源信『往生要集』
概要
比叡山横川の僧が、経と論から極楽と地獄を集めた3巻。「厭離穢土、欣求浄土」。八大地獄。等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間。念仏で極楽へ。宋に送られて「日本の小釈迦」と呼ばれた。地獄の絵は、この本から描かれた。
場所
35.09°N 135.85°E · 滋賀県大津市
関わった人(1)
源信AD942年–AD1017年7月6日 · 著者本文
寛和元年(985年)4月、比叡山の奥、横川の首楞厳院にこもる一人の僧が、3巻の書物を書き上げた。著者は源信、数えで44歳。題は『往生要集』、極楽に往って生まれるための要となる文を集めた書、という意味である。数多くの経典や論書から、地獄の恐ろしさと極楽の美しさ、そして極楽へ往く方法としての念仏を説く言葉を抜き出し、整理して並べたこの本は、日本人が思い描く地獄と極楽の姿を形づくり、のちの浄土教の大きな流れの源になった。
源信は大和国の生まれで、幼くして比叡山に入った。比叡山は最澄が開いた天台宗の本山で、法華経を中心に、密教から念仏まで、あらゆる仏教の教えと修行を学ぶ場だった。若くして学僧として名を上げた源信は、宮中の法会にも招かれたが、名声を求める生き方を嫌い、山の中でも人里から最も遠い横川に退いて、修行と著述に打ち込んだと伝えられる。母が、名利を求めず真の修行者になれと手紙で諭したという話もあるが、これは後の説話で語られるものである。

源信が生きた10世紀の後半は、都の貴族たちにも不安が広がっていた時代だった。仏が亡くなってから時がたつにつれ、教えは形だけになり、悟りを開く者がいなくなる「末法」の世が近いと考えられていた。日本では1052年が末法の始まりとされる(末法の始まり)。そのころ、市井では空也が念仏を唱えながら諸国を歩き、庶民に阿弥陀仏への信仰を広めていた。
本の序文で、源信は書いた理由を語っている。極楽に往生するための教えと修行は、濁った末の世の人にとって、目となり足となるものだ。だが経典の教えはさまざまで、修行の方法も多い。智恵があり努力のできる人には難しくないだろうが、自分のように頑なで愚かな者には、とてもできない。だから念仏という一つの門によって、経典と論書の大事な文を少し集めたのだ、と。
本は十の章に分かれている。第一章が「厭離穢土」、汚れたこの世を厭い離れよ。第二章が「欣求浄土」、清らかな極楽を喜び求めよ。このあと、極楽の証拠、念仏の修め方、念仏を助ける方法、特別な期間の念仏と臨終の作法、念仏の功徳、念仏の証拠、念仏以外の往生の行、問答と、念仏を中心に論が進む。
最も広く読まれ、後の世に強い印象を残したのは、第一章の地獄の描写だった。源信は、人が生まれ変わり死に変わりする六つの世界、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天を順に描き、そのいちばん下の地獄を、等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間の八つに分けて、経典の言葉をもとに詳しく語る。等活地獄では、罪人どうしが鉄の爪で互いに引き裂き合い、獄卒に打ち砕かれて死んでも、涼しい風が吹くと生き返って、また同じ苦しみを繰り返す。衆合地獄には刀の葉の林があり、木の上に美しい女が見えるので登っていくと、葉が刀となって体を切り裂く。ようやく上に着くと、女は今度は下にいて、男を呼ぶ。罪の重さに応じて下へ行くほど苦しみは深く、長くなり、最も底の無間地獄では、苦しみが途切れることがない。
源信は地獄だけでなく、人の世界もまた苦しみの場だと説いた。人の体は不浄で、生きることは苦しく、すべては移ろって止まらない。天上の神々でさえ、寿命が尽きるときには五つの衰えが現れて苦しむ。だからこそ、この世を厭い、極楽を求めよ、というのである。
第二章では、一転して極楽の喜びが十に分けて語られる。死に際に阿弥陀仏と菩薩たちが迎えに来てくれる喜び、蓮の花が開いてそこに生まれる喜び、仏を見て教えを聞く喜び。地獄の恐ろしさと極楽の美しさを鮮やかに対比させることで、読む者の心を念仏へと向かわせる構成になっている。
源信の説く念仏は、口で「南無阿弥陀仏」と唱えるだけのものではなかった。阿弥陀仏を礼拝し、たたえ、往生を願い、その姿を心に思い浮かべ、功徳を他の人びとにも振り向ける。中心にあるのは、仏の姿をありありと心に観る「観想」で、とくに仏の眉間の白い巻き毛から放たれる光を思い描くことが勧められた。ただ、それが難しい者には、口で名を唱える念仏でもよいと認めていた。
臨終の作法を説いた部分は、とりわけ大きな影響を与えた。死を迎える人を寺の一室に移し、阿弥陀仏の像を西に向けて安置して、像の手に五色の糸を結び、その端を病人に握らせる。仲間の僧たちが枕元で念仏を唱え続け、病人の心が乱れないよう励ます。本が完成した翌年の986年、横川の僧たちは、互いの臨終を看取り合うことを誓う念仏の結社「二十五三昧会」を作り、源信もその中心にいた。
『往生要集』は日本の中だけで読まれたのではない。源信は988年、宋の商人に託してこの本を中国へ送り、天台宗の本山の寺に納められた。宋の人びとが源信をたたえて「日本の小釈迦」と呼んだという話も伝えられている。
都の貴族たちの間で、この本は熱心に読まれた。権勢を極めた藤原道長は、1027年の臨終に、阿弥陀仏の像の手から引いた糸を握り、僧たちの念仏の声に包まれて息を引き取ったと伝えられる。まさに『往生要集』の説く臨終の姿だった。道長の子の頼通が建てた平等院鳳凰堂は、この世に極楽を写そうとした建物である。地獄の描写は絵画にも広がり、平安時代の末には『地獄草紙』や『餓鬼草紙』が描かれ、鎌倉時代には六道の世界を描いた大きな掛け絵が作られた。日本人が「地獄」と聞いて思い浮かべる、刀の林や燃えさかる炎、鬼の獄卒の姿の多くは、この本から生まれた絵の系譜の上にある。『源氏物語』の最後の宇治十帖に登場し、浮舟を救う「横川の僧都」は、源信を思わせる人物として描かれていると言われる。

さらに大きな流れは、鎌倉時代の新しい仏教へとつながっていく。法然は『往生要集』を手がかりに中国の僧善導の教えにたどり着き、ただひたすら念仏を唱えることで誰もが救われると説いた(法然の専修念仏)。法然の弟子親鸞は、浄土の教えを伝えた七人の高僧の一人に源信を数え、その功績をたたえる言葉を残した。
第一章の題「厭離穢土」と、第二章の題「欣求浄土」は、やがて仏教の言葉を超えて人びとの心に刻まれた。戦国の世、徳川家康がこの八文字を旗印に掲げたことはよく知られている。この世を汚れたものと見ながら、なお清らかな世界を求めて生きる。千年前の横川の僧がまとめた言葉は、そうした生き方の合言葉になった。