概要
名は霑。曹家は満洲の旗人に属する漢人(包衣)で、祖父曹寅は康熙帝の乳兄弟、江寧織造として60年、江南の富と情報を握った。雍正帝の代に一族が失脚し、財産を没収された。曹雪芹は少年期に北京へ移り、貧困のうちに『石頭記(紅楼夢)』を書いた。「十年辛苦、五たび増刪す」。息子を失った後、除夕(大晦日)に死んだ、と友人の詩にある。
所属
清関わったできごと(1)
『紅楼夢』AD1760年頃 · 書いた本文
曹家の系譜。曹錫遠(曹雪芹の高祖父)は、明の遼東の役人で、1621年、後金が瀋陽を取ったときに捕らえられ、満洲の正白旗の包衣(家内の使用人の身分)になった。息子の曹振彦が、ドルゴンの下で軍功を立てて、官に就いた。
曹璽(曹雪芹の曾祖父)の妻・孫氏が、康熙帝の乳母になった。これで、曹家と皇帝の個人的な関係ができた。
曹寅(祖父)。1658年生まれ。康熙帝より4歳年下。少年期を宮中で共に過ごした。1690年から江寧織造(南京。宮廷用の絹の調達)。同時に、皇帝への密奏(江南の官界と世論の報告)を許された。詩人でもあり、『全唐詩』の刊行を主宰した。蔵書家(3287種の蔵書目録が残る)。1712年、揚州で病死した。
康熙帝の南巡(6回)のうち、4回、曹家が接待した。1回の接待に数十万両。その費用は、塩の専売の利益と、公金の流用で賄われた。
曹寅の死後、赤字が残った。息子の曹顒が2年で死に、甥の曹頫が跡を継いだ。康熙帝は、赤字の補填に便宜を図った。
1722年、康熙帝が死に、雍正帝が立った。皇位継承の争いで、曹家は敗れた側の皇子(八皇子)に近かった。1727年12月、曹頫は「騒擾駅站」(公務の旅で駅を騒がせた)と、財産の隠匿を理由に、罷免され、財産を没収された(抄家)。北京の小さな家だけが残された。
曹雪芹は、1715年頃の生まれ(1724年説もある)。抄家のとき、10代の初め。それまでの記憶——庭園、女たち、詩会、芝居、料理——と、その後の貧困。
北京の西郊(香山の麓、と伝える)。友人の敦誠・敦敏兄弟(清の宗室の子孫で、彼らも没落していた)の詩に、彼の姿がある。
「満径蓬蒿老不華、挙家食粥酒常賒」(道は雑草で覆われ、家中が粥を食べ、酒はいつも掛け)。 「愛君詩筆有奇気、直追昌谷破籬樊」(君の詩の筆に不思議な気がある。李賀を追って、垣根を破っている)。 「〔石を〕売る術もない。ただ黄葉の村に住んで、著書す」。
『石頭記』。第1回の冒頭に、作者自身の言葉として置かれた一節。
「今、風塵にまみれて何一つ成さず、ふと当日の女子たちを思い出すと、彼女らの行いも見識も、みな私の上にあった。……堂々たる鬚眉(男)の私が、裙釵(女)に及ばないとは。……ただ、この一事を隠すために、他の全てを隠すことはできない」。
「悼紅軒中、披閲十載、増刪五次、纂成目録、分出章回」。10年、5回書き直した。
脂硯斎。写本に朱の批注を書き入れた人物。曹雪芹と近く、書かれている出来事を実際に知っている口ぶりで書く(「私も泣いた」「あの日のことを思い出す」)。誰かは分からない(従兄弟、あるいは叔父、あるいは女性という説)。その批注に、後半の筋の断片が漏れている(宝玉が乞食になる、王熙鳳が獄で死ぬ、湘雲と宝玉が最後に会う、など)。
1762年、幼い息子が天然痘で死んだ。彼は病んだ。1763年(乾隆27年)の除夕(大晦日)、あるいは1764年の除夕、死んだ。40代の終わりか50歳頃。
敦誠の挽歌。「四十蕭然太痩生、暁風昨日払銘旌」(40年、痩せ細って。暁の風が、昨日、旌を払った)。「牛鬼遺文悲李賀、鹿車荷鍤葬劉伶」。
原稿は、80回まで(正確には、そこまでしか完成した形で残らなかった)。友人の間で写本が回覧され、書肆で高値で売られた。1791年、程偉元と高鶚が、活字で120回本を刊行した(程甲本)。翌年、改訂版(程乙本)。
いま、80回までの写本が12種ほど残っていて、それぞれ本文が違う。どれが曹雪芹の本文に近いか、後の40回は誰の手か、200年、議論が続いている。