銀閣と東山文化
概要
応仁の乱で京が焼けた後、足利義政が東山に山荘を建てた。銀は貼られていない。観音殿と東求堂。同仁斎は、四畳半に付書院と違い棚を備えた、書院造の最初期の形で、いまの和室の原型になった。義政の周りに、同朋衆(能阿弥、芸阿弥、相阿弥)が集まり、唐物の鑑定、座敷飾り、立花、香、そして茶の作法を整えた。政治に失敗した将軍が、日本の生活の形を残した。
場所
35.03°N 135.80°E · 京都府京都市
関わった人(1)
足利義政AD1436年1月20日–AD1490年1月27日 · 建てた本文
足利義政は1449年、13歳で室町幕府の8代将軍になった。祖父の足利義満が金閣を建てて栄華を極めた時代から半世紀、将軍の力はすでに陰りを見せていた。有力な守護大名たちは家督をめぐって争い、幕府の政治は、管領、側近、乳母、そして妻の日野富子とその実家などの思惑の中で揺れ動いた。義政は、自分の後継ぎをめぐる問題の扱いも誤った。弟の義視を跡継ぎに定めた後に、富子との間に義尚が生まれたのである。その争いが、細川と山名の対立と結びついて、1467年の応仁の乱になった。
戦は11年続き、京都は焼け野原になった。公家や寺社の邸宅や寺院が焼け、人々は上京と下京の二つの町に身を寄せて暮らした。義政は戦乱のさなかの1473年、将軍職を9歳の義尚に譲った。1476年には、将軍の御所である室町殿も焼けた。戦が終わった後も、地方では守護大名たちが争いを続け、将軍の命令は都の外にはほとんど届かなくなった。

1482年、義政は京都の東、東山の麓に山荘の造営を始めた。浄土寺という寺の跡地である。費用は、諸国に臨時の税を課し、人夫を出させてまかなった。戦乱と飢饉の直後の京の人々にとって、これは重い負担だった。思うように集まらない費用に、工事はたびたび滞った。義政は翌1483年、まだ普請の続く山荘に移り住み、やがて出家して、残りの生涯をここで送った。庭は、義政が敬愛した西芳寺(苔寺)の庭を手本にしたとされ、河原者と呼ばれる身分の低い庭師の善阿弥らが腕をふるった。
1486年、義政の持仏堂で、居間を兼ねた東求堂が完成した。1489年、観音殿の上棟が行われた。いま「銀閣」と呼ばれる建物である。義政はその完成を見ることなく、翌1490年の正月に死んだ。山荘は遺言によって禅寺に改められ、義政の法名から慈照寺と名づけられた。

観音殿は二層の小さな建物で、一階は住宅風の造りで心空殿、二階は禅宗の仏殿の様式で潮音閣と呼ばれ、屋根の頂には銅の鳳凰が立つ。名前に反して、銀箔は貼られていない。銀を貼るつもりだったが金が足りなかった、あるいは義政の死で計画が止まった、という説が長く語られてきたが、2007年の科学的な調査では、外壁に銀箔の痕跡は見つからず、黒い漆が塗られていたことが分かった。祖父が建てた金閣(北山文化と金閣)にちなんで「銀閣」と呼ばれるようになったのは、江戸時代のことと考えられている。
建物として、より大きな意味を持つのは東求堂である。その北東の隅に、「同仁斎」と呼ばれる四畳半の小さな部屋がある。畳が部屋いっぱいに敷き詰められ、明かり障子が立ち、壁際には、窓の下に作り付けた机である付書院と、段違いの棚である違い棚が設けられている。義政はここで書を読み、中国から渡った書画や道具を飾って楽しんだ。現存するものとしては最も古い書院造の部屋とされ、畳、障子、付書院、違い棚という組み合わせは、のちに床の間と合わさって、武家の屋敷の座敷になり、さらに江戸時代以後には庶民の家にも広がって、私たちが「和室」と呼ぶものの原型になった。

義政の周りには、同朋衆と呼ばれる人々がいた。将軍の身の回りに仕え、芸能や技芸を担った者たちで、多くは時宗の僧の姿をとり、「阿弥」の号を名乗った。中でも、能阿弥、その子の芸阿弥、孫の相阿弥の三代は、絵を描き、連歌を詠み、将軍家が集めた中国渡来の美術品、いわゆる唐物を鑑定し、管理した。座敷のどこに掛け軸を掛け、花や香炉や燭台をどう置くかという飾り付けの作法も、彼らが整えた。その知識は、唐物の格付けと座敷飾りの方法を記した『君台観左右帳記』にまとめられている。茶を点てて客をもてなす作法も、こうした座敷の中で形を整えていった。
この時代に、のちの日本文化の多くの種が芽を出した。奈良の村田珠光は、唐物の名品をそろえる豪華な茶から離れ、簡素な道具と心の持ちようを重んじる茶を説いた(村田珠光と侘び茶)。義政が珠光に茶を学んだという話は後世に広まったが、確かな史料はない。宗祇は連歌を大成し(宗祇と連歌)、雪舟は明に渡って水墨画を学び、山口で独自の山水画を描いた(雪舟の山水長巻)。能では、世阿弥の甥の音阿弥が義政に重用された。立花、香、庭づくりも、この頃に形を整え始めた。

金閣を中心とする義満の時代の文化が「北山文化」と呼ばれるのに対し、義政の時代の文化は「東山文化」と呼ばれる。北山文化が、公家と武家と禅の文化をきらびやかに混ぜ合わせたものだったとすれば、東山文化は、簡素で、落ち着いた、内に向かう美を重んじた。禅の影響のもとで、飾らないもの、枯れたもの、余白のあるものに美を見いだす感覚が育った。それが、のちに「わび」「さび」と呼ばれる美意識や、千利休の茶(侘び茶の大成)へとつながっていく。
政治家としての義政の評価は、昔から低い。応仁の乱を止められず、戦乱と飢饉で人々が苦しむ中で、庭と建物と美術品に財を注いだ将軍として語られてきた。近年では、将軍の権力がすでに大きく制約されていたことを踏まえて、その評価を見直す研究もある。いずれにせよ、政治で力を失った将軍のもとに集まった人々が、その後の日本人の住まいと、もてなしと、美の感じ方の型を作ったことは確かである。慈照寺の庭に白砂を盛り上げた銀沙灘と向月台は、江戸時代に加えられたものである。