人物

ヨハネス・フェルメール

Johannes Vermeer
AD1632年 – AD1675年12月15日(享年43・推定)
ネーデルラント連邦共和国重要度 3

概要

確実な作品は30数点しかない。死後200年ほぼ忘れられ、19世紀に再発見された。

所属

ネーデルラント連邦共和国

関わったできごと(1)

フェルメールの光1656年 · 当人

本文

1632年10月、オランダの町デルフトで洗礼を受けた記録が残る。父は絹織物の職人で、画商も兼ね、のちに市場広場に面した宿屋を営んだ。同じ年、同じ町で、顕微鏡で微生物を見ることになるアントニ・ファン・レーウェンフックも生まれている。バールーフ・スピノザも同じ1632年の生まれで、オランダの黄金時代のただ中に育った世代になる。

オランダの黄金時代に関わる図版:Joannes van Deutecum - Leo Belgicus 1650 - published by Claes Jansz Visscher Amsterdam
オランダの黄金時代Wikimedia Commons Claes Janszoon Visscher II / Joannes van Doetecum I · Public domain

誰に絵を習ったのかは分かっていない。分かっているのは、1653年4月にカタリーナ・ボルネスと結婚し、同じ年の暮れにデルフトの画家組合(聖ルカ組合)に親方として登録したことである。妻の家はカトリックで、プロテスタントの共和国では少数派だった。フェルメール自身も結婚の前後に改宗したとみられる。夫婦は妻の母マーリア・ティンスの家に住み、この裕福な義母が一家の暮らしを支えた。組合では理事に二度選ばれており、町の中では一目置かれる画家だった。

確実にフェルメールの作とされる絵は30数点しかない。数え方で34点から37点ほどの幅がある。生涯でそれだけしか描かなかったのか、多くが失われたのかは分かっていない。1年に2、3点という遅い仕事ぶりだったとみられ、デルフトの資産家ピーテル・ファン・ライフェンが作品の多くを買い上げていた可能性が、古文書の研究から指摘されている。決まった買い手がいたことが、少ない数で暮らしを立てられた理由の一つと考えられている。

ヨハネス・フェルメールの自画像とされる肖像
ヨハネス・フェルメールの自画像とされる肖像Wikimedia Commons Johannes Vermeer · Public domain

題材の多くは室内の一場面である。左の窓から光が入り、手紙を読む女、牛乳を注ぐ女、楽器を弾く女を照らす。光が壁の漆喰と布と肌に当たり、それぞれ違う反射を返す。その違いが細かく描き分けられ、パンの皮や陶器の縁には、点を置いたような小さなハイライトが光る(フェルメールの光)。数少ない屋外の絵の一つ『デルフト眺望』は、のちにフランスの作家プルーストが『失われた時を求めて』のなかで、ある作家が死の直前にその絵の「小さな黄色い壁」に見入る場面として描いた。

絵の具には金を惜しまなかった。青には、アフガニスタン産の鉱石ラピスラズリを砕いて作るウルトラマリンを使っている。金と同じほど高価な顔料だが、壁の陰や布の下地にまで混ぜていることが、近年の科学調査で分かった。

デルフトに現存する居住跡を示すプレート
デルフトに現存する居住跡を示すプレートWikimedia Commons pcs34560 · Public domain

光学装置カメラ・オブスクラを使ったという説がある。暗い箱にレンズで像を映す装置で、点状のハイライトのにじみ方や、手前の物が大きく写る遠近の付き方が、レンズを通した像に似ている。ただし、本人が使ったことを示す記録は無く、道具も遺品の目録に見当たらない。使ったとしても、写したのではなく見方の参考にしたのだろう、という見方が多い。

晩年は苦しかった。1672年、フランス軍がオランダに攻め込み、共和国は「災厄の年」と呼ばれる混乱に陥る。絵が売れなくなり、画商としての仕事も止まった。夫婦には11人の子が残り、パン屋への多額のつけの担保に、絵を2点渡している。1675年12月、43歳で死んだ。妻は後に、夫は子どもたちを養う重荷と絵が売れない心労から、一日半のうちに元気な状態から死に至った、と述べている。

聖ルカ組合(1730年頃、銅版画)
聖ルカ組合(1730年頃、銅版画)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

翌年、妻は破産を申請した。その遺産の管財人に指名されたのが、同い年のレーウェンフックである。二人が生前に親しかったかどうかは分からない。

死後、名前はほとんど忘れられた。絵は別の画家の作として売られることもあった。19世紀半ばになって、フランスの批評家テオフィル・トレ(トレ=ビュルガー)がオランダの美術館を回って作品を探し出し、1866年に論文で紹介した。画家たちが戸外の光を描こうとしはじめた時代で、この評価はすぐに広まった。

『恋文』
『恋文』Wikimedia Commons Johannes Vermeer · Public domain

名声が高まると、偽物も現れた。第二次世界大戦中、オランダの画家ファン・メーヘレンが描いた「フェルメールの新発見作」が、ナチスの幹部ゲーリングの手に渡った。戦後、国宝を敵に売った罪に問われた本人が、あれは自分が描いた贋作だと告白し、法廷の監視のもとで新たに一枚描いてみせた。作品数が少ないことが、いま一枚あたりの価値を極端に高くし、それが贋作も、1990年のボストンでの盗難のような事件も引き寄せている。

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