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Event / できごと

銀閣と東山文化

Ginkaku-ji and Higashiyama culture
AD1482年
重要度 5

概要

応仁の乱で京が焼けた後、足利義政が東山に山荘を建てた。銀は貼られていない。観音殿と東求堂。同仁斎は、四畳半に付書院と違い棚を備えた、書院造の最初期の形で、いまの和室の原型になった。義政の周りに、同朋衆(能阿弥、芸阿弥、相阿弥)が集まり、唐物の鑑定、座敷飾り、立花、香、そして茶の作法を整えた。政治に失敗した将軍が、日本の生活の形を残した。

場所

銀閣寺(慈照寺)
35.03°N 135.80°E · 京都府京都市

関わった人(1)

足利義政AD1436年1月20日–AD1490年1月27日 · 建てた

本文

足利義政。8代将軍。1449年、13歳で就任。管領と、日野富子(妻)と、乳母たちの間で、政治は動かなかった。1467年、応仁の乱。京都が11年、戦場になった。1473年、将軍職を9歳の子の義尚に譲った。

乱の後の京。上京と下京だけが残り、間は焼け野原。1476年、義政の御所(花の御所)も焼けた。

1482年、東山の月待山の麓に、山荘の造営を始めた。「東山殿」。財源は、土倉と酒屋への課税と、諸国への段銭(臨時の税)。飢饉と戦乱の直後に。当時の記録に、非難の言葉が残っている。

1483年、移り住んだ。1486年、東求堂。1489年、観音殿(銀閣)の上棟。1490年1月、義政が死んだ。銀閣は未完成のまま、彼の死後に完成した。慈照寺。

銀閣。2層。下層は書院造の「心空殿」、上層は禅宗様の仏殿「潮音閣」。屋根は柿葺き、頂に銅の鳳凰。

銀箔は、貼られていない。貼る計画があったが金がなかった、という説が長く言われたが、2007年の調査で、銀箔の痕跡は見つからなかった(元から貼る予定がなかった、と考えられている)。「銀閣」の名は、江戸時代から。

東求堂。義政の持仏堂で、住まい。北東の四畳半の部屋が「同仁斎」。ここに、付書院(明かり取りの窓の下の作り付けの机)と、違い棚がある。畳を敷き詰め、障子と襖で仕切る。書院造の最初期の完全な形。ここから、床の間と、書院造の座敷が、武家の家に、やがて庶民の家に広がって、日本の「和室」になった。

同朋衆。将軍に仕えた、身分を離れた芸能と技能の者たち(多くは時宗の僧の形をとり、「阿弥」号を名乗った)。能阿弥、芸阿弥、相阿弥の三代。仕事は、唐物(中国からの美術品)の鑑定と目録(『君台観左右帳記』)、座敷の飾り付け(掛物、花、香炉、燭台の置き方)、連歌、そして茶。

彼らが定めた作法が、後の「型」になった。床の間に何を掛け、どこに花を置くか。それは、いま、日本の家と、旅館と、茶室に残っている。

義政の周りにいた人。村田珠光(茶)、音阿弥(能)、宗祇(連歌)、雪舟(絵。義政とは直接の関係は薄いが同時代)、善阿弥(庭)。

「東山文化」。金閣の北山文化(義満。豪華で、公家と武家と禅の混淆)に対して、簡素で、内向きで、余白がある。応仁の乱の後の、貧しくなった京都で、生まれた。

義政は、乱の間も、作庭と唐物の収集と茶会を続けた。将軍として、彼の評価は低い。日本人の生活の形を、彼の周りにいた人々が作った。

同じ時代のできごと

ヴラド串刺し公AD1462年応仁の乱1467年インカによるチムー併合AD1470年頃ヴィジャヤの陥落AD1471年蓮如の吉崎御坊AD1471年トラテロルコの併合AD1473年エルミナ城の建設AD1482年コンゴ王国とポルトガルの接触AD1483年