アッシュルバニパル
概要
各地から粘土板を集めてニネヴェに図書館を作った。焼けた宮殿の中で粘土が焼き固まったおかげで、『ギルガメシュ叙事詩』はいま読める。
所属
新アッシリア帝国関わったできごと(1)
ニネヴェの図書館BC7世紀半ば · 集めさせた本文
アッシュルバニパルは紀元前685年頃、メソポタミア北部を本拠とするアッシリアの王子として生まれた。祖父はバビロンを破壊したことで知られるセンナケリブ、父はエサルハドンである。当時の新アッシリア帝国は、西はエジプトから東はイランの高原まで、それまでの世界で最大の帝国になっていた。

アッシュルバニパルは、もともと王位を継ぐはずの王子ではなかった。兄の皇太子が早くに死に、紀元前672年、父エサルハドンは、アッシュルバニパルをアッシリアの王に、その兄のシャマシュ・シュム・ウキンをバビロンの王にすると定め、臣下や従属する国々に忠誠を誓わせた。その誓約文書の粘土板が今も残っている。
王になる前、アッシュルバニパルは書記としての教育を受けた。アッシリアの王としては珍しいことだった。のちに彼は碑文の中で、自分は賢者の知恵を学び、難解なシュメール語の粘土板や、読みにくいアッカド語の文書を読むことができる、さらには大洪水より前の時代の石の碑文さえ読み解いた、と誇っている。ほかに、算数や占いを学んだこと、そして戦車や弓、馬の扱いを身につけたことも書いている。

紀元前669年、父の死によって王位に就いた。治世の前半は、父の始めたエジプト征服を引き継いだ(アッシリアのエジプト征服)。エジプトを治めていたヌビア出身の王朝と争い、紀元前664年頃には、上エジプトの古都テーベを攻め落として略奪した。だがエジプトを長く押さえることはできず、アッシリアが立てた地元の君主プサメティコスが、やがて独立した。
治世の後半は、身内との戦いに費やされた。紀元前652年、バビロンの王となっていた兄のシャマシュ・シュム・ウキンが、エラムやアラブの諸部族と組んで反乱を起こした。アッシュルバニパルは4年をかけてバビロンを包囲し、飢えに追い込んで落とした。兄は燃える宮殿の中で死んだと伝えられる。

東の隣国エラムとの戦いは、さらに苛烈だった。紀元前653年頃にエラムの王テウマンを破ったとき、その首はアッシリアに運ばれた。ニネヴェの宮殿の浮き彫りには、庭園で王妃と酒杯を傾ける王の傍らの木に、テウマンの首が吊るされている場面が彫られている。紀元前646年頃、アッシュルバニパルはエラムの都スーサを攻め落とし、神殿を壊し、歴代の王の墓を暴いて遺骨を持ち去り、土地に塩をまいたと自ら記した。王の記録の中でも際立って残酷な記述である。宮殿の壁には、王が戦車や徒歩でライオンを狩る浮き彫りも並び、写実的な動物の表現で知られる。
アッシュルバニパルの名を後世に残したのは、ニネヴェの宮殿に集められた膨大な粘土板である(ニネヴェの図書館)。王はバビロニアの各地の神殿や学者の家に役人を送り、古い文書を集めさせ、写させた。占いや呪文、医術、天文の記録、辞書や文法書、そして神話や叙事詩。王の役人に宛てて、見つけた粘土板はすべて送れ、誰にも渡すな、と命じた手紙も残っている。王にとって、文書は神々の意志を知り、国を治めるための知恵の蔵だった。

彼の治世の最後の数年は、記録が途絶えて分からない。紀元前631年頃に王位を退いた、あるいは死んだとする説と、紀元前627年頃まで生きていたとする説がある。その死後、息子たちの間で王位をめぐる争いが起こり、バビロニアではナボポラッサルが自立した(ナボポラッサル)。バビロニアはイランのメディアと手を組み、紀元前612年、ニネヴェは攻め落とされた(ニネヴェ陥落)。アッシュルバニパルの死から20年もたたないうちに、帝国は地上から消えた。広げすぎた版図を支える力が、すでに尽きていたとされる。
ニネヴェが炎上したとき、宮殿に収められていた粘土板は、建物とともに崩れ落ちて土に埋もれた。日干しの粘土板の多くは、火に焼かれてかえって固くなった。それから2500年近くたった1850年前後、英国の調査隊がニネヴェの遺丘を掘り、数万点の粘土板とその破片を見つけた。大英博物館に運ばれたその中から、1872年、ジョージ・スミスという研究者が、聖書のノアの話によく似た洪水の物語を見つけて、世界を驚かせた。『ギルガメシュ叙事詩』の一部である。

アッシュルバニパルが読めることを誇った楔形文字の世界は、彼が集めさせた辞書や文法書の粘土板を手がかりに、近代の学者たちによって読み解かれていった(楔形文字の成立)。残酷な征服者として記録を残した王は、その一方で、古代メソポタミアの知恵を後世へ届ける役目を、意図せずに果たしたことになる。