システィーナ礼拝堂の天井画
概要
自分は彫刻家だと言い張る男が、4年かけて見上げたまま描いた。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
ミケランジェロAD1475年3月6日–AD1564年2月18日 · 当人本文
システィーナ礼拝堂は、教皇の礼拝堂として15世紀の後半に教皇シクストゥス4世が建てたもので、その名も教皇の名に由来する。長さ40メートルほど、幅13メートルほどの長方形の堂で、壁にはボッティチェッリやペルジーノら当代一流の画家がモーセとキリストの生涯を描いていた。天井は、青地に金の星をちりばめただけの簡素なものだった。
1505年、新しい教皇ユリウス2世は、30歳のミケランジェロをローマに呼び、自分の巨大な墓廟を作らせようとした。フィレンツェで大理石の『ダヴィデ』を彫り上げたばかりの彫刻家にとって、40体もの像で飾る墓廟は願ってもない仕事だった。ところが教皇の関心はまもなく、古いサン・ピエトロ大聖堂の建て替えの建て替えへ移り、墓廟の計画は止まってしまう。怒ったミケランジェロは一度ローマを飛び出している。

その彫刻家に、教皇は礼拝堂の天井画を命じた。ミケランジェロは、自分は画家ではなく彫刻家だと言って渋った。大きなフレスコ画を描いた経験もほとんどなかった。伝記作家コンディヴィは、ミケランジェロに失敗させようと、ライバルの建築家ブラマンテがこの仕事を教皇に勧めたと書いているが、本人の側から語られた話で、確かめようがない。1508年5月、ミケランジェロは契約を結んだ。最初の案は十二使徒を描くというものだったが、ミケランジェロはそれでは貧弱だと言って、旧約聖書の世界をまるごと描く計画に広げ、教皇もこれを許した。
天井の面積は500平方メートルを超え、床からの高さは20メートルほどある。ミケランジェロは自ら考えた足場を組み、その上に立って、首を後ろへ反らせ、腕を頭の上に上げたまま描いた。寝転がって描いたという話は、後に広まった誤りとされる。漆喰が乾く前に顔料を塗り込むフレスコの技法では、その日に描ける分だけの漆喰を塗る。描き始めてまもなく、壁にかびが出て絵が損なわれ、やり直したこともあった。助手は使ったが、大半を自分の手で描いた。

この仕事の苦しさを、ミケランジェロは友人への戯れの詩に書き残している。顎ひげは天を向き、首はうなじにめり込み、筆から垂れる絵の具で顔はまだらになる。詩の最後には、自分はここにいるべきでない、画家ではないのだから、という意味の一行がある。
天井の中央には、創世記の九つの場面が並ぶ。神が光と闇を分ける場面に始まり、天地と生き物の創造、アダムの創造、エバの創造、楽園の追放、そしてノアの物語で終わる。描いたのは物語とは逆の順で、入口に近いノアの泥酔から始めて、祭壇の側の天地創造へと進んだ。後半になるほど人物は大きく、構図は大胆になっていく。周りには、救い主の到来を告げた預言者たちと、異教の巫女たち、裸の若者の像が、まるで彫刻のように描き込まれた。登場する人物は300を超える。

最も有名なのは、アダムの創造の場面である。横たわったアダムが力なく左手を差し出し、天使たちに囲まれて空を飛んでくる神が、右手の人差し指を伸ばしてそれに応える。二つの指先は、触れそうで触れていない。その間の小さなすき間が、命が吹き込まれる直前の一瞬を見る者に想像させる。
1510年から翌年にかけて、教皇が戦争で北イタリアへ出ていたため、仕事は一時止まった。1511年夏に前半が公開されると、同じころヴァチカンで壁画を描いていた若いラファエロも、その人物の描き方から強い影響を受けたとされる。1512年10月末、天井はついに完成し、11月1日の諸聖人の祝日のミサで公にされた。ミケランジェロは37歳になっていた。教皇ユリウス2世は、その数か月後に世を去っている。
完成した天井は、イタリア・ルネサンスの盛期の頂点の一つと見なされるようになった。人の体のねじれと力によって、神の業と人の運命を表すミケランジェロのやり方は、後の画家たちに大きな影響を与えた。

それから20年あまり後、ミケランジェロは再びこの礼拝堂に呼ばれ、1536年から1541年にかけて、祭壇の壁いっぱいに『最後の審判』を描いた。そのとき彼は60代になっていた。ローマが皇帝の軍に略奪され、宗教改革が教会を割った後の、暗く激しい絵である。1980年から1994年にかけての天井画の修復では、何世紀分ものすすと汚れが取り除かれ、驚くほど明るい色彩が現れた。修復が絵を損なったという批判も起きたが、いまでは多くの人が、この鮮やかさこそミケランジェロの色だと受け止めている。