イーゴリ・ストラヴィンスキー
概要
ペテルブルクの近く。オペラ歌手の子。リムスキー・コルサコフに学んだ。ディアギレフが『火の鳥』(1910年)を注文した。『ペトルーシュカ』『春の祭典』。革命で帰れず、スイス、パリ、1939年からアメリカ。新古典(『プルチネッラ』『詩篇交響曲』)、晩年に12音技法。ハリウッド。「音楽は何も表現しない」。ヴェネツィアのサン・ミケーレ島に、ディアギレフの隣に葬られた。
関わったできごと(1)
『春の祭典』初演AD1913年5月29日 · 作曲した本文
イーゴリ・ストラヴィンスキーは、1882年6月17日、サンクトペテルブルクに近い海辺の町オラニエンバウムに生まれた。父フョードルはマリインスキー劇場の看板のバス歌手で、家には大きな楽譜の蔵書があった。少年は劇場の桟敷でオペラとバレエを見て育った。だが親は音楽家にするつもりはなく、彼はペテルブルク大学で法学を学んだ。

転機は大学で知り合った同級生だった。その父が作曲家ニコライ・リムスキー=コルサコフだった。ストラヴィンスキーは1902年ごろから彼に私的に作曲を習い、管弦楽の書き方を叩き込まれた。師は1908年に死んだ。翌1909年、演奏会で彼の『幻想的スケルツォ』と『花火』を聞いた興行師セルゲイ・ディアギレフが、自分のバレエ団(バレエ・リュス)の新作を頼んだ。
1910年6月、パリのオペラ座で『火の鳥』が初演され、28歳の無名の作曲家は一夜で名を知られた。ディアギレフは稽古場で、この男をよく見ておけ、彼は有名になる前夜にいる、と言ったと伝えられる。翌1911年の『ペトルーシュカ』では、二つの調を同時に鳴らす和音で、人形の心の分裂を描いた。

1913年5月29日、シャンゼリゼ劇場で『春の祭典』が初演された(『春の祭典』初演)。古代ロシアの異教の儀式で、選ばれた乙女が死ぬまで踊る。冒頭のファゴットの高い旋律、拍子が小節ごとに変わる激しいリズム、ニジンスキーの内股の振付に、客席は笑いと怒号で荒れ、音楽が聞こえないほどになった。ただ、騒ぎの規模は後の回想で大きく語られた面もあるとされる。翌年の演奏会形式の再演は喝采で迎えられ、この曲は20世紀の音楽の出発点の一つになった。
1914年、第一次世界大戦が始まると、彼は家族とスイスのレマン湖畔に移った。1917年のロシア革命で、ロシアに残した土地と財産を失い、帰る道もなくなった。収入は細り、作品は小さくなった。1918年の『兵士の物語』は、旅回りの一座のために、語り手と踊り手と7人の奏者だけで演じられるように書かれた。ロシアの婚礼を4台のピアノと打楽器と合唱で描いた『結婚』は、1923年にようやく初演された。

1920年、フランスに移った。同じ年の『プルチネッラ』は、18世紀のペルゴレージの作と伝わっていた曲を素材に、ディアギレフの依頼で作り直したバレエで、美術はパブロ・ピカソが担当した(素材の一部は後に別人の作と分かっている)。これが「新古典主義」と呼ばれる時期の始まりになった。バロックや古典派の形を借り、感情を抑えた乾いた響きで書く。ラテン語で歌われるオペラ=オラトリオ『エディプス王』(1927年)、ボストン交響楽団の創立50周年のための『詩篇交響曲』(1930年)がこの時期の代表作である。1934年にはフランス国籍を取った。
1935年に出した自伝で、彼は「音楽はその本質からして、何ものも表現する力を持たない」と書いた。音楽は音の組み立てそのものであって、感情や物語を運ぶ器ではない、という宣言だった。この言葉は長く引用され続け、彼はのちに、表現を否定したのではなく、表現が音楽の目的ではないと言いたかったのだ、と弁明している。

1938年から翌年にかけて、長女リュドミラ、妻エカチェリーナ、母が続けて死んだ。1939年9月、第二次世界大戦が始まった月に、彼はアメリカへ渡り、ハーヴァード大学で連続講義をした(のちの『音楽の詩学』)。1940年、20年近く関係の続いていたヴェラ・ド・ボセと結婚し、ハリウッドに住んだ。1945年にアメリカの市民権を得た。
アメリカでは、注文に応じて何でも書いた。サーカスの象のための『サーカス・ポルカ』、ウディ・ハーマンのジャズ楽団のための『エボニー協奏曲』。同じころ、ディズニーの『ファンタジア』(1940年)が『春の祭典』を恐竜の時代の映像に使い、曲を切り詰めて順序を入れ替えたことに、彼は後年まで不満を述べ続けた。1951年、詩人W・H・オーデンの台本によるオペラ『放蕩者のなりゆき』をヴェネツィアで初演した。新古典主義の総決算と言える作品だった。

1948年、若い指揮者ロバート・クラフトが助手として家に入った。クラフトはシェーンベルクやウェーベルンの十二音の音楽を彼に聞かせた。二人の作曲家は同じロサンゼルスに10年以上住みながら、ほとんど行き来がなかった。1951年にシェーンベルクが死ぬと、ストラヴィンスキーは70歳を過ぎて十二音技法を取り入れ始めた。バレエ『アゴン』(1957年)、『トレニ』(1958年)、『レクイエム・カンティクルス』(1966年)。かつて敵陣と見られた技法への転向は世を驚かせた。原始主義、新古典主義、十二音と、彼は生涯に三度、作風を大きく変えた。
1962年、80歳の年に、ジョン・F・ケネディ大統領のホワイトハウスの晩餐に招かれた。同じ年、ほぼ半世紀ぶりにソ連を訪れ、ニキータ・フルシチョフとも会った。亡命者として長く公式には冷遇されていた祖国での演奏会は、熱狂で迎えられた。

1971年4月6日、ニューヨークで死んだ。88歳だった。遺志により、ヴェネツィアの墓地の島サン・ミケーレの正教徒の区画に葬られた。すぐ近くに、若い彼を見出したディアギレフが眠っている。
彼の音楽は、リズムを旋律や和声と同じ重さの主役に引き上げた。『春の祭典』の不規則な拍子と打ちつける和音は、のちの作曲家だけでなく、映画音楽やジャズにも広く受け継がれた。