教育の歴史

概要
子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。
この物語について
子どもが毎日学校へ行くのは、いつから当たり前になったのか。誰が、誰に、何のために教えてきたのか。
人に何かを教える営みは、ずっとあった。だが「国が、すべての子どもを、同じ年数、学校に入れる」という形ができたのは、二百年ほど前になる。それ以前の教育は、目的がはっきり分かれていた。役人を選ぶため、神の言葉を読むため、家業を継ぐため、修行のため。
教える場所も、国ではなかった。僧院、モスク、書院、寺、親方の仕事場。誰が入れるかも決まっていて、多くの土地で、女と貧しい者は最初から外にいた。
最初に文字を学んだのは、書記になる者たちだった。メソポタミアでは、粘土板に楔形の文字を刻む技を、書記の学校で何年もかけて身につけた。知識を持つことは、支配する側に属することでもあった。前7世紀のアッシリアの王が都ニネヴェに集めた粘土板の山、ニネヴェの図書館は、王が知識を手元に集めることの意味を示している。

ギリシアでは、教えるための場所が初めて制度になった。前4世紀の初め、プラトンはアテナイの郊外に学園を開いた。プラトンのアカデメイアは、数学と哲学を学ぶ者が集まる場として、900年近く続いたとされる。それが閉じられたのは、6世紀、キリスト教の皇帝が異教の哲学を教えることを禁じたときだった。教える場所が、信仰の都合で閉じられることもある。
東アジアでは、学問は役人になる道と結びついた。漢の武帝の時代、儒学が国の学問として採られ、儒学の経典を学んだ者が官僚に登用されるようになる。6世紀の末、隋は、生まれではなく試験で役人を選ぶ仕組みを始めた。科挙の始まりである。この仕組みは、王朝が替わっても受け継がれ、1905年に廃止されるまで1300年あまり続いた。宋の時代になると、科挙に受かるための勉強が社会の中心になり、地方の名家は子どもを何年も机に向かわせた。教える者の原型として、東アジアでは孔子の姿が千年以上参照され続けた。
宗教もまた、学びの場を作った。5世紀のインドに開かれたナーランダー僧院は、各地から学僧が集まる寄宿制の学問所で、7世紀には唐の玄奘もここで学んだ。10世紀のカイロに建てられたアズハルは、モスクに付属する学院として、いまも続いている。ヨーロッパでは、8世紀末にカール大帝が宮廷に学校を置き、聖書を正しく読める聖職者を育てようとした。
12世紀から13世紀にかけて、ヨーロッパに大学が生まれた。ボローニャでは、法律を学びに集まった学生たちが組合を作り、金を出して教師を雇った。パリでは、逆に教師たちの組合が大学になった。大学という言葉は、もともと組合を意味していた。同じころの中国では、朱熹が国の学校とは別に書院を再興し、日本では禅寺が学問と外交の担い手になった。
15世紀の半ば、グーテンベルクの活版印刷が、同じ本を大量に刷って配ることを可能にした。それまで一冊ずつ手で写していた本が安くなり、教える者の手元にも学ぶ者の手元にも、同じ文章が届くようになる。16世紀に生まれたイエズス会は、教育を布教の手段として組織し、ヨーロッパから日本まで各地に学校を開いた。

江戸時代の日本では、国ではなく町と村が、読み書き算盤を教えた。寺子屋は、僧侶や浪人や町人が師匠となって子どもを集めた私塾で、幕末には全国に数多くあった。商いには、字が読めて計算ができることが欠かせなかった。教材には、手紙の文例や商売の言葉、地名などを集めた往来物と呼ばれる本が使われ、子どもたちはそれを手本に、一人ひとり自分の進み具合で手習いをした。全員が同じ時間に同じことを学ぶ教室とは、ずいぶん違う風景である。
国がすべての子どもを学校に入れるという考えは、ヨーロッパの国々から現れた。18世紀のプロイセンは、子どもを学校に通わせることを親の義務と定めた。プロイセンの義務教育は、のちの義務教育の先駆けとされる。同じころ、スイスのペスタロッチは孤児たちと暮らしながら、教え方そのものを考える対象にした。19世紀の初めには、ベルリンに研究しながら教えるという新しい大学が生まれた。

義務教育は、優しさから生まれたのではない。命令を読める兵、機械を扱える工員、同じ言葉で話す国民が要るようになった国が、子どもを親の手から一日かけて預かる仕組みを作った。読み書きが広がったことと、国が国民を作ろうとしたことは、同じ動きの裏と表になる。
日本では、1872年の学制の公布で、全国に小学校を置くことが決まった。同じ年、福沢諭吉の『学問のすゝめ』は、人は学ぶかどうかで分かれるのだと説き、学べば身分は変えられると多くの若者に思わせた。はじめは授業料の負担もあって、学校に通わない子も多かった。授業料が無くなった20世紀の初めには、就学率は9割を超える。一方、1890年の教育勅語は、教育を、天皇に尽くす国民を作るための道具として定義した。読み書きを広げることと、国家が心まで形づくろうとすることが、ここでも一緒に進んだ。

学校が誰に開かれていたかも、時代ごとに広がってきた。18世紀のパリでは、聞こえない子に手話で教える学校が開かれ、19世紀には、見えない子が指で読み書きできる点字が考案された。1887年、見えず聞こえない七歳のヘレン・ケラーは、手のひらに書かれた文字と、井戸の水の冷たさが結びついたとき、言葉というものを知った。日本では1900年、津田梅子が女性のための高等教育の場を開いた。アメリカでは1954年のブラウン判決が、黒人と白人の子どもを別の学校に分けること自体が不平等だと判断した。
学校が人を選り分ける装置にもなった。20世紀の初めにフランスで作られた知能検査は、助けの要る子を見つけるための道具だったが、やがて人を序列づけ、排除するためにも使われた。日本では、受験と学歴が人生を左右する社会ができあがった。カナダでは、先住民の子どもたちを家族から引き離して寄宿学校に入れ、自分たちの言葉を話すことを禁じた。教育は、奪う手段にもなりえた。
学校が政治によって壊された時代もある。中国の文化大革命では、教師が吊し上げられ、大学の入学試験は10年あまり止まった。いまも、学校へ行くことが命を懸ける行為になる土地がある。2012年、パキスタンで女子の教育を訴えていた15歳のマララ・ユスフザイは、通学のバスの中で銃撃された。生き延びた彼女は、2年後にノーベル平和賞を受けた。2021年にアフガニスタンでタリバンが復権すると、女子の中等教育は再び閉ざされた。

教育は、誰かが与える恩恵から、子ども自身の権利へと考え方が移ってきた。1989年に国連で採択された子どもの権利条約は、教育を受けることを子どもの権利として定めている。それでも、学校に通えない子どもは、いまも世界に数多くいる。
この物語は、教える側の目的が何だったかを軸に並べたものになる。いま自分が受けた教育が、どの目的の子孫なのかを考える材料になる。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(78)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ニネヴェの図書館できごとBC7世紀半ば王が集めた粘土板。知識を持つことが支配の一部だった各地から集めた粘土板3万点あまり。BC612年に宮殿が焼けたとき、粘土が焼き固まって残った。『ギルガメシュ叙事詩』が読めるのはこの火事のおかげになる。ニネヴェ

- 孔子人物BC551年 – BC479年教える者の原型として、東アジアで千年参照され続けた礼と仁を説き、その言行が『論語』にまとめられた。東アジアの秩序観の土台になる。
- プラトンのアカデメイアできごとBC387年教えるための場所が、初めて制度になる900年続いた学園。アリストテレスもここで学ぶ。「アカデミー」の語源になる。アテナイ
- アレクサンドリアの図書館できごとBC3世紀王の金で知を集める。写し続けなければ減っていくプトレマイオス朝の王たちは、世界中の書物を一か所に集めようとした。港に入る船はすべて臨検され、積んでいた巻物は没収されて写しが作られる。返されたのは写しのほうで、原本は図書館に残されたと伝えられる。アテナイから借りた悲劇の台本も、高額の保証金を捨てて返さなかったという。集めるだけでなく、整理もした。カリマコスは蔵書を分野と著者ごとに並べた目録を作り、これが図書目録の始まりとされる。焼失の時期も原因も一つに定まらない。むしろ、支援が細り、学者が去り、写しを取る人がいなくなって、少しずつ失われていった。アレクサンドリア
- 儒学の官学化できごとBC136年学問が、官僚になるための道として国に採られた武帝が五経博士を置き、董仲舒の献策で儒学が国の学問になった。以後2000年、官僚は儒学の経典で選ばれる。長安
- ナーランダー僧院の創建できごとAD5世紀前半各地から学僧が集まる、寄宿制の大学数千人が学ぶ、記録に残る最古級の大学になる。中国、朝鮮、チベット、スリランカから留学生が来た。玄奘も5年ここで学んでいる。ナーランダー
- アテナイのアカデメイア閉鎖できごとAD529年教える場所が、信仰の都合で閉じられることもあるユスティニアヌスが異教の学校を閉じた。古代の学問が公に終わった年としてよく引かれるが、学者は東へ移って続けている。アテナイ
- 科挙の始まりできごとAD605年生まれではなく試験で役人を選ぶ。千三百年続く仕組みそれまで官吏は、家柄と推薦で選ばれた。九品官人法の下で、有力な家が官職を世襲した。隋の文帝が推薦制を廃し、煬帝が進士科を置いた。試験の成績で選ぶ。唐で制度が整い、宋で決定的になった。宋代には、答案から名前を隠し(糊名)、筆跡で分からないよう書記が写し直した(謄録)。合格率は数千分の一。試験は3日3晩、独房のような号舎に籠って行われた。家柄でなく試験で人を選ぶという考え方は、ここから世界へ広がった。長安
- アーヘンの宮廷学校できごとAD782年読める聖職者を作るために、王が学校を置いたカール大帝がヨークからアルクィンを招き、宮廷に学校を置いた。古典の写本が集められ、読みやすい小文字の書体が作られた。いまのローマ字の小文字は、この書体から来ている。アーヘン
- 高麗の科挙できごとAD958年科挙が国境を越えて移植される光宗が後周から来た双冀の勧めで科挙を始めた。それまでの豪族の家柄でなく、試験で。同時に奴婢按検法で豪族の私奴を減らした。豪族を殺し、王の力を作った。朝鮮の科挙は1894年まで続いた。開城
- アズハル学院の創設できごとAD972年モスクに付属する学院。いまも続く現存する最古級の大学。1000年以上、イスラム世界の学問の中心であり続ける。カイロ
- 宋の科挙と士大夫できごとAD1000年頃試験に受かるための勉強が、社会の中心になった唐の科挙の合格者は年に数十人で、貴族の家の子が多かった。宋は合格者を年数百人に増やし、皇帝自身が最終試験(殿試)を行った。合格者は皇帝の門下生になる。武人の力を削ぎ、文人の官僚が国を運営する体制ができた。受験のための出版が栄え、印刷術が広まった。「万般皆下品、惟有読書高」。同時に、受験は一族の投資になった。一人を合格させるために、村や一族が学費を出し、合格すれば免税と地位が一族に及んだ。開封
- ボローニャ大学の創立できごとAD1088年学生が金を出して教師を雇う形の大学現存する最古の大学。学生が教師を雇う組合として始まり、法学の研究から発展した。ボローニャ
- 朱熹の白鹿洞書院できごとAD1179年国の学校とは別に、私の書院で学ぶ廬山の麓の廃れた書院を建て直し、学規を定めた。父子の親、君臣の義から始まる五つの教え。朱子学の学校の手本になり、朝鮮の書院と日本の藩校がこれを写した。廬山
- パリ大学の成立できごとAD1200年頃教師の組合としての大学ノートルダムの学校に集まった教師と学生が組合を作り、王から市の裁判権を免れる特権を得た。神学の中心になり、トマス・アクィナスが教えた。ボローニャと並ぶ、大学というものの原型。パリ
- 眼鏡の発明できごとAD1286年頃老いても読み続けられるようになった1306年、ピサのジョルダーノが説教で述べている。眼鏡が作られるようになってから二十年経たない、自分はそれを作った人物に会って話した、と。名は伏せられている。凸レンズを二枚、革か骨の枠に留め、鼻に載せる。老眼で読み書きができなくなった写字生と学者が、その後も働けるようになった。読む人の労働年数が延びた。凹レンズによる近視の矯正は15世紀である。ヨーロッパでガラスの光学が進んだ背景に、この日用品がある。ピサ
- 五山の制できごとAD1386年禅寺が学問と外交の担い手になる足利義満が、京都と鎌倉の禅寺に序列を定めた。南禅寺を五山の上に置き、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山とした。幕府が住持を任命し、寺は幕府の外交(明との勘合貿易の文書)と、財政(祠堂銭の金融)を担った。五山の僧が漢詩文を作り、宋学を読み、印刷し(五山版)、日本の学問の中心になった。禅が、政治の制度になった。京都
- グーテンベルクの活版印刷できごとAD1455年頃同じ本を大量に配れることが、教え方を変えた書物が手写しから機械の複製になった。考えが広がる速さが根本から変わる。

- 食卓の作法できごとAD1530年エラスムスが少年向けに書いた礼儀作法の本は、印刷されて版を重ね、各国語に訳された。鼻を手でかまない、食卓で骨を投げない、共用の皿に手を突っ込む前に指を舐めない。逆に言えば、それが当たり前だった。作法の本が売れたのは、身分が固定されなくなり、振る舞いで人を測る場面が増えたからになる。宮廷や都市で新しく上に来た人々が、教わらずに済ませられない。恥ずかしさという感覚が、ここで社会の側から作られていく。バーゼル
- イエズス会の創立できごとAD1540年9月27日教育を布教の手段として組織したバスクの元軍人イグナティウス・デ・ロヨラが、砲弾で足を砕かれた療養中に聖人伝を読んで転じた。1534年、パリのモンマルトルで7人が誓い、1540年、教皇パウルス3世が認可した。修道院に籠もらず、世界へ出る。教皇への「第四の誓願」。『霊操』による訓練。学校を作った(100年で500校)。ザビエル、リッチ、ヴァリニャーノ、そして南米の布教区。1773年に一度解散させられ、1814年に再興された。ローマ
- 熊野比丘尼の絵解きできごとAD16世紀字を読めない人に、絵と声で教える戦国の世、熊野の社寺は荒れた建物を直す金に困り、尼の姿をした女たちを諸国に送り出した。女たちは巻いた大きな絵を持ち歩き、村の辻や家の軒先で広げて語った。上のほうには、生まれた子が坂を登って老い、坂を下って死ぬまでの一生が描かれている。その下には地獄があり、血の池や、子を産まなかった女が落ちる地獄も描かれている。字の読めない女や子どもが、絵を指でたどりながら話を聞き、寄進をした。字を使わずに教えを運んだのは、紙の上の絵と、語る声だった。熊野(位置は特定されていない)
- 算盤と読み書き算盤できごとAD17世紀計算ができることが、商いの資格になる中国の算盤が室町の終わりに伝わり、日本で珠の数を減らした形に変わった。上に一つ、下に四つ。1627年、吉田光由の『塵劫記』が出る。米の売買、面積、両替、旅の日数を、絵入りで解いてみせた。海賊版が溢れるほど売れ、寺子屋の教科書になった。武士のためではなく、商人と百姓のための数学である。答えを載せない問題を巻末に置く習慣が生まれ、解いた者がまた本を出す。和算という、実務から離れた数学の伝統が、その連鎖から育った。江戸
- 正座が広まるできごとAD17〜18世紀室町の頃までの日本では、あぐらや立て膝がふつうの座り方で、女性も立て膝で座った。部屋一面に畳を敷く造りが広がり、武家の礼法が改まった場での座り方を定めるなかで、膝を揃えて踵の上に座る形が礼儀の姿勢になっていく。庶民に広まったのは江戸の中頃からと言われる。「正座」という呼び名が定着するのは明治で、学校の教科書が正しい座り方として教えた。昔からの伝統に見えるものが、案外新しいことがある。江戸
- 誰でも入れる博物館できごとAD1753年医師ハンス・スローンは、生涯に七万点を超える標本と書物と骨董を集めた。死に際して、国が二万ポンドを遺族に払うなら国に譲る、と遺言する。議会はくじの収益でその金を作り、1753年、博物館を設立した。王や貴族の私的な陳列室ではなく、国の所有で、誰でも無料で入れると定めた点が新しい。当初は入館に申し込みが必要で、順番待ちが数週間あったが、やがて自由に入れるようになる。集められた品の多くは、奴隷交易と植民地から来ている。返還を求める声は、いまも続いている。ロンドン
- ろう学校と手話できごとAD1760年頃聞こえない子に、手話で教えるパリの司祭ド・レペが、街で出会った二人のろうの姉妹に教えるところから始めた。彼はろう者が既に互いの間で使っていた身振りの言葉に気づき、それを土台にした。ここが重要である。話し言葉を教え込むのではなく、彼らの言葉で教える。1760年頃に無償の学校を開き、公開の授業で生徒に質問させて世に示した。フランス手話がここから広がり、ガローデットがアメリカへ運んだ。一方、19世紀後半には口話法が優勢になり、多くの国で手話が学校から締め出された。パリ
- ルソー『エミール』できごとAD1762年子どもは小さな大人ではない1762年、ジャン=ジャック・ルソーは、架空の少年エミールを家庭教師が育てていく物語の形で、教育の本を出した。子どもは小さな大人ではなく、子どもには子どもの見方、考え方、感じ方がある。大人の知識を早くから詰め込まず、自然の中で、自分の体と感覚で学ばせよ。そう説いたこの本は、宗教を論じた部分がとがめられてパリの高等法院に焼かれ、ルソーは逮捕を逃れて国を出た。だが本は広く読まれ、ペスタロッチやフレーベルの教育を通じて、子ども時代を人生の特別な時期と見る考えを育てた。ルソー自身は、自分の5人の子をみな孤児院に預けていた。パリ
- プロイセンの義務教育できごとAD1763年国が全員を学校に入れる。義務教育の先駆けフリードリヒ2世が一般地方学事通則を出し、5歳から13歳の子に就学を義務づけた。七年戦争の直後である。目的は、読み書きできる兵士と、従順で勤勉な臣民を作ることだった。教員の養成、教科の指定、そして出席の強制。19世紀に整備が進み、学年制、時間割、卒業試験(アビトゥア)が揃った。この模型が、日本、アメリカ、フランス、そして世界中に写された。近代の学校の形は、ほとんどがここに遡る。ベルリン
- 切り分けた地図できごとAD1766年学ぶ道具が、時間を過ごす道具になったロンドンの地図職人ジョン・スピルズベリーは、地図を板に貼り、国境に沿って切り分けた。子どもがばらばらの国を組み直すうちに、地理を覚えるという教材である。のちに糸鋸で切るようになってジグソーパズルと呼ばれる。はじめは学ぶための道具で、裕福な家の子どもしか持てなかった。二十世紀に厚紙を型で打ち抜くようになって安くなり、大恐慌のアメリカでは、仕事の無い大人の時間を埋める娯楽として売れた。ロンドン
- ペスタロッチのシュタンツ孤児院できごとAD1799年1月教え方そのものを考える対象にしたフランス軍がニトヴァルデンの村を焼き、孤児が残った。52歳の破産した農場主が、一人で、80人の子供と修道院の建物に住んだ。「私は彼らと泣き、彼らと笑った」。頭と心と手。生活が教育。半年で、軍が建物を野戦病院に取り、終わった。『シュタンツ便り』。イヴェルドンの学校(1805〜25年)に、ヨーロッパ中から教師が見に来た。シュタンツ
- 寺子屋できごとAD1800年頃国ではなく町と村が、読み書き算盤を教えた江戸の後期、町と村に無数の私塾があった。師匠は僧、神官、浪人、医者、そして女性。一部屋に年齢のばらばらな子が集まり、それぞれ違う手本を写す。一斉授業ではない。教えたのは「読み書き算盤」と、往来物と呼ばれる実用の教科書(商売往来、百姓往来)。全国で1万数千以上あったとされる。幕末の日本の識字率は、男子で4割前後という推計がある。国家が作った制度ではなく、需要に応じて自然に増えた。江戸

- 黒板できごとAD1801年一人が大勢に教える授業の形が、この道具で成り立った一人ずつ石板に書かせていた授業では、教師は席を回って直すしかない。全員に同じものを見せる手立てがなかった。十九世紀の初め、スコットランドの教師が、壁ほどの大きさの黒い板に白墨で書いて示すことを始めたとされる。同じ図を四十人が同時に見る。説明しながら書き、書きながら消せる。これで、一人の教師が大勢を教える授業の形が成り立った。教室の前に黒板があり、机が同じ向きに並ぶ配置は、この道具から決まっている。安く、壊れず、電気も要らない。二百年使われ続けた教具になる。エディンバラ
- 貸本屋できごとAD1808年(文化5年)買わずに読む。庶民の読書を支えた仕組み本は高い。木版で刷り、紙も墨も手間も高くつく。江戸の庶民が読んでいたのは、買った本ではなく借りた本だった。貸本屋は背丈ほどの本を風呂敷に包んで背負い、得意先の家を順に回る。読み終えたころにまた来て、次を置いていく。文化5年、江戸には六百五十軒を超える貸本屋があり、客は十万人を超えたと見られている。同じ一冊が何十人もの手に渡るので、刷った部数より読者はずっと多い。滝沢馬琴の長い物語が続きものとして成り立ったのは、この仕組みがあったからになる。東京
- フンボルトの大学できごとAD1810年研究しながら教える、という大学の形ナポレオンに敗れ、領土の半分を失った直後のプロイセンで、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトが新しい大学を構想した。中世以来の大学は、既にある知識を教える場所だった。彼はそこに研究を持ち込んだ。教授は自分の研究を教え、学生はその研究に参加する(研究と教育の一致)。国家が金を出すが、内容には介入しない(学問の自由)。実験室とゼミナールが中核になった。19世紀後半、アメリカと日本の大学が、この形を輸入した。ベルリン
- 点字の考案できごとAD1824年見えない子が、自分で読み書きできるようになるルイ・ブライユは3歳のとき、父の革細工の錐で目を突いて失明した。パリの盲学校の生徒だったころ、軍人シャルル・バルビエが「夜間文字」——暗闇で読める12点の符号——を持ち込んだ。ブライユは、指の腹で一度に触れる大きさが要ると考え、点を6つに減らした。縦3×横2。64通り。文字も、数字も、句読点も、そして楽譜も書ける。15歳で完成させた。盲人が自分で書けるようになった最初の体系である。学校が公式に採用したのは、彼の死の2年後だった。パリ

- 石板できごとAD19世紀学びの記録が残るのは、紙が安くなってからになる紙が高かったころ、子どもは薄い石の板に石筆で書いた。書いては拭き、また書く。何度でも使えるので、家計にも学校の予算にも優しい。イギリスやアメリカの教室では、一人一枚の石板が基本の道具だった。欠点もある。書いたものが残らないので、昨日の間違いを見返せない。唾で拭くので不衛生だと、衛生の議論が高まった時期に批判された。紙が安くなると、石板はノートに置き換わる。学びの記録が残るようになったのは、紙の値段が下がってからになる。ロンドン
- 福沢諭吉人物1835年 – 1901年学ぶことと独立を結びつけた幕府の使節として欧米を見て回り、『学問のすゝめ』で新しい世の考え方を広めた。
- 公共図書館法できごとAD1850年読ませると働かなくなる、と反対された本を読む場所は、それまで金を払って入る会員制の閲覧室だった。1850年、イギリスの議会は、自治体が税で図書館を作り、誰でも無料で入れるようにしてよいという法律を通した。反対もあった。労働者に読ませれば仕事をしなくなる、酒場の代わりにはならない、税の無駄だ。可決された条文は、集められる税をごくわずかに抑え、本を買う費用は含まないという、腰の引けたものだった。それでも1852年、マンチェスターが最初の無料図書館を開く。読みたい人が、金を払わずに本に触れられる。その建前が、ここで初めて公のものになった。マンチェスター
- 漢字御廃止之議できごとAD1867年(慶応2年12月)漢字をやめて教育を広める幕府の開成所で翻訳の仕事をしていた前島来輔(のちの前島密)は、慶応2年の暮れ、将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之議」を差し出したとされる(原本は無く、文面は明治に本人が公表したもの)。国を強くするには国民の教育を広めなければならないが、何千もの漢字を覚えるのに子どもは長い年月を費やし、肝心の知識を学ぶ暇がない。西洋のように、音を表す文字だけで教えるべきだと説き、仮名で書くことを提案した。建白は取り上げられなかったが、前島は明治になって郵便の制度を作り、仮名の新聞も出した。漢字を減らし、あるいはやめようという議論は、ここから戦後まで繰り返されることになる。江戸
- 学制の公布できごとAD1872年9月5日(明治5年8月3日)日本が全国に学校を置くと決めた日「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」。全国を8大学区、256中学区、5万3760小学区に分けた。授業料は親の負担で、就学率は最初3割。学校が焼き討ちされた県もある。それでも30年で9割になった。東京
- 『学問のすゝめ』できごと1872年学べば身分は変えられる、という宣言「天は人の上に人を造らず」。300万部以上が読まれ、新しい世の考え方が広まった。東京
- ジャディード運動できごと1883年イスラーム世界の新しい学校運動ロシア帝国のムスリム知識人が、新しい方式の学校と新聞で改革を試みた。宗教を捨てずに近代化するという道は、革命後のソビエトに潰される。バフチサライ

- カーネギー図書館できごとAD1883年建物は寄付、運営費は町の負担という条件鉄鋼で巨万の富を築いたアンドリュー・カーネギーは、少年時代に働きながら、ある篤志家が私設の蔵書を若者に開放してくれたことを恩に感じていた。1883年、故郷スコットランドのダンファームリンに図書館を寄贈したのを皮切りに、英語圏を中心に二千五百を超える図書館を建てた。ただし建物だけである。土地を用意し、毎年の運営費を出し続けることを、町の側に約束させた。金を出すだけでは続かないと考えたからになる。労働争議で人を撃たせた経営者でもある彼が、その富をこう使ったことを、どう評価するかは、いまも分かれる。ダンファームリン
- 先住民寄宿学校できごとAD1883年1880年代から、カナダの政府は、先住民の子どもを親から引き離し、教会が運営する寄宿学校に入れる政策を進めた。子どもの中のインディアンを殺す、と言われた同化の政策である。自分の言葉を話すと罰され、病気や栄養不足で多くの子が死に、暴力や性的な虐待も起きた。最後の学校が閉じたのは1996年だった。2008年に首相が謝罪し、2021年、カムループスの学校の跡地で、多くの子どもの墓とみられる痕跡が見つかったと報告された。カムループス
- 砂場できごとAD1885年都市の子どもは、路地と道路で遊んでいた。馬車と、のちに自動車が走る場所である。ベルリンで砂の山が子どもの遊び場になっているのを見た医師の紹介で、1885年、ボストンの慈善団体が空き地に砂を積んだ。監督する大人を置いたのが新しい。遊びを危険から守り、同時に、街頭の子どもを目の届く場所に集める狙いもあった。やがて滑り台とブランコが並び、学校と公園に設けられていく。子どもが遊ぶ場所を、大人が設計して与える。それが当たり前になったのは、この百数十年のことになる。ボストン
- ヘレン・ケラーが言葉を得た日できごとAD1887年4月5日言葉が届いた瞬間。教えることの極北井戸の水を手に受けながら、指に w-a-t-e-r と綴られた。それが名前だと分かった。その日のうちに30の語を覚えたと伝わる。タスカンビア
- 学校給食できごとAD1889年(明治22年)全員に配れば、貧富が見えなくなる山形の鶴岡で、貧しい家の子に昼食を出す試みが始まった。寺の僧が寄付を集め、握り飯と焼き魚と漬物を配ったと伝えられる。弁当を持って来られない子は、昼に姿を消していた。同じ試みが各地に広がり、やがて国の制度になる。戦後は、アメリカからの小麦と脱脂粉乳が配られ、パンと牛乳の献立が定着した。栄養を補うためだけではない。全員が同じものを食べることで、家の貧富が見えなくなる。給食は、教育の一部として設計された食事になる。鶴岡
- 教育勅語できごとAD1890年10月30日教育が、国民を作るための道具として定義された315字。父母に孝、兄弟に友、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」。井上毅と元田永孚が書いた。学校で暗誦させ、御真影と共に奉安殿に置いた。1948年、国会が失効を決議した。東京

- 「国語」と標準語できごとAD1894年方言札明治のはじめ、日本の言葉は地方ごとにまったく違い、薩摩の人と津軽の人では話が通じなかった。書き言葉も、漢文訓読体、候文、和文と分かれていた。1894年、ドイツで言語学を学んで帰国した上田万年は、日清戦争のさなか、「国語と国家と」と題する講演で、国の言葉は国民の精神の血であると説いた。1900年、小学校の教科として「国語」が生まれ、1902年には国の機関が東京の教養ある人々の話し言葉をもとに標準語を定めることを方針にした。教科書を通じて標準語は全国に広がったが、学校で方言を話した子どもに罰の札を下げさせる地域もあった。東京
- 子どもを別に裁くできごとAD1899年十九世紀まで、七歳を超えた子どもは大人と同じ法廷で裁かれ、同じ監獄に入れられた。刑務所で犯罪を学んで出てくる、と指摘されていた。1899年、シカゴのあるイリノイ州が、子どものための裁判所を作る。裁くのではなく、その子にとって何が最善かを決める場だとされた。非公開で、記録は残さず、判事は後見人のように振る舞う。処遇の幅は広く、家庭に戻すことも、施設に送ることもできる。守るための仕組みは、同時に、罪を犯していない子まで施設に送る力にもなった。手続きの保障が入るのは、七十年後になる。シカゴ
- 女子英学塾の創設できごとAD1900年女性が高等教育を受ける場を作る6歳で渡米した女性が、帰国後に女性のための高等教育の場を作った。東京
- 同じ教科書できごとAD1903年(明治36年)同じ教科書は、平等の道具でも統制の道具でもある明治の初めは、学校ごとに教科書を選んでいた。やがて国が検定する制度になり、1902年、その採用をめぐる大規模な贈収賄が発覚する。教科書会社と地方の役人、校長が処分された。政府はこれを機に、翌年から国が編集した教科書だけを使う国定制に切り替える。全国の子どもが、同じ日に同じ頁を開く。言葉も、歴史の語り方も揃った。教育の水準を保つ仕組みであり、同時に、何を教えるかを一か所で決める仕組みでもある。敗戦後、この制度は検定制に戻された。東京
- 知能を数にするできごとAD1905年助けるための道具が、排除のために使われたフランスが義務教育を広げると、授業についていけない子をどう見つけるかが問題になった。教師の印象で選べば、貧しい家の子や行儀の悪い子が選ばれてしまう。ビネーとシモンは、年齢ごとにできることを並べた課題の表を作り、実際の年齢とのずれで判断する方法を考えた。目的は、補習を必要とする子を見つけることである。ビネー自身、知能は変えられないものではないと書いていた。この道具がアメリカへ渡ると、意味が変わる。数値は生まれつきの能力の指標とされ、移民の選別や断種の根拠に使われた。パリ
- モンテッソーリの子どもの家できごとAD1907年1月6日子どもの側から教育を組み立て直すローマのスラム、サン・ロレンツォ地区。親が働く間、放置されていた3歳から6歳の子ども50人余りを預かる施設として始まった。医師マリア・モンテッソーリは、知的障害児の教育で用いた教具を、ここで健常児に試した。子どもは自分で教具を選び、集中し、繰り返し、そして満足すると自分で片付けた。大人が教え込むのではなく、環境を整えて子どもが自分で学ぶのを待つ。子どもの背丈に合わせた家具も、彼女の考案である。ローマ
- ボーイスカウトの始まりできごとAD1907年8月1日野外で少年を育てるイギリスの軍人ロバート・ベーデン=パウエルは、南アフリカのボーア戦争で、包囲された町マフェキングを7か月守り抜いて英雄になった。包囲の間、少年たちを伝令や見張りに使った経験から、野外の生活で少年を鍛える方法を考えた。1907年8月、彼はイングランド南部のブラウンシー島に、階層の違うおよそ20人の少年を集めて、キャンプを開いた。少年たちは小さな班に分かれ、火のおこし方、追跡、救急法を学んだ。翌年出した『スカウティング・フォア・ボーイズ』は大評判になり、ボーイスカウトの運動は世界に広がった。1910年には少女のためのガールガイドも生まれた。ブラウンシー島
- 受験と学歴できごとAD1918年教育が、人を選別する装置になる1872年の学制で学校ができ、1886年の学校令で帝国大学を頂点とする階梯が固まった。中学、高等学校、帝国大学。定員が限られ、入るには試験がある。1918年の高等学校令で高校が増設されたが、競争は緩まなかった。新聞が合格者名を載せ、「受験地獄」の語が大正期に定着した。家柄でなく試験で人を選ぶという建前は、機会を開くと同時に、失敗を本人の責任にした。予備校、模擬試験、偏差値(1960年代)。科挙と同じ構造が、別の形で現れた。東京
- 『赤い鳥』の創刊できごとAD1918年7月1日綴り方1918年7月、作家の鈴木三重吉は、子どものための文芸の雑誌『赤い鳥』を創刊した。それまでの子どもの読み物は、教訓めいたお話や講談が多かった。三重吉は、一流の作家たちに子どものための芸術を書いてほしいと頼み、創刊号には芥川龍之介の「蜘蛛の糸」が載った。有島武郎の「一房の葡萄」、新美南吉の「ごん狐」も、この雑誌から生まれた。北原白秋は童謡を書き、山田耕筰らが曲をつけた。子どもたちの作文や詩も募集し、ありのままを書く綴り方を広めた。雑誌は、大正の子どもの文化と童話・童謡の運動の中心になった。東京
- 箱根駅伝できごとAD1920年2月14日選考会のほうが残ったオリンピックのマラソンに出て途中で倒れた金栗四三は、世界と戦える長距離の走者を育てたいと考えた。アメリカ大陸を走って横断する計画のための選考会として、大学の学生が東京と箱根のあいだの山道を、たすきをつないで走る競走が企画される。1920年2月14日、四校が参加して第一回が開かれた。やがて正月の二日と三日の恒例になり、テレビで全国に中継される。一人の走者の夢から始まった大会が、国の正月の風景の一部になった。箱根
- セーラー服できごとAD1920年代初め軍の服が、少女の服の型になった明治の女学生は袴で通った。大正の半ば、体を動かしやすく、洋服を着る練習にもなる服として、女学校が水兵の服を手本にした制服を取り入れ始める。1920年代のはじめ、京都や福岡の女学校のものが早い例とされる。安く、洗え、誰が着ても似た姿になる。昭和のうちに全国へ広がり、女子学生の姿そのものになった。やがて学校の個性を示すために、スカーフの色や襟の線で区別するようになる。軍の服が、少女の服の型になった。京都
- 壁に描かれた歴史できごとAD1923年から学校が建つのを待たず、壁で歴史を教えた革命のあとのメキシコで、教育相になったバスコンセロスは、国民の大半が字を読めないという現実に向き合った。学校を建てるのには年月がかかる。彼は画家たちに、役所や学校の壁を開け放った。ディエゴ・リベラは、もとは修道院だった教育省の建物に、五年をかけて百を超える場面を描いた。畑を耕す農民、鉱山の労働者、先住民の祭り。そこに描かれたのは、王や将軍ではなく、名もない人々の国だった。かつて修道士たちが、字の読めない先住民に壁の絵で教えを説いたのと同じ場所で、今度は国が、自分たちの歴史を壁に描いた。メキシコシティ
- 甲子園球場できごとAD1924年8月1日部活動の大会が、国民的な行事に新聞社が1915年に始めた全国の中学校の野球大会は、観客が増えすぎて、それまでの球場では入りきらなくなった。鉄道会社は、兵庫の川の跡地に、東洋一の大きな球場を造る。1924年8月1日に完成した。その年の干支が甲子であったことから、甲子園と名付けられる。以後、夏の高校野球はここで行われ、負けたチームが土を持ち帰る習わしも生まれた。学校の部活動の大会が、国民的な行事になった。西宮
- 数を絵で見せるできごとAD1925年学校に通えなかった人にも数字を見せる社会党が市政を握った「赤いウィーン」で、哲学者オットー・ノイラートは、社会と経済の博物館を開いた。住宅はいくつ足りないのか、乳児はどれだけ死んでいるのか。そうした数字を、学校に通えなかった労働者にも見てもらいたい。そこで、人や家や工場を簡単な形の記号にし、一つの記号が決まった数を表すと決めた。数が倍なら、記号を大きくするのではなく、数を倍に並べる。版画家ゲルト・アルンツが、その記号を一つずつ彫った。のちにこの方式はイソタイプと名づけられ、いまの図表や案内の記号の祖先になった。ウィーン
- スコープス裁判できごとAD1925年7月10日進化論を教えた教師の裁判1925年、テネシー州は、公立学校で、人が下等な動物から生じたという説を教えることを禁じる法を作った。自由人権協会が、この法を法廷で争う教師を探していると知ったデイトンの町の人々は、町の名を売るために、若い教師ジョン・スコープスを説き伏せ、わざと訴えさせた。7月、小さな郡の裁判所に全国から記者が押し寄せ、裁判はラジオで中継された。検察には三度大統領選挙に出た政治家ブライアン、弁護には名高い弁護士ダロウ。ダロウはブライアンを証人に呼び、聖書を文字どおりに読むことの矛盾を問い詰めた。スコープスは有罪になり、罰金100ドルを科された。デイトン(テネシー州)
- トルコの文字改革できごとAD1928年11月1日オスマン帝国のトルコ語は、アラビア文字で書かれていた。だがアラビア文字は母音を表しにくく、トルコ語の音に合わなかった。読み書きのできる人は国民の一割ほどだった。共和国を建てたケマル・アタテュルクは、1928年の夏、イスタンブルの公園で黒板の前に立ち、ラテン文字をもとにした新しいアルファベットを自ら人々に教えてみせた。11月1日、議会は新しい文字を採用する法を定め、翌年から公の場でアラビア文字を使うことが禁じられた。全国に「国民の学校」が開かれ、大人も新しい文字を学んだ。言葉からアラビア語やペルシア語の語を除く運動も続いた。アンカラ
- 街頭紙芝居できごとAD1930年ごろ字の読めない子に、物語が毎日届いた不況の東京で、職を失った男たちが自転車の荷台に木の枠を載せて、路地を回り始めた。拍子木を打つと子どもが集まり、飴を買った子が前に座る。枠の中の絵を一枚ずつ引き抜きながら、声色を使って語る。続きは明日。1930年に生まれた「黄金バット」は、骸骨の顔をした正義の味方で、子どもたちを夢中にさせた。絵は手描きで、同じ絵を何人もの紙芝居屋が借りて回した。字の読めない小さな子にも、物語が毎日届いた。戦後にもう一度盛り返したが、テレビが家に入ると、路地から消えていった。東京
- 学徒出陣できごとAD1943年10月21日大学や専門学校の学生は、それまで卒業まで兵役を猶予されていた。戦局が悪くなると、1943年、理系などを除く学生の猶予が止められる。10月21日、雨の明治神宮外苑の競技場で、出陣する学生の壮行会が開かれ、銃を担いだ学生たちが行進した。スタンドでは女子学生たちが見送った。彼らの多くは士官として前線に送られ、特攻隊員として死んだ者も少なくない。学ぶことより戦うことが優先される国になっていた。東京
- ユネスコの設立できごとAD1945年11月16日人の心の中に平和のとりでを1945年11月16日、ロンドンに集まった44か国のうち37か国の代表が、国際連合の教育科学文化機関、ユネスコの憲章に署名した。憲章の前文は、戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない、と書いた。教育と科学と文化の交流を通じて、互いを知らないことから来る疑いと不信をなくすことが目的だった。本部はパリに置かれた。日本では1947年に仙台で世界初の民間のユネスコ協会が生まれ、日本は1951年、まだ占領下のうちに加盟した。戦後の日本が初めて加わった国際機関だった。ロンドン
- スポック博士の育児書できごとAD1946年専門家の助言も、時代とともに入れ替わる二十世紀のはじめの育児の専門家は、赤ん坊を時間どおりに授乳し、泣いても抱かず、甘やかさないよう説いた。小児科医ベンジャミン・スポックは、1946年の育児書を、あなたは自分で思っているより多くを知っている、という言葉で始める。子どもに合わせ、親の感覚を信じよという本は、何千万部も売れた。一方で、版によってはうつ伏せ寝を勧めており、これは後に乳幼児の突然死を増やしたと批判される。専門家の助言も、時代とともに入れ替わる。ニューヨーク
- 当用漢字と現代かなづかいできごとAD1946年11月16日漢字を1850字に敗戦の翌年、日本の文字のあり方は大きく変わった。占領軍に招かれたアメリカの教育使節団は、漢字の学習が子どもの重荷になっているとして、ローマ字を使うことを勧めた。作家の志賀直哉は、いっそフランス語を国語にしてはどうかと書いた。1946年11月16日、政府は、日常に使う漢字を1850字に限る当用漢字表と、発音に近い書き方にする現代かなづかいを告示した。「てふてふ」は「ちょうちょう」と書くことになった。新聞や教科書はこれに従い、漢字は数を絞られた。1981年には、目安としての常用漢字表に改められ、2010年に2136字になった。東京
- 教育の無償化(エジプト)できごとAD1950年教育は水や空気と同じだ、という主張3歳で失明した文学者が文部大臣として進めた。「教育は水と空気のようなもの」。中等教育が無償になり、大学へ行ける層が変わる。カイロ
- ブラウン判決できごとAD1954年5月17日カンザス州トピーカの黒人の少女リンダ・ブラウンは、家の近くの白人の学校に入れず、遠い黒人の学校へ通っていた。黒人の地位向上を求める団体の弁護士サーグッド・マーシャルは、各地の同じような訴えをまとめて最高裁へ持ち込む。黒人の子どもが白い人形を良いとし黒い人形を悪いと答える心理学の実験も、証拠として出された。1954年5月17日、最高裁は全員一致で、公立学校を人種で分けることは憲法に反すると判断した。分けること自体が不平等だとされた。トピーカ
- 簡体字とピンインできごとAD1956年1月28日識字の壁1949年の中華人民共和国の成立のとき、国民の8割ほどは読み書きができなかったとされる。漢字の数の多さと画数の複雑さが、その壁の一つとみなされた。1956年1月28日、国の政府は「漢字簡化方案」を公布し、画数の多い漢字を簡単な形に改めた。「國」は「国」に、「書」は「书」に。1958年には、漢字の読みをローマ字で表す「漢語ピンイン」が定められ、学校で発音を教えるのに使われた。識字の運動と学校教育の広がりで、読み書きのできる人は大きく増えた。台湾や香港では、いまも伝統の字体の漢字が使われている。北京
- 文化大革命できごと1966年学校と教師が、政治によって壊された時期10年にわたり社会が引き裂かれた。学問と文化財が破壊され、多数が命を落とす。北京

- 安田講堂事件できごとAD1969年1月18日入試の無かった年医学部の研修の制度をめぐる争いから始まった東京大学の紛争は、全学の学生が大学のあり方そのものを問う運動に広がり、学生たちは安田講堂を占拠した。1969年1月18日、八千人を超える機動隊が入り、放水と催涙ガスで二日かけて学生を排除する。攻防はテレビで中継された。この年、東京大学は入学試験を行わなかった。全国の大学の紛争は、このあと急速にしぼんでいく。東京
- タイトル・ナインできごとAD1972年6月23日1972年6月23日に成立したアメリカの法律の第九編は、国の資金を受ける教育の場で、性別による差別を禁じた。わずか三十数語の条文だった。スポーツのことはほとんど想定されていなかったが、学校や大学は、女子の運動部にも男子と同じように予算と機会を配るよう求められる。高校で運動部に入る女子は、数十年で十倍以上に増えた。のちにアメリカの女子サッカーが世界の頂点に立つ土台は、この短い条文にあると言われる。ワシントンD.C.
- 子どもの権利条約できごとAD1989年11月20日子どもは権利の主体1989年11月20日、国際連合の総会は、子どもの権利条約を全会一致で採択した。18歳未満のすべての人を子どもとし、生きる権利、育つ権利、守られる権利に加えて、自分に関わることに意見を言い、その意見を年齢と成熟に応じて重んじられる権利を認めた。子どもを、大人に守られるだけの存在ではなく、権利を持つ一人の人として扱う条約である。条約を作るきっかけはポーランドの提案で、そこには子どもの権利を唱えた医師コルチャックの記憶があった。条約は世界で最も多くの国が加わる人権の条約になり、日本は1994年に批准した。ニューヨーク
- マララ・ユスフザイ人物AD1997年7月12日 – ?教育を受ける権利を世界に訴えた女子が学校へ行くことを主張して銃撃され、生き延びた。17歳でノーベル平和賞を受ける。
- マララの銃撃できごとAD2012年10月9日学校に行くことが、命を懸ける行為になる土地がある女子が学校へ行く権利を書きつづけた15歳が、下校のバスで頭を撃たれた。生き延び、2年後に史上最年少でノーベル平和賞を受ける。ミンゴラ

- タリバンの復権できごとAD2021年8月15日女子の教育が、また閉じられたアメリカ軍の撤退が終わる前に、政府軍が溶けてタリバンがカブールに入った。大統領は国を出た。空港で飛行機にしがみつく人が落ちた。女性は中等教育を禁じられた。20年前に戻った。カブール
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