アントニオ・ヴィヴァルディ
概要
ヴェネツィア。理髪師兼ヴァイオリン奏者の子。司祭になったが、喘息で1年でミサをやめ、「赤毛の司祭」と呼ばれた。孤児の少女のための施設ピエタで40年近く教え、そのために協奏曲を書き続けた。500曲以上の協奏曲、50のオペラ。急・緩・急の三楽章という形を定着させた。バッハが彼の曲を編曲して学んだ。晩年は流行に取り残され、ウィーンで貧しく死に、共同墓地に葬られた。
関わったできごと(1)
ヴィヴァルディ『四季』AD1725年 · 作曲した本文
アントニオ・ヴィヴァルディは1678年3月4日、ヴェネツィアに生まれた。その日、町は地震に見舞われたと伝えられ、生まれた子の具合も危ぶまれたため、産婆がその場で洗礼を授けた。教会での正式な洗礼は2か月後のことである。

父ジョヴァンニ・バッティスタは理髪師で、のちにサン・マルコ大聖堂のヴァイオリン奏者になった。父は赤毛で、息子も赤毛だった。アントニオは父からヴァイオリンを習い、15歳で聖職の道に入った。1703年、25歳で司祭に叙階された。
ところが1年ほどで、彼はミサを立てるのをやめてしまった。本人はのちの手紙で、生まれつきの「胸の締めつけ」のために祭壇にとどまれなかったと説明している。喘息だったのか、狭心症か、発作的な不安だったのかは分からない。ミサの最中に旋律を思いつき、聖具室に駆け込んで書き留めたからだ、という話もあるが、根拠は弱い。司祭の身分のまま音楽に生きた彼を、人々は生涯「赤毛の司祭(イル・プレーテ・ロッソ)」と呼んだ。

1703年9月、彼は「ピエタ」のヴァイオリン教師になった。ピエタは孤児や捨て子の少女を育てる施設で、少女たちの合奏と合唱はヴェネツィアの名物として旅行者を集めていた。仕事は、教え、楽器をそろえ、演奏会のための曲を書くことである。雇うかどうかは理事会が毎年投票で決め、1709年には一票差で職を失い、2年後に呼び戻された。のちには、月に2曲の協奏曲を届ける約束で報酬を受けた時期もある。途切れながらも、ピエタとの関わりは40年近く続いた。
こうして書かれた協奏曲は500曲を超え、うちヴァイオリン協奏曲だけで230曲以上ある。ほかにソナタが90曲以上、オペラが50作近く(本人は94作と書いたが、誇張とみられる)、『グローリア』などの宗教曲がある。ヴィヴァルディは同じ協奏曲を何百回も書いた、という皮肉はストラヴィンスキーの言葉として広まったが、言ったのは別の作曲家だとする説もある。これには、同じ形式で何百もの違う曲を書いたのだ、という反論がつきものである。
その形式とは、速い・遅い・速いの三楽章で、速い楽章では合奏の主題(リトルネッロ)と独奏が交互に現れる。この型が、以後の協奏曲の標準になった。1711年にアムステルダムで出版された作品3『調和の霊感』はヨーロッパ中に広まり、ドイツの若いヨハン・ゼバスティアン・バッハは、この曲集などから何曲もの協奏曲を鍵盤楽器用に書き写して編曲した。バッハの協奏曲の書き方は、そこから変わったとされる。1725年に出た作品8の最初の4曲が、季節を詠んだ短い詩を添えたヴィヴァルディ『四季』である。

1713年からは、オペラの興行にも手を出した。作曲だけでなく、劇場との交渉、歌手の手配、旅の段取りまで自分で引き受け、ヴェネツィアのほか、マントヴァ、ローマ、フィレンツェ、ヴェローナ、さらにプラハにまで作品を持ち込んだ。
その旅に、歌手アンナ・ジローとその姉パオリーナが同行し、彼と同じ家に暮らしていた。司祭と若い女性である。噂が立ち、1737年、フェラーラの枢機卿は彼の入市を禁じて、予定していたオペラの上演を潰した。彼は、アンナは弟子で、姉は病身の自分の世話をしてくれているだけだと抗議した。
1730年代、ヴェネツィアの好みはナポリ風の新しいオペラへ移り、彼の音楽は古く聞こえるようになった。興行の失敗も重なった。1740年、彼はヴェネツィアを離れ、ウィーンへ向かった。かつて自分を高く買ってくれた皇帝カール6世の庇護を求めたのである。ところが到着からほどない1740年10月、皇帝が急死した。続いてオーストリア継承戦争が始まり、宮廷に音楽家を抱える余裕はなくなった。

1741年7月28日、ヴィヴァルディはウィーンで死んだ。63歳。記録された死因は「内部の炎症」だった。葬儀は簡素で、市の病院の墓地に葬られ、墓はいまは残っていない。葬儀で歌った聖歌隊の少年たちの中に9歳のヨーゼフ・ハイドンがいた、という話が語られるが、確証はない。
死後、彼の名はほとんど忘れられた。19世紀にバッハの研究が進むと、バッハが編曲した原曲の作者として名前が掘り起こされた程度である。転機は1926年に来た。北イタリアのサレジオ会の学校が、資金を得るため古い楽譜の束を売りに出し、鑑定を頼まれた音楽学者アルベルト・ジェンティーリが、それがヴィヴァルディの自筆譜の大きな集積の片割れだと気づいた。彼は残りの半分の持ち主を突き止め、資産家たちに買い取らせて、両方をトリノの国立図書館に収めた。

こうして、失われていた数百の作品が戻った。1939年にはシエナで彼の作品を集めた音楽週間が開かれ、戦後はレコードの普及とともに演奏が一気に広がった。いま『四季』は、世界でいちばん多く録音されたクラシックの曲の一つになっている。