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Story / ストーリー

支え合いの歴史

出てくるできごと AD529 – AD2000
できごと 31人物 2
この物語に出てくる図版:MS. Hatton 48 fol. 6v-7r
この物語に出てくるベネディクトの戒律から。MS. Hatton 48 fol. 6v-7r Wikimedia Commons Public domain

概要

働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。

この物語について

病気、怪我、老い、失業。誰にでも起きるのに、起きた人だけが困る。これをどう扱うかで、社会の形は決まる。

長いあいだ、受け皿は宗教だった。修道院が食事と寝床を与え、モスクが喜捨を集め、寺が施した。それが壊れたとき、イングランドは税で支える仕組みを作り、明治日本は「まず身内が」と決め、ビスマルクのドイツは保険料を集めて備えさせた。同じ問題に、三つの違う答えが出ている。

見落とされやすいのは、支える仕組みが、たいてい優しさからではなく、恐れから生まれていることになる。浮浪者が増えるのが怖い。社会主義が伸びるのが怖い。戦争のあとに国が割れるのが怖い。

そして、どの仕組みも、作られたときの前提――仕事がある、家族がいる、若い人が多い――の上に立っている。その前提が崩れたとき何が起きるかを、いまの私たちが見ていることになる。

動画(1)

社会福祉の歴史 〜僕たち、独りじゃ生きられないから。〜【COTEN RADIO #305 】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO社会福祉の歴史を6回かけて扱うシリーズの第1回

この物語が起きた場所

ロシアカナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国中国ブラジルオーストラリアグリーンランドカザフスタンアルゼンチンインドアルジェリアスーダンザイールモンゴルサウジアラビアメキシコイランリビアインドネシアロンドン(12件) 浮浪を罰する エリザベス救貧法 死亡表と統計のはじまり 火災保険と火災標 ロイズと海上保険 生命保険の始まり 『人口論』 解剖法 ほか4件12東京(3件) 恤救規則 国民皆保険 介護保険3パリ(2件) 乳母と捨て子 国境なき医師団2ジュネーヴ(2件) 捕虜の消息を集める 難民条約2モンテ・カッシーノ(1件) ベネディクトの戒律クリュニー(1件) クリュニー修道院の創立ドゥブロヴニク(ラグーサ)(1件) ラグーサの検疫シュタンツ(1件) ペスタロッチのシュタンツ孤児院ニュー・ラナーク(1件) ニュー・ラナークの実験ソルフェリーノ(1件) 『ソルフェリーノの思い出』熊本(1件) 博愛社ベルリン(1件) ビスマルクの社会保険ニューヨーク(1件) トライアングル・シャツウエスト工場の火災ワシントンD.C.(1件) 国民所得の発明ケンブリッジ(1件) ケインズ『一般理論』

できごと30件が起きた15か所。 同じ場所で何度も起きていれば、その数だけ大きくなります。国境はAD2000の版図(この枠に大きく入る20勢力)。 物語は何百年にもまたがるので、最後のできごとの年で描いています。人物・国と、場所の分かっていないできごと3件は出ていません。押すと、この物語だけに絞った地図が開きます。

筋(33)

年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。

  1. ベネディクトの戒律できごとAD529年頃修道院が、旅人と病人を受け入れる決まりを持った「祈り、かつ働け」。修道院という暮らし方の設計図になり、写本を通じて古代の書物が生き延びる器にもなった。モンテ・カッシーノ
  2. クリュニー修道院の創立できごとAD910年寄進を集めて施す、大きな宗教の受け皿領主ではなく教皇に直属する修道院として作られた。ここから教会を世俗の手から取り戻す運動が広がる。クリュニー
  3. 黒死病できごと1347年働き手が減り、労働と救済の条件が変わったヨーロッパの人口の3分の1が死んだ。働き手が減って農奴の立場が上がり、封建の仕組みが緩む。
  4. 浮浪を罰するできごとAD1349年まず罰した。それでは減らないと分かるまで黒死病で人が減り、労働力が不足した。賃金が上がりそうになる。イングランドは労働者勅令を出し、疫病前の賃金を超えて払うことも受け取ることも禁じ、健康な者が働かずに施しを受けることを罪とした。以後、浮浪はたびたび厳罰化される。1547年の法は、三日以上働かない者を二年間の奴隷とし、胸にVの烙印を押すと定めた。過酷すぎて二年で廃止されている。移動する貧しい者を罰する法は、その後も形を変えて長く残った。ロンドン
  5. ラグーサの検疫できごとAD1377年7月27日共同体を守るために、人の動きを止める黒死病の30年後、アドリア海の商業都市が、疫病の地から来た船と人を島に30日留めると決めた。世界で最初の検疫の法。ヴェネツィアが40日にして「クアランタ」から「クアランティン」。病の原因を知らずに、隔てることで防ぐことを覚えた。ドゥブロヴニク(ラグーサ)
  6. エリザベス救貧法できごとAD1601年慈善ではなく税で支える、最初の全国の仕組み修道院が解散させられ、貧しい人を養ってきた受け皿が消えた。囲い込みで土地を失った人々が道にあふれ、物乞いと浮浪を罰する法だけが重ねられていく。罰しても減らないと分かったとき、イングランドは別のやり方を法にした。教区ごとに貧民監督官を置き、住民から救貧税を取り立てる。働ける者には仕事の材料を渡し、働けない老人と病人には手当を渡し、親のない子は徒弟に出す。慈善ではなく、税で支える。誰を助けるかを、教区という土地の単位で決める仕組みは、三百年以上続いた。ロンドン
  7. 死亡表と統計のはじまりできごとAD1662年何歳で何人死ぬかを数えたことが、保険の土台になったロンドンの小間物商ジョン・グラントが、教区が毎週出していた埋葬の一覧(死亡週報)を数十年ぶん集計した。誰も統計として読んでいなかった紙束である。彼は、男児の出生がわずかに多いこと、死因の分布、そして疫病の年の異常を示し、年齢ごとの生存者数の表を作った。人口を数えることで社会を知るという考え方が、ここから始まる。ハレー(彗星の人)がブレスラウの記録でこれを精密にし、生命保険の保険料が計算できるようになった。ロンドン
  8. 火災保険と火災標できごとAD1681年不幸を数えて、あらかじめ備える考え方ロンドン大火で一万三千戸が焼けた。医師で不動産業者のニコラス・バーボンが、家屋を対象とする保険会社を作った。契約した家には金属の標を打ちつける。会社は自前の消防隊を雇い、標のある家だけを消した。標のない家の前で隊が引き返した、という話が語られる。競合が現場で争い、効率が悪い。やがて隊は統合され、1866年にロンドン市が公営の消防隊を引き受けた。私的な備えから、公共の役務への移行である。ロンドン
  9. ロイズと海上保険できごとAD1688年危険を分け合う商いの原型テムズ河畔のタワー街に、エドワード・ロイドという男がコーヒーハウスを開いた。船主と船長と商人が集まる。彼は客のために、船の出入りと海難の情報を集めて紙に刷った(ロイズ・リスト、1734年から現存する世界最古級の日刊紙)。情報が集まる場所に、引受人が集まった。航海一件ごとに、複数の個人が「この額まで引き受ける」と紙の下に署名する。アンダーライター(下に書く人)の語源である。会社ではなく、個人の集まりが、無限責任で危険を分け合った。ロンドン
  10. 生命保険の始まりできごとAD1706年死んだあとの家族を、契約で支えるロンドンの「アミカブル・ソサエティ」。会員が毎年、同じ額を払い、その年に死んだ会員の遺族が、集めた金を人数で分ける。年齢による差はまだない。1762年、エクイタブル生命が、ハレーとド・モアブルの生命表を使って、年齢ごとに保険料を変えた。数学で死を計算する商売。海上保険(ロイズのコーヒーハウス、1688年)と火災保険(大火の後、1680年)に続いて、命が金額になった。ロンドン
  11. 乳母と捨て子できごとAD1780年頃育てられない子を、社会がどう扱ったか18世紀のパリで、生まれた子の大半が、田舎の乳母に預けられた。ある推計では、年に2万人の新生児のうち、母が自ら育てたのは1割に満たない。職人の妻も働かねばならず、乳を与える時間がない。乳母は乳の出る限り何人も預かり、赤子は荷車で運ばれた。死亡率は極めて高く、地域によっては半数を超えた。同じ時期、捨て子養育院に年に数千人が置かれた。誰かが乳を与えなければ、子は生きない。その労働に、名も、記録も、ほとんど残っていない。パリ
  12. 『人口論』できごとAD1798年救済が人口を増やして飢えを招く、という反対論人口は倍々に増え、食料は足し算でしか増えない。だから飢えと貧困は避けられない。匿名で出たこの薄い本が、以後200年の悲観論の型になる。ロンドン
  13. ペスタロッチのシュタンツ孤児院できごとAD1799年1月戦争孤児を引き受けた現場フランス軍がニトヴァルデンの村を焼き、孤児が残った。52歳の破産した農場主が、一人で、80人の子供と修道院の建物に住んだ。「私は彼らと泣き、彼らと笑った」。頭と心と手。生活が教育。半年で、軍が建物を野戦病院に取り、終わった。『シュタンツ便り』。イヴェルドンの学校(1805〜25年)に、ヨーロッパ中から教師が見に来た。シュタンツ
  14. ニュー・ラナークの実験できごとAD1800年工場主が、労働者の暮らしごと設計しようとしたクライド川の紡績工場を買ったロバート・オーウェンが、10歳未満の児童労働をやめ、労働時間を10時間半に減らし、工場の中に学校(1816年、性格形成学院)と、世界初とされる幼児学校と、安い店を作った。生産は落ちなかった。「人の性格は環境が作る」。1819年の工場法、協同組合、労働組合、そしてユートピア社会主義が、ここから出た。2001年、世界遺産。ニュー・ラナーク
  15. チャールズ・ディケンズ人物AD1812年2月7日 – AD1870年6月9日救貧院と貧しさを、読者の目の前に置いたポーツマス。12歳のとき、父が借金でマーシャルシー監獄に入り、彼は靴墨工場で1日10時間、瓶にラベルを貼った。数か月。そのことを、妻にも子にも話さなかった(伝記作家フォースターが死後に明かした)。速記者、新聞記者、そして『ピクウィック・クラブ』(1836年)で一夜にして人気作家に。月刊分冊の連載。15の長編。公開朗読で全国と米国を回り、それが命を縮めた。ウェストミンスター寺院の詩人の隅。
  16. ビスマルク人物AD1815年4月1日 – AD1898年社会主義を抑えるために、社会保険を作った三つの戦争を計算ずくで使い、ドイツを統一した。統一後は一転して平和の維持に腐心する。
  17. 解剖法できごとAD1832年8月1日救済を受けることが、死後の扱いにまで及んだイギリスでは、解剖に回してよい遺体は、処刑された殺人犯だけと定められていた。医学校は増え、処刑は減る。足りない分は、墓を掘り返す者たちが売った。1828年、エディンバラのバークとヘアは、掘るかわりに十六人を殺して解剖学者に売っていたことが露見する。議会が出した答えは、掘る動機を無くすことだった。救貧院や病院で死に、引き取り手のない者の体を、解剖に回せるようにする。墓を暴かれる恐れは消えたが、解剖台に載るのは、変わらず貧しい者だった。ロンドン
  18. 1833年工場法できごとAD1833年子どもの労働時間に、国が口を出す綿工場で、9歳未満の労働を禁じ、9〜13歳は1日9時間、13〜18歳は12時間まで、夜業を禁じ、9〜13歳に1日2時間の教育を義務づけた。それまでの法と違ったのは、給料を払う工場監督官を4人置いたこと。国家が、工場の中に人を入れて確かめる。児童労働は消えなかったが、「国が労働の条件を決める」という考えが、ここから広がった。同じ年、大英帝国の奴隷制が廃止された。ロンドン
  19. ディケンズ『オリヴァー・トゥイスト』できごとAD1838年救貧院の現実が、小説で広く知られた救貧院で生まれた孤児が、粥のおかわりを求めて「もう少しください」と言い、追い出され、ロンドンの窃盗団に拾われる。1834年の新救貧法(貧民を救貧院に押し込め、夫婦を分け、労働を強いる)が施行された直後の連載。月刊の分冊で、毎号、街が続きを待った。作者は12歳のとき、父が債務者監獄に入って、靴墨工場で働いた。そのことを、生涯、誰にも話さなかった。ロンドン
  20. 『ソルフェリーノの思い出』できごとAD1859年6月24日国家の外側に、助ける組織を作るという発想北イタリアのソルフェリーノで、フランス・サルデーニャ軍とオーストリア軍が一日戦い、死傷者は数万にのぼった。商用で通りがかったジュネーヴの実業家アンリ・デュナンは、近くの町の教会に運び込まれた負傷兵が、手当てを受けられずに死んでいくのを見た。軍の衛生隊はわずかしかいない。彼は町の女たちを集め、敵のオーストリア兵も同じように手当てした。女たちは「みな兄弟」と言ったと伝えられる。三年後、彼は自費でその光景を本にし、戦争のたびに負傷者を助ける民間の団体を、平時から各国に作っておくべきだと書いた。ソルフェリーノ
  21. 恤救規則できごとAD1874年(明治7年)12月8日まず身内が、という日本の答え明治政府は、全国に通じる最初の救貧の決まりを出した。前文は、救済は本来「人民相互ノ情誼」、つまり身内と近所の情けで行うものだと述べる。国が出るのは、その情けが届かない者だけである。対象は、身寄りがなく働けない七十歳以上の老人、重い病人、障害のある人、十三歳以下の孤児に絞られた。渡されるのは米代にあたるわずかな現金で、頼る先があると見なされれば外された。救済は権利ではなく、例外だった。この決まりは、1932年に救護法ができるまで、五十八年ものあいだ使われ続けた。東京
  22. 博愛社できごとAD1877年(明治10年)5月1日敵の兵まで手当てする。日本の赤十字の始まり西南戦争のさなか、元老院議官の佐野常民と大給恒は、ヨーロッパで見た赤十字のような救護団体を作ろうとした。政府は初め、許さなかった。反乱軍の兵まで手当てするというのが、引っかかったとされる。佐野は熊本の征討総督の本営まで出向いて、有栖川宮熾仁親王に直接願い出て、許しを得た。救護員は官軍の兵とともに、薩摩軍の負傷兵も手当てした。日本がジュネーヴ条約に加わったのは九年後で、翌年、博愛社は日本赤十字社と名を改めた。内戦で敵を手当てすることから、日本の赤十字は始まった。熊本
  23. ビスマルクの社会保険できごとAD1883年6月15日保険料を集めて備える。恐れから生まれた制度工場で働く人が増え、病気や怪我で働けなくなれば、家族ごと暮らしが崩れた。その不安を掬い上げて、社会主義の運動が伸びていく。ビスマルクは弾圧の法で運動を禁じる一方、労働者に別のものを差し出した。1883年の疾病保険法は、労働者と雇い主から保険料を集め、病気のときに医療と手当を出す。翌年には労災、1889年には老齢と廃疾の保険が続いた。慈善でも救貧でもなく、あらかじめ皆で金を出し合って備える。国家が国民の生活の危険を引き受ける仕組みは、ここから世界に広がった。ベルリン
  24. トライアングル・シャツウエスト工場の火災できごとAD1911年3月25日働く場の安全が、犠牲のあとで法になるビルの八階から十階の縫製工場で火が出た。働いていたのは大半が十代から二十代の移民の女性である。九階の出口の扉は、盗みを防ぐという理由で施錠されていた。非常階段は途中で崩れ落ちた。消防のはしごは六階までしか届かない。窓から飛び降りた者が多数いた。146人が死んだ。経営者二人は無罪になった。この火災が、労働安全の法規と、防火の規制と、そして労働組合を、決定的に押し進めた。ニューヨーク
  25. 捕虜の消息を集めるできごとAD1914年8月21日国境を越えて、一人ずつの消息を扱った第一次世界大戦が始まって三週間、ジュネーヴの赤十字国際委員会は、美術館の建物を借りて捕虜の消息を扱う窓口を開いた。家族からは「息子は生きているか」という手紙が届き、交戦国からは捕らえた兵の名簿が届く。その二つを突き合わせるために、名前ごとに一枚のカードを作り、国籍と身分で分けて並べた。ボランティアは千人を超え、戦争が終わるころ、カードは六百万枚を超えていた。消息が分かれば家族に知らせ、手紙と小包の通り道にもなった。一人ひとりの名前を、国の数ではなく紙の一枚として扱う仕組みだった。ジュネーヴ
  26. 国民所得の発明できごとAD1934年国の豊かさを測る物差しができた大恐慌のさなか、政府は経済がどれだけ縮んだかを知らなかった。統計がなかったからである。上院の求めで、サイモン・クズネッツが国民所得の推計を作った。1934年、報告書を提出した。彼はその中で警告している。国民所得から、一国の福祉を推し量ることはできない。何を数えるかは選択であり、彼は軍事支出と広告と投機を除くことを主張した。採用されなかった。そして家事と育児と介護は、市場で取引されないという理由で、はじめから外にある。ワシントンD.C.
  27. ケインズ『一般理論』できごとAD1936年失業を個人の怠けではなく経済の問題として扱う不況は、賃金が高すぎるからでも、放っておけば直るものでもない。人が使わなければ、誰かの所得が減り、その人がまた使わなくなる。均衡は、失業を抱えたままでも成り立つ。だから、政府が支出して、有効需要を作る。「穴を掘って埋め戻す仕事でも、何もしないよりましだ」。長期には我々は皆死んでいる。ニューディールと戦後の福祉国家の理論の基礎になり、1970年代のスタグフレーションで批判され、2008年にまた読まれた。ケンブリッジ
  28. ベヴァリッジ報告できごとAD1942年12月2日全員が入り、全員が受け取る、という設計図戦争のさなか、イギリス政府の委員会が社会保険の見直しを報告書にまとめた。ウィリアム・ベヴァリッジは、退治すべき五つの巨人の名を挙げる。窮乏、疾病、無知、不潔、怠惰。全国民が同じ保険に入り、失業と病気と老いに備え、医療は税で賄って誰でも無料でかかれるようにする。灯火管制の街で人々は行列を作ってこの報告書を買い、二年足らずで六十万部を超えて売れた。戦争が終わると、報告に沿って国民保険法と国民保健サービスが作られる。「ゆりかごから墓場まで」という言い方は、この設計図から生まれた。ロンドン
  29. 難民条約できごとAD1951年7月28日国を失った人を、どこが支えるか第二次大戦後、ヨーロッパに数百万の帰る場所を持たない人がいた。二十六か国がジュネーヴに集まり、難民を定義し、その保護を条約にした。核心は第三十三条のノン・ルフールマンである。迫害されるおそれのある地へ、追い返してはならない。当初は1951年以前のヨーロッパの事件に限られ、1967年の議定書がその制限を外した。定義は人種、宗教、国籍、政治的意見、特定の社会集団への帰属による迫害である。気候と貧困は、そこに入っていない。ジュネーヴ
  30. 国民皆保険できごとAD1961年4月1日保険証一枚で、誰でも医者にかかれる戦後の日本では、会社に勤める人は健康保険に入れたが、農家や自営業や日雇いの人は入れなかった。病気は、そのまま一家の破産を意味した。政府は市町村に国民健康保険を営むことを義務づけ、1961年4月、すべての人がどこかの保険に入る形が整った。同じころ国民年金も始まる。保険証が一枚あれば、どの医者にもかかれる。この仕組みは、高度成長の税収と、人口が若かったことに支えられていた。支える側が減り、支えられる側が増える時代が来ることは、まだ誰にも見えていなかった。東京
  31. 全人的な痛みできごとAD1967年7月治せない人を支える場を作るシシリー・ソンダースは看護師、医療ソーシャルワーカーを経て、四十歳近くで医師になった。死にゆく人の痛みを見て、それが身体だけのものではないと考えた。体の痛み、気持ちの痛み、社会から切り離される痛み、そして意味を失う痛み。彼女はこれを「全人的な痛み」と呼んだ。痛みが来てから薬を出すのではなく、来る前に定時で与える。眠らせるためではなく、起きていられるために。ロンドン郊外に開いたセント・クリストファー・ホスピスから、この考え方が世界へ広がった。ロンドン
  32. 国境なき医師団できごとAD1971年12月22日中立を破ってでも、見たことを語るという選択ビアフラ戦争で、赤十字を通じて派遣されたフランスの医師たちは、封鎖された土地で子どもが飢えて死んでいくのを見た。赤十字は、どの陣営にも入れてもらうために、見たことを外で語らない決まりを守っていた。医師の一部は、黙っていることが虐殺の手助けになると考え、帰国して声を上げた。1971年、彼らと、医学雑誌の記者たちが、パリで新しい団体を作った。国境や政府の許しにとらわれずに入り、手当てをし、見たことを証言する。中立を守るのか、語るのか。同じ人道の中に、二つの考え方ができた。パリ
  33. 介護保険できごとAD2000年4月1日介護を家族から社会へ移す試みそれまで、高齢者の介護は家族が、実際にはその家の女性が担うものとされていた。措置制度の下で、行政が対象者と内容を決めた。2000年、40歳以上が保険料を払い、要介護の認定を受けて、事業者と契約してサービスを選ぶ仕組みに変わった。介護の社会化と呼ばれた。家の中で見えなかった労働の一部が、値段の付いた仕事になった。同時に、その賃金は他の産業より低く、人手不足が続いている。数えられるようになっても、安いままである。東京

重なっているストーリー

同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。

考えることの歴史11件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。都市の歴史10件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。交易路とお金10件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。老いと死の歴史8件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。感染症と人類5件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。働くことの歴史5件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。差別の歴史4件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。女性の権利3件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。主権はだれのものか3件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。二つの大戦2件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。キリスト教のひろがり2件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。表現の歴史2件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。確かめるという方法2件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『繁栄』で読む歴史2件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。明治1件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。冷戦1件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。探検と発見1件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。民族移動の時代1件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。帝国と独立1件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。誰が書き残したか1件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。コテンラジオで聞く歴史1件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史1件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『疫病と世界史』で読む歴史1件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀1件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。『地中海』で読む歴史1件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後1件を共有 / 冷戦が終わったあと、世界はどうなるのか。3年違いで出た二冊が、正反対の答えを出した。『中世の秋』で読む中世の終わり1件を共有 / ルネサンスの前夜ではなく、中世そのものの終わり方。過剰な儀礼と、死への執着に覆われた14〜15世紀。『モンタイユー』で読む中世の村1件を共有 / ピレネーの村人200人が、異端審問で一人ずつ尋問された。その調書から、村の暮らしが丸ごと出てくる。『暴力と不平等の人類史』で読む格差1件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。『歴史序説』で読む王朝の寿命1件を共有 / 14世紀の北アフリカで、社会には法則があると考えた人がいた。王朝はなぜ三代で衰えるのか。教育の歴史1件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。
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