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Event / できごと

ヘンデル『メサイア』初演

Premiere of Handel's Messiah
AD1742年4月13日
重要度 5

概要

24日で書いた。ロンドンで人気を失って、ダブリンの慈善演奏会で。フィッシャンブル通りの音楽堂。700人。女は輪骨のスカートを、男は剣を、家に置いて来るように言われた。囚人と病院のために400ポンド。ハレルヤ・コーラスで王が立った(ロンドンの1743年、という話は確かでない)。それから毎年、クリスマスに。

場所

ダブリン
53.35°N -6.26°E · アイルランド

関わった人(1)

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルAD1685年2月23日–AD1759年4月14日 · 作曲した

本文

1741年、ヘンデルは56歳。イタリア・オペラは30年やって、ロンドンで飽きられていた。破産の噂。「ヘンデルは終わった」。脳卒中(1737年)。

チャールズ・ジェネンズ(裕福な地主、ノンジュラー、聖書の文句を集めてヘンデルに渡していた)が、7月、台本を送った。「メサイア」。聖書の言葉だけ(旧約の預言、詩篇、福音書、黙示録、コリント書)。劇でなく、瞑想。3部。預言と降誕、受難と復活、勝利と永遠の生。

8月22日から9月14日。24日。オーケストラも含めて、259ページ。「ハレルヤ」を書いたとき、召使いが部屋に入ると、ヘンデルは泣いていて、「天が開くのを見た。神ご自身を見た」と言った、という話は、100年後の伝記から。急いで書いたのは普通のことで、同じ年、10月には『サムソン』を書いていた。以前の曲を使い回した(「彼のくびきは易く」は、イタリア語の二重唱から)。

11月、ダブリンへ。デヴォンシャー公(アイルランド総督)が招いた。冬のシーズンに、6回の予約演奏会。成功した。

1742年4月13日、火曜日、正午。フィッシャンブル通りの新しい音楽堂(ニール音楽堂、600席)。慈善演奏会。「メルサー病院、慈善病院、そして債務者の救済のために」。予告で、「婦人は輪骨(フープ)のないドレスで、紳士は剣を持たずに」来るよう頼んだ。700人。3つの慈善に、127ポンドずつ。142人の債務者が監獄から出た。

合唱は聖パトリック大聖堂とクライスト・チャーチの聖歌隊(スウィフトは聖パトリックの首席司祭で、初め「私の聖歌隊を、フィッシャンブル通りのフィドル弾きの集まりに貸すな」と言い、それから許した)。独唱者は、ソプラノのシバーとアヴォリオ、コントラルトのスザンナ・シバー(女優、離婚の裁判で有名で、教会の人に嫌われていた。「彼は侮られ、人に捨てられ」を歌い、デラニー博士が「女よ、汝の罪は赦された」と叫んだ、と伝える)。

『フォークナーズ・ダブリン・ジャーナル』。「言葉が足りない。……この、最も優れた音楽の作品が、崇高で、壮大で、優しく、最も高められた、荘厳で、感動的な言葉に合わせて、耳と心に与える精妙な喜び」。

1743年3月23日、ロンドン、コヴェント・ガーデン。「新しい聖なるオラトリオ」(「メサイア」の名は、劇場で聖書を扱うことへの反対で伏せた)。ジョージ2世が「ハレルヤ」で立ち上がって、全員が立った、という話は、1780年のバーニーの手紙が最初で、王が来ていたかどうか分からない。しかし、以来、立つ。

1750年から、ロンドンの捨て子養育院(コーラムの)で毎年、慈善演奏会。ヘンデルはオルガンを寄付し、楽譜の写しを遺贈した。1759年4月6日、最後に『メサイア』を指揮して、4月14日、死んだ。

19世紀、演奏の規模が膨れた(1784年、ウェストミンスター寺院で500人。1859年、水晶宮で2765人の合唱、460人の楽団)。モーツァルトが1789年に編曲した。20世紀、元の規模に戻す運動。「クリスマスの曲」になった(初演は復活祭の前)。

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