概要
ヴェネツィア。理髪師兼ヴァイオリン奏者の子。司祭になったが、喘息で1年でミサをやめ、「赤毛の司祭」と呼ばれた。孤児の少女のための施設ピエタで40年近く教え、そのために協奏曲を書き続けた。500曲以上の協奏曲、50のオペラ。急・緩・急の三楽章という形を定着させた。バッハが彼の曲を編曲して学んだ。晩年は流行に取り残され、ウィーンで貧しく死に、共同墓地に葬られた。
関わったできごと(1)
ヴィヴァルディ『四季』AD1725年 · 作曲した本文
1678年3月4日、ヴェネツィアで生まれた。その日、地震があった。産婆が、危ないと見て、その場で洗礼を施した(緊急洗礼)。教会での正式な洗礼は2か月後。
父ジョヴァンニ・バッティスタは理髪師で、サン・マルコ大聖堂のヴァイオリン奏者になった。赤毛だったので「赤毛のジョヴァンニ」と呼ばれた。息子も赤毛だった。
15歳から聖職の道に入り、1703年、25歳で司祭に叙階された。
しかし、1年ほどでミサを立てるのをやめた。理由を、彼は後の手紙でこう説明している。「生まれたときからの胸の締めつけ(strettezza di petto)」——喘息か、狭心症か、不安発作か——のために、祭壇を離れざるを得なかった、と。
(ミサの最中に旋律を思いついて、聖具室に走って書き留めたから、という説話もあるが、根拠は弱い。)
**赤毛の司祭**(イル・プレーテ・ロッソ)。生涯、その名で呼ばれた。
1703年9月、**ピエタ**(孤児と捨て子の少女のための施設)のヴァイオリン教師。以後、断続的に40年近く、この施設と関わった。
彼の職務は、教え、楽器を買い、そして曲を書くこと。契約書に、月に2曲の協奏曲、という記述がある年もある。理事会は、毎年、彼を雇うかどうかを投票で決めた。一票差で否決された年もある。
生涯に、協奏曲500曲以上(うちヴァイオリン協奏曲230曲以上)、ソナタ90曲以上、オペラ50作近く(本人は「94作」と書いたが誇張)、宗教曲(『グローリア』RV589が有名)。
ストラヴィンスキーの皮肉が有名である。「ヴィヴァルディは同じ協奏曲を500回書いた」。これに対する反論も、また有名である。「同じ形式で500の別の曲を書いた」。
**形式**。急—緩—急の三楽章。第1楽章は、全奏の主題(リトルネッロ)と独奏が交互に現れる。これが以後の協奏曲の標準になった。
**出版**。作品3『調和の霊感』(1711年、アムステルダム)が、ヨーロッパ中に広まった。バッハはこの曲集から6曲を鍵盤楽器用に編曲した。バッハの協奏曲の書き方は、ここから変わる。
**オペラ**。1713年から、興行に手を出した。作曲だけでなく、劇場の経営、歌手の手配、旅の手配。ヴェネツィア、ローマ、フィレンツェ、ヴェローナ、マントヴァ、そしてプラハ。
歌手**アンナ・ジロー**とその姉パオリーナが、彼と同居し、旅にも同行した。司祭と若い女性。噂が立った。フェラーラの枢機卿は、彼の入市を禁じた。彼は、アンナは弟子であり、姉は自分の病気の世話をしているだけだ、と反論した。
**没落**。1730年代、ヴェネツィアの趣味が変わった。彼の音楽は古く聞こえるようになった。オペラの興行に失敗した。
1740年、彼はヴェネツィアを去り、ウィーンへ向かった。皇帝カール6世(彼を高く買っていた)の庇護を求めて。しかし、到着の直後に皇帝が死んだ(毒キノコによる食中毒とされる)。オーストリア継承戦争が始まり、宮廷に音楽の余裕はなかった。
1741年7月28日、ウィーンで死んだ。63歳。死因の記録は「内部の炎症」。
葬儀は最も安い等級で行われ、市立病院の共同墓地に葬られた。墓は残っていない。葬儀の鐘を鳴らした聖歌隊の少年の中に、9歳のヨーゼフ・ハイドンがいた、と言われる(確証はない)。
**再発見**。1926年、トリノ近郊のサレジオ会の学校が、資金のために古い楽譜の束を売りに出した。鑑定に呼ばれた研究者アルベルト・ジェンティーリが、それがヴィヴァルディの自筆譜の膨大な集積の「半分」であることに気づいた。彼は残りの半分を探し出し、資産家に買い取らせて、トリノ国立図書館に収めた。
こうして、失われていた300曲以上が戻った。1939年、シエナで「ヴィヴァルディ週間」。1950年代、レコードの普及。
いま、『四季』は、世界で最も多く録音された曲の一つである。