人物

アッシュルバニパル

Ashurbanipal
BC685年頃 – BC627年頃(享年58・推定)
新アッシリア帝国重要度 4

概要

各地から粘土板を集めてニネヴェに図書館を作った。焼けた宮殿の中で粘土が焼き固まったおかげで、『ギルガメシュ叙事詩』はいま読める。

所属

新アッシリア帝国

関わったできごと(1)

ニネヴェの図書館BC7世紀半ば · 集めさせた

本文

アッシュルバニパルは紀元前685年頃、メソポタミア北部を本拠とするアッシリアの王子として生まれた。祖父はバビロンを破壊したことで知られるセンナケリブ、父はエサルハドンである。当時の新アッシリア帝国は、西はエジプトから東はイランの高原まで、それまでの世界で最大の帝国になっていた。

王、神官として描かれたアッシュルバニパルの同時代の像。現在大英博物館で展示されている。
王、神官として描かれたアッシュルバニパルの同時代の像。現在大英博物館で展示されている。Wikimedia Commons Public domain

アッシュルバニパルは、もともと王位を継ぐはずの王子ではなかった。兄の皇太子が早くに死に、紀元前672年、父エサルハドンは、アッシュルバニパルをアッシリアの王に、その兄のシャマシュ・シュム・ウキンをバビロンの王にすると定め、臣下や従属する国々に忠誠を誓わせた。その誓約文書の粘土板が今も残っている。

王になる前、アッシュルバニパルは書記としての教育を受けた。アッシリアの王としては珍しいことだった。のちに彼は碑文の中で、自分は賢者の知恵を学び、難解なシュメール語の粘土板や、読みにくいアッカド語の文書を読むことができる、さらには大洪水より前の時代の石の碑文さえ読み解いた、と誇っている。ほかに、算数や占いを学んだこと、そして戦車や弓、馬の扱いを身につけたことも書いている。

前671年のアッシリア帝国。アッシュルバニパルの父で前王のエサルハドンがエジプトを征服した時点。
前671年のアッシリア帝国。アッシュルバニパルの父で前王のエサルハドンがエジプトを征服した時点。Wikimedia Commons Ningyou · CC0

紀元前669年、父の死によって王位に就いた。治世の前半は、父の始めたエジプト征服を引き継いだ(アッシリアのエジプト征服)。エジプトを治めていたヌビア出身の王朝と争い、紀元前664年頃には、上エジプトの古都テーベを攻め落として略奪した。だがエジプトを長く押さえることはできず、アッシリアが立てた地元の君主プサメティコスが、やがて独立した。

治世の後半は、身内との戦いに費やされた。紀元前652年、バビロンの王となっていた兄のシャマシュ・シュム・ウキンが、エラムやアラブの諸部族と組んで反乱を起こした。アッシュルバニパルは4年をかけてバビロンを包囲し、飢えに追い込んで落とした。兄は燃える宮殿の中で死んだと伝えられる。

アラブ人を追うアッシリアの騎兵を描いた芸術作品。1904年のロシアの書籍『Всемирная история (в четырёх томах) Древний мир』より。
アラブ人を追うアッシリアの騎兵を描いた芸術作品。1904年のロシアの書籍『Всемирная история (в четырёх томах) Древний мир』より。Wikimedia Commons scan by ru:user:Кучумов Андрей · Public domain

東の隣国エラムとの戦いは、さらに苛烈だった。紀元前653年頃にエラムの王テウマンを破ったとき、その首はアッシリアに運ばれた。ニネヴェの宮殿の浮き彫りには、庭園で王妃と酒杯を傾ける王の傍らの木に、テウマンの首が吊るされている場面が彫られている。紀元前646年頃、アッシュルバニパルはエラムの都スーサを攻め落とし、神殿を壊し、歴代の王の墓を暴いて遺骨を持ち去り、土地に塩をまいたと自ら記した。王の記録の中でも際立って残酷な記述である。宮殿の壁には、王が戦車や徒歩でライオンを狩る浮き彫りも並び、写実的な動物の表現で知られる。

アッシュルバニパルの名を後世に残したのは、ニネヴェの宮殿に集められた膨大な粘土板である(ニネヴェの図書館)。王はバビロニアの各地の神殿や学者の家に役人を送り、古い文書を集めさせ、写させた。占いや呪文、医術、天文の記録、辞書や文法書、そして神話や叙事詩。王の役人に宛てて、見つけた粘土板はすべて送れ、誰にも渡すな、と命じた手紙も残っている。王にとって、文書は神々の意志を知り、国を治めるための知恵の蔵だった。

ニネヴェの図書館に関わる図版:Library of Ashurbanipal
ニネヴェの図書館Wikimedia Commons Gary Todd · CC0

彼の治世の最後の数年は、記録が途絶えて分からない。紀元前631年頃に王位を退いた、あるいは死んだとする説と、紀元前627年頃まで生きていたとする説がある。その死後、息子たちの間で王位をめぐる争いが起こり、バビロニアではナボポラッサルが自立した(ナボポラッサル)。バビロニアはイランのメディアと手を組み、紀元前612年、ニネヴェは攻め落とされた(ニネヴェ陥落)。アッシュルバニパルの死から20年もたたないうちに、帝国は地上から消えた。広げすぎた版図を支える力が、すでに尽きていたとされる。

ニネヴェが炎上したとき、宮殿に収められていた粘土板は、建物とともに崩れ落ちて土に埋もれた。日干しの粘土板の多くは、火に焼かれてかえって固くなった。それから2500年近くたった1850年前後、英国の調査隊がニネヴェの遺丘を掘り、数万点の粘土板とその破片を見つけた。大英博物館に運ばれたその中から、1872年、ジョージ・スミスという研究者が、聖書のノアの話によく似た洪水の物語を見つけて、世界を驚かせた。『ギルガメシュ叙事詩』の一部である。

『ギルガメシュ叙事詩』に関わる図版:British Museum Flood Tablet
『ギルガメシュ叙事詩』Wikimedia Commons CC0

アッシュルバニパルが読めることを誇った楔形文字の世界は、彼が集めさせた辞書や文法書の粘土板を手がかりに、近代の学者たちによって読み解かれていった(楔形文字の成立)。残酷な征服者として記録を残した王は、その一方で、古代メソポタミアの知恵を後世へ届ける役目を、意図せずに果たしたことになる。

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