武士の700年

概要
地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。
この物語について
戦うための身分が、七百年も政治を握った。そして最後に、自分たちの身分を自分たちで廃止した。なぜそれができたのか。
武士の始まりは、都から遠い土地にあった。10世紀ごろ、地方では、開いた田畑を守るために弓と馬を備えた一族が力を持ち始めた。彼らは国司の下で治安を担い、ときに国司と争った。939年、関東で平将門が国府を襲って「新皇」を名乗ったのは、その力が都の秩序を揺るがした最初の事件だった。ただ、この頃の武士は、あくまで貴族に仕え、その命令で動く存在だった。都では藤原氏が天皇の外戚として政治を握り、摂関政治の全盛を迎えていた。

武士が都の政治に踏み込むきっかけを作ったのは、貴族どうしの争いだった。11世紀の末に始まった院政のもとで、上皇と天皇、摂関家の内部が対立し、1156年の保元の乱、1159年の平治の乱では、それぞれが武士を雇って都で戦わせた。勝ち残ったのが平清盛である。清盛は武士として初めて太政大臣になり、娘を天皇に嫁がせ、その子を天皇に立てた。宋との貿易で富を蓄え、一族は朝廷の高い位を次々に占め、『平家物語』は、一門の者が「平氏にあらずんば人にあらず」と言い放ったと伝えている。だが清盛のやり方は、天皇の外戚となって朝廷の中から権力を握るという、藤原氏と同じ型だった。
1180年、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵した。源頼朝は、平氏を追う戦いの多くを弟の義経らに任せ、自分は鎌倉を離れなかった。関東の武士たちの土地の権利を認め、争いを裁くことで彼らを御家人として束ねていったのである。1185年、壇ノ浦で平氏が滅びると、頼朝は国ごとに守護を、荘園ごとに地頭を置く権限を朝廷から得た。1192年には征夷大将軍に任じられる。京都から遠く離れた鎌倉に、朝廷とは別の、武士による政権ができた。土地を守ってもらう代わりに戦で奉公する。御恩と奉公という主従の結びつきが、この政権の土台だった。

頼朝の死後、実権は妻の北条政子の一族、北条氏に移った。1221年、後鳥羽上皇が幕府を倒そうと兵を挙げると、政子は御家人たちに頼朝の恩を説いたと伝えられ、幕府軍は京都を一か月足らずで制した。承久の乱の後、上皇は隠岐に流され、幕府は京都に六波羅探題を置いて朝廷を見張った。1232年には、武士のための最初の法典、御成敗式目が定められる。武士の政権が、朝廷より上に立った。
その幕府を揺るがしたのは、海の向こうから来た敵だった。1274年と1281年、モンゴルの元と高麗の軍が九州北部に押し寄せた。執権の北条時宗のもと、御家人たちは博多湾の沿岸に石の防塁を築いて戦い、二度とも敵は退いた。だが元寇は、守りの戦いだった。勝っても新しい土地は手に入らず、恩賞を出せない。戦費を負った御家人は困窮し、幕府は借金の帳消しを命じたが、かえって混乱を招いた。1333年、後醍醐天皇の呼びかけに足利尊氏や新田義貞らの御家人が応じ、鎌倉幕府は滅びた。

後醍醐天皇の新しい政治は武士の期待に応えられず、尊氏が京都に新たな幕府を開いた。天皇家は南北に分かれて半世紀以上争ったが、3代将軍の足利義満が1392年にこれを一つにまとめる。義満は明に使いを送って「日本国王」として貿易を行い、北山に金閣を建てた。武士の政権の長が、公家の文化の担い手にもなったのである。能を大成した世阿弥を庇護したのも義満だった。
だが室町幕府は、守護大名と呼ばれる有力な武士たちの連合の上に乗った、もろい政権だった。1467年、将軍の跡継ぎと有力大名の家督争いが絡み合って応仁の乱が始まり、11年にわたって京都が焼かれた。戦いは決着しないまま地方へ広がり、守護大名の家臣や地元の武士が主を倒してのし上がる。下の者が上を倒す「下剋上」の時代、戦国の百年が始まった。

1543年、種子島にポルトガル人が流れ着き、鉄砲がもたらされた。鉄砲は数十年のうちに国内で大量に作られるようになり、足軽と呼ばれる歩兵の集団が戦の主役になっていく。1560年、尾張の織田信長は、駿河の今川義元の大軍を桶狭間で破った。信長はその後、将軍を担いで京都に入り、やがて将軍を追放し、寺社の勢力や一向一揆とも戦った。商人に自由な商売を許し、城下町に家臣を集めて、土地から切り離された兵を作り始めた。1582年、天下統一を目前に、家臣の明智光秀に本能寺で討たれる。
後を継いだ豊臣秀吉は、1590年に全国を統一した。秀吉が行った検地は、全国の田畑を同じ基準で測って石高で表し、刀狩りは百姓から武器を取り上げた。武士は城下町に住み、百姓は村で耕す。兵と農が分けられ、武士は自分の土地を直接治める領主から、主君から米をもらう俸給取りへと変わっていった。この変化が、後に武士が自らの身分を手放せた遠い理由になる。秀吉は朝鮮へ二度兵を送り、その最中に死んだ。

戦に明け暮れた武将たちは、文化の担い手でもあった。信長も秀吉も茶の湯に熱を入れ、名物の茶器は城や領地に匹敵する褒美として家臣に与えられた。秀吉に仕えた千利休は、狭い茶室と質素な道具で侘び茶を大成したが、1591年、秀吉の怒りを買って切腹を命じられている。理由ははっきりしない。刀で天下を取った者が、茶碗一つの値打ちを決める者を最後には許さなかった。武士の政権は、力と美の両方を手中に置こうとした。
1600年、徳川家康は関ヶ原の戦いで石田三成らの西軍を破り、1603年に征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。1615年の大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後、幕府は武家諸法度で大名の城の修理や結婚まで縛り、参勤交代で大名に江戸と国元を往復させた。1637年の島原の乱の後には、キリスト教を禁じ、外国との交わりを長崎などに限る体制を固める。戦の無い時代が、二百六十年続いた。

戦わない武士は、役人になった。彼らは城で帳簿をつけ、裁判をし、学問として儒学を学んだ。全人口の1割に満たない武士とその家族が、年貢で暮らしを立てる。だが米の値段は上がらず、物の値段は上がり、多くの武士は商人に借金をした。享保や天保の改革は質素倹約を説いたが、武士の暮らしが苦しくなる流れは止まらなかった。身分は世襲で固定され、下級の武士がいくら才があっても上に立つことは難しかった。
1853年に黒船が来ると、この仕組みはあっけなく揺らいだ。幕府を倒し、新しい政府を作ったのは、薩摩や長州の下級武士たちだった。彼らは明治2年に版籍奉還を、明治4年に廃藩置県を行い、明治6年には徴兵令で百姓や町人も兵にした。明治9年には帯刀を禁じ、武士に払っていた俸禄も、わずかな公債と引き換えに打ち切った。武士だった者が、武士という身分そのものを消したのである。

それができたのは、いくつもの条件が重なったからだった。武士はすでに土地を持つ領主ではなく、藩から俸禄をもらう勤め人になっていた。土地と結びついた貴族を消すのとは違い、給料を止めれば身分は消えた。改革を進めた者の多くは、その仕組みの中で恵まれなかった下級の出で、守るものが少なかった。そして、外国に飲み込まれるかもしれないという危機感が、自分たちの身分より国を優先させた。
もちろん、すべての武士が納得したわけではない。各地で士族の反乱が起き、明治10年、かつて倒幕の中心にいた西郷隆盛が鹿児島の士族に担がれて立った。西南戦争で、徴兵された百姓や町人の兵が、武士の軍を破った。戦うことを独占していた身分は、戦いによって終わった。
武士の七百年が残したものは、制度よりも言葉や心構えの中にある。「一所懸命」はもともと、一つの所領に命を懸ける武士の姿から生まれた言葉である。忠義や名誉を重んじる「武士道」の像は、むしろ戦の無くなった江戸時代と、武士が消えた後の明治に、理想として形づくられたものだった。私たちが思い浮かべる侍の姿の多くは、侍がいなくなってから描かれている。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(203)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 鐙と騎士できごとAD700年頃騎士を養うのに村一つ鐙は中国で4世紀に、アヴァールが6世紀にヨーロッパへ。鐙に足を掛けて、槍を脇に挟んで突撃すると、馬の重さが槍に乗る(「衝撃戦」)。リン・ホワイトは1962年、「鐙が騎士を生み、騎士を養う土地の制度(封建制)を生んだ」と論じた。カール・マルテルが教会の土地を騎士に配った(732年)。反論も多い。確かなのは、8世紀から、鎧の騎兵が戦場の主で、それを養うのに村一つが要った、ということ。ポワティエ
- 墾田永年私財法できごとAD743年律令の国家は、土地はすべて国のもので、人に割り当てて耕させ、死ねば返させる建前だった。人口が増えると割り当てる田が足りない。723年、新しく開いた田は三代まで私有を認めたが、期限が来れば返すので、開墾は進まなかった。743年、聖武天皇の朝廷は、開いた田は永久に私有してよいと改める。財力のある貴族や寺社が人を集めて土地を開き、やがて荘園が広がっていく。国の土地という建前が、ここから崩れ始めた。平城京
- 平将門の乱できごとAD939年武士が武士を鎮めた最初関東の国衙を次々に落とし、「新皇」を名乗って役人を任命した。二か月で討たれた。朝廷が武士の力で武士を鎮めた最初で、その勝った側の武士が、次の時代の主になる。猿島(石井)

- 藤原純友の乱できごとAD939年同じ年、西で瀬戸内の海賊を率いて、淡路と讃岐の国衙を襲い、大宰府を焼いた。将門の乱と同じ年で、朝廷は東西から挟まれた。小野好古と源経基が鎮めた。承平天慶の乱。日振島
- 平将門人物? – AD940年新皇一族の争いから国衙を襲い、関東八か国を取って「新皇」を名乗った。二か月で藤原秀郷と平貞盛に討たれた。首は京で晒され、東へ飛んで落ちた所が大手町の首塚。祟る神として、いまも祀られている。
- 藤原純友人物? – AD941年海賊の頭伊予の役人が海賊の頭になり、将門と同じ年に瀬戸内で蜂起した。大宰府を焼いた。追討され、伊予で捕えられて獄死した。将門と京で会って東西から攻める約束をした、という話は後の作り。
- 源頼義人物AD988年 – AD1075年鶴岡八幡宮頼信の子。平忠常の乱で父と。相模守で坂東の武士を集めた。陸奥守。安倍頼時を12年。飢えて、寒く、黄海で7騎まで減った。清原を頼んで勝った。鎌倉に鶴岡八幡宮を勧請した。1063年。息子義家、義綱、義光。
- 摂関政治の頂点できごとAD1016年藤原氏が天皇の外戚として権を握った。この頃『源氏物語』が書かれる。京都
- 源義家人物AD1039年 – AD1106年8月4日八幡太郎石清水八幡宮で元服。八幡太郎。前九年で父と、後三年で自分で。「天下第一武勇の士」。朝廷は恩賞を出さず、荘園の寄進を禁じ、京に入るのを禁じた。義家は私財で兵に報いた。頼朝の曾祖父の父。武士の源氏は彼から。「衣の館」。
- 前九年の役できごとAD1051年(永承6年)衣の館はほころびにけり陸奥の安倍氏が納税を止め、源頼義が12年戦った。黄海で負け、出羽の清原氏を味方につけ、厨川で安倍貞任を殺した。頼義の子義家が「衣の館はほころびにけり」と歌を詠みかけ、貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」と返した。源氏が東国の武士を得た。衣川

- 後三年の役できごとAD1083年(永保3年)私戦と言われた清原氏の内紛に陸奥守の源義家が介入し、金沢柵を兵糧攻めで落とした。雁の列が乱れて伏兵を知った、と伝える。朝廷は「私戦」と言って恩賞を出さず、義家が自分の財で報いた。武士は源氏に恩を感じ、清衡が平泉を始めた。「武士の棟梁」。金沢柵(横手)

- 院政の開始できごとAD1086年天皇を退いた上皇が実権を握る。摂関家の力が落ち、やがて武士が政治の表に出てくる下地になる。京都
- 『ロランの歌』できごとAD1100年頃武勲詩778年、シャルルマーニュの後衛がピレネーのロンスヴォーでバスク人に襲われて全滅した。300年後、それがサラセン人との戦いになって、4002行の歌になった。ロラン、オリヴィエ、大司教テュルパン、裏切り者ガヌロン、角笛オリファン、剣デュランダル。「異教徒は間違っていて、キリスト教徒は正しい」。武勲詩の最初で最高。ヘイスティングズの前に、ノルマンの吟遊詩人が歌った、と伝える。オックスフォードの写本。ロンスヴォー

- 平清盛人物AD1118年 – AD1181年武士として初めて政権を握った。日宋貿易を進め、瀬戸内の海運を整える。
- 源頼朝人物AD1147年 – AD1199年平氏を倒し、鎌倉に武家政権を開いた。以後700年近く、武士が国を治める。
- 保元・平治の乱できごと1156年武士なしでは政治が動かないことがはっきりする貴族の争いが武士の力で決着した。武士なしでは政治が動かないことが誰の目にも明らかになる。京都
- 平氏政権できごとAD1167年まだ貴族のやり方を真似ていた武士が初めて政権の頂点に立った。ただし貴族のやり方を踏襲したため、武士の支持を失っていく。京都
- 高麗の武臣政変できごとAD1170年同じ頃、半島でも武人の政権文官に蔑まれてきた武官が、王の行幸の途中で蜂起し、文官を殺し、王を廃した。以後100年、武臣が政権を握り、崔氏が4代60年続く。日本の武家政権と同じ頃に、同じ形が半島で起きた。開城
- 法然の専修念仏できごとAD1175年武士と庶民の仏教比叡山を下りた僧が、念仏だけで誰でも救われると説いた。学問も戒律も財産もいらない。貴族の仏教が、庶民のものになる。旧仏教に訴えられ、75歳で流された。京都
- 鹿ケ谷の陰謀できごとAD1177年(安元3年)足摺後白河の側近たちが東山の山荘で平家を倒す相談をし、多田行綱が清盛に密告した。西光は斬られ、藤原成親は流されて殺され、俊寛は鬼界ヶ島に一人残された。『平家物語』の「足摺」。院と平家の間の糸が切れた。京都

- 以仁王の挙兵できごとAD1180年(治承4年)5月令旨は死後も生きた後白河の子で、清盛に皇位を塞がれた王が、源頼政と共に令旨を諸国の源氏に送った。宇治で追いつかれ、頼政は平等院で自害し、王は逃げる途中で射られた。令旨は死後も生きて、頼朝と義仲が立った。5年の戦争の最初の一か月。京都

- 福原遷都できごとAD1180年(治承4年)6月半年で戻った清盛が天皇と院を連れて、自分の別荘のある福原へ都を移した。大輪田泊。宋との貿易の港。公家も僧も反対し、東国で頼朝が挙兵し、半年で京に戻った。『方丈記』の鴨長明が「都遷り」の混乱を書いた。福原
- 富士川の戦いできごとAD1180年(治承4年)10月水鳥の羽音石橋山で負けた頼朝が房総で兵を集め、鎌倉に入り、富士川で平維盛の追討軍と向かい合った。夜、水鳥が一斉に飛び立った音を夜襲と思って平家が逃げた、と『平家物語』。頼朝は追わずに鎌倉へ帰った。東国を固めることを選んだ。富士川

- 北条泰時人物AD1183年 – AD1242年7月14日道理の人義時の子。承久の乱で京へ攻め上り、六波羅に残った。三代執権。評定衆を置き、合議にした。御成敗式目。「道理」の人。飢饉に米を貸し、借金の帳簿を焼いた。禅僧に「あなたは聖人だ」と言われて「私は罪人だ」と答えた、と『沙石集』。
- 倶利伽羅峠の戦いできごとAD1183年(寿永2年)5月火牛の計は後の話木曽義仲が北陸で平維盛の10万を峠で夜襲し、谷に追い落とした。牛の角に松明をつけて放ったという「火牛の計」は後の話。平家は北陸を失い、2か月後に都を捨てて西へ。義仲が京に入り、都の人は「田舎者」と嫌った。倶利伽羅峠

- 一ノ谷の戦いできごとAD1184年(寿永3年)2月鵯越福原に戻った平家を、範頼が正面から、義経が裏の崖から。「鵯越の逆落とし」。平家は船で海へ逃げ、平敦盛が熊谷直実に討たれた。17歳。『平家物語』の最も有名な場面。義経の名が上がり、頼朝の疑いが始まった。一ノ谷

- 壇ノ浦の戦いできごとAD1185年4月25日平氏が海に沈み、幼い安徳天皇も亡くなった。三種の神器のうち剣は失われたと伝わる。壇ノ浦

- 屋島の戦いできごとAD1185年(元暦2年)2月扇の的讃岐の屋島に本陣を置いた平家を、義経が嵐の中を船で渡って背後から襲った。平家は海へ。那須与一が扇の的を射た。義経が弓を落として拾った「弓流し」。1か月後、壇ノ浦。屋島

- 守護・地頭の設置できごとAD1185年(文治元年)11月文治の勅許義経を追うという名目で、頼朝が朝廷に国ごとの守護と荘園ごとの地頭を認めさせた。北条時政が兵を連れて京に来た。「文治の勅許」。武士が全国の土地に公の権限を持った。鎌倉幕府の始まりを1185年にするのは、この年から。京都
- 奥州合戦できごとAD1189年(文治5年)100年の平泉義経を匿った藤原泰衡が、頼朝に迫られて義経を殺し、それでも頼朝は大軍(『吾妻鏡』は28万と書く)で攻めた。阿津賀志山。泰衡は逃げて家臣に殺された。100年の平泉が終わり、頼朝は東国を全部持った。翌年、京へ上った。平泉

- 鎌倉幕府の成立できごとAD1192年朝廷とは別の権力という形が成立する朝廷から離れた場所に武士の政権が置かれた。以後700年近く、実権は武士が握る。鎌倉
- 承久の乱できごとAD1221年上皇が幕府を倒そうとして敗れた。朝廷が武家に屈したことが、はっきり形になる。京都
- 御成敗式目できごとAD1232年(貞永元年)文字を知らない者のための法北条泰時が51か条の法を定めた。「道理」。武士の慣習を文字にした。女の相続、20年の占有、悪口の禁止。「京の人は笑うだろうが、これは文字を知らない者のための法」。それから600年、武家の法はここから始めた。鎌倉
- 北条時宗人物AD1251年 – AD1284年二度の元の襲来を退けた執権。ただし勝っても得る土地が無く、幕府は弱っていく。
- 『立正安国論』できごとAD1260年(文応元年)龍ノ口日蓮が北条時頼に建白した。「法華経を捨てて念仏を信じるから、地震と飢饉と疫病が起きる。改めなければ、内乱と他国の侵略が来る」。念仏者に襲われ、伊豆に流され、龍ノ口で斬られかけ、佐渡へ。14年後、蒙古が来た。「私が言った通り」。鎌倉
- 元国AD1271年 – AD1368年元寇。二度の襲来を退ける草原の側が中国を丸ごと治めた。モンゴル高原と中国が一つの国になり、大都(北京)が都になる。
- 元寇できごと1274年勝ったのに幕府を弱らせた二度とも暴風雨で元の船団が壊れた。勝っても分け与える土地が無く、御家人の不満が幕府を蝕む。博多
- 文永の役できごとAD1274年11月19日(文永11年10月20日)てつはう元と高麗の900隻、3万が対馬と壱岐を襲い、博多に上陸した。てつはう、集団戦、毒矢。武士は一騎討ちの名乗りをして囲まれた。一日戦って、元軍は船に戻り、翌朝いなかった。嵐で帰ったのか、最初から威力偵察だったのか、いまも議論がある。博多
- 弘安の役できごとAD1281年7月(弘安4年閏7月)石築地東路軍4万と、南宋の降兵からなる江南軍10万。博多の石築地で上陸できず、鷹島で船を並べているところに台風が来た。船の多くは急いで造った川船だった。「神風」の語は江戸時代から。フビライは三度目を計画して、やめた。博多
- 後醍醐天皇人物AD1288年 – AD1339年吉野で死んだ即位した時から幕府を倒すつもりだった。二度失敗して隠岐に流され、脱出して倒した。自分で政治を執り、失敗し、吉野の山に逃げて、そこで死んだ。「玉骨はたとひ南山の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」。
- 悪党の登場できごとAD13世紀末〜14世紀幕府の命令が効かない人びとが現れる荘園の年貢を奪い、幕府の命令に従わない者たちが各地に現れた。悪人ではなく、商いと運送と山野の民が、既存の支配の枠に収まらなくなった姿になる。京都
- 楠木正成人物AD1294年 – AD1336年7月4日七生報国河内の土豪が後醍醐の夢に現れた、と『太平記』は言う。赤坂と千早の城で幕府の大軍を翻弄した。湊川で死ぬと知って出陣し、弟と「七度生まれ変わって朝敵を滅ぼす」と言って刺し違えた。明治に大楠公になり、皇居の前に騎馬像が立つ。
- 永仁の徳政令できごとAD1297年(永仁5年)帳消しにすると、次からの借金ができなくなる元寇を退けても、鎌倉幕府は御家人に与える土地を持たなかった。戦費は自腹で、恩賞は乏しい。御家人は所領を質に入れ、売り払い、困窮していく。1297年、幕府は徳政令を出した。御家人が売った土地を、代金を返さずに取り戻してよいと定める。借りた側を救う一方で、貸す側は誰も貸さなくなった。翌年には一部が撤回される。以後も徳政の要求は繰り返され、室町期には土倉を襲う土一揆が起きた。借金を帳消しにすると、次からの借金ができなくなる。この矛盾は、どの時代でも同じ形で現れる。鎌倉
- 頼母子講できごとAD中世屋根を葺き替える、嫁を迎える、船を買う。まとまった金が要るとき、村では講を組んだ。十数人が毎月同じ額を出し合い、集まった金をくじか入札で一人が受け取る。次の月も出し続け、全員が一度受け取ったら解散する。銀行も質屋も要らず、利子は入札の差額として調整された。成り立つのは、抜ける者が出ないという前提があるからである。顔を知っている範囲でしか組めない。同じ形の仕組みは、東アジア、アフリカ、南米にもあり、移民の集団が持ち込んだ先でも使われてきた。京都
- 足利尊氏人物AD1305年 – AD1358年二度寝返って幕府を開いた幕府の御家人として後醍醐を討ちに出て、途中で寝返って幕府を倒し、二年で後醍醐に背いた。九州へ逃げ、戻って京を取り、幕府を開いた。気前がよく、戦に強く、鬱になって出家しようとした。夢窓疎石が「三つの徳」を挙げた。
- 建武の新政できごとAD1333年朕の新儀は未来の先例鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が自ら政治を執った。「朕の新儀は未来の先例」。恩賞は公家に偏り、武士は離れ、「此頃都ニハヤル物、夜討強盗謀綸旨」と落書に書かれた。二年半で尊氏が背いた。京都
- 湊川の戦いできごとAD1336年7月4日南北朝の始まり九州から戻った尊氏の大軍を、楠木正成が700騎で迎えた。比叡山に退けという献策は退けられ、弟と刺し違えて死んだ。「七生報国」。尊氏は京に入り、光明天皇を立て、後醍醐は吉野へ逃げた。南北朝の始まり。湊川

- 室町幕府の成立できごとAD1338年幕府が京都に戻った。朝廷が南北に分かれ、60年争う。京都
- 足利義満人物AD1358年 – AD1408年南北朝を合一し、明と通交した。金閣を建て、能を保護する。
- 世阿弥人物AD1363年頃 – AD1443年頃能を大成し、『風姿花伝』に稽古と芸の理論を書き残した。晩年は佐渡へ流される。
- 『平家物語』と琵琶法師できごとAD1371年祇園精舎の鐘の声鎌倉のはじめ、盲目の僧が琵琶を弾きながら平家の滅びを語り歩いた。文字で読む本ではなく、耳で聞く物語。祇園精舎の鐘の声。当道座という盲人の職能集団が、語りの流派と伝授を管理した。1371年、覚一が語りを整理して口述筆記させた(覚一本)。能・浄瑠璃・歌舞伎が、この物語から題材を取り続けた。日本語の散文の調べを作った。京都
- 北山文化と金閣できごとAD1397年公家と武家の文化が混ざり合った。明との通交で得た富がこれを支える。京都
- 『風姿花伝』できごとAD1400年頃能の稽古と芸を理論として書いた。「秘すれば花」。600年前の芸能論がいまも読まれている。京都
- こたつできごとAD15世紀家を暖めずに、人を暖める日本の家は夏の風通しを重んじて建てられ、冬は寒い。部屋全体を暖めるのではなく、火の近くの体だけを温めてきた。室町の頃、囲炉裏の上に木の櫓を組み、布団を掛けて足を入れる形が生まれたとされる。江戸時代には、炭の火鉢を入れて好きな場所へ動かせる置きごたつが広まった。家族は一つの布団に足を入れて集まる。家を暖めずに人を暖めるやり方は、燃料を節約する知恵でもあり、寒い家を続けさせた理由でもある。京都
- アザンクールの戦いできごとAD1415年10月25日捕虜を殺せヘンリー5世の6000が、赤痢と雨の泥の中で、フランスの騎士2万を長弓で倒した。フランスの貴族が一日で消えた。捕虜を殺せと命じた。5年後、トロワ条約でフランス王の跡継ぎに。2年後に死んで、ジャンヌが出た。シェイクスピアの「聖クリスピアンの日」。アジャンクール

- 雪舟人物AD1420年 – AD1506年頃明へ渡って水墨画を学び、帰国して日本の風景を描いた。手本を写すことから離れる。
- くじ引き将軍できごとAD1428年(応永35年)1月神が選んだという建前が、誰にも異を唱えさせなかった四代将軍の足利義持は、跡継ぎを決めないまま死の床についた。誰を選んでも、選ばなかった兄弟と、それを推した大名が不満を持つ。重臣たちは、義持の四人の弟の名を籤に書き、石清水八幡宮の神前で引かせることにした。引いたのは管領で、封は義持が息を引き取ってから開かれた。当たったのは、青蓮院の門跡として僧になっていた義円である。彼は還俗して六代将軍義教となった。神が選んだ将軍だという建前は、誰にも異を唱えさせない。義教はその建前を背に、強い将軍として振る舞い、やがて家臣に殺される。石清水八幡宮
- 正長の土一揆できごとAD1428年民が力を合わせて要求を通す1428年、飢饉と疫病が続き、将軍が代わった年の秋、近江の運送業者たちが、借金の帳消しを求めて立ち上がった。一揆は京都の周りの村々に広がり、農民たちは酒屋や土倉などの金貸しを襲って、借金の証文を破り捨てた。幕府が徳政を認めなくても、自分たちの手で借金を消したのである。ある寺の記録は、この国が始まって以来、民が蜂起したのはこれが初めてだ、と書き残した。支配される側が、力を合わせて要求を通す時代が始まっていた。京都
- 北条早雲人物AD1432年 – AD1519年9月8日最初の下剋上伊勢新九郎盛時。室町幕府の役人の家で、姉か妹(北川殿)が今川義忠の妻。今川の家督争いを収めて興国寺城を得た。1493年、伊豆の堀越公方を追い出した。「戦国最初の下剋上」。小田原を鹿狩りと称して取り、相模を取った。88歳で死んだと伝えるが、近年は64歳の説。「早雲寺殿二十一箇条」。北条の名は息子氏綱から。
- 嘉吉の乱できごとAD1441年7月12日(嘉吉元年6月24日)万人恐怖将軍足利義教が赤松満祐の屋敷で猿楽を見ている最中に斬られた。「万人恐怖」の将軍。守護を潰し、比叡山を焼き、公家を殴らせた。誰も赤松を討とうとせず、幕府の力が見えた。応仁の乱の26年前。京都
- 応仁の乱できごと1467年ここから100年の戦国に入る京都が11年焼かれ、幕府の権威が失われた。ここから100年の戦国時代に入る。京都

- 蓮如の吉崎御坊できごとAD1471年百姓の持ちたる国比叡山に本願寺を焼かれた蓮如が、越前と加賀の境の丘に坊を建てた。「御文」。平易な言葉の手紙で門徒を作った。「南無阿弥陀仏」の六字を自分で書いて配った。数年で北陸が門徒で埋まり、1488年、加賀の門徒が守護を殺して100年の「百姓の持ちたる国」。吉崎
- 王陽明人物AD1472年10月31日 – AD1529年1月9日此の心光明名は守仁、余姚の人。若い頃、朱熹の「格物」に従って庭の竹を7日見つめ続けて、理を得られず病んだ。28歳で進士。1506年、宦官劉瑾を弾劾して杖40、貴州龍場へ流された。1508年、悟り。以後、講学と、そして軍。江西の反乱と、寧王の乱を50日で鎮めた(学者にして名将)。「知は行の始め、行は知の成るところ」。広西からの帰路、船中で死んだ。「此の心光明、また何をか言わん」。
- 山城国一揆できごとAD1485年12月両軍とも出て行け畠山の二つの軍が南山城で睨み合っていた。国人と農民が集まって「両軍とも出て行け」。出て行った。36人の月行事で8年自治した。「下剋上の至り」と公家が書いた。守護の兵を追い出したのは、この国では初めて。山城(南山城)
- 加賀の一向一揆できごとAD1488年90年本願寺の門徒(一向宗)が、守護の富樫政親を高尾城に攻めて自害させた。以後、約90年、加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。実際には、本願寺の坊主と、有力な門徒の土豪が合議で治めた。惣村の寄合と、講の組織が、そのまま政治の単位になった。1580年、織田信長に降伏するまで続いた。日本で唯一、宗教の共同体が一国を治めた例。加賀(金沢御堂)
- 斎藤道三人物AD1494年頃 – AD1556年5月28日美濃の蝮山城の油売りから美濃の国主になった、と伝える。近年は父と2代の仕事。守護土岐頼芸を追い出して美濃を取った。「美濃の蝮」。娘の濃姫を信長に嫁がせ、正徳寺で信長に会って「わが子らは信長の門前に馬をつなぐことになる」と言った。息子義龍に長良川で殺された。信長に美濃を譲る、という遺言状がある。
- 毛利元就人物AD1497年4月16日 – AD1571年7月6日三子教訓状安芸の小領主の次男。10歳で孤児、家臣に城を取られて「乞食若殿」。兄と甥が死んで家を継いだ。次男を吉川、三男を小早川に養子に出して両川を作り、厳島で陶を破り、大内を取り、尼子を10年かけて落とした。中国地方10か国。「三本の矢」は作り話で、「三子教訓状」は本物。75歳。
- 将棋の持ち駒できごとAD1500年頃終盤ほど盤が複雑になるチェスも象棋も、取った駒は盤から消える。日本の将棋だけが、取った駒を自分のものとして打ち直せる。この規則がいつ生まれたかは分かっていない。16世紀の文献に現れる。駒に文字だけを書いて色で敵味方を分けないので、持ち駒が成立した、という説明がある。結果として、駒の総数が減らず、終盤ほど盤が複雑になる。引き分けが極端に少ない。取った駒を使うという発想が、他のどの系統にも現れなかったのは、いまも不思議とされる。京都
- 王陽明の龍場の悟りできごとAD1508年幕末の志士が読んだ宦官の劉瑾を批判して杖刑を受け、貴州の龍場(駅站)に流された37歳の官僚が、瘴気の土地で石の棺を作って寝起きし、ある夜、跳ね起きて叫んだ。「聖人の道は、自分の性の中にすでに足りている。外の物に理を求めていたのが誤りだった」。「心即理」「知行合一」、後に「致良知」。朱子学の「外に理を求める」を裏返した。日本の中江藤樹と大塩平八郎と幕末の志士が読んだ。余姚
- 北条氏康人物AD1515年 – AD1571年向こう傷早雲の孫、氏綱の子。河越夜戦で関東の上杉を壊した。武田・今川と三国同盟。謙信に小田原を囲まれて、耐えた。検地と税制で、「民に優しい北条」と後の世に言われた。顔に刀傷が2つ。「向こう傷」。息子氏政に、飯に汁を2度かけるのを見て「毎日のことを量れない者が国を量れるか」と言ったという話。
- 武田信玄人物AD1521年12月1日 – AD1573年5月13日死を3年隠せ甲斐守護武田信虎の長男。21歳で父を駿河に追放した。信濃を取り、川中島で謙信と5回、駿河を取り、三方ヶ原で家康を潰し、上洛の途中、信濃で病死した。「死を3年隠せ」。風林火山。信玄堤。甲州法度。「人は城、人は石垣」。息子勝頼が9年で滅んだ。
- 千利休人物AD1522年 – AD1591年茶の湯を簡素の美として大成した。秀吉に切腹を命じられる。
- 柴田勝家人物AD1522年頃 – AD1583年6月14日瓶割り信長の弟の側について信長に負け、赦されて筆頭家老。「鬼柴田」「かかれ柴田」。北陸方面軍。越前北ノ庄。清洲会議で秀吉に負け、市を娶り、賤ヶ岳で負け、北ノ庄で市と自害した。市の3人の娘は秀吉に。「瓶割り柴田」。水瓶を割って城を出て勝った、という話。
- 明智光秀人物AD1528年頃 – AD1582年7月2日(天正10年6月13日)小栗栖美濃の出と言うが、前半生は分からない。朝倉、足利義昭、そして信長。坂本城、丹波。連歌と茶。1582年6月2日、本能寺。「敵は本能寺にあり」は後の言葉。理由は諸説。怨恨、野望、朝廷、四国。11日後、山崎で負け、小栗栖で竹槍。娘の玉(ガラシャ)が細川忠興の妻。
- 上杉謙信人物AD1530年2月18日 – AD1578年4月19日毘沙門天越後守護代長尾為景の子。長尾景虎。兄を退けて19歳で越後を取り、上杉憲政から関東管領と上杉の名を譲られた。毘沙門天の化身と称し、生涯結婚しなかった。川中島、小田原、手取川で信長を破って、上洛の準備中に厠で倒れた。48歳。「義」の人と言われ、酒を飲みすぎた。敵の信玄に塩を送った話は江戸時代の作。
- 石見銀山できごとAD1533年十六世紀、石見で灰吹法という精錬の技術が導入された。鉛と混ぜて溶かし、灰の上で鉛を吸わせて銀だけを残す。朝鮮半島から伝わったこの方法で、産出量が跳ね上がった。最盛期の日本は、世界の銀の三分の一を産したとも言われる。その銀が、ポルトガル船と中国商人を通じて明へ流れ、ポトシの銀と合わさって、世界の物の値段を動かした。坑道は狭く、掘る者は粉塵で肺を病み、三十を超えれば長寿と言われた。銀の値打ちは、そこで働く人の寿命の上に成り立っていた。石見銀山
- 織田信長人物AD1534年 – AD1582年6月21日鉄砲と経済で旧い秩序を壊した。統一を目前にして家臣に討たれる。
- 豊臣秀吉人物AD1537年 – AD1598年農民から天下人になった。刀狩と検地で身分を固定し、晩年は朝鮮へ出兵する。
- 木の入れ歯できごとAD16世紀仏像を彫る技が、噛める入れ歯を作ったヨーロッパの入れ歯が、象牙や動物の骨を金具で縛りつけるものだったころ、日本では黄楊の木を彫って歯茎の形に合わせる義歯が作られていた。仏像を彫る職人の技である。口の中に蝋を入れて型を取り、削っては合わせを繰り返す。吸いつく力だけで留まるので、金具が要らない。和歌山の寺に伝わる十六世紀の尼僧の義歯が、現存する最古級とされる。噛めるように作られており、実際に長く使われた跡がある。同じ問題に、材料も技術系統も違う答えが出ていた。和歌山(紀州)
- 前田利家人物AD1539年 – AD1599年4月27日槍の又左尾張荒子。信長の小姓。「槍の又左」。同朋衆を斬って追放され、桶狭間で無断で戦って戻された。柴田の下で北陸、賤ヶ岳で秀吉に寝返って加賀を得た。妻まつ。五大老。秀吉の死後、家康を抑える唯一の人で、秀吉の8か月後に死んだ。加賀100万石。
- 鉄砲伝来できごとAD1543年戦の形が変わるポルトガル人が種子島に漂着した。数十年で日本は世界有数の鉄砲保有国になり、戦の形が変わる。種子島
- 徳川家康人物AD1543年 – AD1616年関ヶ原に勝ち、260年続く体制を作った。待つことで勝った人。
- 河越夜戦できごとAD1546年(天文15年)8000で8万を関東管領上杉憲政と扇谷上杉朝定と古河公方が8万で河越城を囲み、北条氏康が8000で夜襲した。朝定が死に、扇谷上杉が滅び、憲政は越後へ逃げて上杉謙信に管領の名を譲った。北条が関東の主になった。数は誇張だが、勝ち方は伝わっている。河越(川越)
- 武田勝頼人物AD1546年 – AD1582年4月3日天目山信玄の四男、母は諏訪の娘。信玄が急死して、後見のはずが当主に。高天神城を取って、父を超えたと言われた翌年、長篠。名のある家臣がほとんど死んだ。7年、持ちこたえて、新府城を作り、1582年、信長が来て、家臣が離れ、天目山で妻(北条の娘、19歳)と子と自害した。37歳。
- 黒田官兵衛人物AD1546年12月22日 – AD1604年4月19日左手は何を播磨小寺氏の家老。信長に早くついた。荒木村重に1年幽閉されて足が萎え、頭に瘡。秀吉の軍師。備中高松の水攻めと中国大返しを進言した。「秀吉は官兵衛を恐れた」。如水。関ヶ原では九州で自分の天下を狙ったと言われる。息子長政が福岡52万石。「殿は、その時、左手は何をしていた」。
- ザビエルの来日できごとAD1549年8月15日(天文18年7月22日)望遠鏡と時計マラッカで会った薩摩の男ヤジロウの案内で、イエズス会のバスク人が鹿児島に着いた。2年3か月。鹿児島、平戸、山口、京都、豊後。「日本人はこれまで会った民の中で最も優れている」。京都は荒れて天皇にも将軍にも会えず、山口の大内義隆に望遠鏡と時計を贈って布教を許された。中国へ渡ろうとして、広州沖の島で死んだ。鹿児島
- 熊野比丘尼の絵解きできごとAD16世紀戦国の世、熊野の社寺は荒れた建物を直す金に困り、尼の姿をした女たちを諸国に送り出した。女たちは巻いた大きな絵を持ち歩き、村の辻や家の軒先で広げて語った。上のほうには、生まれた子が坂を登って老い、坂を下って死ぬまでの一生が描かれている。その下には地獄があり、血の池や、子を産まなかった女が落ちる地獄も描かれている。字の読めない女や子どもが、絵を指でたどりながら話を聞き、寄進をした。字を使わずに教えを運んだのは、紙の上の絵と、語る声だった。熊野(位置は特定されていない)
- 厳島の戦いできごとAD1555年10月16日(天文24年10月1日)嵐の夜に裏から大内義隆を殺して大内の実権を取った陶晴賢2万を、毛利元就4000が厳島に誘い込み、嵐の夜に裏から上陸して朝に襲った。狭い島で大軍は動けず、晴賢は自害した。毛利は大内の領国を取り、中国地方10か国。「謀多きは勝ち、少なきは負ける」。厳島
- 桶狭間の戦いできごとAD1560年6月12日十倍の今川軍を奇襲で破った。無名の若い大名が、天下を目指す位置に立つ。桶狭間(位置は特定されていない)

- 石田三成人物AD1560年 – AD1600年11月6日(慶長5年10月1日)三献の茶近江の寺の小姓で、鷹狩りの秀吉に三度お茶を出した(ぬるく、少し熱く、熱く)。五奉行。検地と朝鮮出兵の兵站。武断派に嫌われた。秀吉が死んで、家康と対し、関ヶ原で負けた。伊吹山で捕まり、京で斬られた。「大一大万大吉」。処刑の前に、柿を「体に毒だ」と断った話。
- 川中島の戦いできごとAD1561年10月18日(永禄4年9月10日)軍配で受けた信濃の北、千曲川と犀川の間で、武田信玄と上杉謙信が12年に5回戦った。1561年の4回目が最大。信玄は啄木鳥の戦法で別働隊を回し、謙信は霧の中で先に山を下りて本陣を突いた。謙信が単騎で信玄に斬りつけ、信玄が軍配で受けた、と伝える。両軍で数千が死に、どちらも勝たなかった。川中島

- 伊達政宗人物AD1567年9月5日 – AD1636年6月27日独眼竜幼いとき疱瘡で右目を失った。独眼竜。18歳で家督、5年で南奥州を取った。摺上原で蘆名を滅ぼした。秀吉の小田原に遅れて、死装束で行った。関ヶ原で東軍。仙台62万石。支倉常長をローマへ送った。料理を作り、能を舞い、詩を書いた。「あと20年早く生まれていたら」と言われる。70歳。
- 真田信繁(幸村)人物AD1567年 – AD1615年6月3日(慶長20年5月7日)日本一の兵真田昌幸の次男。上杉、秀吉の人質。関ヶ原で父と西軍、兄信之は東軍。九度山に14年。大坂に入り、真田丸で徳川を叩き、夏、茶臼山から家康本陣に3度突っ込んで、旗を倒させた。安居神社で首を取られた。「日本一の兵」。幸村の名は江戸時代の講談から。
- 姉川の戦いできごとAD1570年7月30日(元亀元年6月28日)川が血で赤く妹婿の浅井長政が朝倉との義理で信長に背き、金ヶ崎で信長は背後を突かれて逃げた。2か月後、姉川。信長と家康2万8000、浅井・朝倉1万8000。徳川が朝倉を崩し、浅井は織田の陣を13段のうち11段まで突いたが、崩れた。川が血で赤くなった、と言う。浅井は3年後に滅びた。姉川
- 石山合戦できごとAD1570年(元亀元年)10年石山本願寺の顕如が信長に立った。10年。一向宗の門徒、雑賀の鉄砲、毛利の水軍、伊勢長島と越前の一揆。信長は長島で2万人を焼き殺し、越前で3〜4万を殺した。1576年、木津川口で毛利水軍に負け、1578年、鉄甲船6隻で勝った。1580年、正親町天皇の仲介で顕如が退去した。本願寺は焼け、その跡に秀吉が大坂城を建てた。大坂

- 三方ヶ原の戦いできごとAD1573年1月25日(元亀3年12月22日)しかみ像上洛する武田信玄2万7000が浜松城を素通りした。31歳の家康が1万1000で追って出て、三方ヶ原の台地で待っていた信玄に魚鱗の陣で潰された。家康は浜松に逃げ帰り、馬上で脱糞したと伝え、その顔を絵に描かせて戒めにした(しかみ像。ただし近年の研究は疑う)。信玄は4か月後、病死した。浜松

- 長篠の戦いできごとAD1575年6月29日(天正3年5月21日)馬防柵武田勝頼1万5000が長篠城を囲み、信長・家康3万8000が設楽原に馬防柵を作って待った。鉄砲3000挺(1000とも)。武田の騎馬が柵に突撃を繰り返し、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊が死んだ。「三段撃ち」は後の話。武田は7年後に滅んだ。鳥居強右衛門が援軍を告げて磔にされた。長篠

- 島津家久人物AD1576年 – AD1638年異国として残した島津義弘の子。関ヶ原で西軍だった父の跡を継ぎ、幕府に認められて初代の薩摩藩主。1609年、幕府の許可を得て琉球へ兵を送った。琉球を「異国」として残し、朝貢を続けさせ、その利を取った。江戸で死んだ。(同名の叔父の家久=義弘の弟は、耳川と沖田畷の名将で、1587年に死んでいる。)
- 楽市楽座できごとAD1577年座の特権と関所の通行料を廃し、誰でも商えるようにした。中世を通じて自治的だった市の自由を、大名が自分の城下に囲い込んだ、とも読める。安土
- 徳川秀忠人物AD1579年5月2日 – AD1632年3月14日関ヶ原に遅れた家康の三男。関ヶ原に遅れた(上田で真田に足止め)。2代将軍。妻は江(市の三女、淀殿の妹)。江を恐れた、と言われる。父の死後、福島正則を改易し、弟忠輝を流し、娘和子を後水尾天皇に入れた。武家諸法度、禁中並公家諸法度。地味で堅い。大御所として家光を見て、死んだ。
- 春日局人物AD1579年 – AD1643年10月26日薬を飲まずに明智光秀の家老、斎藤利三の娘。父は山崎のあと斬首。稲葉正成と結婚し、離縁して家光の乳母に。家光が跡継ぎになるように駿府へ行って家康に会った、と伝える。大奥の制度を作った。伊勢参りの名目で上洛して天皇に拝謁し、春日局の名を賜った。家光が病むと自分は薬を断つと誓って、薬を飲まずに死んだ。
- 侘び茶の大成できごとAD1580年頃足りないことに美を見出す作法として茶の湯を整えた。権力者と美意識の緊張が、切腹に終わる。大坂
- 本能寺の変できごとAD1582年6月21日統一を目前にして家臣の明智光秀に討たれた。動機はいまも定まらない。京都

- 山崎の戦いできごとAD1582年7月2日(天正10年6月13日)中国大返し本能寺の11日後。備中高松で毛利と対していた秀吉が、和睦して、200キロを10日で戻った(中国大返し)。天王山の麓で、秀吉4万、光秀1万6000。細川も筒井も光秀に来なかった。光秀は坂本へ逃げる途中、小栗栖で落ち武者狩りの竹槍に刺された。「三日天下」。秀吉が信長の後継の位置に立った。山崎
- 太閤検地できごとAD1582年(天正10年)〜中世が終わった帳簿秀吉が全国の田畑を、統一した竿(6尺3寸)と枡(京枡)で測り、等級をつけ、石高で表し、耕作者の名前を登録した。荘園の重なった権利は消え、土地は一人の耕作者と一人の領主のものになった。大名の石高が軍役の基準になり、農民は土地に縛られた。中世が終わって、近世が始まった帳簿。京都
- 賤ヶ岳の戦いできごとAD1583年6月11日(天正11年4月21日)七本槍清洲会議で秀吉は信長の孫三法師を立て、柴田勝家は信長の三男信孝を立てた。琵琶湖の北で対陣。勝家の甥佐久間盛政が抜け駆けし、秀吉は大垣から52キロを5時間で戻って攻めた。「賤ヶ岳の七本槍」。勝家は北ノ庄で市(信長の妹)と共に自害した。市の3人の娘(茶々、初、江)は秀吉が引き取った。賤ヶ岳

- 小牧・長久手の戦いできごとAD1584年5月18日(天正12年4月9日)戦場で勝てず講和で信長の次男信雄が家康と組んで秀吉と対した。秀吉10万、家康1万6000。小牧山で対陣。秀吉の別働隊が三河を突こうとして、長久手で家康に襲われ、池田恒興と森長可が死んだ。秀吉は戦場で家康に勝てず、信雄と講和して家康の梯子を外し、翌年、妹と母を人質に送って家康を臣従させた。小牧
- 宮本武蔵人物AD1584年 – AD1645年6月13日五輪書播磨か美作。13歳で初めて決闘して勝った、と『五輪書』。60余回、負けなし。二天一流、二刀。吉岡一門、巌流島。大坂の陣と島原の乱に出た、と言うが、どちら側かも確かでない。晩年、熊本の細川家に客分で、霊巌洞で『五輪書』を書いた。水墨画『枯木鳴鵙図』。「我、事において後悔せず」。
- バテレン追放令できごとAD1587年九州を平定した豊臣秀吉は、1587年、博多で、キリスト教の宣教師に二十日以内に国を出るよう命じた。長崎がイエズス会に寄進されていたこと、大名の改宗が家臣や領民にまで強いられていたこと、日本人が奴隷として海外へ売られていたことが、秀吉を怒らせたとされる。ただし南蛮の貿易は続けたいとしたため、命令は徹底されず、宣教師の多くは潜んで活動を続けた。信仰と交易を切り離そうとする方針の、最初の形だった。博多
- 刀狩令できごとAD1588年8月29日(天正16年7月8日)大仏の釘農民から刀、脇差、弓、槍、鉄砲を取り上げた。「集めた武器は方広寺の大仏の釘とかすがいにする。農民は来世まで救われる」。一揆を防ぎ、農民と武士を分けた。兵農分離。武器は完全には消えず、村には鉄砲が残った。ただ「農民は武器を持たない」という建前ができた。京都
- 秀吉の天下統一できごとAD1590年刀狩と検地で武士と農民を分けた100年続いた戦国が終わった。刀狩と検地で武士と農民を分け、身分を固定する。大坂
- 江戸の湯屋できごとAD1591年(天正19年)裸になれば身分が見えにくい、と川柳に詠まれた徳川家康が江戸に入った翌年、伊勢与市という者が銭瓶橋のほとりに銭湯を建てたと記録にある。当初は蒸し風呂に近い形で、湯気を逃さないよう入口を低くしてあった。江戸の町家は火事を恐れて内風呂をほとんど持たず、人々は毎日のように湯屋へ通う。二階には座敷があり、湯上がりに茶を飲み、碁を打ち、噂を交わした。男女の別は長く緩く、寛政の改革などで繰り返し禁じられては戻る。裸で身分の差が見えにくくなる場所として、川柳にも多く詠まれた。東京
- 亀甲船と閑山島できごとAD1592年8月14日(宣祖25年7月8日)海の道を失った李舜臣が、屋根を板で覆って鉄の錐を植えた亀甲船を先頭に、閑山島の沖で日本の水軍を鶴翼の陣で囲んだ。73隻のうち59隻を沈めた。日本軍は、西の海から漢城と平壌へ物資を送る道を失い、陸の進軍が止まった。彼は讒言で官を奪われ、白衣従軍させられ、後任が全滅した後に呼び戻されて、残った12隻で鳴梁を戦った。閑山島
- 豊臣秀頼人物AD1593年8月29日 – AD1615年6月4日(慶長20年5月8日)197センチ秀吉が57歳で得た子。母は淀殿(茶々、市の娘)。5歳で父が死に、8歳で関ヶ原。大坂65万石の一大名になった。19歳で家康と二条城で会い、家康は秀頼の体格と挙措を見て、この人を残せないと思った、と言われる。身長197センチと伝える。大坂の陣、山里丸の蔵で自害。数え23歳。
- 二十六聖人の殉教できごとAD1597年2月5日土佐に漂着したスペインの船の乗組員が、宣教は領土を奪う前触れだと語ったと伝わり、秀吉は京都と大坂で宣教師と信徒を捕らえさせた。耳をそがれ、市中を引き回されたのち、長崎まで一か月歩かされる。1597年2月5日、長崎の西坂の丘で、外国人の宣教師と日本人の信徒あわせて二十六人が十字架にかけられた。十二歳の少年もいた。彼らは十九世紀に聖人とされ、その殉教の地は、日本のキリスト教の巡礼の場所になっている。長崎
- 関ヶ原の戦いできごとAD1600年10月21日一日で天下の帰趨が決まった。この配置がそのまま、260年の幕藩体制の骨格になる。関ヶ原

- 五街道と宿場できごとAD1601年(慶長6年)速く動かす道と、動きを止める関所が同じ制度にあった関ヶ原の翌年、徳川家康は東海道の宿駅に、人足と馬を常備させる制度を敷いた。公用の書状と荷は、宿ごとに人と馬を替えて運ばれる。やがて中山道、日光、奥州、甲州を加えた五街道が整えられ、一里塚が築かれ、並木が植えられた。参勤交代で大名の行列が毎年往復し、宿場町が育つ。同時に、この道は管理の道具でもあった。関所で人と武器を検め、橋を架けない川では渡しを止められる。速く動かすための道と、動きを止めるための関所が、同じ制度の中にあった。東京
- 佐渡金山できごとAD1601年掘る現場と、使う場所の距離関ヶ原の翌年、佐渡で金の鉱脈が見つかった。徳川家は島を直轄地とし、奉行所を置いて経営する。山を真っ二つに割ったような露天掘りの跡が、いまも残る。深く掘るほど水が湧き、それを汲み上げる作業が最大の労力になった。人力で桶を渡す水替えの仕事には、江戸で捕らえた無宿人が送り込まれた。過酷で、多くが数年で死んだとされる。金は幕府の財政を支え、小判になって全国を回る。掘る現場と、使う場所の距離が、ここでもはっきり分かれていた。佐渡
- 江戸幕府の成立できごとAD1603年260年の泰平が始まる260年続く体制が始まった。参勤交代と身分制で、戦の無い時代を長く保つ。江戸
- 出雲阿国のかぶき踊りできごとAD1603年(慶長8年)かぶいた出雲大社の巫女と称する女が、京の北野で、男装して刀を差し、傾いた(かぶいた)派手な格好で踊った。茶屋の女と戯れる寸劇。「ややこ踊り」から「かぶき踊り」。関ヶ原の3年後。江戸に呼ばれ、女歌舞伎が流行り、1629年に幕府が風紀で禁じ、若衆歌舞伎も禁じ、野郎歌舞伎に。歌舞伎は女が始めて、男のものになった。京都
- 徳川家光人物AD1604年8月12日 – AD1651年6月8日生まれながらの将軍秀忠の次男。母は江。弟忠長が愛され、乳母の春日局が駿府の家康に訴えて、家光が跡継ぎになった。「余は生まれながらの将軍である」。参勤交代、鎖国、島原の乱、忠長の自害、日光東照宮の造替。将軍の権力が固まった。病弱で、男色で、春日局が死ぬまで側にいた。48歳。
- 由井正雪人物AD1605年 – AD1651年9月10日門人3000人駿河の紺屋の子と言う。江戸で楠木流の軍学を教え、門人3000人。慶安の変。駿府で囲まれて自害した。幕府は遺書を「まったくの偽り」と言ったが、翌年、末期養子を認めた。歌舞伎と講談の主人公になった。「慶安太平記」。
- 薩摩の琉球侵攻できごとAD1609年4月5日(慶長14年3月)1か月で首里城島津家久が3000で奄美から攻め下り、1か月で首里城を開かせた。尚寧王は薩摩と江戸へ連れて行かれ、2年後、「琉球は薩摩に属する」と誓って戻された。奄美は薩摩の直轄に。琉球は、明(のち清)に朝貢しながら、薩摩に年貢を納める「日中両属」になった。薩摩は琉球を通した中国の産物で財を作り、その財が幕末の薩摩を動かした。首里

- 姫路城の天守できごとAD1609年戦わなかったからこそ残った関ヶ原の戦いのあと、徳川家康の娘婿の池田輝政が播磨に入り、城を大きく造り替えた。1609年に完成した五重の大天守は、白い漆喰で塗り込められ、白鷺が羽を広げたようだと呼ばれる。西の大名を見張る城でもあった。一度も戦に使われず、明治の廃城のときには、わずかな値で売りに出されたとも伝わる。戦時の空襲では、焼夷弾が天守に落ちたが燃えなかった。1993年、法隆寺とともに、日本で最初の世界遺産に登録された。姫路
- 巌流島の決闘できごとAD1612年5月13日(慶長17年4月13日)櫂を削った木刀関門海峡の小島で、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した。武蔵は遅れて来て、櫂を削った木刀で小次郎の額を割った、と武蔵の養子の碑文(1654年)が言う。小次郎が誰だったか、本当にあったか、確かでない。吉川英治の小説(1935年)で日本中が知った。巌流島
- キリシタン禁教令できごとAD1614年徳川家康は、はじめ貿易のためにキリスト教の宣教を黙認していたが、信徒たちが領主や幕府より神に従うことを恐れた。1612年に幕府の直轄地で、1614年には全国で、キリスト教を禁じる。教会は壊され、宣教師とキリシタンの大名高山右近らはマニラへ追放された。以後、信徒は改宗を迫られ、拒めば処刑された。島原の乱のあとは取り締まりがいっそう厳しくなる。信仰を捨てたと装いながら、ひそかに祈りを伝え続ける人びとが残った。江戸
- 大坂の陣できごとAD1615年6月4日(慶長20年5月8日)国家安康方広寺の鐘の「国家安康」を家康が難癖にして、1614年冬、20万で大坂城を囲んだ。真田信繁の出丸が徳川を苦しめた。和睦の条件で外堀を埋め、内堀まで埋めた。1615年夏、堀のない城。信繁は家康の本陣に3度突っ込んで、討たれた。秀頼と淀殿は蔵で自害した。8歳の国松は斬首。豊臣が終わり、「元和偃武」。大坂

- 武家諸法度できごとAD1615年8月30日(元和元年7月7日)260年の憲法大坂の陣の2か月後、伏見城で秀忠の名で13か条。文武弓馬の道、城の修理は届け出、新しい城は禁止、無断の婚姻は禁止、大名の交際は禁止。金地院崇伝が起草した。同時に一国一城令で大名の城を一つに。1635年、家光が参勤交代を加えた。将軍が代わるたびに読み上げた。260年の大名統制の憲法。京都
- 箱根の関所できごとAD1619年幕府が東海道の峠に置いた。目的は入り鉄砲と出女を止めることにある。武器が江戸へ入るのを防ぎ、大名が人質として江戸に置いた妻子が逃げるのを防ぐ。女性は特に厳しく、人相書と照合され、髪をほどかれ、改め婆に体を検められた。男の手形は寺か領主が、女の手形は幕府の留守居が発行する。海と山に挟まれた地形で、迂回する間道も見張られた。関所破りは磔である。人の移動を許可制にすることが、支配の道具として機能した二百五十年である。箱根
- 参勤交代の制度化できごとAD1635年(寛永12年)妻子は江戸に家光が武家諸法度を改めて、大名は1年おきに江戸と国元を往復し、妻子は江戸に置く、と定めた。人質。大名は行列の費用と江戸屋敷の費用で財を減らし、街道と宿場と江戸が栄えた。260年、日本中の大名が同じ道を歩き、江戸は世界最大の街になった。江戸
- 島原の乱できごと1637年重税とキリシタン弾圧に対する蜂起。鎮圧の後、幕府は禁教と統制をいっそう強める。島原

- 鎖国の完成できごとAD1639年窓口を長崎の出島などに絞った。外を完全に閉じたのではなく、幕府が交易を独占した状態に近い。出島
- 井原西鶴人物AD1642年 – AD1693年9月9日浮世草子大坂の町人。俳諧の談林派で、一昼夜に2万3500句を詠んだ(矢数俳諧)。妻が死んで、散文へ。『好色一代男』(1682年)で浮世草子が始まった。『好色五人女』『日本永代蔵』『世間胸算用』。金と色と町人の生活を、笑って、細かく、速く書いた。「浮世の月見過ごしにけり末二年」。52歳。
- 松尾芭蕉人物AD1644年 – AD1694年俳諧を文学に高めた。『おくのほそ道』は旅の記録であり、思索の記録でもある。
- 徳川綱吉人物AD1646年2月23日 – AD1709年2月19日犬公方家光の四男。館林25万石から、兄家綱に子がなくて5代将軍。初めは「天和の治」、儒学を自分で講義し、湯島聖堂を建て、赤穂事件で浅野に切腹を命じた。母桂昌院を従一位に。生類憐みの令。柳沢吉保。元禄文化の将軍。犬公方。麻疹で死んだ。
- 駕籠と輿できごとAD17世紀誰が乗ってよいかを決めることが、身分を外から見せる装置だった人が人を担いで運ぶ乗り物は、東アジアにも南アジアにも地中海にもあった。日本では、高い身分の者が乗る輿と、庶民も使える駕籠が分かれる。江戸には辻駕籠が並び、料金の相場ができ、担ぎ手の組合ができた。だれが乗ってよいかは幕府が細かく決めていて、乗り物は身分を外から見せる装置でもあった。動力は人の脚であり、坂と天候と担ぎ手の体力が、そのまま所要時間になる。車輪ではなく人を選んだのは、道が舗装されていないところでは、そのほうが速く、揺れなかったからである。江戸
- 時の鐘できごとAD17世紀聞こえてくる時を、町で共有した江戸の町には、決まった時刻に鐘を撞く「時の鐘」が置かれた。日本橋の本石町のものが最初とされ、のちに上野や浅草など各地に増える。時刻は日の出と日の入りを基準にし、昼と夜をそれぞれ六つに分けたので、一刻の長さは季節で変わった。鐘の音が届く範囲の町は、撞く費用を負担したと伝わる。時計を持たない人びとの一日は、この音で区切られた。自分で時を測るのではなく、聞こえてくる時を共有して暮らしていた。江戸
- おみくじできごとAD17世紀神仏の前でくじを引き、その答えで物事を決めることは古くから行われていた。いまの形のおみくじは、平安時代の天台僧・良源の名を冠した百枚の漢詩のくじに由来するとされ、江戸時代に天海が広めたと伝えられる。一枚ごとに大吉から凶までの判断と、五言の詩、その読み解きが刷られていた。寺社は参拝者に配って収入を得る。引いた紙を境内の木に結ぶ習わしも生まれた。迷ったときに決断を外に預ける仕組みは、いまも初詣の列を作っている。江戸
- 由井正雪の乱できごとAD1651年(慶安4年)浪人50万人家光が死んだ年。改易で大名が減り、浪人が50万人いた。軍学者の由井正雪が、丸橋忠弥らと江戸・駿府・京都で同時に火をつけて幕府を倒す計画を立て、密告されて、駿府で自害した。幕府は末期養子を認めて、浪人を増やさないように改易を減らした。「武断」から「文治」へ。江戸
- 近松門左衛門人物AD1653年 – AD1725年1月6日実際の心中を1か月で越前の武士の子。京で公家に仕え、浄瑠璃を書いた。竹本義太夫と組んで『出世景清』(1685年)。『曽根崎心中』(1703年)で世話物。実際の心中を1か月で舞台に。『心中天網島』『冥途の飛脚』『国性爺合戦』。「虚実皮膜」。100以上の作。「日本のシェイクスピア」と明治に呼ばれた。72歳。
- 江戸のごみ捨て場できごとAD1655年(明暦元年)百万都市の江戸では、ごみを川や堀に捨てる者が絶えず、水路が詰まった。幕府は1655年、深川の永代浦をごみの捨て場と定め、町ごとに集めて船で運ばせた。四十年ほど後には、不法な投棄と焼却を取り締まる役も置かれる。運ばれたごみは埋め立てに使われ、海だった場所が新しい町になった。同時に江戸は、捨てるものが少ない町でもあった。紙くず買い、古着屋、灰買い、箍屋。人の糞尿は近郊の農家が金を払って汲み取り、畑へ運ぶ。ごみを減らしていたのは制度ではなく、それを買う人がいたことになる。東京
- 明暦の大火できごとAD1657年3月2日(明暦3年1月18日)天守は再建されず本郷の本妙寺から、と伝える。2日燃えた。江戸の6割。江戸城の天守と本丸。死者10万人と言う。天守は再建されず、260年、江戸城に天守はなかった。両国橋が架けられ、隅田川の東に町が広がり、火除地と広小路が作られた。「振袖火事」。江戸
- 『大日本史』の編纂開始できごとAD1657年(明暦3年)南朝を正統に徳川光圀が江戸駒込の別邸に史局を置いて、神武天皇から後小松天皇まで、紀伝体で。明の遺臣朱舜水を招いた。250年。1906年に完成、397巻。大友皇子を天皇に、神功皇后を后妃に、南朝を正統に。この三つの判断から水戸学が出て、幕末の尊王が出た。作った家が、倒される側になった。水戸
- 新井白石人物AD1657年3月24日 – AD1725年6月29日折たく柴の記浪人の子。3歳で字を書いた。木下順庵に学び、甲府の徳川綱豊(のちの家宣)に仕えた。家宣が将軍になって、正徳の治。密入国したイタリア人宣教師シドッチを尋問して『西洋紀聞』『采覧異言』。『読史余論』で武家の政権交代を9段階に分けた。『折たく柴の記』は日本で最初の自伝の一つ。吉宗に追われ、本を書いて死んだ。
- 寺請制度できごとAD17世紀半ば寺が住民を管理する役所の末端にキリシタンを見つけ出すため、幕府は、すべての人がどこかの寺の檀家になり、寺がその人はキリシタンではないと証明する仕組みを作った。寛文年間には全国の村で、毎年、家族ごとに宗派と寺を書き上げた帳面が作られる。結婚、奉公、旅にも寺の証文が要った。この帳面は、いまの戸籍の役目も果たした。寺は信仰の場であると同時に、住民を管理する役所の末端になった。葬式と墓を寺に任せる日本の習わしは、この仕組みに根を持つ。江戸
- 幕府の山林保護令できごとAD1666年泰平の時代に、森が戻った城と町を建てるために山を裸にし、洪水が続いた。幕府は伐採を制限し、植林を命じた。人口3000万の島国が森を取り戻した例として『文明崩壊』が取り上げる。江戸
- シャクシャインの戦いできごとAD1669年幕藩体制の北の端で起きたこと交易の条件をめぐるアイヌの蜂起。和睦の席で首長が謀殺され、以後アイヌは松前藩に従属していく。静内(位置は特定されていない)
- シャクシャイン人物? – AD1669年交易の条件をめぐって蜂起したアイヌの首長。和睦の席で謀殺された。
- 錦帯橋できごとAD1673年(延宝元年)壊れないよう作るのではなく、架け替える前提で作る岩国の錦川は、大水のたびに橋を流した。架けては流され、また架ける。藩主の吉川広嘉は、中国の書物に描かれた島づたいの橋に着想を得て、川中に石の橋脚を築き、そのあいだを五つの反り橋でつなぐ形を選んだ。木を何層にも重ねて反りを作り、釘をほとんど使わずに組む。翌年の洪水で流されると、橋脚を補強して架け直し、以後二百七十年余り流されなかった。定期的に架け替えることを前提にした設計で、技術は大工の手から手へ引き継がれている。岩国
- 燻す鰹節できごとAD1674年(延宝2年)保存のための工夫が、そのまま味の土台になった鰹は傷みやすい魚で、古くは煮て干したものが都に送られていた。江戸の初め、紀州の漁師甚太郎が土佐に移り、煮た鰹を煙で燻しながら乾かす方法を広めたと伝えられる。煙で燻すと、中まで水が抜け、表に脂がにじみ出るのを防げる。さらにのちには、表面にわざとカビを付けて水分を吸わせる手が加わり、鰹節は石のように固くなった。削って出汁を取れば、旨みが湯に溶け出す。保存のための工夫が、そのまま日本の味の土台になった。高知
- 大岡忠相人物AD1677年 – AD1752年旗本の四男。山田奉行を経て、1717年から十九年間、江戸の町奉行を務めた。吉宗の享保の改革の実務を担った。町火消いろは組の設置、小石川養生所の開設、目安箱に寄せられた訴えの処理、物価と米価の統制、そして公事方御定書の編纂に関わった。裁きの逸話を集めた大岡政談は後世の作り話が大半で、実際の彼は制度を作る行政官である。晩年は寺社奉行、そして大名に列した。
- 関孝和と和算できごとAD1683年勘定方の武士甲府藩、のち幕府の勘定方に仕えた武士が、中国伝来の数学を組み替えた。算木を並べる代わりに、紙の上で未知数を記号で表す「傍書法」を作り、多元の高次方程式を扱った。行列式に相当する考え方を、ヨーロッパのライプニッツとほぼ同時期に得ている。円周率を小数第11位まで、円の求積を無限級数で。門人が全国に広がり、神社に問題と解答の絵馬を奉納する「算額」の風習が生まれた。数学が庶民の趣味になった、珍しい例である。江戸
- 徳川吉宗人物AD1684年11月27日 – AD1751年7月12日米将軍紀州藩主の四男。兄たちが続けて死んで藩主、7代家継が8歳で死んで将軍。享保の改革。倹約、上米、足高、目安箱、小石川養生所、公事方御定書、町火消、サツマイモ、漢訳洋書の解禁、大岡忠相。米の値段に生涯悩んだ「米将軍」。身長180センチ、鷹狩り。「暴れん坊将軍」は作り話。
- 生類憐みの令できごとAD1687年(貞享4年)犬公方綱吉が、犬、鳥、魚、虫を殺すな、と何十回も出した。捨て子と病人と牛馬の遺棄の禁止から始まって、犬の殺傷は死罪、中野に犬小屋16万坪、犬10万匹。江戸の人は「犬公方」と言った。綱吉が死んだ10日後に廃止。近年は、戦国の殺す文化を変えた、と評価する人もいる。江戸
- 『おくのほそ道』の旅できごとAD1689年旅を書くことで、旅の意味を作った1689年の春、四十代半ばの松尾芭蕉は、住まいを人に譲り、門人の曾良と二人で江戸の深川を出た。東北から北陸をめぐり、美濃の大垣まで、およそ百五十日の旅である。平泉では、義経の最期と奥州藤原氏の栄華の跡を前に、夏草を詠んだ。紀行文は、旅のあと何年もかけて推敲され、芭蕉の死後に刊行される。事実どおりの記録ではなく、句と文を組み合わせて作り上げた作品だった。いまも多くの人が、その道筋をたどって歩いている。江戸
- 置き薬できごとAD17世紀末富山の売薬は、先に薬を置いていく。行商人が各家に薬箱を預け、一年後にまた訪ねて、使った分だけ代金を受け取り、減った薬を補充する。現金の乏しい村でも、必要なときに薬が手元にある。信用が無ければ成り立たない商売で、同じ家を親子二代で回った。江戸時代には藩が保護し、行商人は全国を歩いて情報も運んだ。土産の紙風船や版画も配られた。売ってから使うのではなく、使ってから払う。この「先用後利」という言い方は、いまも会社の理念として掲げられている。富山
- 元禄文化できごとAD1700年頃町人が文化の担い手になった。浮世草子・浄瑠璃・俳諧が花開く。大坂

- 和傘できごとAD18世紀直して使う道具だった傘竹の骨に紙を張り、油を引いて水をはじく。日本の傘は、材料をすべて国内で調達できた。江戸では傘の張替えを専門にする職人がいて、骨だけになった傘を買い集め、紙を張り直して売る。傘は使い捨てではなく、直して使う道具だった。武家の内職としても知られ、貧しい藩士が傘を張って生計の足しにした話が残る。番傘、蛇の目傘、日傘と用途で形が分かれ、模様は家や店の印になった。雨の日に差すものが、持ち主の身分を示す看板でもあった。江戸
- 江戸の上水井戸できごとAD18世紀誰のものでもなく、誰もが責任を負う水江戸の井戸の多くは、地下水を汲むものではない。上水から木の樋で引いた水を、地中の枡に溜め、桶で汲み上げる仕組みだった。井戸の底が四角いのはそのためである。裏長屋では一つの井戸を十数世帯で共有し、年に一度、総出で樋と枡を洗った。井戸端は、水を汲む場所であり、洗い物と噂話の場所でもある。水道料は大家がまとめて払った。使う人が共同で管理する水は、誰のものでもなく、誰もが責任を負う水だった。江戸
- 風呂敷できごとAD18世紀包むとは、容器を物に合わせること名は、湯屋で脱いだ衣を包み、上がってから足を拭いた布に由来すると言われる。一枚の四角い布は、入れる物の形に合わせて包み方を変えられる。箱のような固い容器と違い、中身が無ければ畳んで懐に入る。江戸では商人が商品を包んで運び、紋を染めて店の印にした。規格化された箱は積み重ねやすいが、中身に合わせられない。包むという行為は、容器を物に合わせることである。使い捨ての袋が広まって一度は廃れ、近年また持ち出されるようになった。江戸
- 正座が広まるできごとAD17〜18世紀伝統に見えるものが、案外新しい室町の頃までの日本では、あぐらや立て膝がふつうの座り方で、女性も立て膝で座った。部屋一面に畳を敷く造りが広がり、武家の礼法が改まった場での座り方を定めるなかで、膝を揃えて踵の上に座る形が礼儀の姿勢になっていく。庶民に広まったのは江戸の中頃からと言われる。「正座」という呼び名が定着するのは明治で、学校の教科書が正しい座り方として教えた。昔からの伝統に見えるものが、案外新しいことがある。江戸
- 雛人形を飾るできごとAD18世紀守るための形代が、豊かさを見せる品になった平安の貴族の子どもは、小さな人形と道具で「ひいな遊び」をした。別に、紙の人形に体の穢れを移して川へ流す習わしがあった。二つが重なり、三月の節句に人形を飾る行事になっていく。江戸時代、人形は流すものから飾るものに変わり、段が増え、衣装が豪華になった。幕府は贅沢を戒め、人形の大きさや飾りを制限する触れを何度も出している。守るための形代が、家の豊かさを見せる品になった。江戸
- 江戸の裏長屋できごとAD18世紀百万の人が暮らした江戸では、町人の多くが、表通りの裏の路地に建つ長屋を借りて住んだ。典型的な住まいは「九尺二間」と呼ばれ、間口が9尺(およそ2.7メートル)、奥行き2間(およそ3.6メートル)で、土間のかまどと流しのほかは、四畳半ほどの板の間か畳の部屋が一つきりだった。井戸と便所とごみ溜めは、路地の住人が共同で使った。壁は薄く、隣の話し声も筒抜けで、住人どうしは否応なく助け合った。家主に代わって長屋を管理する大家が、住人の世話と町の役目を担った。風呂は町の湯屋に通った。江戸
- 赤穂事件できごと1701年忠義と法のどちらを取るかで、幕府が割れた主君の刃傷で家を取り潰された47人が、1年9か月後に吉良邸を襲い、そろって切腹した。忠義と法のどちらを取るかで幕府は割れ、以後300年、日本人が繰り返し語り直す物語になる。江戸
- 宝永の大噴火できごとAD1707年12月16日(宝永4年11月23日)高役金宝永地震(M8.6)の49日後。富士山の南東の斜面が裂けて、16日、火山灰を吐いた。江戸に4センチ、麓の須走村は3メートルに埋まった。関東の田は埋まり、酒匂川が土砂で塞がって何年も洪水した。幕府は全国に「諸国高役金」を課して復興費を集め、大半は使わなかった。富士山はそれから300年、噴いていない。富士山

- 正徳の治できごとAD1709年(宝永6年)金の含有量を戻した6代家宣と7代家継の6年、儒者の新井白石が側用人間部詮房と政治をした。生類憐みの令の廃止、金の含有量を戻した正徳金銀、長崎貿易の制限(金銀の流出を止める)、朝鮮通信使の待遇の簡素化。8代吉宗が来て、白石は追われた。『折たく柴の記』『読史余論』『西洋紀聞』。江戸
- 享保の改革できごと1716年財政の立て直しを図り、洋書の輸入制限も緩めた。これが後の蘭学につながる。江戸
- 江戸の町火消できごとAD1718年明暦の大火の後も、江戸は繰り返し燃えた。町奉行大岡忠相が、町人自身による組を作らせた。いろは四十七組。のち本所深川にも置かれた。屋根に登り、纏を立て、そこから風下の家を壊す。水では消えない。壊して延焼を止めるのが仕事である。鳶職が担い、火事場での組同士の縄張り争いと喧嘩が絶えなかった。それでも、都市の防火を住民の組織が担うという形が、ここで定着した。江戸
- 田沼意次人物AD1719年9月11日 – AD1788年8月25日賄賂の名は定信が紀州の足軽の子。父が吉宗の江戸入りに従った。9代家重の小姓から側用人、老中。相良5万7000石。商業を税源にした。蝦夷地、印旛沼、長崎、貨幣。息子意知が殿中で佐野政言に斬られ、江戸の人は佐野を「世直し大明神」と呼んだ。家治が死んで失脚、1万石に減らされた。「賄賂政治」の名は定信の側が作った。
- 石門心学できごとAD1729年商いの倫理を説いた最初の思想京都の商家に奉公した石田梅岩は、1729年、自宅で誰でも無料で聴ける講釈を始めた。武士が上で商人が下とされた世の中で、商人が利益を得るのは武士が禄をもらうのと同じ正しい道だと説く。ただし、正直に、倹約して、人の役に立つ商いでなければならない。儒学と仏教と神道を混ぜた教えは、弟子たちによって全国の町人に広まった。商いの倫理を説いた最初の日本の思想として、のちの経営者たちにも読まれている。京都
- 富くじできごとAD18世紀賭けを禁じながら、修繕の財源としては認めた寺社の建物が傷んでも、幕府に修理の金は無い。そこで認められたのが富くじだった。番号を書いた木札を箱に入れ、槍で突いて当たりを決める。一枚の値段は庶民には高く、仲間で金を出し合って買い、当たれば分ける買い方が広まった。谷中の感応寺、目黒不動、湯島天神の三つがよく知られ、興行の日には人が押し寄せる。当たりを当て込んだ金貸しや、はずれ札を売り直す商売まで生まれた。賭けを禁じながら、修繕の財源としては認める。公が胴元になるという形は、ここから続いている。東京
- 享保の飢饉と打ちこわしできごとAD1732年食べ物の値段が、都市の治安を左右する1732年の夏、西日本で稲の害虫が大発生し、実りがほとんど失われた。多くの村で餓死者が出た。翌年の正月、米の値が上がった江戸で、米を買い占めているとされた米問屋の家が、町人たちに襲われて壊された。江戸で初めての大きな打ちこわしである。幕府は米の値を抑えようとし、飢饉に強い作物として、蘭学を学んだ青木昆陽にさつまいもの栽培を広めさせた。食べ物の値段が、都市の治安を左右するようになっていた。江戸
- 公事方御定書できごとAD1742年(寛保2年)先例から罰の基準を作る八代将軍の徳川吉宗は、裁きが奉行ごとにばらつくのを嫌い、それまでの判決の先例を集めて、罪と罰の基準をまとめさせた。1742年にできた公事方御定書である。下巻は、のちに「御定書百箇条」と呼ばれ、盗みや殺しや密通に、どの罰を科すかを条ごとに定めた。編んだのは寺社・町・勘定の三奉行で、町奉行から寺社奉行に移っていた大岡忠相も加わった。御定書は公にされず、写しを見られるのは奉行など限られた役人だけだった。罪を犯した者の親族まで罰する縁座を狭め、拷問を使える場合を絞るなど、罰を軽くする向きの改めも含んでいた。江戸
- 『仮名手本忠臣蔵』の初演できごとAD1748年討ち入りは、名前を変えて芝居になる1748年、大坂の竹本座で、人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初めて上演された。四十数年前の赤穂の浪士の討ち入りを描いた作である。幕府は武家の実際の事件を芝居にすることを禁じていたので、時代を室町の初めに移し、吉良を高師直、大石内蔵助を大星由良之助という名に変えている。すぐに歌舞伎にも移され、どれほど客の入らない時でもこれを出せば当たるという意味で、芝居の世界では「独参湯」(よく効く薬)と呼ばれた。「忠臣蔵」は、主君への忠義の物語として、映画やテレビで繰り返し作り直された。大坂
- 綿の布団できごとAD18世紀寝る場所を決めない住まい中世の日本の庶民は、藁や筵の上に寝て、昼の着物や夜着を掛けて眠った。綿は輸入品で高かった。木綿の栽培が西日本に広がると、綿を入れた敷き布団と掛け布団が、都市の家にも入っていく。十八世紀の江戸には、布団を貸す商売があった。婚礼の支度として布団を持たせる習わしも、この頃に形になる。昼は畳んで押し入れにしまえば、同じ部屋が居間にも寝室にもなった。寝る場所を決めない住まいは、布団と組になっている。江戸
- 安藤昌益『自然真営道』できごとAD1753年封建の世に平等を唱えた町医者東北の八戸で医者をしていた安藤昌益は、飢饉に苦しむ農民を見て、自ら耕さずに食べる者を厳しく批判した。武士も僧も学者も、耕さずに他人の作ったものを食べる泥棒だと言う。誰もが自分で土を耕し、上下の差の無い世の中こそ、自然の真の姿だと説いた。1753年ごろの著作の一部が刊行されたが、ほとんど知られないまま忘れられる。明治になって原稿が見つかり、封建の世に平等を唱えた思想家として再び光が当てられた。八戸
- 松平定信人物AD1759年1月15日 – AD1829年6月14日餓死者を出さなかった吉宗の孫、田安宗武の子。将軍候補だったのを、田沼が白河松平に養子に出した、と本人は思っていた。白河で天明の飢饉に一人も餓死者を出さなかった。老中首座、寛政の改革。「白河の清きに」。尊号事件で家斉と対立して辞めた。『花月草紙』『宇下人言』。楽翁。
- 葛飾北斎人物AD1760年 – AD1849年5月10日70歳を過ぎてから富嶽三十六景を描いた。90年で30回改名し、93回引っ越したと伝わる。
- 田沼時代できごとAD1772年(安永元年)商人を税源に足軽の子から老中になった田沼意次が、商人の株仲間を認めて運上金を取り、銅と俵物(干し鮑、ふかひれ)を専売し、印旛沼を干拓し、蝦夷地を調べさせ、南鐐二朱銀で貨幣を金本位に寄せた。賄賂と言われた。天明の飢饉、浅間山の噴火、息子意知の殿中での刺殺。1786年、失脚。松平定信が全部戻した。江戸

- 『解体新書』できごとAD1774年(安永3年)蘭学の始まり1771年、杉田玄白と前野良沢が小塚原の刑場で腑分けを見て、持っていたオランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の図と同じだと知った。翌日から翻訳を始めた。辞書はなく、良沢が少しオランダ語を読めるだけ。「鼻はフルヘッヘンドしている」を「うずたかい」と解くのに1日。3年半。「神経」「軟骨」「動脈」はこのとき作られた言葉。蘭学の始まり。江戸

- 平賀源内のエレキテルできごとAD1776年(安永5年)非常の人長崎で壊れたオランダの摩擦起電機を手に入れて、何年もかけて修理した。ガラスを回して静電気を起こし、火花が出る。見世物にして金を取った。本草学、物産会、火浣布(石綿)、寒暖計、油絵、浄瑠璃、『放屁論』。何でもやって、何も完成せず、1779年、酒で人を斬って獄死した。「ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常」。杉田玄白の墓碑。江戸
- 天明の飢饉できごと1782年幕府の力への信頼が揺らぐ浅間山の噴火と冷害が重なった。東北を中心に数十万人が死んだとされ、幕府の力への信頼が揺らぐ。江戸

- 寛政の改革できごとAD1787年(天明7年)白河の清きに白河藩主松平定信が老中首座になって、田沼の政策を戻した。棄捐令で旗本の借金を帳消し、囲米、旧里帰農令、寛政異学の禁(朱子学以外を昌平坂で教えない)、山東京伝と蔦屋重三郎の処罰、石川島の人足寄場。「白河の清きに魚のすみかねて、もとの濁りの田沼こひしき」。6年で辞めた。江戸

- 人足寄場できごとAD1790年(寛政2年)罰として閉じ込めず、手に職をつけて戻す天明の飢饉のあと、江戸には帰る村も仕事もない人があふれた。従来なら追い払うか入墨を入れて放つだけである。火付盗賊改の長谷川平蔵は、石川島に施設を作り、そうした人々を収容して手に職をつけさせることを提案した。油絞り、紙漉き、大工仕事。働いた分の一部を積み立て、出るときに元手として渡す。再び罪を犯させないための仕組みである。罰として閉じ込めるのではなく、働かせて社会に戻す。同じ発想は、四十年後のアメリカの監獄でも別の形で試されることになる。東京
- 本居宣長『古事記伝』できごとAD1798年(寛政10年)国学の頂点松阪の医者が、35年かけて『古事記』を全部注釈した。44巻。1000年、誰も読めなくなっていた古事記の音を、万葉集と祝詞から復元した。「漢意(からごころ)を去れ」。儒教と仏教の理屈で読まず、あったままを。「もののあはれ」。国学の頂点で、そこから平田篤胤の復古神道が出て、幕末の尊王が出た。松阪
- 『東海道中膝栗毛』できごとAD1802年旅が、町人の娯楽になった江戸の町人、弥次郎兵衛と喜多八の二人が、伊勢参りを口実に東海道を旅する。宿場ごとに失敗し、だまされ、喧嘩し、笑いを振りまく。1802年、十返舎一九が出した滑稽本の初編は評判を呼び、続編が二十年以上にわたって出された。庶民が旅をするようになった時代の、旅の案内書としても読まれた。各地の名物や方言が織り込まれている。弥次さん喜多さんという呼び名は、いまも気ままな二人旅の代名詞になっている。江戸
- 間宮林蔵の樺太探検できごとAD1809年隠密になった幕府の命で樺太へ。北端に近いナニオーまで行って、樺太が島だと確かめた。アイヌの船で海峡を渡り、黒竜江を遡って清の役所に着いた。「間宮海峡」。シーボルトが地図に書いた。ヨーロッパ人はまだ知らなかった。林蔵はシーボルト事件で密告した側になり、嫌われた。樺太(間宮海峡)
- 二宮尊徳の村の立て直しできごとAD1820年代村の会計の改革者が、勤勉の像に洪水で家の田畑を失い、両親も亡くした二宮金次郎は、捨てられた苗を拾って植え、荒れ地を開いて家を立て直した。やがて小田原の藩に頼まれ、荒れた村々の立て直しを任される。村の収入を調べて、支出の上限を決め、余りを貸し付けと開墾に回す。勤勉と倹約と、余りを他に譲ることを説いた。報徳の仕法と呼ばれるこのやり方で、六百の村を立て直したとされる。薪を背負って本を読む少年の像が、戦前の学校の校庭に建てられた。小田原
- 異国船打払令できごとAD1825年外の力を知らないまま、強い命令だけ十九世紀に入ると、ロシアやイギリスやアメリカの船が日本の近くに現れ、水や薪を求めるようになった。1825年、幕府は、外国の船を見つけたら、理由を問わず砲撃して追い払え、と命じる。1837年には、日本人の漂流民を送り届けに来たアメリカの商船が、浦賀と鹿児島で砲撃された。1842年、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたと知ると、幕府は慌てて、水と薪は与えて帰らせる方針に改めた。外の世界の力を知らないまま、強い命令だけが出されていた。江戸
- 西郷隆盛人物1828年 – 1877年最後の反乱を率い、そして敗れた薩長同盟を結び、討幕軍を率いた。維新後は新政府に背き、西南戦争で死ぬ。
- 『富嶽三十六景』できごと1830年70歳を過ぎてからの仕事。安価な藍(ベロ藍)が入ってきたことが、あの青を可能にした。江戸

- 神奈川沖浪裏できごとAD1831年頃七十歳を過ぎた葛飾北斎は、富士山をさまざまな場所から描く錦絵の揃い物を出した。その一枚、神奈川沖浪裏では、爪のように砕ける大波の向こうに、小さな富士が見える。舟の漕ぎ手たちは波の下に身をかがめている。当時輸入されたばかりの合成顔料の青が、空と海に使われた。町人が気軽に買える値段の版画である。のちにヨーロッパへ渡り、印象派の画家や音楽家を驚かせた。いまでは世界でいちばん知られた日本の絵になっている。江戸
- 天保の飢饉できごと1833年数十万人が死んだとされる。各地で一揆が起き、幕府の統治能力が問われはじめる。江戸

- 土方歳三人物AD1835年5月31日 – AD1869年6月20日最後の武士武蔵の農家の子で、薬を売り歩き、道場で近藤勇と会った。新選組副長。局中法度で隊士を切腹させ、鳥羽伏見で負け、宇都宮、会津、箱館。函館の市街戦で馬上で撃たれて死んだ。34歳。
- 大塩平八郎の乱できごとAD1837年幕府の元役人が、幕府の町で反乱天保の飢饉で、大坂の町にも飢えた人があふれた。奉行所は米を江戸へ送り、豪商は米を買い占める。元は奉行所の与力で、陽明学を教えていた大塩平八郎は、蔵書を売って困窮者に配ったが、それでは足りなかった。1837年、門人や近くの農民と兵を挙げ、豪商の屋敷に火を放つ。乱は半日で鎮められ、大塩は隠れた末に自ら火を放って死んだ。だが幕府の元役人が幕府の町で反乱を起こしたことは、全国に衝撃を与え、各地で似た騒ぎが続いた。大坂
- 蛮社の獄できごとAD1839年外の情報を伝える者が罰せられた漂流民を送り届けに来た外国船を砲撃した事件のあと、蘭学を学ぶ人びとの集まりにいた渡辺崋山と高野長英は、それぞれ文章を書き、打ち払いの方針を批判した。外国の事情を知る者として、このままでは危ういと考えたのである。1839年、幕府は二人を捕らえ、崋山は国許で蟄居となり、のちに自ら命を絶った。長英は牢に入れられ、火事に乗じて逃げたが、潜伏の末に捕り手に囲まれて死んだ。外の情報を伝える者が、罰せられた。江戸
- 天保の改革できごとAD1841年足もとの土地さえ思うようにできない大飢饉と大塩平八郎の乱のあと、老中の水野忠邦は、幕府の立て直しを急いだ。1841年から、贅沢を厳しく禁じ、芝居小屋を町はずれに移し、物価を下げるため商人の同業の組合を解散させる。江戸に流れ込んだ農民を村へ帰らせる法も出した。だが物の流れは乱れ、物価はかえって上がる。1843年、江戸と大坂の周りの土地を幕府の直轄にしようとして、大名や旗本の猛反対に遭い、水野は失脚した。幕府は、自分の足もとの土地さえ思うようにできなくなっていた。江戸
- 猪山家の家計簿できごと1842年武士は借金に苦しんでいた加賀藩の会計係の家が、37年分の収支を書き残した。武士が借金でどれほど追い詰められていたか、何にいくら使ったかが、一文単位で分かる唯一の史料になる。金沢
- 北越戦争できごとAD1868年(慶応4年)5月中立を拒まれて長岡藩の河井継之助は中立を求め、新政府軍の使者に拒まれて戦った。ガトリング砲2門。城を取られ、取り返し、また取られた。継之助は傷で会津へ向かう途中で死んだ。「米百俵」は戦後の話。長岡

- 廃藩置県できごと1871年8月29日(明治4年7月14日)武士が自ら身分の土台を廃した藩を廃して県を置いた。260年続いた分権の仕組みが一日で消え、中央集権国家になる。江戸

- 徴兵令できごと1873年武士だけが戦う時代が終わる武士だけが戦う時代が終わり、国民皆兵になった。士族の存在理由が失われていく。江戸
- 西南戦争できごと1877年徴兵された農民の軍に敗れて終わった西郷を担いだ士族の最後の反乱。徴兵された農民の軍が士族に勝ち、武力で政府に抗う道が閉じた。鹿児島
- 宮内省の鵜匠できごとAD1890年(明治23年)後ろ盾を失いかけた鵜匠たちを、宮内省が抱えた長良川では、千年以上前から鵜を使って鮎を捕ってきた。夜、舟の先で篝火を焚くと、光に寄った鮎を、首に紐を巻いた鵜が水に潜って飲み込む。紐があるので大きな鮎は喉を通らず、鵜匠が鵜を舟に引き上げて吐き出させる。鵜の喉を通った鮎は、傷がなく、一瞬で締まるので味が良いとされた。戦国の世には織田信長が鵜飼を保護し、江戸時代には鮎が将軍家に献上された。明治になって後ろ盾を失いかけた鵜匠たちを、1890年、宮内省が御料鵜飼として抱えた。長良川の鵜匠は、いまも宮内庁の職員である。長良川(岐阜)
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