雪舟の山水長巻
概要
備中の農家の子が、京の相国寺で画僧になり、48歳で明に渡って2年、実際の中国の山河を見た。帰って、周防の大内氏の庇護で描いた。『四季山水図巻(山水長巻)』は長さ16メートル。春から冬へ、旅人が山と村と寺を通っていく。中国の様式を学びながら、線が太く、鋭く、日本の絵になった。67歳の作。「雪舟等楊」の署名。
場所
34.18°N 131.47°E · 日本・山口県
関わった人(1)
雪舟AD1420年–AD1506年頃 · 描いた本文
『四季山水図巻』、通称「山水長巻」は、雪舟が1486年(文明18年)、数えで67歳のときに描いた水墨の絵巻である。高さ約40センチ、長さ約16メートル。巻末に「天童前第一座雪舟叟等楊、六十有七歳筆受」と記す。いまは山口県防府市の毛利博物館が所蔵し、国宝に指定されている。
雪舟は1420年、備中(いまの岡山県総社市)に生まれ、少年のうちに近くの宝福寺に入った。柱に縛られた小僧が涙で鼠を描いたという有名な話は、江戸時代の画家の伝記に出てくる伝説である。のちに京の相国寺に移り、禅の修行のかたわら、幕府の御用を務めた画僧周文に絵を学んだ。当時の日本の水墨画は、中国の宋や元の名品を手本に、それを写しながら学ぶものだった。将軍家は牧谿や夏珪、馬遠といった中国の画家の作品を大量に集め、相国寺の画僧たちはそれをお手本に、禅僧の詩を書き添える「詩画軸」を描いた。そこに描かれた山水は、誰も見たことのない、書物と絵の中にだけある理想の風景だった。
![『絹本著色雪舟自画像(模本)』(重要文化財[注釈 1]、藤田美術館)](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/75/Portrait_of_Sesshu.jpg/960px-Portrait_of_Sesshu.jpg)
40代に入った頃、雪舟は京を離れ、周防(いまの山口県)の大内氏のもとに移った。大内氏は明や朝鮮との貿易で富を蓄え、山口は「西の京」と呼ばれる文化の町になっていた。1467年(応仁元年)、雪舟は大内氏が仕立てた遣明船に乗って明へ渡った。寧波に上陸し、天童山景徳禅寺で「第一座」の称号を受け、大運河をさかのぼって北京まで旅した。2年ほどの滞在のあいだに、宮廷の画家に学び、各地の山河をその目で見た。
晩年の『破墨山水図』に添えた自賛で、雪舟はこの旅を振り返っている。北京で李在らに色の使い方と破墨の法を学んだが、帰ってみると、日本の先達である如拙や周文の偉さがかえってよく分かった、という趣旨である。中国に師とすべき者はいない、山水そのものを師とした、という有名な言葉は、この自賛をもとに後世に形を整えられたものと考えられる。帰国したとき、京は応仁の乱で焼け野原になっていた。雪舟は京に戻らず、豊後や山口を拠点に各地を旅した。

山水長巻は、山口に構えた画房で描かれたとされる。雪舟はこの画房を「天開図画楼」と名づけ、同じ1486年には、京の禅僧了庵桂悟がここを訪ねて、その名の由来を記した文を残している。天が開いて描いた絵のような景色が窓から見える、という意味の名である。都では将軍足利義政が東山に山荘を営んでいた頃で(銀閣と東山文化)、地方の大名のもとでも禅の文化が花開いていた。巻を右から左へ繰り広げると、季節が春から冬へ移っていく。最初は春の山あいで、岩の間の道を杖をついた旅人が行き、木々が芽吹き、谷川に橋がかかる。やがて夏の景となり、水辺の村や楼閣が現れ、大きな岩山が画面からはみ出すほどに迫る。秋の部分では川が開け、舟が行き交い、市が立つにぎやかな町並みが描かれる。最後は冬で、雪をかぶった山の下に城壁に囲まれた町がひっそりと横たわり、巻は静かに閉じる。
絵巻は本来、机の上で肩幅ほどずつ広げ、左手で開きながら右手で巻き取って見るものである。見る人は巻を少しずつ広げながら、旅人と一緒に季節と道のりをたどる。絵巻という形を、物語ではなく風景の時間を描くために使ったところに、この作品の新しさがある。構図や岩の描き方は、南宋の画家夏珪の長い山水画巻に学んだとされるが、輪郭の線はより太く角ばり、墨の濃淡の差がはっきりしている。中国の様式を借りながら、岩や木を力強い線で組み立てる雪舟独自の画風が、ここで頂点に達したと言われる。人物は中国風の衣を着て、町並みも中国のものとして描かれているが、空想の理想郷ではなく、実際に旅をした者の目で見た山と道と人の暮らしがある。岩には量感があり、道は奥へ続き、人々は荷を担ぎ、舟を漕ぎ、市で物を売り買いしている。

この絵巻は大内氏のために描かれたと考えられている。大内氏が滅んだ後は、中国地方の覇者となった毛利元就の毛利家に伝わり、同家の宝として守られてきた。長さ16メートルの水墨の絵巻は日本でも類例が少ない。現存する雪舟の作のうち国宝は6件あり、一人の画家としては最も多い。山水長巻のほか、垂直の線が画面を断ち割る『秋冬山水図』、80歳を過ぎて現地を写したとされる『天橋立図』、達磨と慧可を描いた『慧可断臂図』、前述の『破墨山水図』などである。
雪舟の没年は1506年とする説が有力だが、確かではない。終焉の地も、石見の益田とする説と山口とする説がある。その後、毛利家に仕えた雲谷等顔が雲谷庵を継いで雲谷派を起こし、長谷川等伯は「雪舟五代」を名乗った。狩野永徳らの狩野派も雪舟を手本とした。江戸時代には「画聖」と呼ばれ、後の画家たちは山水長巻を写して筆法を学んだとされる。そして日本の水墨画を語るときに最初に名の挙がる画家となった。