概要
備中の農家の子が、京の相国寺で画僧になり、48歳で明に渡って2年、実際の中国の山河を見た。帰って、周防の大内氏の庇護で描いた。『四季山水図巻(山水長巻)』は長さ16メートル。春から冬へ、旅人が山と村と寺を通っていく。中国の様式を学びながら、線が太く、鋭く、日本の絵になった。67歳の作。「雪舟等楊」の署名。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
本文
1420年、備中赤浜(岡山県総社市)。農家の子。近くの宝福寺に入れられた。柱に縛られて、涙で足の指に鼠を描いたら、僧がそれを本物と思って驚いた、という伝説(江戸時代に作られた話)。
京都、相国寺。周文(幕府の御用絵師で画僧)に絵を、春林周藤に禅を学んだ。名は拙宗等揚。
40代、京を離れて、周防(山口)へ。大内氏の庇護。雲谷庵という画室。
1468年(応仁2年)、48歳。大内氏の遣明船で、明へ渡った。2年。寧波から北京まで。天童山景徳禅寺で「第一座」の位を得た。北京の礼部院の壁画を描いた、と伝える。宮廷画家の李在に画法を学んだ。
彼が中国で得たもの。技法よりも、実物の山河を見たこと。中国の山水画が描いてきた岩と霧と滝が、実際にどんなものかを知ったこと。同時に、当時の明の画壇(浙派)に、彼が学ぶべきものが多くないとも感じた、と後に書いている。「唐土(中国)に我が師とすべき者なし。ただ、山水を師とすべし」(後の伝承)。
帰国。応仁の乱の最中で、京へ戻らず、山口と、九州(豊後)と、そして東国(諸国を旅した)。
作品。
『四季山水図巻(山水長巻)』(1486年、67歳。毛利博物館。国宝)。長さ15.8メートル、高さ40センチ。右から左へ、春・夏・秋・冬。旅人が、山道を行き、村を過ぎ、寺に寄り、川を渡り、雪の中を進む。一つの巻の中で、季節と時間と距離が動く。筆は太く、墨は濃く、線が強い。
『秋冬山水図』(東京国立博物館。国宝)。特に「冬景」。画面の中央を、上から下へ、垂直の線が一本、断ち割っている。崖なのか、建物の壁なのか、決められない。日本の絵画で最も有名な一本の線。
『天橋立図』(京都国立博物館。国宝。80歳を超えてから、実際に現地を歩いて写生し、組み立てた鳥瞰図。地形が正確で、地図としても使える)。
『慧可断臂図』(1496年。愛知・斉年寺。国宝。達磨に入門を許されるために、慧可が自分の腕を切って差し出す場面。達磨の顔)。
『破墨山水図』(1495年。東京国立博物館。国宝。弟子の宗淵に与えた作。墨を叩きつけるような筆。上部に彼自身の長い賛があり、そこに自分の経歴を書いている)。
国宝に指定された絵画は、彼の作品が6点。一人の画家として最多。
1506年頃、死んだ。87歳頃。石見(島根)の益田で死んだ、という説が有力(墓がある)。
その後。雲谷派(毛利の御用絵師)と、長谷川等伯(自ら「雪舟五代」を名乗った)が継いだ。狩野派も彼を学んだ。「画聖」。
農家の子が、寺に預けられ、禅僧になり、中国へ行き、そして、日本の絵を変えた。