エル・シドのバレンシア占領
概要
カスティーリャを追われた傭兵隊長が、ムスリムの王にもキリスト教徒の王にも仕え、20か月囲んでバレンシアを取った。自分の国。ムラービト朝を退けた。5年で死に、妻ヒメナが3年守って、街は失われた。「わが主」。スペインの国民叙事詩は彼の名で。
場所
39.47°N -0.38°E · スペイン
関わった人(1)
エル・シドAD1043年頃–AD1099年7月10日 · 取った本文
1094年6月、地中海に臨むイスラム教徒の都市バレンシアが、20か月に及ぶ包囲の末に降った。取ったのは、どの王の家臣でもなくなった一人のカスティーリャの騎士、ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール、のちにエル・シドと呼ばれる男である。
11世紀のイベリア半島は、キリスト教徒とイスラム教徒がきれいに二つに分かれて戦っていたわけではない。1031年に後ウマイヤ朝が崩れたあと、南には「ターイファ」と呼ばれる小さなイスラムの王国がいくつも並び、互いに争っていた。北のキリスト教徒の王たちは、彼らを攻めるより、守ってやる代わりに毎年の貢ぎ金を取る方を好んだ。兵を率いる騎士たちも、宗教より報酬と名誉で主人を選んだ。

ロドリゴはカスティーリャのビバールの小貴族の家に生まれ、カスティーリャ王サンチョ2世の側近として武名を上げた。1072年にサンチョが暗殺され、弟のアルフォンソ6世が王位を継ぐと、ロドリゴはその家臣になったが、王との関係はうまくいかなかった。新しい王に兄の死に関わっていないと誓わせたのがロドリゴだった、という話が残るが、これは後世の伝説とされる。1081年、王の許しなく兵を動かしたことを咎められ、ロドリゴは追放された。
追放されたロドリゴは、サラゴサのイスラム教徒の王に仕え、その軍を率いてアラゴンの王やバルセロナ伯と戦い、勝った。「シド」はアラビア語の「サイイド(主人)」に由来する呼び名とされ、「カンペアドール(戦場の勝者)」とも呼ばれた。1086年、北アフリカからイスラム教の改革派の王朝ムラービト朝が海を渡ってきて、サグラハスの戦いでアルフォンソ6世を大敗させた。前年にトレドを攻め落としたばかりの王は(トレドの陥落)、ロドリゴを呼び戻したが、二人はまもなくまた仲違いする。以後のロドリゴは、事実上、自分の軍のために戦った。

バレンシアは、アルフォンソがトレドを取った際に追い出した王を据えた、カスティーリャの保護下の町だった。1092年、町の裁判官イブン・ジャッハーフが市民を率いてこの王を殺し、町を握った。ロドリゴはこれを口実に町を囲んだ。周りの畑を焼き、食糧の搬入を断ち、救援に来るはずのムラービト朝の軍を待つ市民を飢えさせた。1094年6月、町は降った。ロドリゴはイブン・ジャッハーフを王殺しの罪で裁き、火あぶりにした。
ロドリゴはバレンシアを、自分の名で治めた。大モスクは大聖堂に変えられ、司教が置かれた。同じ年の秋、ムラービト朝の大軍がバレンシアの郊外クアルテに陣を敷いたが、ロドリゴは町から打って出てこれを破った。キリスト教徒の軍がムラービト朝に野戦で勝った、初めての例とされる。その後もロドリゴは数年にわたって町を守ったが、ただ一人の息子はアルフォンソ6世の軍に加わってムラービト朝と戦い、戦死した。

1099年7月、ロドリゴはバレンシアで死んだ。妻ヒメナが町を治め続けたが、ムラービト朝の圧力に耐えられず、1102年、救援に来たアルフォンソ6世は、町を守り切れないと判断して火を放ち、住民とともに引き揚げた。バレンシアは再びイスラム教徒の町となり、キリスト教徒の手に戻るのは1238年のことである。ロドリゴの遺体はブルゴスの近くの修道院に運ばれ、いまはブルゴス大聖堂に妻とともに眠っている。
ロドリゴの死からおよそ一世紀後、彼を主人公にした叙事詩『わがシドの歌』が書かれた。追放された英雄が戦いで名を上げ、王の許しを得て、娘たちの名誉を取り戻すまでを歌う。「神よ、良い主君さえ持っていたなら、なんと良い家臣であったことか」という一行が知られる。詩のシドは忠実なキリスト教徒の騎士だが、史実のロドリゴはイスラム教徒の王にも仕え、どの陣営の約束にも縛られなかった。レコンキスタの英雄という像は、のちの時代、とりわけ20世紀のフランコ政権のもとで強く押し出されたものである。半島のキリスト教徒による征服が終わるのは、1492年のことである(レコンキスタの完了)。