フィルドウスィー
概要
30年かけて『シャー・ナーメ』を書いた。アラビア語に呑まれかけたペルシア語を、この一作が繋ぎ止めたとされる。
関わったできごと(1)
『シャー・ナーメ(王書)』AD1010年 · 作者本文
940年頃、イラン北東部ホラーサーン地方の町トゥースの近くの村に生まれた。名はアボルガーセム。フィルドウスィーは「楽園の人」を意味する筆名である。家はデフカーンと呼ばれる土地持ちの在地の名士で、この階層は、イスラーム以前のペルシアの王たちと英雄たちの物語を、家の伝えとして守ってきた人々だった。
7世紀、アラブのイスラーム軍がササン朝ペルシアを滅ぼしてから(ニハーヴァンドの戦い)、300年近くがたっていた。イスラームの広がりとともに、学問と信仰と役所の言葉はアラビア語になった。ペルシア語は話し言葉としては生き残っていたが、書き言葉としての地位は大きく落ちていた。その流れを変えたのが、9世紀以降に東イランに興った地元の王朝、とりわけサーマーン朝の興りだった。彼らはアッバース朝のカリフに従いながらも、アラビア文字を使った新しいペルシア語で詩や歴史を書くことを奨励した。

フィルドウスィーの前に、詩人ダキーキーが、古代の王たちの物語を詩にする仕事に取りかかっていた。だがダキーキーは、千行ほどを書いたところで、自分の奴隷に殺されてしまう。フィルドウスィーはこの仕事を引き継ぎ、ダキーキーの詩句も自分の作品の中に組み込んだ。拠り所にしたのは、ササン朝の時代に中世ペルシア語でまとめられた王の年代記を、10世紀に散文の新しいペルシア語に移した書物だったと考えられている。
977年頃に書きはじめ、最初のかたちを994年頃にまとめ、さらに手を入れて1010年頃に完成させた。こうして生まれたのが『シャー・ナーメ(王書)』である(『シャー・ナーメ(王書)』)。韻を踏む二行を一組とする詩句が、5万から6万組。世界の始まりに現れた最初の王から、7世紀にアラブの侵入でササン朝が滅びるまでを、50人の王の治世に沿って語る。

物語の半ばを占めるのは、伝説の英雄ロスタムの活躍である。ロスタムは怪物を倒し、王を救い、何百年も生きてイランを守る。だが『王書』は、ただ英雄を讃える物語ではない。ロスタムは、戦場で出会った若い勇士と一騎打ちをして討ち取り、死にゆくその若者の腕に、かつて自分が残した印を見つけて、それが生き別れた自分の息子ソフラーブだったと知る。無実の罪を着せられた王子スィヤーヴシュの死は、終わりの無い復讐の戦いを呼ぶ。運命の残酷さと、王の傲りや愚かさが、繰り返し描かれる。
フィルドウスィーは、アラビア語から入った言葉をできるだけ避け、古くからのペルシア語の語彙で書いた。アラビア語の借用語が詩の中に占める割合は、同時代の他の書き物に比べてずっと低い。彼自身、作品の終わり近くでこう書いている。この30年、私は多くの苦労をした。このペルシア語の詩によって、ペルシアの人々を蘇らせた、と。作品を書く間に、財産はほとんど尽きたとされる。

その頃、東イランの支配者は、トルコ系の軍人の家から出たマフムード・ガズナウィーに代わっていた。フィルドウスィーは完成した『王書』を、ガズナにいるこの君主に献じた。その後の出来事は、およそ150年後の書物に記された物語として伝わっている。マフムードは一行につき金貨1枚を与えると約束していたが、実際に届いたのは銀貨だった。怒った詩人は、その銀貨を風呂屋と飲み物売りに分け与えてしまい、王を風刺する詩を書いて町から逃げた。何年か後、王は後悔して、金貨や高価な藍を積んだ駱駝の列を詩人のもとへ送った。だが、駱駝の列がトゥースの町の門をくぐったとき、反対側の門から、詩人の棺が運び出されていくところだった、という。
この話は、後世の作り話を多く含むと考えられている。ただ、トルコ系でスンナ派の君主が、ペルシアの古い王たちを讃え、シーア派に近い信仰を持っていたとも言われる詩人の作品を、喜んで受け取らなかったことは、ありえないことではない。

フィルドウスィーは1020年頃、故郷のトゥースで亡くなったとされる。没年は1025年頃とする説もある。異教の王を讃えた者だとして、地元の宗教者がイスラームの墓地への埋葬を拒んだため、自分の庭に葬られた、という話も伝わる。
それでも、『王書』は書き写され、語り継がれていった。後のイランの王朝の君主たちは、豪華な挿絵を入れた写本を競って作らせ、その細密画はペルシア絵画の頂点の一つになった。町の茶店では、語り部がロスタムの物語を節をつけて語り聞かせ、字の読めない人々もその物語を知っていた。1934年、フィルドウスィーの生誕千年を祝って、トゥースに大きな霊廟が建てられた。

イランとアフガニスタン、タジキスタンで話されるペルシア語は、いまも、千年前のこの詩を、注釈を頼りにすれば一般の読者が読める程度にしか変わっていない。アラビア語に呑み込まれかけたペルシア語が、文学の言葉として生き延びたこと。フィルドウスィーの『王書』は、その最大の理由の一つと考えられている。