できごと

『神曲』

The Divine Comedy
1308年 – 1320年
期間を持つできごと重要度 4
『神曲』に関わる図版:Dante Domenico di Michelino
Dante Domenico di Michelino Wikimedia Commons Domenico di Michelino / After Alesso Baldovinetti · Public domain

概要

ラテン語ではなく話し言葉で書いた。それがイタリア語という書き言葉を作ることになる。

場所

フィレンツェ
43.77°N 11.26°E · イタリア・トスカーナ州

関わった人(1)

ダンテ・アリギエーリAD1265年–AD1321年9月14日 · 作者

本文

13世紀の終わりのフィレンツェは、毛織物と金融で富を蓄え、ヨーロッパ有数の都市になっていた。同時に、激しい党派争いの町でもあった。教皇を支持する党と皇帝を支持する党の争いが一段落すると、勝った教皇派がさらに「白派」と「黒派」に割れて争った。ダンテ・アリギエーリは1265年、この町の古い家柄に生まれた。若いころから詩を書き、9歳で出会ったとされる女性ベアトリーチェへの思いを詩文集『新生』に綴っている。ベアトリーチェは1290年、24歳ほどで亡くなった。

ダンテは政治にも身を投じ、1300年には町を治める最高の役職の一つに就いた。だが彼の属する白派は、教皇ボニファティウス8世の後ろ盾を得た黒派に敗れる。1302年、ダンテは公金横領などの罪を着せられ、町に戻れば火あぶりにすると宣告された。以後、彼はイタリア各地の貴族の庇護を受けながら放浪し、二度と故郷の土を踏むことはなかった。

神曲の初版(1472年4月11日発行)。
神曲の初版(1472年4月11日発行)。Wikimedia Commons Sailko · CC BY 3.0

その亡命の中で書かれたのが、『神曲』である。1308年ごろに書き始め、亡くなる1321年の直前に完成したとみられる。ダンテ自身は、ただ『コメディア(喜劇)』と名づけた。苦しみに始まり、幸福な結末に至る物語だからである。「神聖な」という言葉は、のちにボッカッチョが称賛して添えたもので、16世紀の版から題に加えられた。

物語は、1300年の復活祭の前の聖金曜日に始まる。人生の道の半ばで、正しい道を見失った「わたし」は、暗い森に迷い込む。そこに現れたのが、1300年以上前のローマの詩人ウェルギリウスだった。ダンテが詩の師と仰いだ、ローマ建国の叙事詩の作者である(ウェルギリウス『アエネイス』)。ウェルギリウスに導かれて、わたしは地獄の門をくぐる。門には、ここに入る者はいっさいの望みを捨てよ、と刻まれている。

ウェルギリウス『アエネイス』に関わる図版:Aeneas' Flight from Troy by Federico Barocci
ウェルギリウス『アエネイス』Wikimedia Commons Federico Barocci · Public domain

地獄は、地球の中心に向かって漏斗のようにすぼまる九つの圏に分かれ、罪の重さに応じて罰が与えられる。愛欲に溺れた者は永遠に風に吹き流され、裏切った者は最も深い氷の底に閉じ込められる。その底では、三つの顔を持つ堕天使ルチフェロが、キリストを売ったユダと、カエサルを殺したブルートゥスとカッシウスを噛み砕いている。地獄を抜けた二人は、地球の反対側にそびえる煉獄の山を登る。ここでは、救われる望みを持つ魂たちが罪を清めている。山の頂の地上の楽園で、ウェルギリウスに代わって現れるのがベアトリーチェである。彼女に導かれて、わたしは天の諸天を昇り、最後に神の姿を一瞬だけ見る。

全体は、序にあたる歌を含めて100の歌から成り、3行ずつ韻をつないでいく形式で書かれている。3と、その組み合わせの数が、作品のすみずみまで行き渡っている。中世のキリスト教の世界観と、天文学や哲学の知識が、一つの壮大な建物のように組み上げられている。

Comencia la Comedia, 1472年。
Comencia la Comedia, 1472年。Wikimedia Commons Alighieri, Dante · Public domain

同時に、この作品はきわめて生々しい。地獄や煉獄にいるのは、神話や歴史の人物だけではなく、ダンテの同時代の実在の人びとである。フィレンツェの政敵や、当時まだ生きていた教皇ボニファティウス8世までが、地獄に席を用意されている。不義の恋のために殺されたフランチェスカの悲しい告白や、息子たちとともに塔に閉じ込められて飢え死にしたウゴリーノ伯の話は、詩人の怒りや哀れみをそのまま映している。

ダンテがこの作品をラテン語ではなく、故郷トスカーナの話し言葉で書いたことは、大きな意味を持った。当時、学問や信仰の書物はラテン語で書くのが当たり前で、日々の話し言葉は書物にふさわしくない卑しい言葉とされていた。ダンテは別の著作で、母の乳とともに身についた言葉にも、ラテン語に劣らない美しさと力があると論じ、ラテン語を読めない人びとにも語りかけたいと書いている。

地獄篇の冒頭。気が付くと深い森の中におり、恐怖にかられるダンテ。ギュスターヴ・ドレ による挿絵
地獄篇の冒頭。気が付くと深い森の中におり、恐怖にかられるダンテ。ギュスターヴ・ドレ による挿絵Wikimedia Commons Walter Crane · Public domain

ダンテは1321年、ラヴェンナで亡くなった。56歳だった。『神曲』は写本で広く読まれ、ダンテの死から半世紀後には、フィレンツェの町がボッカッチョに公開の講義を依頼するほどになった。フィレンツェは何度もラヴェンナに遺骨の返還を求めたが、いまも墓はラヴェンナにある。ダンテに続くペトラルカとボッカッチョもトスカーナの言葉で傑作を書き、この三人の言葉が、のちにイタリア語の書き言葉の手本になった。イタリアの子どもたちは、いまも学校で『神曲』を読んでいる。700年前の詩が、そのまま国の言葉の古典として生きているのである。

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