支え合いの歴史

概要
働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。
この物語について
働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。その答えは、なぜ何度も入れ替わってきたのか。
病気、怪我、老い、失業。誰にでも起きるのに、起きた人だけが困る。これをどう扱うかで、社会の形は決まる。
長いあいだ、受け皿は宗教だった。6世紀のイタリアで書かれたベネディクトの戒律は、訪ねてくる客をキリストその人として迎えよと修道士に命じ、修道院は旅人と病人に食事と寝床を与える場になった。10世紀に建てられたクリュニーの修道院は、各地からの寄進を集め、貧しい人々に施す大きな受け皿に育った。イスラーム世界では、財産の一部を差し出す喜捨が信仰の柱の一つとされ、寄進された財産で病院や学校や水場が営まれた。日本でも、奈良時代に光明皇后が貧しい病人に薬を与える施設を設けたと伝えられる。
その仕組みは、大きな災いのたびに試された。14世紀の半ばに黒死病がヨーロッパを襲うと、働き手が大きく減り、生き残った者の賃金は上がった。領主や雇い主の側は、賃金を疫病の前の水準に据え置く法を作り、仕事を求めて土地を離れる者を取り締まった。働けるのに働かない者は罰せられた。浮浪を罰する法は、その後も繰り返し作られた。まず罰した。それでは減らないと分かるまで。
16世紀のイングランドで、宗教の受け皿は大きく崩れた。国王ヘンリー8世がローマ教会と縁を切り、修道院を解散させて財産を取り上げたからである。修道院が担っていた施しも、それとともに消えた。代わりに国が乗り出す。1601年のエリザベス救貧法は、教区ごとに住民から救貧税を集め、働けない者を救い、働ける者には仕事を与えることを定めた。慈善ではなく税で支える、最初の全国の仕組みである。
施しでも高利貸しでもない道を探す試みもあった。15世紀のイタリアでは、修道士たちの呼びかけで、貧しい人に低い利子で金を貸す公営の質屋が各地の町に作られた。困ったときに頼れるのが、高い利子を取る金貸ししかなければ、一度の不運で暮らしが崩れる。その間に立つ仕組みを、町が持とうとしたのである。
同じころ、不幸に前もって備えるという考え方も育っていた。ロンドンでは、1666年の大火のあとに火災保険の会社が生まれ、船の積み荷の危険を分け合う海上保険は、コーヒーハウスに集まる商人たちの間で取引された。1662年、ロンドンの死亡記録を集計した本が出て、何歳で何人が死ぬかを数えられるようになった。不幸は一人ひとりにとっては突然でも、大勢を集めれば数で見通せる。保険はその発見の上に立っている。
18世紀の末になると、救済そのものを疑う声が強まった。1798年の『人口論』で、マルサスは、人口は食糧より速く増えると論じ、貧しい人への救済は子どもを増やしてかえって飢えを招くと主張した。1834年、イングランドの救貧法は改められ、救済を受けたい者は救貧院に入らなければならなくなった。救貧院の暮らしは、外で最も貧しく働く者の暮らしよりも苦しくなければならない、とされた。救済をわざと惨めにすることで、頼る人を減らそうとしたのである。

その現実を読者の目の前に置いたのが、ディケンズ『オリヴァー・トゥイスト』だった。救貧院で育った少年が、薄い粥のお代わりを求めて叱られる場面は、広く知られることになる。同じころ、工場で働く子どもの長時間労働も問題になり、1833年の工場法は、幼い子どもを工場で働かせることを禁じ、働かせてよい時間に上限を設けた。
国家の外側に、助ける組織を作るという発想も生まれた。1859年、イタリアのソルフェリーノの戦場で、手当てを受けられずに倒れている数千の負傷兵を見たスイスの実業家デュナンは、その体験を本に書いた。『ソルフェリーノの思い出』がきっかけとなり、敵味方の区別なく負傷者を救う赤十字の組織が作られる。日本では1877年の西南戦争のさなかに、敵の兵まで手当てする博愛社が生まれ、のちの日本赤十字社になった。

明治の日本が国として出した答えは、恤救規則だった。1874年のこの規則は、困窮した人を救うのはまず家族と隣人の情けによるべきだとし、国が救うのは、身寄りがなく働くこともできない、ごく限られた人だけとした。まず身内が、という日本の答えは、長く制度の土台になる。この規則が救護法に置き換えられたのは、昭和の初めの1929年のことだった。
ドイツは、別の答えを出した。1880年代、宰相ビスマルクは、病気、労働災害、老齢と障害に備える保険を次々に作った。ビスマルクの社会保険は、働く人と雇い主から保険料を集め、いざというときに給付する仕組みである。同じビスマルクは、社会主義の運動を法で厳しく取り締まっていた。労働者を国家につなぎとめ、社会主義に向かわせないための制度だった。飴と鞭と呼ばれるゆえんである。
見落とされやすいのは、支える仕組みが、たいてい優しさからではなく、恐れから生まれていることになる。浮浪者が増えるのが怖い。社会主義が伸びるのが怖い。戦争のあとに国が割れるのが怖い。
20世紀の大不況は、失業を個人の怠けではなく、経済の仕組みの問題として見ることを迫った。ケインズは、需要が足りなければ、働きたい人が働けない状態が続くと論じた。第二次世界大戦のさなかの1942年、イギリスで出されたベヴァリッジ報告は、窮乏、病気、無知、不潔、無為を五つの巨悪と呼び、全員が保険料を払い、全員が給付を受ける仕組みを描いた。戦後、その設計図に沿って、使うときにはお金を払わない国営の医療が1948年に始まる。戦争を共に戦った国民に、戦後の暮らしを約束する。それも国が割れることへの備えだった。
日本では、戦後の憲法が、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を定めた。1957年、結核で療養していた朝日茂は、国の生活保護の基準ではその暮らしはできないと訴えた。人間裁判と呼ばれたこの訴訟は、最後は本人の死で終わったが、保護の基準を見直させるきっかけになった。1961年には国民皆保険と国民年金が整い、保険証一枚で誰でも医者にかかれるようになった。2000年には、老いた親の介護を家族から社会へ移す介護保険が始まった。
そして、どの仕組みも、作られたときの前提、つまり仕事がある、家族がいる、若い人が多いという前提の上に立っている。保険料を払う若い働き手が減り、一人で暮らす老人が増え、安定した雇用に就けない人が増えれば、仕組みはきしむ。1995年のシカゴの熱波では、同じ暑さの中で、近所とのつながりが薄く一人で暮らす高齢者に死者が集中した。支える仕組みは、制度だけでなく人のつながりでもできている。
その前提が崩れたとき何が起きるかを、いまの私たちが見ていることになる。宗教から国へ、国から市場や地域へと、受け皿は何度も入れ替わってきた。次の答えがどこから出てくるのかは、まだ分からない。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(76)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ベネディクトの戒律できごとAD529年頃修道院が、旅人と病人を受け入れる決まりを持った後世「祈り、かつ働け」とまとめられる、修道院という暮らし方の設計図になり、写本を通じて古代の書物が生き延びる器にもなった。モンテ・カッシーノ

- クリュニー修道院の創立できごとAD910年寄進を集めて施す、大きな宗教の受け皿領主ではなく教皇に直属する修道院として作られた。ここから教会を世俗の手から取り戻す運動が広がる。クリュニー
- 黒死病できごと1347年働き手が減り、労働と救済の条件が変わったヨーロッパの人口の3分の1が死んだ。働き手が減って農奴の立場が上がり、封建の仕組みが緩む。
- 浮浪を罰するできごとAD1349年まず罰した。それでは減らないと分かるまで黒死病で人が減り、労働力が不足した。賃金が上がりそうになる。イングランドは労働者勅令を出し、疫病前の賃金を超えて払うことも受け取ることも禁じ、健康な者が働かずに施しを受けることを罪とした。以後、浮浪はたびたび厳罰化される。1547年の法は、三日以上働かない者を二年間の奴隷とし、胸にVの烙印を押すと定めた。過酷すぎて二年で廃止されている。移動する貧しい者を罰する法は、その後も形を変えて長く残った。ロンドン
- ラグーサの検疫できごとAD1377年7月27日共同体を守るために、人の動きを止める黒死病の30年後、アドリア海の商業都市が、疫病の地から来た船と人を島に30日留めると決めた。世界で最初の検疫の法。ヴェネツィアが40日にして「クアランタ」から「クアランティン」。病の原因を知らずに、隔てることで防ぐことを覚えた。ドゥブロヴニク(ラグーサ)
- 公営の質屋できごとAD1462年施しでも高利でもない道を探した中世のキリスト教は、利子を取ることを罪とした。だが貧しい人ほど、明日の食べ物のために金を借りる必要がある。禁を負わないユダヤ人の金貸しがその役を担い、それがまた迫害の口実にもされた。フランシスコ会の修道士たちは、別の仕組みを説いた。町が基金を集め、品物を預かって、ごく低い手数料だけで小口の金を貸す。1462年、ペルージャに最初の「憐れみの山」が置かれた。手数料を取ることは利子ではないのか、という議論は半世紀続き、1515年の公会議でようやく認められた。公的な質屋は、いまもイタリアの銀行の祖先として残っている。ペルージャ
- エリザベス救貧法できごとAD1601年慈善ではなく税で支える、最初の全国の仕組み修道院が解散させられ、貧しい人を養ってきた受け皿が消えた。囲い込みで土地を失った人々が道にあふれ、物乞いと浮浪を罰する法だけが重ねられていく。罰しても減らないと分かったとき、イングランドは別のやり方を法にした。教区ごとに貧民監督官を置き、住民から救貧税を取り立てる。働ける者には仕事の材料を渡し、働けない老人と病人には手当を渡し、親のない子は徒弟に出す。慈善ではなく、税で支える。誰を助けるかを、教区という土地の単位で決める仕組みは、三百年以上続いた。ロンドン
- 死亡表と統計のはじまりできごとAD1662年何歳で何人死ぬかを数えたことが、保険の土台になったロンドンの小間物商ジョン・グラントが、教区が毎週出していた埋葬の一覧(死亡週報)を数十年ぶん集計した。誰も統計として読んでいなかった紙束である。彼は、男児の出生がわずかに多いこと、死因の分布、そして疫病の年の異常を示し、年齢ごとの生存者数の表を作った。人口を数えることで社会を知るという考え方が、ここから始まる。ハレー(彗星の人)がブレスラウの記録でこれを精密にし、生命保険の保険料が計算できるようになった。ロンドン
- 火災保険と火災標できごとAD1681年不幸を数えて、あらかじめ備える考え方ロンドン大火で一万三千戸が焼けた。医師で不動産業者のニコラス・バーボンが、家屋を対象とする保険会社を作った。契約した家には金属の標を打ちつける。会社は自前の消防隊を雇い、標のある家だけを消した。標のない家の前で隊が引き返した、という話が語られる。競合が現場で争い、効率が悪い。やがて隊は統合され、1866年に公の首都消防隊が発足して、消防を引き受けた。私的な備えから、公共の役務への移行である。ロンドン
- ロイズと海上保険できごとAD1688年危険を分け合う商いの原型テムズ河畔のタワー街に、エドワード・ロイドという男がコーヒーハウスを開いた。船主と船長と商人が集まる。彼は客のために、船の出入りと海難の情報を集めて紙に刷った(ロイズ・リスト、1734年から現存する世界最古級の日刊紙)。情報が集まる場所に、引受人が集まった。航海一件ごとに、複数の個人が「この額まで引き受ける」と紙の下に署名する。アンダーライター(下に書く人)の語源である。会社ではなく、個人の集まりが、無限責任で危険を分け合った。ロンドン
- 生命保険の始まりできごとAD1706年死んだあとの家族を、契約で支えるロンドンの「アミカブル・ソサエティ」。会員が毎年、同じ額を払い、その年に死んだ会員の遺族が、集めた金を人数で分ける。年齢による差はまだない。1762年、エクイタブル生命が、ドドソンがロンドンの死亡表から計算した表を使って、年齢ごとに保険料を変えた。数学で死を計算する商売。海上保険(ロイズのコーヒーハウス、1688年)と火災保険(大火の後、1680年)に続いて、命が金額になった。ロンドン
- 乳母と捨て子できごとAD1780年頃育てられない子を、社会がどう扱ったか18世紀のパリで、生まれた子の大半が、田舎の乳母に預けられた。ある推計では、年に2万人の新生児のうち、母が自ら育てたのは1割に満たない。職人の妻も働かねばならず、乳を与える時間がない。乳母は乳の出る限り何人も預かり、赤子は荷車で運ばれた。死亡率は極めて高く、地域によっては半数を超えた。同じ時期、捨て子養育院に年に数千人が置かれた。誰かが乳を与えなければ、子は生きない。その労働に、名も、記録も、ほとんど残っていない。パリ
- 人足寄場できごとAD1790年(寛政2年)天明の飢饉のあと、江戸には帰る村も仕事もない人があふれた。従来なら追い払うか入墨を入れて放つだけである。火付盗賊改の長谷川平蔵は、石川島に施設を作り、そうした人々を収容して手に職をつけさせることを提案した。油絞り、紙漉き、大工仕事。働いた分の一部を積み立て、出るときに元手として渡す。再び罪を犯させないための仕組みである。罰として閉じ込めるのではなく、働かせて社会に戻す。同じ発想は、四十年後のアメリカの監獄でも別の形で試されることになる。東京
- 貧しい人のためのスープできごとAD1790年代救うことと管理することが一体だったアメリカ生まれの科学者ベンジャミン・トンプソンは、バイエルンの宮廷に仕えてランフォード伯となった。ミュンヘンの物乞いを救貧院に集めて働かせ、安く腹の膨れるスープを配る。大麦と豆とじゃがいもを煮た、ランフォードのスープである。燃料を節約するため、火を囲って鍋を並べる閉じた調理台も設計した。開いた火で煮るより、はるかに少ない薪で済む。熱の研究をした科学者が、台所と救貧の仕事に同じ頭で取り組んだ。ミュンヘン
- 『人口論』できごとAD1798年救済が人口を増やして飢えを招く、という反対論人口は倍々に増え、食料は足し算でしか増えない。だから飢えと貧困は避けられない。匿名で出たこの薄い本が、以後200年の悲観論の型になる。ロンドン

- ペスタロッチのシュタンツ孤児院できごとAD1799年1月戦争孤児を引き受けた現場フランス軍がニトヴァルデンの村を焼き、孤児が残った。52歳の破産した農場主が、一人で、80人の子供と修道院の建物に住んだ。「私は彼らと泣き、彼らと笑った」。頭と心と手。生活が教育。半年で、軍が建物を野戦病院に取り、終わった。『シュタンツ便り』。イヴェルドンの学校(1805〜25年)に、ヨーロッパ中から教師が見に来た。シュタンツ
- ニュー・ラナークの実験できごとAD1800年工場主が、労働者の暮らしごと設計しようとしたクライド川の紡績工場を買ったロバート・オーウェンが、10歳未満の児童労働をやめ、労働時間を10時間半に減らし、工場の中に学校(1816年、性格形成学院)と、世界初とされる幼児学校と、安い店を作った。生産は落ちなかった。「人の性格は環境が作る」。1819年の工場法、協同組合、労働組合、そしてユートピア社会主義が、ここから出た。2001年、世界遺産。ニュー・ラナーク

- チャールズ・ディケンズ人物AD1812年2月7日 – AD1870年6月9日救貧院と貧しさを、読者の目の前に置いたポーツマス。12歳のとき、父が借金でマーシャルシー監獄に入り、彼は靴墨工場で1日10時間、瓶にラベルを貼った。数か月。そのことを、妻にも子にも話さなかった(伝記作家フォースターが死後に明かした)。速記者、新聞記者、そして『ピクウィック・クラブ』(1836年)で一夜にして人気作家に。月刊分冊の連載。15の長編。公開朗読で全国と米国を回り、それが命を縮めた。ウェストミンスター寺院の詩人の隅。
- ビスマルク人物AD1815年4月1日 – AD1898年社会主義を抑えるために、社会保険を作った三つの戦争を計算ずくで使い、ドイツを統一した。統一後は一転して平和の維持に腐心する。
- 解剖法できごとAD1832年8月1日救済を受けることが、死後の扱いにまで及んだイギリスでは、解剖に回してよい遺体は、処刑された殺人犯だけと定められていた。医学校は増え、処刑は減る。足りない分は、墓を掘り返す者たちが売った。1828年、エディンバラのバークとヘアは、掘るかわりに十六人を殺して解剖学者に売っていたことが露見する。議会が出した答えは、掘る動機を無くすことだった。救貧院や病院で死に、引き取り手のない者の体を、解剖に回せるようにする。墓を暴かれる恐れは消えたが、解剖台に載るのは、変わらず貧しい者だった。ロンドン
- 1833年工場法できごとAD1833年子どもの労働時間に、国が口を出す綿工場で、9歳未満の労働を禁じ、9〜13歳は1日9時間、13〜18歳は12時間まで、夜業を禁じ、9〜13歳に1日2時間の教育を義務づけた。それまでの法と違ったのは、給料を払う工場監督官を4人置いたこと。国家が、工場の中に人を入れて確かめる。児童労働は消えなかったが、「国が労働の条件を決める」という考えが、ここから広がった。同じ年、大英帝国の奴隷制が廃止された。ロンドン

- 大塩平八郎の乱できごとAD1837年天保の飢饉で、大坂の町にも飢えた人があふれた。奉行所は米を江戸へ送り、豪商は米を買い占める。元は奉行所の与力で、陽明学を教えていた大塩平八郎は、蔵書を売って困窮者に配ったが、それでは足りなかった。1837年、門人や近くの農民と兵を挙げ、豪商の屋敷に火を放つ。乱は半日で鎮められ、大塩は隠れた末に自ら火を放って死んだ。だが幕府の元役人が幕府の町で反乱を起こしたことは、全国に衝撃を与え、各地で似た騒ぎが続いた。大坂
- ディケンズ『オリヴァー・トゥイスト』できごとAD1838年救貧院の現実が、小説で広く知られた救貧院で生まれた孤児が、粥のおかわりを求めて「もう少しください」と言い、追い出され、ロンドンの窃盗団に拾われる。1834年の新救貧法(貧民を救貧院に押し込め、夫婦を分け、労働を強いる)が施行された直後の連載。月刊の分冊で、毎号、街が続きを待った。作者は12歳のとき、父が債務者監獄に入って、靴墨工場で働いた。そのことを、生涯、誰にも話さなかった。ロンドン
- チャドウィックの報告できごとAD1842年慈悲ではなく費用の計算から、衛生の行政が始まった救貧を担当していたエドウィン・チャドウィックは、貧しい者が病で死ぬから遺族が救貧の対象になる、と考えた。死因を減らせば、費用が減る。1842年、労働者の住む地区の衛生状態を数字で並べた報告を出す。都市の労働者の平均死亡年齢が十六歳という地区もあった。汚物と病の関係を瘴気で説明した点は誤っていたが、下水と給水を公共が担うべきだという結論は残る。1848年の公衆衛生法につながった。慈悲ではなく費用の計算から、衛生の行政が始まっている。ロンドン
- 公衆浴場と洗濯場できごとAD1846年清潔は心がけでなく設備で決まる、と法が認めた工業都市の路地裏には水道が無く、井戸か共同の水栓に頼っていた。体も洗えず、衣類も洗えない。コレラが流行したとき、リヴァプールのキティ・ウィルキンソンは自宅の湯沸かしを近所に開放し、寝具を煮沸させた。市はこれを引き継いで公共の浴場と洗濯場を作る。1846年、議会は自治体が税で同じ施設を設けてよいという法律を通した。安い料金で体を洗い、衣類を煮て干して帰れる。清潔は個人の心がけではなく、設備の有無で決まると認めたことになる。リヴァプール
- 孤児列車できごと1854年9月路上の子どもを農村へ19世紀の半ばのニューヨークには、親を失い、あるいは捨てられて、路上で新聞売りや靴磨きをして暮らす子どもが何万人もいた。牧師チャールズ・ローリング・ブレイスは、児童援助協会を作り、こうした子どもたちを西部の農村の家庭に送り出すことを考えた。1854年9月、最初の子どもたちが列車でミシガンへ向かった。子どもたちは途中の駅で並ばされ、農家の人々が引き取る子を選んだ。1929年までに二十万人を超える子どもが運ばれた。家族として愛された子もいれば、働き手として酷使された子もいた。この試みは、のちの里親の制度の源の一つになった。ニューヨーク
- 『ソルフェリーノの思い出』できごとAD1859年6月24日国家の外側に、助ける組織を作るという発想北イタリアのソルフェリーノで、フランス・サルデーニャ軍とオーストリア軍が一日戦い、死傷者は数万にのぼった。商用で通りがかったジュネーヴの実業家アンリ・デュナンは、近くの町の教会に運び込まれた負傷兵が、手当てを受けられずに死んでいくのを見た。軍の衛生隊はわずかしかいない。彼は町の女たちを集め、敵のオーストリア兵も同じように手当てした。女たちは「みな兄弟」と言ったと伝えられる。三年後、彼は自費でその光景を本にし、戦争のたびに負傷者を助ける民間の団体を、平時から各国に作っておくべきだと書いた。ソルフェリーノ
- 野良犬の収容所できごとAD1860年ロンドンの路上には、行き場のない犬があふれていた。捕らえて殺すのが行政の仕事である。1860年、メアリー・ティールビーが迷い犬の一時保護所を開いた。飼い主を探し、見つからなければ引き取り手を探す。犬に金をかけるとは何事かと新聞に叩かれたが、1885年にはヴィクトリア女王が後援者になった。狂犬病への恐れが、街から犬を減らす圧力にもなる。保護と駆除は、同じ「路上の犬をどうするか」から出てきた二つの答えだった。飼う生き物と、飼われない生き物の境が、制度の側から引かれていく。ロンドン
- ユゴー『レ・ミゼラブル』できごとAD1862年ナポレオン3世の独裁に反対して国を追われたヴィクトル・ユゴーは、英仏海峡の島で長い小説を書き上げた。一本のパンを盗んで十九年の徒刑となったジャン・ヴァルジャンが、司教の赦しをきっかけに生き直す物語である。1862年、ブリュッセルとパリで同時に出版されると、各地で行列ができるほど売れた。貧しさと法の冷たさ、革命の夢を描いた物語は、のちにミュージカルとなって、国も時代も越えて演じられている。ブリュッセル
- 信用組合できごとAD1864年凶作の年、ライン地方の農民は高利貸しに頼るしかなかった。村長だったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ライファイゼンは、まず施しを試みたが、続かないと気づく。次に作ったのが、村人が共同で責任を負う貸付の組合だった。組合員は無限の連帯責任を負い、その代わり、村の外の銀行から資金を借りられる。誰が真面目に働くかは、村人がいちばんよく知っている。返済率は高かった。都市の職人にも同じ仕組みが広まり、いまの信用金庫と協同組合の銀行につながっている。ノイヴィート(ヘッデスドルフ)
- 救世軍の始まりできごと1865年7月教会が街に出る1865年7月、メソジストの説教師ウィリアム・ブースは、ロンドンの貧しい東の地区ホワイトチャペルで、天幕を張って伝道を始めた。酒と貧しさにまみれた人々は、立派な教会には足を運ばなかった。ブースは彼らのもとへ出向き、スープと石けんと救いを差し出した。1878年、会は「救世軍」と名を変え、軍隊にならって制服と階級を持ち、楽隊を連れて街を行進した。妻キャサリンをはじめ女性も説教に立った。救世軍は世界に広がり、日本では山室軍平らが、遊郭から逃れたい女性を助ける廃娼の運動に取り組んだ。年末の社会鍋も救世軍に始まる。ロンドン
- 乳児のための粉できごとAD1867年母乳が出ないとき、乳母を雇えない家の赤ん坊は、薄めた牛乳や粥で育てられ、多くが死んだ。スイスのヴヴェイの薬剤師アンリ・ネスレは、牛乳と小麦粉と砂糖を合わせて乾かした乳児用の粉を作る。1867年、母乳も他の食べ物も受けつけなかった早産の子がこれで助かったと宣伝され、ヨーロッパ中に売れた。母乳の代わりが工場で作られる時代の始まりである。のちにその売り方が、途上国で大きな問題を起こすことになる。ヴヴェイ
- 恤救規則できごとAD1874年(明治7年)12月8日まず身内が、という日本の答え明治政府は、全国に通じる最初の救貧の決まりを出した。前文は、救済は本来「人民相互ノ情誼」、つまり身内と近所の情けで行うものだと述べる。国が出るのは、その情けが届かない者だけである。対象は、身寄りがなく働けない七十歳以上の老人、重い病人、障害のある人、十三歳以下の孤児に絞られた。渡されるのは米代にあたるわずかな現金で、頼る先があると見なされれば外された。救済は権利ではなく、例外だった。この決まりは、1932年に救護法ができるまで、五十八年ものあいだ使われ続けた。東京
- 博愛社できごとAD1877年(明治10年)5月1日敵の兵まで手当てする。日本の赤十字の始まり西南戦争のさなか、元老院議官の佐野常民と大給恒は、ヨーロッパで見た赤十字のような救護団体を作ろうとした。政府は初め、許さなかった。反乱軍の兵まで手当てするというのが、引っかかったとされる。佐野は熊本の征討総督の本営まで出向いて、有栖川宮熾仁親王に直接願い出て、許しを得た。救護員は官軍の兵とともに、薩摩軍の負傷兵も手当てした。日本がジュネーヴ条約に加わったのは九年後で、翌年、博愛社は日本赤十字社と名を改めた。内戦で敵を手当てすることから、日本の赤十字は始まった。熊本
- 医者が来るまでの手当てできごとAD1880年代怪我人が出ても、医者が着くまでの間、そばにいる人は何をすればよいか分からなかった。キールの外科医フリードリヒ・フォン・エスマルヒは、戦場の傷の手当てを研究し、その手順を医者でない人に教える講習を始めた。1880年代のことである。三角の布一枚で腕を吊り、傷を縛る方法を図で示した教本も広まる。応急手当という言葉が一般に使われるようになったのは、この運動からだとされる。救命の最初の数分は、医者ではなく居合わせた人の手の中にある。キール
- ビスマルクの社会保険できごとAD1883年6月15日保険料を集めて備える。恐れから生まれた制度工場で働く人が増え、病気や怪我で働けなくなれば、家族ごと暮らしが崩れた。その不安を掬い上げて、社会主義の運動が伸びていく。ビスマルクは弾圧の法で運動を禁じる一方、労働者に別のものを差し出した。1883年の疾病保険法は、労働者と雇い主から保険料を集め、病気のときに医療と手当を出す。翌年には労災、1889年には老齢と廃疾の保険が続いた。慈善でも救貧でもなく、あらかじめ皆で金を出し合って備える。国家が国民の生活の危険を引き受ける仕組みは、ここから世界に広がった。ベルリン
- 学校給食できごとAD1889年(明治22年)山形の鶴岡で、貧しい家の子に昼食を出す試みが始まった。寺の僧が寄付を集め、握り飯と焼き魚と漬物を配ったと伝えられる。弁当を持って来られない子は、昼に姿を消していた。同じ試みが各地に広がり、やがて国の制度になる。戦後は、アメリカからの小麦と脱脂粉乳が配られ、パンと牛乳の献立が定着した。栄養を補うためだけではない。全員が同じものを食べることで、家の貧富が見えなくなる。給食は、教育の一部として設計された食事になる。鶴岡
- 子どもを別に裁くできごとAD1899年守るための仕組みは、権限を大きくする十九世紀まで、七歳を超えた子どもは大人と同じ法廷で裁かれ、同じ監獄に入れられた。刑務所で犯罪を学んで出てくる、と指摘されていた。1899年、シカゴのあるイリノイ州が、子どものための裁判所を作る。裁くのではなく、その子にとって何が最善かを決める場だとされた。非公開で、記録は残さず、判事は後見人のように振る舞う。処遇の幅は広く、家庭に戻すことも、施設に送ることもできる。守るための仕組みは、同時に、罪を犯していない子まで施設に送る力にもなった。手続きの保障が入るのは、七十年後になる。シカゴ
- 産婆に免許をできごとAD1902年イギリスの貧しい家では、出産の大半を近所の産婆が扱っていた。訓練を受けた者もいれば、経験だけの者もいる。死産と産褥熱による母の死は多かった。1902年の法は、産婆を登録制にし、中央の委員会が訓練と資格を管理することにした。無資格で介助すれば罰せられる。これで水準は上がったが、代償もあった。読み書きや受験の費用が壁になり、長年地域を支えてきた年配の産婆の多くが職を失う。専門職にすることは、線の外に人を置くことでもある。ロンドン
- 純正食品薬事法できごとAD1906年6月30日売ってよいかを国が確かめる時代が始まった瓶に何が入っているか、誰も保証していなかった。乳児用の鎮静剤にはアヘンが入り、牛乳にはホルマリン、肉には亜硫酸が入っていた。農務省の化学者ハーヴェイ・ワイリーは、志願した若い職員に防腐剤入りの食事を摂らせ、体調の変化を記録した。新聞が毒物班と呼んだ。同じ年、シンクレアの小説『ジャングル』が食肉工場の内情を描いて反響を呼び、法が通った。表示の義務と、有害物の禁止。後の食品医薬品局につながる。ワシントンD.C.
- トライアングル・シャツウエスト工場の火災できごとAD1911年3月25日働く場の安全が、犠牲のあとで法になるビルの八階から十階の縫製工場で火が出た。働いていたのは大半が十代から二十代の移民の女性である。九階の出口の扉は、盗みを防ぐという理由で施錠されていた。非常階段は途中で崩れ落ちた。消防のはしごは六階までしか届かない。窓から飛び降りた者が多数いた。146人が死んだ。経営者二人は無罪になった。この火災が、労働安全の法規と、防火の規制と、そして労働組合を、決定的に押し進めた。ニューヨーク
- 捕虜の消息を集めるできごとAD1914年8月21日国境を越えて、一人ずつの消息を扱った第一次世界大戦が始まって三週間、ジュネーヴの赤十字国際委員会は、美術館の建物を借りて捕虜の消息を扱う窓口を開いた。家族からは「息子は生きているか」という手紙が届き、交戦国からは捕らえた兵の名簿が届く。その二つを突き合わせるために、名前ごとに一枚のカードを作り、国籍と身分で分けて並べた。ボランティアは千人を超え、戦争が終わるころ、カードは六百万枚を超えていた。消息が分かれば家族に知らせ、手紙と小包の通り道にもなった。一人ひとりの名前を、国の数ではなく紙の一枚として扱う仕組みだった。ジュネーヴ
- セーブ・ザ・チルドレンと子どもの権利の宣言できごとAD1919年5月19日敵国の子どもも救う第一次世界大戦が終わっても、イギリスとフランスは、敗れたドイツとオーストリアへの海上の封鎖を続け、そこでは子どもたちが飢えていた。イギリスのエグランタイン・ジェブは、やせ細った子どもの写真を載せたビラを街頭で配り、罰金を科された。1919年5月、ジェブは妹とともに、敵国の子どもも含めて飢えた子どもを救うための基金、セーブ・ザ・チルドレンを作った。1923年には、子どもが持つべき権利を5か条にまとめ、翌年、国際連盟がこれを「子どもの権利に関するジュネーヴ宣言」として採択した。子どもの権利を国際的にうたった初めての文書である。ロンドン
- ILOの設立できごとAD1919年10月29日第一次世界大戦の講和を話し合うパリの会議は、ヴェルサイユ条約の中に、労働者の暮らしを国際的に良くするための機関を作ることを書き込んだ。世界の永続する平和は、社会の正義を土台にしてこそ打ち立てられる、というのがその理由だった。ロシア革命の波及を恐れる気持ちもあった。1919年10月29日、ワシントンで最初の総会が開かれ、1日8時間・週48時間の労働時間を定める条約が採択された。ILOは、政府だけでなく、雇う側と働く側の代表も票を持つ、珍しい仕組みの機関である。国際連盟が消えたあとも生き残り、国際連合の機関になった。ワシントンD.C.
- 救急車の配置できごとAD1933年運ぶ手段を公が持ち、命の差が縮まった急な病や怪我で倒れた人を、誰が病院へ運ぶのか。長いあいだ、家族や近所の人が戸板や大八車で運んでいた。1933年、横浜の消防署に救急車が置かれ、公の救急搬送が始まったとされる。翌年には名古屋、1936年には東京にも広がる。1963年、救急業務が消防の仕事として法に定められ、全国の市町村へ広がった。いまは誰でも無料で呼べる。運ぶ手段を公が持つことで、倒れた場所による命の差が縮まった。横浜
- 国民所得の発明できごとAD1934年国の豊かさを測る物差しができた大恐慌のさなか、政府は経済がどれだけ縮んだかを知らなかった。統計がなかったからである。上院の求めで、サイモン・クズネッツが国民所得の推計を作った。1934年、報告書を提出した。彼はその中で警告している。国民所得から、一国の福祉を推し量ることはできない。何を数えるかは選択であり、彼は軍事支出と広告と投機を除くことを主張した。採用されなかった。そして家事と育児と介護は、市場で取引されないという理由で、はじめから外にある。ワシントンD.C.
- ケインズ『一般理論』できごとAD1936年失業を個人の怠けではなく経済の問題として扱う不況は、賃金が高すぎるからでも、放っておけば直るものでもない。人が使わなければ、誰かの所得が減り、その人がまた使わなくなる。均衡は、失業を抱えたままでも成り立つ。だから、政府が支出して、有効需要を作る。「穴を掘って埋め戻す仕事でも、何もしないよりましだ」。長期には我々は皆死んでいる。ニューディールと戦後の福祉国家の理論の基礎になり、1970年代のスタグフレーションで批判され、2008年にまた読まれた。ケンブリッジ
- ベヴァリッジ報告できごとAD1942年12月2日全員が入り、全員が受け取る、という設計図戦争のさなか、イギリス政府の委員会が社会保険の見直しを報告書にまとめた。ウィリアム・ベヴァリッジは、退治すべき五つの巨人の名を挙げる。窮乏、疾病、無知、不潔、怠惰。全国民が同じ保険に入り、失業と病気と老いに備え、医療は税で賄って誰でも無料でかかれるようにする。灯火管制の街で人々は行列を作ってこの報告書を買い、二年足らずで六十万部を超えて売れた。戦争が終わると、報告に沿って国民保険法と国民保健サービスが作られる。「ゆりかごから墓場まで」という言い方は、この設計図から生まれた。ロンドン
- 母子手帳できごとAD1942年戦争のための仕組みが、戦後の命を支えた1942年、戦時の日本で、妊娠を届け出た女性に手帳が配られた。妊産婦手帳である。人口を増やすという国の方針のもと、健診を促し、出産に要る米や綿の配給を受けるための証明にもなった。戦後の1948年、子どもの成長と予防接種まで記録する母子手帳に改められる。一冊に妊娠から幼児期までの記録がまとまり、どの医者にかかっても続きが分かる。戦争のために作られた仕組みが、戦後の乳児死亡の減少を支え、いまは海外の多くの国に広がっている。東京
- 食糧管理法できごとAD1942年2月21日1942年2月、戦争のさなかの日本で、米や麦を国が生産者から買い上げ、配給で国民に渡す法律ができた。食糧管理法である。農家は決められた量を国に売らなければならず、町の人々は通帳を持って配給所で米を受け取った。量は一人一日二合三勺と決められたが、戦争の末期から戦後にかけては、それも届かないことが多かった。戦後も法律は残り、国は米を農家から高く買って消費者に安く売った。その赤字と米の余りが、のちの減反につながる。法律が廃止されたのは、1995年である。東京
- 水道にフッ素できごとAD1945年1月25日コロラドの町で、住民の歯に茶色い斑点が出るのに、虫歯がほとんどないという報告があった。原因は井戸水に多く含まれるフッ素だと分かる。濃度を下げれば、斑点を出さずに虫歯だけを減らせるのではないか。1945年、ミシガン州グランドラピッズが、水道にフッ素を加える最初の都市になった。十年後、子どもの虫歯は大きく減った。各国が追随する一方、反対も根強い。本人の同意なしに薬効のあるものを水に入れてよいのか、という問いが残るからになる。公衆衛生が、個人の選択とぶつかる典型的な例である。グランドラピッズ
- 食糧メーデーできごとAD1946年5月19日米よこせ1946年5月19日、配給の遅れと飢えに苦しむ東京の人々およそ25万人が、皇居前の広場に集まった。「米よこせ」を掲げた、食糧メーデーである。数日前には世田谷の住民が皇居に押しかけ、台所を見せろと求めていた。集会には「朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね」と書いたプラカードが現れ、掲げた人は不敬の罪で起訴される。翌日、占領軍のマッカーサーは、暴民によるデモは許さないと声明を出した。一方で、アメリカからの小麦や脱脂粉乳の援助が始まり、日本の食卓は小麦と乳製品のほうへ動いていった。東京
- ユニセフの設立できごとAD1946年12月11日戦争で傷ついた子どもへ第二次世界大戦が終わったとき、ヨーロッパとアジアの焼け跡では、何百万人もの子どもが、食べ物も衣服も薬も無いまま取り残されていた。1946年12月11日、国際連合の総会は、戦争で傷ついた子どもたちに緊急の援助を届けるため、国連国際児童緊急基金、すなわちユニセフを作った。粉ミルクと薬と毛布が送られ、日本でも戦後の学校給食などに、ユニセフから届いた脱脂粉乳が使われた。1953年には常設の機関になり、援助の先は途上国の子どもたちへと移って、予防接種や安全な水、栄養、教育の支えに取り組むようになった。ニューヨーク
- 児童福祉法できごとAD1947年12月12日すべての子どもの福祉戦争が終わった日本の町には、空襲や引き揚げで親を失った子どもたちがあふれていた。駅の地下道で寝起きし、靴磨きや物乞いで生きる子どもたちは「浮浪児」と呼ばれ、警察に追われ、施設に収容された。1947年12月12日に公布された児童福祉法は、すべての子どもが心身ともに健やかに生まれ育つことを保障され、愛護されなければならず、国と地方の自治体は保護者とともにその責任を負うと定めた。親のいない子どもだけでなく、すべての子どもを対象にした法だった。1951年の子どもの日には、子どもは人として尊ばれると書き出す児童憲章が定められた。東京
- NHSの発足できごとAD1948年7月5日使うときには払わない1948年7月5日、イギリスで国民保健サービス(NHS)が始まった。病院にかかるのも、医師に診てもらうのも、薬も、眼鏡も入れ歯も、すべての人が、使うときには払わずに受けられる。費用は税金でまかなう。戦時中のベヴァリッジ報告を受け、労働党の保健大臣アナイリン・ベヴァンが、反対する医師の団体を説き伏せて作った。初日から、何年も我慢していた人々が医師のもとへ押し寄せた。イギリスの人々にとって、NHSは戦後の福祉国家の象徴であり、いまも国民が最も誇る制度とされる。ロンドン
- 国連難民高等弁務官事務所と難民条約できごとAD1950年12月14日第二次世界大戦のあと、ヨーロッパには、故郷に帰れない難民が百万人以上残っていた。1950年12月14日、国際連合の総会は、難民を国際的に保護する国連難民高等弁務官事務所、UNHCRを作ることを決めた。3年で仕事を終える予定の小さな事務所だった。翌1951年に結ばれた難民条約は、人種、宗教、国籍、特定の社会集団への所属、政治的な意見を理由に迫害を受けるおそれがあるため国の外にいる人を難民と定め、迫害の待つ国へ送り返してはならないとした。難民はその後も増え続け、UNHCRは世界最大級の人道の機関になった。ジュネーヴ
- 難民条約できごとAD1951年7月28日国を失った人を、どこが支えるか第二次大戦後、ヨーロッパに数百万の帰る場所を持たない人がいた。二十六か国がジュネーヴに集まり、難民を定義し、その保護を条約にした。核心は第三十三条のノン・ルフールマンである。迫害されるおそれのある地へ、追い返してはならない。当初は1951年以前のヨーロッパの事件に限られ、1967年の議定書がその制限を外した。定義は人種、宗教、国籍、政治的意見、特定の社会集団への帰属による迫害である。気候と貧困は、そこに入っていない。ジュネーヴ
- 処方箋がいる薬できごとAD1951年成分を書かせても、危ない薬は危ない。抗生物質や睡眠薬が普及すると、自己判断で飲んで害が出る例が増えた。1951年の法改正は、薬を二つに分けた。店で自由に買えるものと、医師の処方箋がなければ買えないもの。どちらに入れるかは、政府が決める。これで安全は上がったが、医師の診察を受ける必要が生まれ、費用も時間もかかるようになった。誰が薬を選ぶのか。本人か、医師か、国か。この線引きは、いまも薬ごとに動いている。ワシントンD.C.
- 朝日訴訟できごとAD1957年8月12日人間裁判朝日茂は、岡山の国立療養所で長く結核の療養を続け、生活保護を受けていた。日用品に充てる額は月600円で、下着は2年に1枚、ちり紙は月1束という計算だった。1956年、兄から月1500円の仕送りが届くようになると、福祉事務所は日用品の扶助を打ち切り、残る900円を医療費として納めさせた。朝日は、これでは憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」が守られないとして、国を訴えた。1960年の一審は朝日の訴えを認めたが、二審で逆転し、朝日は上告中に亡くなった。「人間裁判」と呼ばれたこの訴えの後、保護の基準は大きく引き上げられた。岡山
- 伊勢湾台風できごとAD1959年9月26日猛烈な台風が紀伊半島に上陸し、高潮が伊勢湾の奥に押し寄せた。海抜より低い干拓地に水が入り、貯木場の巨大な丸太が濁流に乗って家々を壊した。死者・行方不明は五千人を超える。戦後の日本で最悪の風水害になった。予報は前日から強い警戒を呼びかけていたが、避難には結びつかなかった。この災害を受けて、1961年に災害対策基本法が作られ、国と自治体が計画を持ち、警報と避難の体制を整えることになる。予報が当たることと、人が動くことは、別の問題だと分かった。伊勢湾(位置は特定されていない)
- シンガポールの住宅開発庁できごとAD1960年2月1日1950年代のシンガポールでは、人口の多くが、燃えやすい木造の小屋が密集する集落や、すし詰めの長屋に暮らしていた。自治を始めたリー・クアンユーの政府は、1960年2月1日、住宅開発庁を作り、高層の公営住宅を猛烈な速さで建て始めた。1961年に大火で一万六千人が家を失うと、建設はさらに急がれた。1964年からは、住む人が99年の借地権つきで住戸を買える制度を始めた。民族ごとに住む地区が偏らないよう、棟ごとの割合も定めた。いまでは国民のおよそ8割が公営住宅に住み、その大半が自分の住戸を持っている。シンガポール
- 国民皆保険できごとAD1961年4月1日保険証一枚で、誰でも医者にかかれる戦後の日本では、会社に勤める人は健康保険に入れたが、農家や自営業や日雇いの人は入れなかった。病気は、そのまま一家の破産を意味した。政府は市町村に国民健康保険を営むことを義務づけ、1961年4月、すべての人がどこかの保険に入る形が整った。同じころ国民年金も始まる。保険証が一枚あれば、どの医者にもかかれる。この仕組みは、高度成長の税収と、人口が若かったことに支えられていた。支える側が減り、支えられる側が増える時代が来ることは、まだ誰にも見えていなかった。東京
- 全人的な痛みできごとAD1967年7月治せない人を支える場を作るシシリー・ソンダースは看護師、医療ソーシャルワーカーを経て、四十歳近くで医師になった。死にゆく人の痛みを見て、それが身体だけのものではないと考えた。体の痛み、気持ちの痛み、社会から切り離される痛み、そして意味を失う痛み。彼女はこれを「全人的な痛み」と呼んだ。痛みが来てから薬を出すのではなく、来る前に定時で与える。眠らせるためではなく、起きていられるために。ロンドン郊外に開いたセント・クリストファー・ホスピスから、この考え方が世界へ広がった。ロンドン
- フードバンクの始まりできごとAD1967年捨てられる食べ物と飢える人をつなぐ1960年代、アメリカのアリゾナ州フェニックスで、炊き出しの手伝いをしていたジョン・ヴァン・ヘンゲルは、スーパーマーケットの裏のごみ箱に、まだ食べられる食品が大量に捨てられているのを見た。ある母親から、食べ物を預けておいて必要な人が引き出せる、銀行のような場所があればいいと言われたという。1967年、彼は教会の支えで、余った食品を集めて配る「セント・メアリーズ・フードバンク」を開いた。捨てられる食べ物と飢える人をつなぐ仕組みは、アメリカ全土に、そして世界に広がった。日本でも2000年代から各地に作られている。フェニックス
- ロールズ『正義論』できごとAD1971年自分が金持ちに生まれるか貧しく生まれるか、どんな才能を持つかを知らない状態で、社会の決まりを選ぶとしたら、人はどんな決まりを選ぶだろうか。ハーヴァード大学のジョン・ロールズは、1971年の『正義論』でこの思考実験を示した。そうした無知のヴェールの下では、誰もが平等な自由を求め、最も恵まれない人の暮らしを最もよくする不平等しか認めないはずだ、と論じる。政治の哲学の議論を、この一冊がよみがえらせた。ケンブリッジ(マサチューセッツ)
- 国境なき医師団できごとAD1971年12月22日中立を破ってでも、見たことを語るという選択ビアフラ戦争で、赤十字を通じて派遣されたフランスの医師たちは、封鎖された土地で子どもが飢えて死んでいくのを見た。赤十字は、どの陣営にも入れてもらうために、見たことを外で語らない決まりを守っていた。医師の一部は、黙っていることが虐殺の手助けになると考え、帰国して声を上げた。1971年、彼らと、医学雑誌の記者たちが、パリで新しい団体を作った。国境や政府の許しにとらわれずに入り、手当てをし、見たことを証言する。中立を守るのか、語るのか。同じ人道の中に、二つの考え方ができた。パリ
- アルマ・アタ宣言できごとAD1978年9月12日すべての人に健康を1978年9月、ソ連のカザフ共和国の首都アルマ・アタに、世界の百三十を超える国の代表が集まり、健康は基本的な人権であると宣言した。大きな病院と専門医の治療より、村の保健員、きれいな水、予防接種、栄養、母と子の保健といった「プライマリ・ヘルス・ケア」を土台にして、西暦2000年までにすべての人に健康を、と掲げた。天然痘の根絶が近づいていた時期の、世界の保健の大きな理想の表明だった。目標は届かなかったが、身近な場所で基本の医療を受けられるようにするという考えは、いまも各国の保健の政策の柱になっている。アルマトイ(アルマ・アタ)
- 母乳代替品の売り方できごとAD1981年売ってよいものでも、売り方は決められる粉ミルクは、母乳が出ない母にとって命綱である。同時に、売る側が広く売ろうとすれば別の問題が起きた。1970年代、企業は途上国の産院に無料の見本を配った。退院するころには母の乳が出なくなっており、家族は買い続けるしかない。安全な水も燃料もない家では、薄めたミルクと汚れた水が子を死なせた。1977年に不買運動が始まり、1981年、世界保健機関が販売の規約を採択する。見本の配布、医療機関での宣伝、乳児の絵を使った広告を禁じた。売ってよいものでも、売り方は決められる。ジュネーヴ
- エチオピア飢饉とライヴ・エイドできごとAD1985年7月13日1983年から1985年にかけ、エチオピアの北部を干ばつと飢饉が襲い、数十万人が死んだ。内戦と、政府の強制的な移住の政策が被害を広げた。やせ細った子どもたちの映像をテレビで見た歌手ボブ・ゲルドフは、音楽家を集めて慈善の歌を作る。1985年7月13日、ロンドンとフィラデルフィアで同時に開かれた大規模な演奏会が、衛星で世界に中継され、多額の寄付が集まった。だが援助の一部は、政府の強制移住に使われたとも批判された。ロンドン
- 子どもの権利条約できごとAD1989年11月20日1989年11月20日、国際連合の総会は、子どもの権利条約を全会一致で採択した。18歳未満のすべての人を子どもとし、生きる権利、育つ権利、守られる権利に加えて、自分に関わることに意見を言い、その意見を年齢と成熟に応じて重んじられる権利を認めた。子どもを、大人に守られるだけの存在ではなく、権利を持つ一人の人として扱う条約である。条約を作るきっかけはポーランドの提案で、そこには子どもの権利を唱えた医師コルチャックの記憶があった。条約は世界で最も多くの国が加わる人権の条約になり、日本は1994年に批准した。ニューヨーク
- シカゴの熱波できごとAD1995年7月13日同じ暑さでも、死者の数はつながりの厚さで変わった1995年7月、シカゴで気温が四十度近い日が続き、一週間で七百人以上が亡くなった。多くは高齢の一人暮らしである。同じ暑さの中で、死者の多い地区と少ない地区がはっきり分かれた。社会学者エリック・クリネンバーグの調査によれば、違いは所得だけではない。人が歩く商店街があるか、隣人が声をかけ合うか、窓を開けて眠れる治安かどうか。冷房のある避難所があっても、そこへ行けるつながりが無ければ届かない。災害の被害は、その社会のふだんの姿を映す。シカゴ
- 阪神・淡路大震災できごとAD1995年1月17日1995年1月17日の午前5時46分、淡路島の北を震源とする地震が、神戸を中心とする都市を襲った。六千四百人余りが亡くなり、その多くは倒れた家の下敷きになった。高速道路の高架が横倒しになり、長田の町では火災が広がった。古い木造の家と、古い基準で建てられた建物に被害が集中する。全国から百万人を超える人がボランティアとして駆けつけ、この年はボランティア元年と呼ばれた。市民の活動を支える法律が、この経験から生まれた。神戸
- 薬害エイズできごとAD1996年2月16日血が固まりにくい血友病の患者は、輸入された血液製剤で命をつないでいた。1980年代、その製剤にエイズのウイルスが混じる危険が分かっても、加熱して安全にした製剤への切り替えは遅れ、国内の患者のおよそ千四百人が感染した。患者たちは国と製薬会社を訴える。1996年2月16日、厚生大臣は、ないとされていた当時の資料が省内にあったことを明らかにし、原告に謝罪した。まもなく和解が成立する。国の責任が問われた薬害の代表的な例になった。東京
- 介護保険できごとAD2000年4月1日介護を家族から社会へ移す試みそれまで、高齢者の介護は家族が、実際にはその家の女性が担うものとされていた。措置制度の下で、行政が対象者と内容を決めた。2000年、40歳以上が保険料を払い、要介護の認定を受けて、事業者と契約してサービスを選ぶ仕組みに変わった。介護の社会化と呼ばれた。家の中で見えなかった労働の一部が、値段の付いた仕事になった。同時に、その賃金は他の産業より低く、人手不足が続いている。数えられるようになっても、安いままである。東京
- 児童虐待防止法できごとAD2000年5月24日家の中の暴力に踏み込む家庭の中で親が子どもを殴り、食事を与えず、心を傷つけることは、長いあいだ家の中のしつけの問題として外から口を出しにくかった。1990年代、児童相談所に寄せられる虐待の相談は年々増え、子どもが命を落とす事件が相次いだ。2000年5月24日に公布された児童虐待防止法は、身体への暴力、性的な虐待、育児の放棄、心への暴力を虐待と定め、虐待を見つけた人に通告を求め、児童相談所が家に立ち入って子どもを保護できるようにした。2019年の改正では、しつけのために親が子どもに体罰を加えることも禁じられた。東京
- こうのとりのゆりかごできごとAD2007年5月10日2007年5月10日、熊本市のカトリック系の慈恵病院は、育てられない事情を抱えた親が、名前を明かさずに赤ちゃんを預けられる窓口を設けた。「こうのとりのゆりかご」と名づけられた。窓の扉を開けて赤ちゃんを保育器に置くと、病院の人が駆けつける。病院は、捨てられて命を落とす赤ちゃんを救いたいと考えた。ドイツの「赤ちゃんポスト」を手本にしていた。育児の放棄を助長するという批判もあったが、15年あまりで170人を超える子どもが預けられた。病院は2021年から、母親が病院にだけ身元を明かして出産する「内密出産」にも取り組んでいる。熊本
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
都市の歴史17件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。考えることの歴史13件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。交易路とお金12件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。子どもの歴史12件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。感染症と人類8件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。老いと死の歴史8件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。確かめるという方法6件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。働くことの歴史6件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。二つの大戦4件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。女性の権利4件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。教育の歴史4件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。差別の歴史4件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。食の歴史4件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。民族移動の時代3件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。主権はだれのものか3件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。キリスト教のひろがり3件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。表現の歴史3件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史3件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。冷戦2件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。武士の700年2件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。冷戦のあと2件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。『繁栄』で読む歴史2件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。障害の歴史2件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。非株式会社いつかやるで聞く歴史2件を共有 / YouTubeチャンネル「非株式会社いつかやる」が解説した戦い・人物・病の歴史。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史2件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。明治1件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。探検と発見1件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。帝国と独立1件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。誰が書き残したか1件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。コテンラジオで聞く歴史1件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史1件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『疫病と世界史』で読む歴史1件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀1件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。『地中海』で読む歴史1件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後1件を共有 / 冷戦が終わったあと、世界はどうなるのか。3年違いで出た二冊が、正反対の答えを出した。『中世の秋』で読む中世の終わり1件を共有 / ルネサンスの前夜ではなく、中世そのものの終わり方。過剰な儀礼と、死への執着に覆われた14〜15世紀。『モンタイユー』で読む中世の村1件を共有 / ピレネーの村人200人が、異端審問で一人ずつ尋問された。その調書から、村の暮らしが丸ごと出てくる。『暴力と不平等の人類史』で読む格差1件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。『歴史序説』で読む王朝の寿命1件を共有 / 14世紀の北アフリカで、社会には法則があると考えた人がいた。王朝はなぜ三代で衰えるのか。お金の歴史1件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。性の歴史1件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。戦争と平和の歴史1件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。法と裁判の歴史1件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。海の歴史1件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。近代と宗教1件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。住まいの歴史1件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。大学の講義で学ぶ歴史1件を共有 / 東京大学の公開講座や放送大学の動画から、歴史の項目に当たる講義を選んで付けた。研究者が自分の専門を語る、長めの講義が中心になる。