争に励む者を報いた。法は厳しく、身分の高い者にも例外なく適用された。孝公が死ぬと、恨みを買っていた商鞅は車裂きの刑に処されたが、彼の作った制度は残った。同じころ、孟子は諸国を巡って仁による政治を説いていたが、王たちが求めていたのは、より早く強くなる方法だった。

前260年、秦と趙は長平で激突した。秦の将軍白起は趙軍を包囲して降伏させ、捕虜の大半を生き埋めにしたと『史記』は伝える。四十万という数は誇張だとする見方も強いが、この戦いで趙の兵力が壊滅し、秦に単独で対抗できる国が無くなったことは確かである。

始皇帝の肖像(19世紀の絵)
始皇帝Wikimedia Commons Unknown (18??–18??) · Public domain

秦の王族の子で、人質として趙にいた子楚を見いだしたのは、大商人呂不韋だった。彼は財を投じて子楚を秦の王位に就け、自らは宰相となった。前247年、子楚の子の政が十三歳で即位する。のちの始皇帝である。成長した政は呂不韋を退け、法家の思想を重く用いた。韓の公子韓非の書を読んで感嘆し、この人と交わることができれば死んでも悔いはないと言ったとされる。だが秦に来た韓非は、同門の李斯に陥れられ、獄中で毒を仰いだ。

秦は東の六国を次々に滅ぼしていった。前227年には、燕の太子に送られた刺客荊軻が、地図の巻物に匕首を隠して秦王に迫ったが、失敗した。前221年、最後に残った斉が降り、秦の中国統一が成った。政は「王」に代えて「皇帝」の称号を作り、自らを始皇帝と名乗った。

荊軻が秦王を刺そうとする場面の図
荊軻Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

始皇帝が統一で行ったことは、征服よりも「同じにする」ことだった。諸侯の封建をやめ、全土を郡と県に分けて中央から役人を送った。度量衡と貨幣と車の幅をそろえ、地域ごとに異なっていた文字の形を一つにした。漢字の形が統一されたことで、話す言葉が違っても、同じ文字で書かれた命令と記録が全土に通じるようになる。これは、のちに中国が分裂しても、再び一つにまとまるための大きな土台になった。北には長城をつなぎ、全国に道路を通した。

だがこのやり方は、人々に重すぎた。前213年、李斯の進言で、実用書を除く民間の書物、とりわけ昔を手本に今を批判する儒家の書が焼かれ、翌年には学者ら四百六十人あまりが生き埋めにされたと伝えられる。陵墓と宮殿の造営には膨大な人が駆り出された。1974年に見つかった兵馬俑は、陵墓を守る陶製の軍団が東を向いて並ぶ姿で、その規模を今に伝えている。

兵馬俑に関わる図版:51714-Terracota-Army
兵馬俑Wikimedia Commons xiquinhosilva · CC BY 2.0

前210年、始皇帝は巡幸の途中で死んだ。宦官の趙高と宰相の李斯は死を伏せ、遺言を書き換えて長子扶蘇を自害させ、末子の胡亥を二世皇帝に立てた。翌前209年、辺境の守備に向かう途中で大雨に遭い、期日に遅れれば死罪となる農民の陳勝と呉広が反乱を起こす。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という陳勝の言葉は、生まれではなく実力で天下を取れるという、この時代の空気を表している。統一からわずか12年で、秦は崩れはじめた。

反乱は各地に広がった。宮廷では趙高が李斯を処刑させ、二世皇帝の前に鹿を引き出して「馬」と言い、異を唱えた者を除いた。秦は統一から15年で滅ぶ。そのあとを争ったのが、楚の名門の出の項羽と、農民出身の劉邦だった。前206年の鴻門の会で、項羽は劉邦を討つ機会を逃した。力では項羽がはるかに勝っていたが、劉邦は韓信ら有能な人材を使いこなし、民心をつかんだ。前202年、垓下で項羽を追い詰めた劉邦は皇帝となり、漢の成立が成った。

韓信の肖像
韓信Wikimedia Commons Public domain

漢は秦の失敗から学んだ。郡県制と文字の統一など秦の作った枠組みを受け継ぎながら、法の過酷さを和らげ、一部では一族を王に封じる制度も併用した。やがて儒家の教えを国の正統な学問とし、法による統治を、徳による統治の衣で包んだ。秦が作った骨組みと、周以来の天命の理屈。この二つが組み合わさったことで、漢は途中の中断を挟みながら四百年続き、中国の人々が自分たちを「漢人」と呼び、文字を「漢字」と呼ぶ由来になった。

これ以後、中国は何度も割れた。三国時代、南北朝、五代十国。それでも、天下はいずれ一つに戻るべきものであり、戻した者が天命を受けた正統な王朝だ、という考えは揺らがなかった。分裂は、いつも「一時の乱れ」として語られた。その考えを支えた天命の理屈も、統一された文字も、郡県による統治も、すべて殷が倒れてから秦が崩れるまでの八百年あまりのあいだに生まれている。いまの中国の政治のことばが「統一」をこれほど重く扱うのも、この長い前史と無関係ではない。

動画(1)

032 秦の統一 世界史20話プロジェクト第05話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第32講「秦の統一」

この物語が起きた場所

筋(52)

年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。

  1. 半坡の村できごと約6500年前黄河の農耕の村西安の東で1953年に出た仰韶文化の村。半地下の家、溝、共同墓地、魚の顔の彩文土器。粟を作り、豚を飼い、犬と暮らした。母系の氏族社会だと中国は説明した。黄河の農耕の村の、最も分かりやすい形。半坡(西安)
  2. 武丁と婦好できごとBC1200年頃盗掘されていない墓殷の最盛期の王と、その妃。婦好は1万3000の兵を率いて羌を討ち、祭祀を司った。1976年、殷墟で盗掘されていない墓が見つかり、青銅器468点、玉755点、殉葬16人。甲骨文に200回以上名が出る女性が、実物と結びついた。殷墟
  3. 婦好人物? – BC1200年頃鉞が二つ武丁の60人以上の妃の一人。甲骨に「婦好が羌を伐つ」「婦好に1万3000を与える」「婦好が祭る」「婦好は子を産むか」。将軍で、祭司で、領地を持った。墓から鉞(斧)が二つ出た。軍の指揮の印。
  4. 武丁人物? – BC1190年頃武丁中興殷の第22代。傅説を夢で見つけて宰相にし、59年治めて殷を最盛期にした。甲骨文の大半が彼の時代。占いは王自身がした。「武丁中興」。殷墟の王墓は、彼の時代から。
  5. 牧野の戦い(殷周革命)できごとBC1046年(年代に諸説あり)天命は徳ある者に移る、という理屈がここで立つ周が殷を破り、天命は徳ある者に移るという理屈が生まれた。以後の王朝交代はこの型で語られる。牧野(位置は特定されていない)
  6. 太公望の斉できごとBC1046年斉は商業、魯は礼渭水で釣りをしていた老人を文王が見つけ、武王の軍師として殷を倒した。功で斉に封じられ、5か月で報告に来て、「礼を簡略にし、土地の風俗に従った」。魯の周公の子は3年かかった。斉は商業の国になり、魯は礼の国になった。臨淄
  7. 周の穆王の西征(伝承)できごとBC950年頃八駿と西王母八頭の駿馬で西へ行き、崑崙で西王母と宴をした、と『穆天子伝』は語る。3世紀に魏の王の墓から出た竹簡。史実としては犬戎を討ち、徐の反乱を鎮め、55年在位した。中国で最初の「西への旅」の物語。鎬京(位置は特定されていない)
  8. 周の東遷できごとBC770年王の権威が落ち、実力の時代に入る都を鎬京から洛邑へ移した。王の権威は落ち、諸侯が実力で競う春秋時代に入る。洛陽
  9. 晋の文公人物BC697年 – BC628年19年の放浪重耳。父の寵姫に追われ、43歳から19年、狄・斉・楚・秦を放浪した。斉では妻に酔わされて車に乗せられた。62歳で秦の兵で帰り、4年で覇者になった。介子推が山で焼け死んだ話が、寒食の由来。
  10. 城濮の戦いできごとBC632年三舎を退く19年放浪した晋の文公が、楚の軍に「三舎を退く」約束を守って90里退き、それから破った。春秋の覇者。周の天子を呼びつけて諸侯を集めた。孔子は「呼びつけた」を「狩りに行った」と書き直した。城濮
  11. 老子人物紀元前6世紀頃(実在を含めて諸説あり) – ?『老子』に名を残す。作為を捨てよと説き、儒家とならぶ思想の柱になった。実在したかどうかも定まらない。
  12. 孔子人物BC551年 – BC479年乱れた世をどう収めるかを考えた一人礼と仁を説き、その言行が『論語』にまとめられた。東アジアの秩序観の土台になる。
  13. 子産の刑鼎できごとBC536年法を書いて示した最初鄭の宰相が、刑法の条文を鼎に鋳て公開した。中国で法を書いて示した最初とされる。晋の叔向が「民が法を知れば争いを恐れなくなる」と手紙で責め、子産は「世を救うためだ」と返した。新鄭
  14. 子産人物? – BC522年孔子が泣いた宰相晋と楚に挟まれた小国の宰相。法を鼎に鋳て公開し、田を整え、外交で国を保った。孔子が「古の遺愛なり」と言って泣いたと伝わる。
  15. 『孫子』の兵法できごとBC512年頃戦わずに勝つ呉王闔閭に仕えた孫武の名で伝わる13篇。戦わずに勝つことを上とし、敵を知り己を知れと言う。二千年後のナポレオンも毛沢東も読み、いまはビジネス書として売られている。蘇州(呉)
  16. 柏挙の戦いできごとBC506年屍を300回鞭打った呉王闔閭が孫武と伍子胥を使い、3万で楚の20万を破り、都の郢に入った。伍子胥は父と兄を殺した平王の墓を暴いて屍を300回鞭打った。秦が楚を助けて呉は帰った。『孫子』の著者が実際に戦ったとされる唯一の戦い。柏挙(麻城)
  17. 伍子胥人物? – BC484年日暮れて道遠し楚の平王が父と兄を殺した。昭関を抜けるとき一晩で髪が白くなった。呉で闔閭を王にし、孫武を推し、楚を破って平王の屍を鞭打った。「日暮れて道遠し」。夫差に越を滅ぼせと言って聞かれず、剣を賜った。「私の目を東門に掛けよ。越が入るのを見る」。
  18. 越が呉を滅ぼすできごとBC473年臥薪嘗胆呉に降って三年仕えた越王勾践が、二十年かけて国を立て直し、呉を滅ぼした。呉王夫差は自害する。薪に臥し胆を嘗めるという言葉が、ここから出た。蘇州(呉)
  19. 墨子人物BC470年頃 – BC390年頃兼愛と非攻職人の出で、儒家に学んでから離れた。すべての人を等しく愛し、攻める戦争を否定し、音楽と葬式の浪費を責めた。弟子は規律の固い集団で、城を守る技術で食べた。戦国の間は儒家と並ぶ勢いで、秦のあと消えた。
  20. 勾践人物? – BC465年最後の覇者呉に負けて三年仕え、帰ってから胆を嘗めて恥を忘れず、二十年で呉を滅ぼした。功臣の范蠡は「狡兎死して走狗煮らる」と言って去り、残った文種は死を賜った。
  21. 墨子の兼愛と非攻できごとBC430年頃儒家と並んだ学派職人の出の思想家が、身内をひいきする儒家を退け、すべての人を等しく愛せと説いた。攻める戦争を否定し、守る技術を弟子に教え、実際に城を守りに出向いた。秦のあと、その学派は消えた。曲阜
  22. 三家分晋(戦国時代の始まり)できごとBC403年下剋上が公認された有力な家臣が晋を三つに割り、周王がそれを認めた。下剋上が公認された年として区切りに使う。
  23. 商鞅人物BC390年頃 – BC338年秦で法を徹底し、身分より功で報いる仕組みを作った。国は強くなり、本人は車裂きにされた。
  24. 孟子人物BC372年頃 – BC289年頃性善説を説き、民を重んじる政治を主張した。孔子の思想を体系へ進めた。
  25. 商鞅の変法できごとBC356年秦が抜きん出る土台身分ではなく功で報い、密告を奨励し、法を曲げなかった。秦が抜きん出る土台になる。咸陽
  26. 韓非人物BC280年頃 – BC233年始皇帝が感嘆し、そして獄中で死なせた法・術・勢で君主が国を保つ道を説いた。始皇帝がその書に感嘆し、そして獄中で死なせた。
  27. 長平の戦いできごとBC260年秦に対抗できる国が消えた趙の降兵40万が穴埋めにされたと伝わる。秦に対抗できる国が消えた。長平(位置は特定されていない)
  28. 始皇帝人物BC259年 – BC210年中国を初めて統一し、度量衡・文字・車軌を揃えた。長城と陵墓を築き、死後まもなく王朝は崩れる。
  29. 白起人物? – BC257年長平で趙の降兵を穴埋めにしたと伝わる。秦の統一を軍事で準備した将。
  30. 劉邦人物BC256年頃(BC247年説あり) – BC195年一介の亭長から身を起こし、秦の崩壊後の争いを制して漢を開いた。
  31. 呂不韋の摂政できごとBC247年商人が王を作った人質だった王子に投資した商人が、その子が13歳で王になると相国として国を動かした。3000人の食客に『呂氏春秋』を編ませ、王が成人すると追われて自死する。咸陽
  32. 呂不韋人物? – BC235年「奇貨居くべし」と言って人質の王子に投資した商人。その子が始皇帝になり、相国として国を動かした。『呂氏春秋』を編み、一字でも直せる者に千金を出すと掲げた。
  33. 項羽人物BC232年 – BC202年秦を倒した最強の武人。天下を分けたが劉邦に敗れ、垓下で31歳で死んだ。
  34. 荊軻の秦王暗殺未遂できごとBC227年「図窮まりて匕首見る」燕の太子が送った刺客が、地図の巻物に匕首を隠して謁見した。「風蕭蕭として易水寒し」。失敗し、燕は翌年に落ちる。咸陽
  35. 荊軻人物? – BC227年燕の太子に頼まれ、地図に匕首を隠して秦王に謁見した。柱を回って追いかけ、届かなかった。易水の別れの歌が伝わる。
  36. 秦国BC221年(統一) – BC206年戦国を制して中国を初めて統一した王朝。度量衡と文字を統一し、長城を築いたが、始皇帝の死後わずか数年で崩れた。
  37. 秦の中国統一できごとBC221年戦国の争いを制して中国が初めてひとつになった。度量衡・文字・車軌が揃えられる。咸陽
  38. 度量衡と文字の統一できごとBC221年中国が「一つ」であることの物理的な土台枡と秤と物差しを揃え、車の幅を揃え、文字を小篆に揃えた。国ごとに違っていたものを一つにする。方言が違っても同じ字で通じる、という中国の形がここで決まる。咸陽
  39. 焚書坑儒できごとBC213年(坑儒はBC212年)実用書以外の書を焼き、儒者を穴に埋めたと伝えられる。記述の実態には議論がある。咸陽
  40. 兵馬俑できごとBC210年(始皇帝の死と埋葬)守っている軍は東を向いている等身大の兵士8000体が、皇帝の陵の東を守っている。一体ずつ顔が違う。1974年、井戸を掘った農民が見つけた。陵そのものはまだ開けられていない。驪山(兵馬俑)
  41. 趙高と二世皇帝できごとBC210年鹿を馬と言わせた始皇帝が巡行中に死ぬと、宦官と丞相が遺詔を書き換え、長子を自殺させて末子を立てた。鹿を馬と言わせて臣下を試したのがこの宦官になる。3年で秦は終わった。咸陽
  42. 陳勝・呉広の乱できごとBC209年統一からわずか12年で崩れはじめる「王侯将相いずくんぞ種あらんや」。中国史上最初の大規模な農民反乱で、秦は一気に崩れる。
  43. 李斯人物? – BC208年同門の韓非を殺し、趙高に殺された荀子に学び、秦の丞相として文字と度量衡を統一し、焚書を進言した。始皇帝の死後、趙高と組んで遺詔を書き換え、その趙高に腰斬にされた。
  44. 趙高人物? – BC207年始皇帝の死を隠して遺詔を書き換え、末子を皇帝にして操った。鹿を馬だと言わせて逆らう者を除いた。二世皇帝を殺し、次の王に殺される。
  45. 鴻門の会できごとBC206年4年後の決着がここで決まっていた先に咸陽に入った劉邦を、項羽が宴に呼んだ。剣舞にかこつけて殺す手筈が、項羽のためらいで流れる。劉邦は厠へ行くふりをして逃げた。4年後の楚漢の決着が、ここで決まっていたと言われる。咸陽
  46. 前漢国BC202年 – AD9年秦の枠組みを受け継いで長く続いた秦の崩壊後に興り、西域まで版図を広げた。同じころ地中海ではローマが伸びており、絹の道が両者をつないだ。
  47. 垓下の戦いできごとBC202年四面楚歌。項羽が敗れ、5年続いた楚漢の争いが終わる。垓下(位置は特定されていない)
  48. 漢の成立できごとBC202年劉邦が項羽を破って皇帝に即いた。同じ頃、地中海ではローマがハンニバルを退けている。長安
  49. 韓信人物? – BC196年劉邦に天下を取らせた用兵の名手。統一が成ると謀反を疑われ、殺された。
  50. 孫武(孫子)人物実在を疑われた兵法家斉の人で呉に仕え、王の寵姫を斬って軍を整えたと『史記』にある。実在を疑う説は長くあった。1972年に山東の漢墓から竹簡が出て、『孫子』と孫臏の兵法が別の本だと分かった。
  51. 太公望(呂尚)人物曲がっていない針70歳を過ぎて渭水で釣りをしていた。針は曲がっていなかった。文王が狩りの前の占いで「獲物は虎でも龍でもなく覇王の輔」と出て、会った。「太公が望んでいた人」。牧野で殷を破り、斉の祖になった。『六韜』はその名で書かれた。
  52. 周の穆王人物旅の王第5代。50歳で即位して55年、と伝わる。犬戎を討ち、徐の偃王を鎮め、刑法「呂刑」を定めた。造父の馭する八駿で西へ行き、西王母に会ったという『穆天子伝』の主人公。旅の王。西周が衰え始めるのは、この王からとされる。

重なっているストーリー

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