曹雪芹
概要
名は霑。曹家は満洲の旗人に属する漢人(包衣)で、祖父曹寅は康熙帝の乳兄弟、江寧織造として20年(一家三代で60年)、江南の富と情報を握った。雍正帝の代に一族が失脚し、財産を没収された。曹雪芹は少年期に北京へ移り、貧困のうちに『石頭記(紅楼夢)』を書いた。「十年辛苦、五たび増刪す」。息子を失った後、除夕(大晦日)に死んだ、と友人の詩にある。
所属
清関わったできごと(1)
『紅楼夢』AD1760年頃 · 書いた本文
曹雪芹は、名を霑といい、雪芹はその号である。中国の古典小説の最高峰とされる『紅楼夢』(『紅楼夢』)の作者だが、その生涯について確かに分かっていることは驚くほど少ない。生まれた年は1715年ごろとする説と1724年ごろとする説があり、亡くなった年も一年ずれる二つの説がある。残された手がかりは、一族の記録と、友人たちの詩、そして小説そのものである。

曹家は、もとは明の遼東の地に住む漢人だった。17世紀のはじめ、満洲の後金が遼東を攻め取ったとき、曹雪芹の高祖父は捕らえられ、満洲の八旗のうち、皇帝の直属の正白旗に属する「包衣」となった。包衣は、主の家に仕える家人の身分である。身分は低いが、皇帝の家に直に仕えるぶん、皇帝との距離は近かった。清が中国を支配する(清の中国支配)と、一族は官職に就き、栄えていった。
決定的だったのは、曹雪芹の曾祖母の孫氏が、幼い康熙帝の保母を務めたことである。曾祖父の曹璽は、宮廷のための絹を調達する江寧(いまの南京)の織造の長に任じられた。その子の曹寅、すなわち曹雪芹の祖父は、康熙帝より4歳年下で、少年のころを宮中で皇帝の側に仕えて過ごした。曹寅は1690年代から20年あまり江寧の織造を務め、絹の調達のかたわら、江南の役人たちの動きや世の中の評判をひそかに皇帝に報告する役も担った。詩人であり、膨大な書物を集めた蔵書家でもあり、皇帝の命で唐の時代の詩を集めた全集の刊行を取り仕切った。
康熙帝は生涯に6度、江南を巡る旅をし、そのうち4度は江寧の曹家の役所を宿所とした。皇帝を迎えるには莫大な費用がかかり、曹家はそれを塩の専売の利益や公金のやりくりでまかなった。曹家は江南で並ぶ者のない栄華を誇ったが、帳簿の上には大きな穴が開いていった。1712年に曹寅が亡くなり、跡を継いだ息子もすぐに亡くなると、甥が養子となって織造の職を継いだ。康熙帝は、旧臣の家の赤字の穴埋めに、何かと便宜を図ってやった。
1722年、康熙帝が亡くなり、雍正帝が即位した。新しい皇帝は、前の代の放漫を正そうと厳しく臨んだ。皇位をめぐる争いで、曹家が雍正帝の敵だった皇子たちに近かったためだとする説もある。雍正5年の暮れ(1728年のはじめ)、曹家の当主は、公用の旅で駅の宿場に迷惑をかけたこと、財産を隠したことなどを罪に問われて職を解かれ、家の財産をすべて没収された。南京の屋敷も、土地も、使用人も取り上げられ、一家は北京に移って、小さな家に住むことを許されただけだった。曹雪芹は、このとき幼い子どもか、十代のはじめだった。江南の庭園、着飾った女たち、詩の集まり、芝居、贅を尽くした料理。その記憶は、のちの貧しい暮らしと、くっきりと対をなすことになる。
晩年の曹雪芹は、北京の西の郊外の山のふもとの村に住んだと伝えられる。彼の姿を伝えるのは、同じように没落した清の皇族の家の出の兄弟、敦敏と敦誠が残した詩である。道は雑草に覆われ、一家は粥をすすり、酒はいつも掛けで買う。そうした暮らしぶりとともに、彼の詩には奇妙な気があり、唐の鬼才の詩人李賀に迫る、と兄弟は称えた。絵も描き、酒を好み、談論に長けた人だったらしい。
その貧しさの中で、彼は一つの長い物語を書き続けた。最初の題は『石頭記』、石の物語という。天の裂け目を繕うために女神が作った石のうち、ただ一つ使われずに残された石が、人の世に生まれて栄華と悲しみを味わう。物語の中心は、大貴族の賈家に生まれ、生まれたときに美しい玉を口に含んでいた少年、賈宝玉である。広大な庭園、大観園で、宝玉は、病弱で繊細な従妹の林黛玉、聡明で落ち着いた薛宝釵をはじめ、多くの少女たちに囲まれて暮らす。だが賈家は、内側の腐敗と浪費からしだいに傾き、少女たちは一人また一人と悲しい運命をたどっていく。登場する人物は数百人に上り、貴族の暮らしの細部、詩会や料理や薬の処方までが、驚くほど細かく描き込まれている。
物語の冒頭で、作者は、自分は世に何も成さずに年を取ったが、ふと昔の女性たちを思い出すと、その行いも見識も、みな自分より上だった、彼女たちのことを埋もれさせないために書くのだ、と語る。そして、十年をかけて読み返し、五度書き直した、と記す。紙いっぱいのでたらめな言葉、ひと握りのつらい涙。みな作者を愚かと言うが、誰がその中の味を分かろうか。冒頭に添えられたこの詩は、作品の性格をよく表している。
原稿は、書き上がった部分から友人たちの間で書き写されて回った。その写本には、脂硯斎と名乗る人物が、朱の墨で多くの評を書き込んでいる。脂硯斎は、書かれている出来事を自分も実際に知っているような口ぶりで、ここを読んで涙した、あの日のことを思い出す、などと記している。曹雪芹の親族だったと考えられているが、誰なのかは分かっていない。その書き込みの中には、まだ書かれていない後半の筋の断片も漏れ出ている。
晩年、曹雪芹の幼い息子が病で亡くなった。悲しみのあまり彼も病に倒れ、その年、あるいは翌年の大晦日の夜に亡くなったと、脂硯斎の書き込みと友人の詩は伝える。友人の敦誠は、四十年、痩せ細って生きた人と彼を悼んだ。年は40代の終わりから50歳ほどだったと考えられている。書物はまだ完成していなかった。
まとまった形で残ったのは、80回までだった。曹雪芹の死から30年近くたった1791年、程偉元と高鶚という二人が、どこからか集めたという後半の40回を加えて、120回の本を活字で刊行した。いま広く読まれているのは、この120回の形である。後の40回が曹雪芹の遺した原稿をもとにしたものか、ほかの人が書き足したものか、20世紀のはじめに学者の胡適が高鶚の補作だと論じて以来、議論が続いている。80回までの写本も十数種が残り、それぞれ本文が少しずつ違う。この小説を研究する学問は、「紅学」と呼ばれるほどの一つの分野になった。
文字の獄が吹き荒れた乾隆帝の時代に、写本で密かに読み継がれた一族の没落の物語は、のちに魯迅によって中国の小説の最高の達成の一つと評された。栄華を極めた家に生まれ、すべてを失った男が、失われた世界を言葉で建て直した。曹雪芹の生涯がほとんど闇に沈んでいるのとは対照的に、彼の描いた大観園は、いまも無数の読者の中で生き続けている。