ラピスラズリと群青
概要
当時、深い青の顔料はこれしかなかった。原料はアフガニスタン北東の山中の一つの鉱山。そこからヨーロッパへ運ばれるので「海を越えて(ウルトラマリーヌ)」と呼ばれた。石を砕いて練り、蜜蝋と樹脂に混ぜて灰汁で洗い出す工程が要る。値段は同じ重さの金に匹敵した。だから契約書に「聖母の衣にはウルトラマリンを何オンス使うこと」と書かれた。青が神聖なのではなく、高価だから聖母に使われた。1826年に合成品が作られ、値段は数百分の一になった。
場所
36.17°N 71.33°E · アフガニスタン・バダフシャーン州
本文
画家にとって、青はいちばん手に入りにくい色だった。赤や黄や茶は、鉄を含んだ土を焼いたり練ったりすれば、どこでも作れる。白も黒も難しくない。ところが、色が濃く、光や湿気で変わらない青い顔料は、自然の中にほとんど無い。
代わりになるものはいくつかあった。藍は布をよく染めるが、絵の具にすると弱く、色が褪せやすい。銅を含む鉱物のアズライト(藍銅鉱)はやや緑がかった青で、条件によっては緑に変わってしまう。古代エジプトの人々は砂と石灰と銅を焼いて人工の青を作ったが、その作り方は中世には忘れられていた。コバルトを含む青いガラスを砕いたスマルトは、粒が粗く、油に混ぜると色がくすんだ。深く澄んだ、変わらない青を出せる顔料は、ほぼ一つしかなかった。ラピスラズリという石から取るウルトラマリンである。

その石の産地は、長いあいだ事実上一か所に限られていた。アフガニスタン北東部、バダフシャーン地方のコクチャ川の上流、標高2000メートルを超える谷にあるサーレサングの鉱山である。ここでは紀元前4千年紀には石が掘られていたとみられ、いまも採掘が続いている。世界で最も長く使われ続けている鉱山の一つである。
青い石は、はるか遠くまで旅をした。紀元前2500年ごろのメソポタミアの都市ウルの王墓からは、ラピスラズリをちりばめた女王プアビの頭飾りや、ウルのゲーム盤と骰子のような品が出土している。エジプトのツタンカーメンの黄金のマスクにも、青い縞の部分にこの石がはめ込まれている。インダスの都市でも、ラピスラズリのビーズが作られた。石そのものが、山の谷から数千キロを越えて、王たちの墓へ運ばれた。

ただし、古代の人々がこの石を使ったのは、主に飾りや宝石としてだった。石を砕いて粉にしただけでは、くすんだ灰色がかった青にしかならない。石の中には、青い鉱物のほかに、白い方解石や金色に光る黄鉄鉱の粒が混じっているからである。顔料として使われた最も古い例として知られているのは、7世紀ごろのバーミヤンの大仏の近くの石窟の壁画である。産地に近いこの地で、青い粒を取り出す技術が生まれたと考えられている。
ヨーロッパで、青い粒だけを取り出す方法が広く知られるようになったのは13世紀ごろである。1400年ごろにイタリアの画家チェンニーノ・チェンニーニが書いた『芸術の書』に、その手順が詳しく書かれている。石を細かい粉にし、松脂や乳香や蜜蝋を溶かしたものと練り合わせて団子にし、数日寝かせる。それから灰汁の中で団子を手で揉み続けると、青い粒だけが灰汁の中へ溶け出して底に沈み、ほかの混じりものは団子の中に残る。これを何度も繰り返す。最初に出てくるものが最上の青で、回を重ねるほど色は淡くなる。チェンニーニは、この仕事は男よりも手の柔らかい娘に向いている、と書き添えている。

手間のかかる精製と、アジアの奥地から地中海までの長い道のりが、値段を押し上げた。ウルトラマリンという名は、ラテン語で「海の向こうから来たもの」を意味する。15世紀のイタリアでは、最上のウルトラマリンは同じ重さの金に匹敵するほどの値がついたとされ、ありふれた土の絵の具とは比べものにならなかった。
だから、絵の注文の契約書には、この顔料の使い方が書き込まれた。1485年、フィレンツェの画家ドメニコ・ギルランダイオが祭壇画を引き受けたときの契約書には、聖母の衣に1オンスあたり4フィオリーノの値打ちのあるウルトラマリンを使うこと、と定められている。依頼主は、安い青でごまかされないよう、等級まで指定した。高価な顔料は金箔と同じく、注文主の富と信心を見せる材料だった。

聖母マリアの衣が青く描かれるのも、この値段と関係がある。初期のキリスト教美術では、マリアの衣は暗い色で描かれることが多かった。12世紀ごろから、マリアは青い衣をまとうようになる。最も高価な顔料を、最も敬うべき人物に使う。金は神と天の輝きに、ウルトラマリンは聖母の衣に。その使い方が重なって、青は聖母の色になっていった。フランスの歴史家ミシェル・パストゥローは、同じ時代に神学者たちが青を天の光の色として語り始め、フランス王家が青を紋章に取り入れたことも重なって、青の地位が大きく上がったと論じている。
画家たちは、この高価な青を作品の要に使った。ジョットのスクロヴェーニ礼拝堂の天井には星の散る青い空が広がり、フラ・アンジェリコやラファエロの聖母は深い青の衣をまとっている。17世紀のオランダではヨハネス・フェルメールが、『真珠の耳飾りの少女』のターバンや『牛乳を注ぐ女』のエプロンに、そして影の部分にまでウルトラマリンを惜しまず使った。豊かではなかったフェルメールがこれほど使えたのは、彼を支えた後援者がいたためだと考えられている。彼の死後、家族は多額の借金を抱えた。

ほかの青を求める試みも続いた。18世紀の初め、ベルリンで染料職人が偶然に作り出したプルシアンブルーは、安くて強い青として広まった。19世紀の日本では「ベロ藍」と呼ばれて輸入され、葛飾北斎の『富嶽三十六景』の鮮やかな空と海を生んでいる。
決定打は合成だった。1824年、フランスの産業奨励協会が、ウルトラマリンを人工的に作る方法に6000フランの賞金をかけた。1826年、化学者ジャン=バティスト・ギメが、粘土の一種のカオリンやソーダ灰、硫黄、炭を高温で焼き合わせて作ることに成功し、ドイツのグメリンも同じころ別に成功した。合成のウルトラマリンは天然のものの数百分の一の値段で作れるようになり、「フランスのウルトラマリン」として画家の絵の具箱に入った。かつて聖母の衣のためだけに取っておかれた青が、誰でも使える色になった。

天然のウルトラマリンは、いまも古い絵の修復や一部の画材に使われているが、高価なことに変わりはない。サーレサングの鉱山は、内戦とタリバーンの支配が続く中でも掘られ続け、その石の取引が武装勢力の資金源になっていると報じられてきた。6000年近く前から同じ谷で掘られてきた青は、いまも山の外の世界の争いと結びついている。