お金の歴史

概要
金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。
この物語について
なぜ、この紙で物が買えるのか。財布の中の紙には、それ自体としての値打ちはない。
それでも受け取ってもらえるのは、次の人も受け取ると皆が思っているからになる。お金の歴史は、この「皆が思っている」をどうやって作り、どうやって壊してきたかの歴史になる。
お金より先に、記録があった。古代メソポタミアでは、粘土板に誰が誰に何をどれだけ渡したかを書き、円筒形の印章を転がして確かめた。神殿や王宮は、大麦や銀の重さで貸し借りを記録した。南米のインカ帝国は、文字も貨幣も持たないまま、紐の結び目で数を記すキープで、広大な国の税と倉庫を管理した。お金が無くても帳簿は作れる。お金とは、もともと貸し借りを記録する手段だったという見方もある。
最初は、重さで測る金属だった。銀は取引のたびに秤に載せられた。前7世紀、小アジアのリュディアの王国で、金と銀の合金の粒に刻印を押した貨幣が作られた。リュディアの鋳造貨幣は、重さを量らず、枚数で数えられるようにした。王の刻印が、中身を保証したのである。中国でも、貝や、刀や農具の形をした青銅の貨幣が使われ、秦の統一のあと、円い形に四角い穴のあいた銭にそろえられた。日本では8世紀の初めに銭が作られたが、広く使われるようになるのは、中世に中国から大量の銭が入ってきてからである。円という単位が生まれたのは、明治の初めの1871年である。
国がお金の値打ちを法で決めようとして、失敗した例もある。301年、ローマの皇帝ディオクレティアヌスは、物価の高騰を抑えるために、あらゆる品と賃金の上限を定めた。銀の含有量を減らした貨幣を乱発したことが物価高の原因だったから、値段だけを押さえても効かず、品物は市場から消えた。
紙のお金は、中国で生まれた。11世紀の四川では、重い鉄銭を持ち歩く代わりに、商人が預かり証を発行し、それが通貨として出回った。交子(世界最初の紙幣)は、やがて国が引き取って発行するようになる。預かり証が、そのままお金になったのである。だが国が刷りすぎると、紙幣は値打ちを失った。その教訓は、のちの時代にも何度も繰り返される。
貸し借りを、権力が帳消しにすることもあった。1297年、鎌倉幕府は、生活に困った御家人が売ったり質に入れたりした土地を、ただで取り戻させる法令を出した。永仁の徳政令である。御家人は救われたが、以後、御家人に金を貸す者はいなくなった。江戸時代には、各地の藩が領内だけで通用する紙幣である藩札を出した。信用は、藩の境の中で閉じていた。明治の日本は、その寄せ集めのお金を一つにまとめ、1882年に日本銀行を設けて、紙幣を出す役目を一手に担わせた。
もう一つの軸は、信用になる。中世のヨーロッパでは、遠くへ現金を運ぶのは危なかった。イタリアの商人たちは、ある町で払った金を、別の町で受け取れる証文を作った。為替手形は、現金を運ばずに遠くへ払うことを可能にし、同時に、利子を取ることを禁じた教会の教えをかいくぐる道にもなった。フィレンツェのメディチ銀行は、ヨーロッパ各地に支店を持ち、教皇庁の金を扱うまでになった。15世紀の末には、儲けと損を同じ紙の上で突き合わせる複式簿記の方法が本にまとめられた。
16世紀には、新大陸の銀が世界を回り始める。ポトシの銀はヨーロッパを通り、マニラを通って、税を銀で納めるようになった中国へ流れ込んだ。銀は、初めて世界をつなぐお金になった。
17世紀の末、国の借金からお金の仕組みが生まれた。1694年、戦費に困ったイングランドの王に金を貸すために、商人たちが出資して銀行を作った。イングランド銀行の設立である。銀行は国に貸した金を元手に銀行券を発行し、それがやがて国のお金になっていく。中央銀行は、戦争の借金から生まれたのである。
お金を貸す、手形を回す、銀行が預金から貸し出す。これはお金を増やす行為でもある。増えすぎれば泡になり、縮めば恐慌になる。1720年、フランスでは、スコットランド出身のジョン・ローが紙幣を刷り、北米の植民地開発の会社の株と結びつけて国の借金を消そうとした。ミシシッピ会社のバブルは、株価が暴騰したのち一気に崩れた。同じ年、海峡の向こうのイギリスでも、南の海との交易の会社の株が暴騰して暴落した。南海泡沫事件である。科学者のニュートンも、この株で大損をしたと伝えられる。バブルは人間の欲の話に見えて、信用の仕組みが持つ性質でもある。

フランス革命の政府は、教会から取り上げた土地を裏づけに紙幣を出したが、刷りすぎて紙くず同然にした。その後の19世紀、イギリスは紙幣を一定量の金と引き換えると約束する金本位制を固め、多くの国がそれにならった。金という重しが、刷りすぎを防ぐはずだった。だが恐慌のとき、銀行がばたばたと倒れれば信用は一気に縮む。1873年、イギリスの評論家バジョットは、恐慌のときには中央銀行が、確かな担保と引き換えに、高い利子で、惜しまずに貸すべきだと説いた。最後の貸し手という考え方である。
信用が消えると、紙幣は紙に戻る。第一次世界大戦に敗れたドイツでは、1923年、物価が天文学的に上がり、年末には1ドルが4兆マルクを超えた。ドイツのハイパーインフレの中で、人々は給料を受け取るとすぐに品物に換え、子どもたちは札束で積み木遊びをした。1929年に始まる世界恐慌では、各国が順に金本位制を手放していく。
第二次世界大戦の終わり近く、1944年のブレトン・ウッズ会議で、戦後の仕組みが決められた。アメリカのドルだけが1オンス35ドルで金と換えられ、ほかの国の通貨はドルとの交換の比率を固定する。ドルを介して、世界のお金をもう一度金につなぎ直したのである。だが、アメリカが戦争と財政の赤字でドルを出し続けると、その約束は守れなくなった。1971年8月、アメリカはドルと金の交換を止めた。金とドルの交換停止である。最後の金の裏づけが外れ、以後、お金は信用だけで成り立つことになる。

日本は、その後に大きな泡を経験した。1985年のプラザ合意のあと、円高による不況を和らげるために金融が緩められ、あふれた金が株と土地に流れ込んだ。1989年の暮れ、株価は史上最高値をつけ、バブルの頂点を迎えた。翌年から株価は崩れ始めた。その最高値を株価が超えたのは、34年後の2024年のことである。
2009年、国が発行しないお金が現れた。ビットコインは、中央銀行も銀行も介さず、取引の記録を参加者全員で持ち合うことで、信用を作ろうとした。国が出さないお金は、お金になりうるのか。その問いは、まだ答えが出ていない。
最初は、重さで測る金属だった。次に、王が刻印を押して枚数で数えられるようにした。やがて、金と引き換える約束を書いた紙が出回り、最後に、その約束を裏づけるはずの金が外された。この物語は、貨幣と信用がどう作られ、どう壊れたかを並べたものになる。「なぜこの紙で物が買えるのか」を、毎回ちがう答えで説明してきた歴史になる。
動画(2)
この物語が起きた場所
筋(72)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 円筒印章できごとBC3400年頃取引を確かめる印。記録がお金の前提になる石を円筒に削り、側面に図を彫る。粘土の上で転がすと、帯状の文様が連続して現れる。押した後で作り直せば、跡が乱れて分かる。壺の蓋を粘土で封じ、その上を転がせば、開けたかどうかが見える。文字が生まれる前から、これが所有と、取引の承認と、そして封印に使われた。図柄は個人と役職に固有で、事実上の署名である。首から下げ、死ぬと墓に入れた。閉じたことを示す技術のほうが、文字よりも、先にあった。ウルク
- リュディアの鋳造貨幣できごとBC7世紀後半重さを量らず、枚数で数えられるようにした金と銀の合金に刻印を打ち、重さを量らずに数えて使えるようにした。市場での取引が速くなり、税も給金も数で払えるようになる。サルディス
- ディオクレティアヌスの最高価格令できごとAD301年値段を法で押さえようとして、失敗した貨幣を改めても物価が止まらず、皇帝は1000以上の品と賃金に上限を定め、違反は死刑とした。小麦、獅子、紫の絹、床屋の値段まで。品物が市場から消え、数年で守られなくなった。石に刻まれた断片が帝国中で見つかっている。ニコメディア
- 十分の一税できごとAD779年収穫の十分の一を神に納めるという習わしは、聖書に根がある。長く自発的な献納だったものを、779年、カール大帝が王国の法として義務づけた。教会は徴収の権利を得て、穀物を納める大きな納屋を各地に建てる。取り立ては厳しく、麦の束を数えて十束目に印を付けた。中世を通じて、農民にとって領主への年貢と並ぶ重い負担であり、一揆や宗教改革のたびに槍玉に挙がった。国家が税を集める仕組みを持つ前に、教会が全国規模の徴収網を持っていたことになる。ヘルスタル
- 交子(世界最初の紙幣)できごとAD1024年世界で最初の紙幣。預り証が通貨になる四川は銅が不足して鉄銭を使っていた。絹1匹を買うのに鉄銭130斤(約80キロ)。商人が預り証を発行して、それが手形として流通した。1023年、宋の政府が「益州交子務」を置いて、国家の発行に切り替えた。3年ごとに刷り直し、準備金を持つ。世界で最初の政府発行の紙幣。南宋の会子、金の交鈔、元の宝鈔へ。マルコ・ポーロが驚いて書いた。過剰発行によるインフレも、ここから始まった。成都(交子)
- シャンパーニュの大市できごと1150年市が立つたびに、決済がまとめて行われた年に六度、北の毛織物と南の香辛料がこの平野で出会った。伯爵が道中の安全と裁判を保証し、そこで為替と信用取引の作法が育つ。トロワ

- 割り符と国庫できごとAD13世紀木の棒に刻んだ借りが、国の財政を回したイングランドの財務府は、木の棒に切れ込みを入れて金額を記した。千ポンドは手のひらの幅、一ペニーは細い線。刻んだ後で棒を縦に割り、片方を納税者が、片方を国庫が持つ。木目は二つと同じものがないので、合わせれば本物だと分かる。改竄が難しく、読み書きができなくても使える。この方式は六百年以上続き、割り符そのものが債権として転々と売買された。1834年、廃止された棒を国会議事堂の炉で燃やしたところ、煙突から火が移り、議事堂が全焼した。ロンドン
- フィボナッチ『算盤の書』できごとAD1202年アラビア数字と計算法が、商いの道具になるピサの商人の子レオナルドは、父の任地である北アフリカのブジーで、アラビアの数字と計算法を学んだ。帰国して書いたこの本は、9つの数字と「ゼフィルム」(ゼロ)による筆算を、ヨーロッパの商人に教えるためのものだった。利息、両替、比例配分、そして有名なうさぎの問題(各項が前の二項の和になる数列)。ローマ数字とそろばんに代わって、紙の上で計算する方法が広まった。フィレンツェは1299年、帳簿での新数字の使用を一度は禁じている。ピサ
- 永仁の徳政令できごとAD1297年(永仁5年)元寇を退けても、鎌倉幕府は御家人に与える土地を持たなかった。戦費は自腹で、恩賞は乏しい。御家人は所領を質に入れ、売り払い、困窮していく。1297年、幕府は徳政令を出した。御家人が売った土地を、代金を返さずに取り戻してよいと定める。借りた側を救う一方で、貸す側は誰も貸さなくなった。翌年には一部が撤回される。以後も徳政の要求は繰り返され、室町期には土倉を襲う土一揆が起きた。借金を帳消しにすると、次からの借金ができなくなる。この矛盾は、どの時代でも同じ形で現れる。鎌倉
- 為替手形できごとAD1300年頃現金を運ばずに遠くへ払う。利子の禁止も回避した金貨を持って山を越えれば、盗まれる。ジェノヴァの商人がシャンパーニュの大市で受け取るべき代金を、現地の同業者に払わせ、その分をジェノヴァで清算する。紙の上で債権が動く。教会が利子を禁じていたので、利益は為替の相場に折り込まれた。同じ通貨を貸して利子を取れば高利貸しだが、通貨と場所が違えば、それは為替の差益である。この迂回が、金融の技術を育てた。手形は裏書きで転々と流通し、決済の網が大陸を覆った。ジェノヴァ
- 頼母子講できごとAD中世顔を知っている範囲でしか組めない金融屋根を葺き替える、嫁を迎える、船を買う。まとまった金が要るとき、村では講を組んだ。十数人が毎月同じ額を出し合い、集まった金をくじか入札で一人が受け取る。次の月も出し続け、全員が一度受け取ったら解散する。銀行も質屋も要らず、利子は入札の差額として調整された。成り立つのは、抜ける者が出ないという前提があるからである。顔を知っている範囲でしか組めない。同じ形の仕組みは、東アジア、アフリカ、南米にもあり、移民の集団が持ち込んだ先でも使われてきた。京都
- 塩税できごとAD14世紀生きるのに要るものに課す税は、確実に集まる塩は誰にでも要る。肉も魚も、塩がなければ保存できない。だから塩に税をかければ、確実に集まる。フランス王は塩を専売にし、地方ごとに違う税率をかけた。しかも、一定量を毎年必ず買わせる決まりまで作る。税の高い地方と安い地方の境では、塩を担いで越える密売が絶えず、専門の取り締まり官と、子どもまで動員した運び屋が争った。捕まれば漕役刑である。不公平で、逃げ場がなく、生きるために必要なものにかかる。革命で真っ先に廃止された税の一つになった。パリ
- メディチ銀行できごとAD1397年支店を持つ銀行が、教皇庁の金を扱うジョヴァンニ・ディ・ビッチが、フィレンツェに銀行を開いた。革新は組織にある。各地の支店を、本店が出資する別々の合名会社にした。一つの支店が潰れても、他へ及ばない。支店長は共同経営者で、利益を分ける。ローマ、ヴェネツィア、ジュネーヴ、ブリュージュ、ロンドン。最大の顧客は教皇庁で、全ヨーロッパの教会収入がこの銀行を通った。孫のロレンツォの代に、貸し倒れと放漫な経営で傾き、1494年、フランス軍の侵入とともに終わった。フィレンツェ
- 正長の土一揆できごとAD1428年1428年、飢饉と疫病が続き、将軍が代わった年の秋、近江の運送業者たちが、借金の帳消しを求めて立ち上がった。一揆は京都の周りの村々に広がり、農民たちは酒屋や土倉などの金貸しを襲って、借金の証文を破り捨てた。幕府が徳政を認めなくても、自分たちの手で借金を消したのである。ある寺の記録は、この国が始まって以来、民が蜂起したのはこれが初めてだ、と書き残した。支配される側が、力を合わせて要求を通す時代が始まっていた。京都
- キープできごとAD15世紀紐の結び目で数を持つ。貨幣を使わない国の帳簿インカには文字がなかったと言われるが、記録は膨大にあった。主縄から何十本もの副縄を垂らし、そこに結び目を作る。結びの位置が桁を、形が数を表し、十進法で記す。ゼロは、その桁に結び目を作らないことで示した。色と撚りの向きも情報を持つ。倉の中身、人口、労役の割り当てが、これで管理された。読み書きする専門職がいて、駅伝の走者が運んだ。スペイン人は当初これを証拠として法廷で認め、後に偶像崇拝として焼いた。数の部分は解けたが、物語を記したとされる縄は、いまも読めない。クスコ
- 複式簿記の刊行できごとAD1494年儲けと損を、同じ紙の上で突き合わせるルカ・パチョーリの『算術・幾何・比および比例全書』の中の27ページ。ヴェネツィアの商人が200年使ってきた記帳法を、初めて印刷した。借方と貸方、日記帳・仕訳帳・元帳、そして「貸借が合わなければ、どこかが間違っている」。ゲーテは「人間の精神が生んだ最も美しい発明の一つ」と言った。会社が、持ち主から独立した「一つの計算の単位」になった。ヴェネツィア
- フッガーの選挙資金できごとAD1519年皇帝の位が、借金で買われた皇帝の位が競売のようになった。カール5世とフランソワ1世が、7人の選帝侯に金を配った。ヤーコプ・フッガーがカールに85万グルデンを貸した。カールが皇帝に選ばれた。「陛下が皇帝の位を得たのは、私なしにはあり得なかったことを、陛下はご存じです」とフッガーは後で書いた。ティロルとハンガリーの銀と銅の鉱山。金融が、帝国の位を決めた。アウクスブルク
- ポトシ銀山の開発できごとAD1545年銀が世界を回り始める南米の銀がヨーロッパを経て中国へ流れた。世界で最初の、地球を回るお金の流れ。ポトシ
- マニラ・ガレオン貿易できごと1565年新大陸の銀が、太平洋を越えて中国へメキシコの銀とアジアの絹が太平洋を往復した。ポトシの銀が中国へ流れる経路がここで完成する。マニラ
- 一条鞭法できごとAD1581年税を銀でまとめて納めさせる張居正が全国を検地して、ばらばらだった税と労役を一本にまとめ、銀で納めさせた。名はもと「一条編」(一つに編む)で、同じ音の「鞭」の字が当てられた。日本とアメリカ大陸から流れ込んだ銀が、それを可能にした。農民は作物を売って銀を得なければならず、市場経済に組み込まれた。張居正が死ぬと一族は財産を没収され、名誉は剥奪されたが、税の仕組みは残った。清の地丁銀へ。世界の銀が、中国の税の形を変えた。北京
- 算盤と読み書き算盤できごとAD17世紀計算できることが、商いの資格になった中国の算盤が室町の終わりに伝わり、日本で珠の数を減らした形に変わった。上に一つ、下に四つ。1627年、吉田光由の『塵劫記』が出る。米の売買、面積、両替、旅の日数を、絵入りで解いてみせた。海賊版が溢れるほど売れ、寺子屋の教科書になった。武士のためではなく、商人と百姓のための数学である。答えを載せない問題を巻末に置く習慣が生まれ、解いた者がまた本を出す。和算という、実務から離れた数学の伝統が、その連鎖から育った。江戸
- 佐渡金山できごとAD1601年関ヶ原の翌年、佐渡で金の鉱脈が見つかった。徳川家は島を直轄地とし、奉行所を置いて経営する。山を真っ二つに割ったような露天掘りの跡が、いまも残る。深く掘るほど水が湧き、それを汲み上げる作業が最大の労力になった。人力で桶を渡す水替えの仕事には、江戸で捕らえた無宿人が送り込まれた。過酷で、多くが数年で死んだとされる。金は幕府の財政を支え、小判になって全国を回る。掘る現場と、使う場所の距離が、ここでもはっきり分かれていた。佐渡
- 塵劫記できごとAD1627年庶民が計算を学ぶ本が売れた吉田光由が、明の『算法統宗』を下敷きに、日本の暮らしに合わせて書いた算術の入門書である。算盤の使い方、掛け算の九九、両替、検地、利息、そして継子立てや鼠算のような遊びの問題まで、絵入りで並べた。版を重ね、模倣と海賊版が無数に出て、江戸期を通じて最も読まれた数学の本になった。巻末に答えを付けない問題を残す遺題の形式を作り、それが次の著者への挑戦として受け継がれ、和算の発展を駆動した。京都
- 藩札できごとAD1661年藩が自分の紙幣を出す。信用は領内で閉じる福井藩が発行したものが、確実な記録として最も古い部類とされる。幕府の貨幣は金銀銅の三種で、地方では現物が不足した。藩は領内限りで通用する紙の札を刷り、年貢と引き換えに回収する。財政が苦しければ刷り増す。正貨との交換を渋れば値が下がり、領民が損をする。二百四十以上の藩が発行した。幕府は禁止と黙認を繰り返した。明治になって新政府が引き受け、額面を大幅に切り下げて整理した。国家の統一通貨が無い時代の、地域の通貨である。江戸
- イングランド銀行の設立できごとAD1694年戦費のための借金から、中央銀行が生まれたフランスとの戦費のために作られた。議会が返済を保証する仕組みで、王が勝手に借りられない国のほうが、かえって安く大きく借りられた。ロンドン
- 宝くじと国家財政できごとAD1694年くじで国の借金を集めるイングランドは、フランスとの戦争の戦費に困っていた。1694年、議会が「百万宝くじ」を可決した。10ポンドの札を10万枚売り、当選者に16年間、年金を払う。外れた者にも元本相当の利子を付けたので、実質は国債である。人々は、返ってこないかもしれない国債は買わないが、当たるかもしれない籤は買う。同じ年、イングランド銀行が設立された。宝くじは、税を課さずに金を集める方法として、各国が使い続けている。ロンドン
- 窓税できごとAD1696年家の中を調べずに、豊かさを測りたい。1696年、イングランドは窓の数に課税する仕組みを作った。外から数えられるので、徴税人が家に入らなくてよい。私有の領域を侵さない税として歓迎された面もある。だが人々は窓を塞いだ。煉瓦で埋めた跡が、いまもイギリスの古い家に残っている。安い集合住宅ほど窓が減り、暗く、風の通らない部屋が増えた。医師が健康を害すると訴え、1851年に廃止される。測りやすいものを測ると、測られる側がその形に合わせて変わる。ロンドン
- 破産と免責できごとAD1705年免責は温情ではなく、制度の設計になる返せない借金は、長く犯罪に近い扱いを受けた。債務者監獄に入れられ、家族ごと収監されることもある。働けないので返せず、出られない。1542年のイングランドの法は、財産を差し押さえて債権者に分ける手続きを定めたが、借金は残った。1705年の法が新しかったのは、手続きに協力した商人について、残りの債務を免除できるとした点である。やり直しを認める。危険を取って商売をする人がいなければ、経済は回らないという判断でもあった。免責は、温情ではなく制度の設計になる。ロンドン
- ミシシッピ会社のバブルできごと1719年紙幣と株で国の借金を消そうとして、弾けた株価が1年で20倍になり、1年で崩れた。フランス王家は信用を失い、以後の戦費を高い利子で借りることになる。パリ

- 南海泡沫事件できごとAD1720年同じ年、海峡の向こうでも同じことが起きた南海会社は国債を引き受けて、スペイン領アメリカとの貿易の独占を約束された。貿易はほとんどなかった。株は1月の128ポンドから6月末に1000ポンドを超えた。「誰も知らない事業のための会社」まで生まれた。9月に崩れた。ニュートンが2万ポンド失った。「天体の動きは計算できるが、人の狂気は計算できない」。大臣が獄に入り、ウォルポールが収拾して、最初の首相になった。ロンドン
- 富くじできごとAD18世紀寺社の建物が傷んでも、幕府に修理の金は無い。そこで認められたのが富くじだった。番号を書いた木札を箱に入れ、槍で突いて当たりを決める。一枚の値段は庶民には高く、仲間で金を出し合って買い、当たれば分ける買い方が広まった。谷中の感応寺、目黒不動、湯島天神の三つがよく知られ、興行の日には人が押し寄せる。当たりを当て込んだ金貸しや、はずれ札を売り直す商売まで生まれた。賭けを禁じながら、修繕の財源としては認める。公が胴元になるという形は、ここから続いている。東京
- アッシニアできごとAD1789年12月19日革命政府の紙幣が、紙くずになるまで革命政府は破産していた。教会財産を没収し、それを担保として国債の証券を発行する。売却が進めば回収して焼く、という約束である。やがて利子が外され、法定通貨になった。土地の売却は進まず、戦費が要り、刷り続けるしかない。1795年には額面の一パーセント未満まで下がった。物価の統制と最高価格法が失敗し、パンの行列と暴動が続く。イギリスが偽札を大量に刷って流し込んだことも記録されている。担保があるという設計が、刷る歯止めにならなかった。パリ
- 所得税できごとAD1799年見える贅沢から、見えない稼ぎへフランスとの戦争に金が要る。それまでの税は、窓の数や馬車や召使いなど、外から見える贅沢にかけるものだった。首相ピットは1799年、収入そのものに課税する税を導入する。一定額を超える所得に、段階を付けて課す。国が個人の稼ぎを申告させ、それを調べるという発想は、当時としては私事への侵入と受け取られた。戦争が終わると廃止され、書類は焼かれたと伝えられる。だが1842年に復活し、二度と消えなかった。国家の財政の柱が、物の売り買いから、人の稼ぎへ移っていく。ロンドン
- イギリスの金本位制できごとAD1816年紙幣を金に結びつける約束長く、銀と金の両方が貨幣だった。ニュートンが造幣局長だった1717年、金と銀の交換比率を定めたところ、金を高く評価しすぎて銀が国外へ流出し、事実上の金本位になった。ナポレオン戦争の間、兌換は停止された。1816年の貨幣法で金を唯一の本位と定め、1821年に兌換を再開した。1870年代、ドイツ、アメリカ、北欧などが続き、日本も1897年に加わって、世界の通貨が金で結ばれた。為替が安定し、貿易と投資が国境を越えた。同時に、各国は金の量に縛られた。ロンドン
- 偽造との競争できごとAD1818年偽札との競争が、印刷の技術を押し上げたナポレオン戦争中、イングランド銀行が兌換を停止し、少額の紙幣を大量に出した。それまで紙幣に馴染みの無かった人々が使い、そして偽札が氾濫する。偽造は死罪だった。1797年から1829年に三百人以上が絞首刑になり、その多くが、偽と知らずに受け取った貧しい者である。1818年、銀行は偽造されにくい紙幣の公募を行った。透かし、彫刻、特殊なインク、そして機械彫り。技術の競争が始まり、そこから紙幣印刷という産業が生まれた。ロンドン
- 郵便局で貯めるできごとAD1861年小さな金を集める者が、その行き先を決められる労働者が金を預ける先は乏しかった。銀行は少額の口座を嫌い、貯蓄組合は潰れることがある。1861年、イギリスは郵便局で預金を扱う制度を始めた。全国に窓口があり、破綻の心配が無く、少額から預けられる。政府にとっては、集まった資金を国債で運用できる利点があった。日本も1875年に同じ制度を入れる。前島密が英国の仕組みを写したものである。貯金という習慣が、制度として上から広められた。集まった巨額の資金をどこへ流すかは、その後ずっと、政治の問題であり続けている。ロンドン
- グリーンバックできごとAD1862年2月25日金と換えられない紙幣で、戦争を賄う南北戦争の戦費で、北部の銀行が正貨の支払いを止めた。議会は法定通貨法を通し、金と交換できない紙幣を発行する。裏面が緑のインクで刷られたので、そう呼ばれた。合衆国の政府が自ら発行した、最初の全国共通の紙幣である。総額約四億五千万ドル。金貨に対して値が下がり、一時は四割ほどまで落ちた。戦後、金への復帰をめぐって二十年争われる。農民と債務者は増発を求め、債権者と東部の金融は緊縮を求めた。通貨の量が、政治の争点になった。ワシントンD.C.
- モンテカルロできごとAD1863年わずかな確率の差だけで、国家の財政が成り立った地中海沿いの小さな公国は、レモンとオリーブのほかに売るものが無く、財政が傾いていた。大公は、ドイツの温泉町で賭博場を成功させていた経営者フランソワ・ブランを招く。ブランは岩山の上に賭博場と劇場とホテルを建て、鉄道を引かせ、ヨーロッパ中の貴族と富裕層を呼び集めた。数年で公国の収入は安定し、1869年、モナコは住民の所得税を廃止する。賭博を国の産業にした最初の例である。客が負ける確率がわずかに高いという仕組みだけで、国家の財政が成り立つことを示してしまった。モナコ(モンテカルロ)
- 信用組合できごとAD1864年足りないのは金ではなく、信用を測る方法だった凶作の年、ライン地方の農民は高利貸しに頼るしかなかった。村長だったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ライファイゼンは、まず施しを試みたが、続かないと気づく。次に作ったのが、村人が共同で責任を負う貸付の組合だった。組合員は無限の連帯責任を負い、その代わり、村の外の銀行から資金を借りられる。誰が真面目に働くかは、村人がいちばんよく知っている。返済率は高かった。都市の職人にも同じ仕組みが広まり、いまの信用金庫と協同組合の銀行につながっている。ノイヴィート(ヘッデスドルフ)
- 金庫と破る者できごとAD1870年代安全とは、中の人を含めて何ができないかの設計になる銀行が現金と証券を集めると、それを狙う者が現れる。錠が良くなれば、破る側は蝶番を狙い、壁を破り、床から入る。鋼の箱は厚くなり、何層にも材質を変えて、穴を開けにくくした。次に、鍵そのものが弱点になる。持っている人を脅せばよいからである。そこで鍵のいらない数字合わせの錠が広まり、さらに、決めた時刻まで開かない時計式の錠が加わった。中の人間も開けられないようにすることで、脅しの意味を消す。安全とは、道具の強さではなく、誰に何ができないようにするかの設計になる。ニューヨーク
- バジョットと最後の貸し手できごとAD1873年恐慌のとき、誰が最後に貸すのか恐慌が起きると、誰もが現金を求めて銀行に走る。健全な銀行でも、全員が同時に来れば潰れる。『エコノミスト』の編集長ウォルター・バジョットが『ロンバード街』で原則を書いた。中央銀行は、危機のとき、良質な担保に対して、高い金利で、惜しみなく貸せ。高い金利は、本当に困っている者だけを来させる。良質な担保は、潰れるべき者を救わないためである。この一行が、以後150年の中央銀行の教科書になった。2008年にも引かれた。ロンドン
- 第一国立銀行できごとAD1873年江戸時代にも両替商はあったが、人びとから広く金を集めて事業に貸す銀行は無かった。アメリカの制度を手本に作られた法律のもとで、1873年、東京の兜町に第一国立銀行が開業する。国立と名がついているが、民間の資本の銀行である。大蔵省を辞めた渋沢栄一が、その経営の中心に立った。渋沢はこの銀行を足場に、製紙、紡績、鉄道、保険など五百ほどの会社の設立に関わる。金を集めて事業に回す仕組みが、日本の資本主義の出発点になった。東京
- 日本銀行の設立できごとAD1882年10月10日西南戦争の戦費をまかなうために政府が紙幣を刷りすぎ、物価が跳ね上がった。大蔵卿となった松方正義は、紙幣を減らし、支出を削る厳しい引き締めに転じる。1882年10月10日、国の中央銀行として日本銀行が作られ、紙幣を出す権利を一手に握った。物価は下がったが、米や繭の値が暴落し、借金を返せない農民が土地を失う。借金に苦しむ農民たちの一部は、やがて武器を取ることになる。東京
- 秩父事件できごとAD1884年松方の引き締めで生糸の値が暴落し、養蚕で暮らす秩父の山村の農民たちは、高利貸しへの借金に追いつめられた。借金の返済を先へ延ばしてほしいという訴えは聞き入れられない。1884年11月、困民党を名乗る数千人の農民が蜂起し、郡の役所や高利貸しの家を襲って、証文を焼いた。自由民権の運動に加わっていた者も多かった。政府は軍隊と警察を送り、十日ほどで鎮める。首謀者たちは死刑となった。秩父
- コカ・コーラの誕生できごとAD1886年1886年、アメリカ南部のアトランタで、薬剤師のジョン・ペンバートンは、コカの葉とコーラの実のエキスを混ぜたシロップを作り、薬局の売り場で炭酸水に割って売り出した。はじめは頭痛や疲れに効く飲み物とうたわれている。町では酒を禁じる動きが強まっていて、酒に代わる飲み物でもあった。権利を買い取ったエイサ・キャンドラーは、広告と瓶詰めの工場の仕組みで全国に広げる。コカインを含む葉は、20世紀の初めに成分を抜いたものに替えられた。第二次世界大戦では、兵士のいる場所へ一本5セントで届けると約束し、アメリカの生活の象徴として世界に広まった。アトランタ
- スタンダード・オイルの解体できごとAD1911年5月15日大きすぎる会社をどう扱うかジョン・ロックフェラーのスタンダード・オイルは、競争相手を買い取り、鉄道会社から秘密の割引を受け、アメリカの石油精製の九割を握った。記者アイダ・ターベルが、その手口を雑誌の連載で細かく暴く。1911年5月15日、連邦最高裁は、この会社が独占を禁じる法に違反するとして、三十余りの会社に分割するよう命じた。分割されたあとの会社の株は値上がりし、ロックフェラーの富はかえって増えた。大きすぎる会社をどう扱うかという問いは、いまも巨大な情報企業に向けられている。ワシントンD.C.
- ドイツのハイパーインフレできごとAD1923年信用が消えると、紙幣は紙に戻る1914年に1ドル4.2マルクだったものが、1923年11月に4兆2000億マルクになった。第一次大戦の戦費を国債で賄い、敗戦後は賠償と、ルール占領への消極的抵抗の費用を、紙幣の増刷で支えた。物価は数時間で変わり、賃金は日に二度払われ、鞄一杯の札束でパンを買った。年金と預金と生命保険が、紙になった。11月、レンテンマルクの発行で収まったが、中間層の貯蓄と、通貨への信頼と、共和国への支持が、同時に失われた。ベルリン
- 金融恐慌できごとAD1927年一言が引き起こした取り付け第一次世界大戦のあとの不況と震災で、銀行は返ってこない貸し出しを抱えていた。1927年3月、議会で大蔵大臣が、まだ営業していた銀行を破綻したと口を滑らせる。預金者が銀行に押し寄せて金を引き出す取り付け騒ぎが広がり、多くの銀行が店を閉めた。高橋是清が大蔵大臣に就くと、三週間の支払い猶予を命じ、裏が白いままの紙幣を急いで刷って銀行の店頭に積ませ、騒ぎを鎮めた。中小の銀行が消え、大銀行に預金が集まった。東京
- 世界恐慌できごと1929年信用の収縮が、世界を止めたニューヨークの株価暴落が世界へ波及した。各国がブロック経済に閉じ、対立が深まる。ワシントンD.C.

- 昭和恐慌できごとAD1930年経済の破綻が、民主の破綻に1930年1月、政府は金の輸出を解禁し、為替を戦前の相場に戻した。その直後、アメリカから始まった大恐慌が世界に広がる。輸出は激減し、生糸の値が暴落し、翌年には東北を冷害が襲った。農村では、弁当を持って来られない子どもが増え、娘を売る家まで現れた。都市では失業者があふれる。政党と財閥への怒りは、青年将校や右翼の暴力に向かい、五・一五事件へとつながっていった。仙台
- 金本位制の崩壊できごとAD1931年9月金との約束を、各国が順に手放すイギリスが金との交換をやめ、各国が続いた。世界を一つに縛っていた仕組みが外れ、通貨のブロックに分かれていく。ポランニーはここを19世紀文明の終わりに置いた。ロンドン
- 源泉徴収できごとAD1943年痛みを感じにくい取り方は、集める量を変える戦費のために、所得税を払う人を一気に増やす必要があった。しかし、年に一度まとめて払えと言われても、多くの人は手元に金を残していない。アメリカは1943年、給料から先に天引きして納める方式に切り替えた。設計に加わったのは、経済学者のミルトン・フリードマンである。彼はのちに、この仕組みが政府を大きくしたとして悔いを述べている。日本も1940年に同じ方式を入れた。痛みを感じにくい形で集めると、集める側は集めやすくなる。税の取り方は、税の大きさを変える。ワシントンD.C.
- ブレトン・ウッズ会議できごとAD1944年7月1日ドルを介して金につなぎ直した戦後の仕組みノルマンディー上陸の3週間後、44か国の代表がニューハンプシャーの山中のホテルに集まった。目的は、両大戦の間の混乱——為替の切り下げ競争、ブロック経済、そしてそこから戦争へ至った道——を繰り返さない仕組みを作ることである。ケインズは、どの国にも属さない国際通貨バンコールと、黒字国にも調整を課す清算同盟を提案した。アメリカのホワイト案が通った。ドルを金に固定し(1オンス35ドル)、各国通貨をドルに固定する。IMFと世界銀行ができた。ブレトン・ウッズ
- 砂漠の賭博場できごとAD1946年ネバダ州は1931年、大恐慌の税収難のなかで賭博を合法化した。同じ時期、近くでフーヴァー・ダムの工事が始まり、労働者が集まる。1946年、犯罪組織の資金を受けたベンジャミン・シーゲルが、砂漠の街道沿いに冷房の効いた豪華なホテルと賭博場を開いた。彼自身は翌年に射殺されるが、この形は真似される。賭けだけでなく、食事と舞台と部屋をまとめて売る。やがて組織の金は企業と州の規制に置き換わり、街は家族連れと見本市の街になった。合法化とは、締め出すのではなく、課税して管理することでもある。ラスベガス
- 競輪できごとAD1948年11月20日敗戦後の日本は、地方自治体に金が無く、自転車産業も焼け跡から立ち上がろうとしていた。1948年、自転車競技法が作られ、その年の十一月、小倉で最初の競輪が開かれる。売り上げの一部が自治体の収入になり、一部は自転車工業の振興に回る仕組みである。競馬、競輪、競艇、オートレース。公が営む賭けが並び、戦後の復興と公共事業の財源になった。賭けを禁じておいて、公が営むものだけを例外にする。理由は、金の行き先が公だからになる。小倉(北九州)
- 後払いの一枚できごとAD1950年信用が、人から会社へ移ったニューヨークの実業家フランク・マクナマラは、レストランで財布を忘れたことがきっかけで、現金を持たずに食事ができる仕組みを考えたと伝えられる。1950年、加盟した店で名前の書かれた札を見せれば、代金は後でまとめて請求される会員制を始めた。店は手数料を払い、客は現金を持ち歩かずに済む。後払いはもともと、店と顔なじみの客の間の信用だった。それを、見知らぬ店どうしでも通用する一枚の札にした。ニューヨーク
- 朝鮮特需できごとAD1950年戦後の日本の経済は、インフレを抑える引き締めで不況に沈んでいた。1950年6月、朝鮮戦争が始まると、アメリカ軍は、トラック、毛布、土嚢の袋、弾薬、車両の修理を日本の企業に大量に注文する。倒産しかけていた会社が息を吹き返し、工場が再び動き出した。政府や財界からは、天の助けだという声が上がったと伝えられる。隣の国の戦争が、日本の復興の足がかりになった。そのことは、朝鮮半島から見れば別の意味を持つ。東京
- 付加価値税できごとAD1954年企業を徴税の担い手にした売上に税をかけると、材料を仕入れて売るたびに税が重なり、工程の多い商品ほど不利になる。フランスの税務官モーリス・ローレは、各段階で新たに加わった価値の分だけを課税し、仕入れ分は差し引く仕組みを考えた。1954年に導入されると、重なりが消え、輸出品からは税を外せるようになる。企業どうしが互いの領収書を求め合うので、取引が記録に残りやすいという利点もあった。ヨーロッパ共同体が共通の税として採り、いまでは百七十を超える国が使っている。日本の消費税も、この形になる。パリ
- 所得倍増計画できごとAD1960年12月27日十年で所得を二倍に安保闘争で岸内閣が退いたあと、首相になった池田勇人は、対立の政治から経済へと人びとの目を向けさせた。1960年12月27日、十年で国民の所得を二倍にするという計画を閣議で決める。公共投資で道路や港を整え、産業を育て、減税をする。実際には、計画より早く、七年ほどで目標に届いた。テレビ、洗濯機、冷蔵庫が家庭に入り、多くの人が中流と感じるようになる。一方で、公害と過密と過疎が、同じ成長の中から生まれた。東京
- 減反政策できごとAD1970年作らないことに払う戦後、国は農家から米を高い値段で買い入れ、増産を促してきた。ところが1960年代、人々の食事がパンや肉に移って、米を食べる量が減りはじめる。1970年ごろには、国の倉庫に古い米が大量に積み上がった。国は、米を作る田の面積を減らせば補助金を出すという、生産の調整を始める。「減反」である。田を休ませ、麦や大豆に作り替えることが求められた。米を作り続けたい農家との間で、あつれきが続いた。国が作る量を割り当てるこの仕組みは、2018年に廃止された。東京
- 金とドルの交換停止できごとAD1971年8月15日最後の金の裏づけが外れた。以後は信用だけになるアメリカがドルと金の交換をやめた。世界の通貨から、金という裏づけが消える。以後のお金は、国家への信用そのものになった。ワシントンD.C.

- 担保のない融資できごとAD1976年担保の代わりに、人と人のつながりを使う経済学者ムハマド・ユヌスは、竹細工で暮らす村の女性たちが、材料を買う数ドルの借金のために稼ぎのほとんどを高利貸しに取られているのを知った。彼が自腹で貸した額は、四十二人分でわずか二十七ドルだったという。担保を取らない代わりに、数人で組を作らせ、互いに返済を見守らせる。返済率は高く、この方式は各国に広がった。2006年にノーベル平和賞を受ける。一方で、金利の高さや、多重債務、返済の圧力による悲劇も報告された。小口の金融は、万能薬ではなく、道具の一つになる。ダッカ
- プラザ合意できごとAD1985年9月22日緩めた金が、株と土地に流れ込んだアメリカは貿易の赤字に苦しみ、ドルは高すぎた。1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルに主要五か国の蔵相と中央銀行の総裁が集まり、ドル高を正すため協調して動くことに合意した。一ドル二百四十円ほどだった円は、二年あまりで百二十円台まで上がる。輸出の会社は苦しみ、政府と日銀は景気を支えるため金利を下げ、金を緩めた。その金が株と土地に流れ込み、バブルと呼ばれる熱狂が始まる。ニューヨーク
- ドイモイできごとAD1986年戦争に勝って国を一つにしたベトナムは、集団農業と計画経済のもとで、ひどい物不足とインフレに苦しんだ。国を逃れる人も後を絶たない。1986年12月、ベトナム共産党は刷新、ドイモイを掲げ、市場の仕組みを取り入れ、農家が自分で作物を売ることや外国の投資を認めた。共産党の一党の支配は変えないまま、経済だけを開く道である。米を輸入していた国は、数年で世界有数の米の輸出国になった。中国の改革開放と並ぶ、もう一つの形である。ハノイ
- ブラックマンデーできごとAD1987年10月19日恐慌にならなかった最大の下げ1987年10月19日の月曜日、ニューヨークの株式市場で、ダウ平均が一日で二割あまり下がった。一日の下げ幅の割合としては、大恐慌の始まりを超える過去最大である。値下がりすると自動的に売り注文を出す計算機の仕組みが、売りが売りを呼ぶ流れを加速させた。下落は東京やロンドンにも広がる。だが中央銀行がすぐに資金を流し、景気の後退には至らなかった。値動きが大きすぎるとき取引を止める仕組みが、このあと作られた。ニューヨーク
- バブルの頂点できごとAD1989年12月29日最高値を超えるまで、三十四年1989年12月29日、年の最後の取引で、日経平均株価は三万八千九百円を超えて最高値をつけた。東京の土地の値段でアメリカ全土が買えると言われた。年が明けると株は下がり始め、政府は土地への貸し出しを抑え、日銀は金利を上げる。1991年から土地の値も下がり、銀行には返らない貸し出しが積み上がった。景気の低迷は失われた十年、やがて二十年、三十年と呼ばれる。株価がこの最高値を超えたのは、三十四年後の2024年だった。東京
- マーストリヒト条約できごとAD1992年2月7日国ごとの通貨を手放すという実験ベルリンの壁の崩壊とドイツ統一の直後。ドイツを、通貨を手放させることでヨーロッパに縛る、というミッテランの計算と、コールの決断。欧州共同体(EC)が欧州連合(EU)になった。単一通貨、共通の外交と安全保障、司法と内務の協力。EU市民権。デンマークが国民投票で一度否決し、条件をつけて通した。2002年、ユーロの紙幣と硬貨が12か国で流通した。マーストリヒト
- 債務を帳消しにする運動できごとAD2000年救うことと、次の貸し借りを壊さないこと最貧国の政府は、返済のために保健と教育の予算を削っていた。利子だけで元本が減らない国もある。旧約聖書の、五十年ごとに負債を帳消しにするヨベルの年にちなんで、教会と市民団体が運動を始めた。首脳会議の会場を人間の鎖で囲み、二千万を超える署名を集める。2005年、主要国は最貧国の多国間債務の帳消しに合意した。批判もあった。返さなくてよいと分かれば、次は誰も貸さない。腐敗した政権が借りた金をなぜ国民が返すのか、という問いも残る。ロンドン
- ITバブルの崩壊できごとAD2000年3月10日技術は本物でも、値段は本物とは限らないインターネットで商売をすると言うだけで、利益の出ていない会社の株が買われた。1990年代の終わり、新しい技術の会社が多く上場するナスダック市場の指数は、数年で数倍になる。2000年3月10日に最高値をつけると、そこから二年半で八割近く下がった。多くの会社が消えたが、生き残った会社のいくつかは、のちに世界で最も大きな会社になる。指数がこの最高値を取り戻すのは、十五年後のことだった。ニューヨーク
- ユーロの紙幣と硬貨できごとAD2002年1月1日1999年、ヨーロッパの十一か国が通貨を一つにし、ユーロが帳簿の上で生まれた。三年後の2002年1月1日、十二か国で一斉に紙幣と硬貨が出回る。マルクもフランもリラも、数週間のうちに消えた。紙幣の図柄には、特定の国の人物や建物ではなく、どこにも実在しない窓と門と橋が描かれた。為替の手間は消え、国境を越えた商売はしやすくなる。だが通貨を一つにしても財政は別々のままで、のちのギリシャの危機でその無理が表に出た。フランクフルト
- ふるさと納税できごとAD2008年税の仕組みが、通信販売の売り場のように地方で生まれ育った人も、就職すれば都市に住み、都市に税を納める。育てた地方にも税を回せるように、2008年、好きな自治体に寄付すれば、その分の住民税などが軽くなる仕組みが始まった。自治体は寄付の礼に特産品を贈る。やがて返礼品の豪華さを競う争いになり、牛肉や旅行券、家電まで並んだ。国は返礼品を寄付額の三割以下の地場産品に限る決まりを作る。税の仕組みが、通信販売の売り場のようになった。東京
- ビットコインできごとAD2009年1月3日国が出さないお金は、お金になりうるか金融危機のさなかの2008年、サトシ・ナカモトと名乗る正体不明の人物が、銀行も国も通さずに、見知らぬ者どうしが直接お金をやり取りする仕組みを論文で示した。取引の記録を、参加者全員で持つ一つの帳簿に鎖のようにつないでいく。2009年1月3日、最初の記録が作られ、そこにはロンドンの新聞の、銀行への二度目の救済を伝える見出しが書き込まれていた。値段は激しく上下し、投機と犯罪にも使われる。国が出さないお金が本当にお金になりうるのか、という問いはいまも続いている。ロンドン
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
交易路とお金33件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。主権はだれのものか11件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。都市の歴史8件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史8件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。冷戦のあと7件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。『負債論』で読む歴史6件を共有 / お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。武士の700年5件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。技術と産業5件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。明治4件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。二つの大戦4件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。冷戦4件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。誰が書き残したか4件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。考えることの歴史3件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。日本の古代3件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。確かめるという方法3件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『大転換』で読む歴史3件を共有 / 市場はずっと社会の一部だった。それが逆転して、社会のほうが市場に合わせはじめた19世紀に何が起きたか。働くことの歴史3件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。キリスト教のひろがり2件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。『サピエンス全史』で読む歴史2件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史2件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『1491』『1493』で読む新大陸2件を共有 / コロンブス以前のアメリカは人の少ない原野ではなかった。以後の世界は、生き物の大移動でできている。『物質文明・経済・資本主義』で読む三つの層2件を共有 / 毎日の暮らし、市場での取引、そしてその上に乗る資本主義。ブローデルは経済を三層に分けた。『リオリエント』で読む世界経済2件を共有 / 1800年まで、世界経済の中心はアジアだった。ヨーロッパは、その列に遅れて並んだ客にすぎない。食の歴史2件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。ローマ人の物語1件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。大航海時代1件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。古代オリエント1件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。中国の王朝1件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。帝国と独立1件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。接触前のアメリカ1件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。表現の歴史1件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。コテンラジオで聞く歴史1件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『大分岐』で読む歴史1件を共有 / 1800年まで、長江下流とイングランドは同じくらい豊かだった。分かれたのは石炭と植民地のせいだ、という本。『繁栄』で読む歴史1件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀1件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。『地中海』で読む歴史1件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後1件を共有 / 冷戦が終わったあと、世界はどうなるのか。3年違いで出た二冊が、正反対の答えを出した。『近代世界システム』で読む歴史1件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。『暴力と不平等の人類史』で読む格差1件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。『交易の世界史』で読む物の流れ1件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。『収奪された大地』で読むラテンアメリカ1件を共有 / 500年の歴史を、何が持ち去られたかで書く。金、銀、砂糖、ゴム、コーヒー、銅、石油。教育の歴史1件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。支え合いの歴史1件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史1件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。住まいの歴史1件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。