概要
グラン・カフェの地下「インドの間」。入場料1フラン。33人。『工場の出口』『列車の到着』『水をかけられた散水夫』。50秒ずつ、10本。列車が向かって来て、客が逃げた、と伝える。シネマトグラフ。撮影機で映写機で焼付機。リュミエール兄弟は「未来のない発明」と言った。翌年、世界中で興行し、日本には1897年。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
リュミエール兄弟AD1862年10月19日–AD1954年6月6日 · 上映した本文
動く写真は、1890年代に何人もが作った。エジソンのキネトスコープ(1894年、覗き箱、一人ずつ)、ル・プランス(1888年、リーズで撮影して、1890年に列車で消えた)、スクラダノフスキー兄弟(1895年11月1日、ベルリンで映写した。リュミエールの2か月前。しかし機械が悪く、続かなかった)。
リュミエール兄弟は、リヨンで写真乾板の工場を持っていた(「エチケット・ブルー」、年に1500万枚)。父アントワーヌがパリでキネトスコープを見て、息子に「箱から出せ」と言った。ルイが1894年の冬、眠れない夜に、ミシンの布送りの機構を思いついた。フィルムを間欠的に送る。1秒に16コマ。撮影機と映写機と焼付機が一つ。手回し。5キロ。持ち運べた。「シネマトグラフ」(ギリシア語の「動き」と「書く」)。1895年2月、特許。3月22日、パリの産業奨励協会で科学者に『工場の出口』を見せた。
1895年12月28日、土曜日。パリ、カプシーヌ大通り14番地、グラン・カフェの地下「インドの間」。入場料1フラン。33人。10本。『リヨンのリュミエール工場の出口』(女工が門から出て来る。46秒)、『赤ん坊の食事』(オーギュストと妻と娘)、『ラ・シオタ駅への列車の到着』(列車が斜めに向かって来る。客が驚いて逃げた、という話は、後の伝説の可能性が高い)、『水をかけられた散水夫』(少年がホースを踏んで、散水夫が覗くと水が。最初の喜劇)、『海水浴』、『壁の取り壊し』(逆回転で壁が立ち上がる)。
翌日から毎日、20回上映。2週間で1日2000人。手品師ジョルジュ・メリエスが見て、機械を売ってくれと言い、断られ、自分で作って『月世界旅行』(1902年)。
1896年、リュミエールはカメラマン(オペラトゥール)を世界に送った。ロンドン、ブリュッセル、ウィーン、ニューヨーク、ボンベイ、上海、メキシコ、エジプト。撮って、その場で上映した。1400本。日本には1897年1月、大阪の南地演舞場で、稲畑勝太郎(ルイの同級生)が上映した。
「映画は未来のない発明だ」とアントワーヌがメリエスに言った、と伝える。兄弟は1905年に映画の事業をやめて、カラー写真(オートクローム、1907年)へ。