できごと

リュミエールの映画上映

Lumière brothers' first screening
AD1895年12月28日
重要度 5
大英帝国ロシア帝国グリーンランドオスマン帝国ドイツ帝国アラビアポルトガル帝国エジプトペルシアスウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア=ハンガリー帝国フランススペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国Algeria (FR)モロッコイタリアルーマニアブルガリアアイスランドギリシャデンマークセルビアボスニア・ヘルツェゴビナAD1895年12月28日パリ
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概要

グラン・カフェの地下「インドの間」。入場料1フラン。33人。『工場の出口』『水をかけられた散水夫』。50秒ずつ、10本。翌年から上映した『列車の到着』では、列車が向かって来て、客が逃げた、と伝える。シネマトグラフ。撮影機で映写機で焼付機。リュミエール兄弟は「未来のない発明」と言った。翌年、世界中で興行し、日本には1897年。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

リュミエール兄弟AD1862年10月19日–AD1954年4月10日 · 上映した

本文

写真が発明されてから(写真の発明)半世紀あまりのあいだに、人々は止まった写真を動かす方法を探し続けた。少しずつ違う絵を回転する円盤や筒に並べ、すき間からのぞくと動いて見えるおもちゃは、19世紀の家庭に広まっていた。1870年代には、イギリス生まれの写真家マイブリッジが、並べたカメラで走る馬を連続して撮影した。1880年代の末に、薄く柔らかいセルロイドの写真フィルムが作られると、長い連続写真を撮ることが現実になった。

1890年代の前半、いくつもの国で、何人もの人が動く写真に取り組んでいた。アメリカではトーマス・エジソンの研究所が撮影機とキネトスコープを作り、1894年からニューヨークなどで公開した。木の箱の中でフィルムが回り、客は一人ずつ箱の上の穴をのぞいて、数十秒の短い映像を見る。人気は出たが、大勢で一つの画面を見るものではなかった。ドイツでは、スクラダノフスキー兄弟が1895年11月1日、ベルリンの演芸場でスクリーンに映像を映して見せている。だが彼らの装置は2本のフィルムを交互に映す複雑なもので、その後に広まることはなかった。

リュミエール兄弟の肖像
リュミエール兄弟の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

リヨンのリュミエール家は、写真の乾板を作る工場を営んでいた。父アントワーヌが始めた事業を、兄オーギュストと弟ルイの二人の息子(リュミエール兄弟)が大きくし、「青いラベル」と呼ばれた乾板は、フランスでよく売れていた。1894年、パリでエジソンのキネトスコープを見たアントワーヌは、息子たちに、映像を箱の外に出して映せるものを作れないかと持ちかけたといわれる。

装置の仕組みを考えたのは、主に弟のルイだった。映像を映すには、フィルムを1コマずつ送り、止め、光を当て、また送ることを、1秒に何度も繰り返さなければならない。ルイはこれを、ミシンが布を送る仕組みにヒントを得て解いたと伝えられる。フィルムの穴に爪を引っかけて1コマ分だけ引き下ろし、爪が外れているあいだにシャッターを開ける。1秒に16コマほどの速さだった。こうしてできた機械は、手回しのハンドルで動き、撮影にも、映写にも、フィルムの焼き付けにも使えた。重さは5キロほどで、どこへでも持ち運べた。兄弟はこれを、ギリシア語の「動き」と「書く」を組み合わせて「シネマトグラフ」と名づけ、1895年2月に特許を取った。3月にはパリの産業振興の会合で、自分たちの工場の門から従業員が出てくる様子を撮った短い映像を映して見せ、専門家たちを驚かせた。

シネマトグラフ上映の初期の広告ポスター(アンリ・ブリスポ画、1896年)
シネマトグラフ上映の初期の広告ポスター(アンリ・ブリスポ画、1896年)Wikimedia Commons Henri Brispot · Public domain

1895年12月28日、土曜日の夜、パリのカプシーヌ大通りにあるグラン・カフェの地下の一室「インドの間」で、入場料を取る初めての上映会が開かれた。入場料は1フラン。初日の客は30人あまりだったと伝えられる。プログラムは10本の短い作品で、どれも1分に満たなかった。リヨンの工場の出口から女工たちや自転車の男が出てくる場面、オーギュストの夫妻が赤ん坊に食事をさせる場面、鍛冶屋の仕事、海水浴をする人々、そして庭師がホースで水をまいていると、少年がホースを踏んで水を止め、庭師がのぞき込んだ瞬間に足を離して水を浴びせる、という短い喜劇があった。これは最初の劇映画の一つとされる。壁を取り壊す場面をフィルムを逆に回して映し、崩れた壁が立ち上がるのを見せることもあった。

観客を驚かせたのは、筋書きよりも、見慣れた光景がそのまま動いていることだった。木の葉が風に揺れ、湯気が立ち、波が寄せては返す。写真で見慣れた世界が、時間を伴って目の前に現れた。評判は口伝えで広がり、まもなく上映は1日に何度も繰り返され、通りには行列ができた。

北アフリカ兵士を撮影したオートクローム写真(ジャン=バティスト・トゥルナスー撮影、1915年、フランス)
北アフリカ兵士を撮影したオートクローム写真(ジャン=バティスト・トゥルナスー撮影、1915年、フランス)Wikimedia Commons Jean-Baptiste Tournassoud · Public domain

有名な『ラ・シオタ駅への列車の到着』も、まもなく上映されるようになった。蒸気機関車が画面の奥から斜めに迫ってくるこの映像を見て、客が悲鳴を上げて逃げ出したという話がよく語られる。だが当時の記録にそうした騒ぎははっきりとは見えず、後世に誇張された伝説だと考える研究者が多い。この作品は12月28日の最初のプログラムには入っておらず、翌年に入ってから上映されたとする見方が有力である。

客席には、パリで手品の劇場を経営していたジョルジュ・メリエスもいた。彼はすぐに機械を売ってほしいと申し出たが、断られた。アントワーヌは、これは未来の無い発明だ、と言って断ったとも伝えられる。メリエスは別の機械を手に入れて自分で映画を撮りはじめ、手品の技を生かした特撮で、やがて『月世界旅行』(1902年)のような作品を作った。

リュミエール兄弟は、機械を売る代わりに、自分たちで興行を広げた。1896年から、操作を仕込んだ撮影技師たちを世界各地に送り出し、ロンドン、ニューヨーク、ペテルブルク、ボンベイ、メルボルン、メキシコなどで上映会を開いた。技師たちは行った先の街角や祭りや人々を撮影し、その日のうちに現像して上映した。各地で撮られた作品は1400本を超え、19世紀の末の世界の姿を伝える貴重な記録になっている。日本では、リヨンで学んだ実業家の稲畑勝太郎がシネマトグラフを持ち帰り、1897年2月に大阪の南地演舞場で上映した(活動写真の上映)。

兄弟自身は、映画を見世物の一つ、写真の技術の延長と考えていたらしい。映画が物語を語る芸術や大きな産業になっていくなかで、彼らは数年のうちに映画の製作から手を引いた。兄弟が次に力を注いだのは、ジャガイモのでんぷんの粒を使ってカラー写真を撮るオートクロームで、1907年に売り出され、長く使われた。映画はその後、ハリウッドへ、そして音の出る映画(映画がしゃべる)へと進んでいく。グラン・カフェのあった建物の壁には、いまもこの夜の上映を記念する銘板が掛かっている。

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