できごと

ヘンデル『メサイア』初演

Premiere of Handel's Messiah
AD1742年4月13日
重要度 5
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国ネーデルラント連邦共和国大英帝国ポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国エジプトオーストリア帝国フランス王国スペインモロッコAlgiersイギリスアイルランド王国TunisBrandenburgヴェネツィア共和国NaplesTripolitaniaCyrenaicaプロイセンAD1742年4月13日ダブリン
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概要

24日で書いた。ロンドンで人気を失って、ダブリンの慈善演奏会で。フィッシャンブル通りの音楽堂。700人。女は輪骨のスカートを、男は剣を、家に置いて来るように言われた。囚人と病院のために400ポンド。ハレルヤ・コーラスで王が立った(ロンドンの1743年、という話は確かでない)。それから毎年、クリスマスに。

場所

ダブリン
53.35°N -6.26°E · アイルランド

関わった人(1)

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルAD1685年2月23日–AD1759年4月14日 · 作曲した

本文

1741年の夏、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは56歳だった。ドイツのハレに生まれ、イタリアで修業し、1710年代からロンドンに住みついて、イタリア語のオペラで一世を風靡した作曲家である。だが30年近く続けたオペラの事業は、ここへ来て行き詰まっていた。イタリア語で歌われる英雄の物語にロンドンの聴衆は飽き、英語の庶民的な歌芝居に人気を奪われ、競争相手の劇団との争いで資金も底をつきかけていた。1737年には体の一部が麻痺する発作に倒れている。ヘンデルの時代は終わった、とささやく人もいた。

その7月、ヘンデルのもとに一つの台本が届いた。送り主は、裕福な地主で、聖書に通じた文人チャールズ・ジェネンズである。ジェネンズは、旧約の預言書、詩篇、福音書、パウロの手紙、黙示録から言葉を選び、救い主(メサイア)の預言と誕生、受難と復活、そして最後の勝利と永遠の命という三部の流れに並べていた。登場人物が演じ合う劇ではなく、聖書の言葉そのものによる瞑想である。

「メサイア」自筆稿、第2部最終曲「ハレルヤ」の終わりの部分。1741年9月6日の日付を記す。
「メサイア」自筆稿、第2部最終曲「ハレルヤ」の終わりの部分。1741年9月6日の日付を記す。Wikimedia Commons George Frideric Handel 1685–1759 · Public domain

ヘンデルは8月22日に作曲を始め、9月14日に書き上げた。わずか24日である。自筆の楽譜には、急いだ筆の跡や書き直しが生々しく残っている。「ハレルヤ」の合唱を書き終えたとき、部屋に入った召使いが涙を流すヘンデルを見つけ、彼は天が開けて神ご自身を見たと語った、という話が広く知られているが、これはずっと後の伝記に現れる逸話で、確かな裏づけは無い。速く書くこと自体は、当時のヘンデルには珍しくなかった。同じ秋には、次の大作『サムソン』にも取りかかっている。以前に書いたイタリア語の二重唱の旋律を、いくつかの合唱に作り直して使ってもいる。

11月、ヘンデルはアイルランドのダブリンへ渡った。アイルランド総督のデヴォンシャー公の招きで、冬の演奏会のシーズンを過ごすためである。ダブリンはロンドンに次ぐ大都市で、音楽好きの人々が多く、予約制の演奏会は大成功を収めた。そしてヘンデルは、新作『メサイア』を、慈善のための演奏会で初めて披露することにした。

チャールズ・ジェネンズの肖像。『メサイア』の台本編者
チャールズ・ジェネンズの肖像。『メサイア』の台本編者Wikimedia Commons Mason Chamberlin · Public domain

1742年4月13日の昼、ダブリンのフィッシャンブル通りに前年できたばかりの音楽堂で、初演が行われた。収益は、病院と、借金を返せずに監獄に入れられている人々の救済に充てられる。会場に一人でも多く入れるよう、主催者は前もって新聞で、婦人方は輪骨で広げたスカートをはかずに、紳士方は剣を帯びずにお越しください、と呼びかけた。おかげで、600人ほどの会場に700人が詰めかけたという。収益はおよそ400ポンドに上り、借金のために囚われていた142人が自由の身になったと伝えられる。

合唱には、ダブリンの二つの大聖堂の聖歌隊員が加わった。そのうちの聖パトリック大聖堂の首席司祭は、『ガリヴァー旅行記』の作者ジョナサン・スウィフトである(『ガリヴァー旅行記』)。すでに老いて心身の衰えが進んでいたスウィフトは、自分の聖歌隊員がフィドル弾きの集まりに出ることを禁じる手紙を書いたが、最終的には参加が認められた。独唱者の一人、女優のスザンナ・シバーは、夫との醜聞の裁判で世間の非難を浴び、ロンドンを離れていた。彼女が受難を歌うアリア「彼は侮られ」を歌い終えると、客席にいたデラニー牧師が、女よ、これによってあなたの罪はすべて赦された、と叫んだと伝えられる。翌日の新聞は、言葉では言い尽くせない、と最大限の賛辞を贈った。

『ガリヴァー旅行記』に関わる図版:Gullivers travels
『ガリヴァー旅行記』Wikimedia Commons Public domain

1743年3月23日、『メサイア』はロンドンのコヴェント・ガーデン劇場で初めて演奏された。劇場という俗な場所で聖書の言葉を歌うことには反発が強く、題名は「新しい聖なるオラトリオ」と伏せられ、評判も芳しくなかった。このとき国王ジョージ2世が「ハレルヤ」の合唱で感極まって立ち上がり、聴衆もそれにならった、という話がある。いまでもこの合唱で聴衆が起立する習慣が残っているが、この話は数十年後の手紙で初めて語られたもので、国王がその日、劇場にいたかどうかも確かではない。

ロンドンでの評価を変えたのは、慈善だった。1750年から、ヘンデルは捨て子を養う養育院のために、毎年『メサイア』の慈善演奏会を開いた。養育院の礼拝堂にはオルガンを贈り、遺言で楽譜の写しを遺した。この演奏会は大きな収益を上げ、『メサイア』は貧しい子どもを救う音楽として、ロンドンの人々に愛されるようになる。ヘンデルは晩年に視力を失ったが、演奏会には出続けた。1759年4月6日、最後の『メサイア』の演奏に立ち会い、8日後の4月14日に世を去った。遺体はウェストミンスター寺院に葬られている。

『メサイア』が初演された音楽堂(ダブリン、フィッシャンブル街)
『メサイア』が初演された音楽堂(ダブリン、フィッシャンブル街)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ヘンデルの死後、『メサイア』はますます大きく演奏されるようになった。1784年、ウェストミンスター寺院でのヘンデル記念祭では500人を超える演奏者が並び、19世紀には数千人の合唱による巨大な演奏会も開かれた。1789年にはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが、当時のウィーンの好みに合わせて楽器を加えた編曲を作っている。20世紀の後半には、作曲当時の楽器と規模に戻して演奏する試みが広がり、ダブリンの初演の響きに近い演奏も聴けるようになった。

初演は復活祭の前の季節だったが、いま『メサイア』は、何よりもクリスマスの音楽として親しまれている。年末になると世界中の教会や演奏会場で演奏され、聴衆が一緒に歌う催しも各地で開かれる。行き詰まった作曲家が24日で書き上げ、慈善のために初めて演奏した作品は、280年を超えて、最も多く演奏される合唱曲の一つであり続けている。

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