できごと

『ユリシーズ』

Ulysses published
AD1922年2月2日
重要度 5
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概要

ジョイスの40歳の誕生日に、パリのシェイクスピア・アンド・カンパニー書店のシルヴィア・ビーチが出版した。1904年6月16日のダブリンの1日。レオポルド・ブルーム、スティーヴン・ディーダラス、モリー。『オデュッセイア』の18の挿話。意識の流れ。最後の章は句読点なしで8文。アメリカとイギリスで猥褻で禁じられ、1933年にアメリカの裁判所が解禁した。6月16日はブルームズデイ。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

ジェイムズ・ジョイスAD1882年2月2日–AD1941年1月13日 · 書いた

本文

ジェイムズ・ジョイスは1904年、22歳で、恋人ノラ・バーナクルとともにアイルランドを出た。カトリックの教会と、イギリスの支配と、狭い民族主義が絡み合う故郷ダブリンでは、書きたいものが書けないと考えたからである。それから彼は、アドリア海の港町トリエステで英語の教師をしながら、ダブリンを舞台にした短編集『ダブリンの人々』と、自分の若い日々を描いた長編『若い芸術家の肖像』を書いた。どちらも出版までに何年も苦労した。その後も、彼はダブリンについてだけ書き続けた。

『ユリシーズ』は1914年に書き始められ、第一次世界大戦を避けて移ったチューリヒで書き継がれ、1920年からはパリで仕上げられた。題はホメロスの『オデュッセイア』(『イリアス』『オデュッセイア』の成立)の主人公オデュッセウスのラテン語名である。トロイア戦争の後、10年かけて故郷に帰り着く英雄の物語を、ジョイスは、1904年6月16日、木曜日のダブリンの、たった1日の出来事に置き換えた。主人公レオポルド・ブルームは、ハンガリー系ユダヤ人の父を持つ、38歳の新聞の広告取りである。妻モリーは歌手で、この日の午後、別の男と逢い引きの約束をしている。ブルームはそれを知りながら家を出て、葬式に出て、新聞社に寄り、昼を食べ、図書館を通り、酒場に入り、浜辺をさまよい、産院を訪ね、夜の歓楽街へ迷い込む。もう一人の主人公スティーヴン・ディーダラスは、『若い芸術家の肖像』の主人公で、ジョイス自身の分身である。故郷を失ったオデュッセウスと、父を探す息子テレマコスのように、二人は夜更けに出会い、ブルームの家へ向かう。6月16日は、ジョイスが初めてノラと連れ立って歩いた日だと言われている。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

小説は18の挿話からなり、挿話ごとに文体ががらりと変わる。人物の頭の中に浮かんでは消える思いの流れをそのまま写す「意識の流れ」の文章、新聞の見出しで区切られた章、音楽のフーガを模した章、英語の散文の歴史を古い時代から順にまねて書き継ぐ章、劇の台本の形をとった幻覚の章、問いと答えだけで進む教理問答の章。そして最後の章は、眠りかけたモリーの独白で、句読点のほとんどない八つの長大な文で、およそ2万4000語が続く。それは、そうよ、と言った、そうよ、いいわ、そうよ、という肯定の言葉で終わる。

完成の前から、この小説は検閲と戦っていた。1918年から、ニューヨークの文芸誌『リトル・レビュー』が各章を連載したが、1920年、ブルームが浜辺で若い娘の姿を見ながら自慰にふける「ナウシカア」の章が問題になり、悪徳の取り締まりを掲げる団体が告発した。翌年、編集者の二人の女性は猥褻な文書を出したとして有罪になり、罰金を科された。アメリカでもイギリスでも、引き受ける出版社はなくなった。

第3章および第13章の舞台となるサンディマウント海岸。
第3章および第13章の舞台となるサンディマウント海岸。Wikimedia Commons Sarah777 at English Wikipedia · Public domain

救いの手を差し伸べたのは、パリのオデオン通りで英語の本を売る小さな書店「シェイクスピア・アンド・カンパニー」の主、アメリカ人のシルヴィア・ビーチだった。1921年の春、彼女はジョイスに、自分の店から出しましょうか、と申し出た。出版の経験はなかった。印刷は、英語を読めないディジョンの印刷業者ダランティエールに頼まれ、ジョイスは送られてくる校正刷りに次々と書き込みをして、本文は校正の段階で3分の1ほども膨らんだ。予約を募り、1000部を刷ることになった。

1922年2月2日、ジョイスの40歳の誕生日の朝、ディジョンからの急行列車で、刷り上がったばかりの本が2冊届いた。1冊はジョイスに、1冊は書店の窓に飾られた。732ページ。表紙はギリシアの国旗と同じ青に白い文字で、ジョイスが選んだ色だった。誤植は多かった。

ディヴィ・バーンのパブ店頭での「ブルームズデイ」の催しの光景。(2007年)
ディヴィ・バーンのパブ店頭での「ブルームズデイ」の催しの光景。(2007年)Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Flapdragon assumed (based on copyright claims). · Public domain

本はイギリスとアメリカに持ち込まれたが、税関は見つけ次第没収し、何百部もの本が焼かれた。読者たちは密輸に頼った。カナダから国境を越えてアメリカに運び込む方法を考えたのは、パリでジョイスと親しくなった若いヘミングウェイの友人だったと伝えられる。海賊版も出回った。読まれないまま「最も有名な禁書」になり、それがかえって評判を高めた。

評価は真っ二つに割れた。詩人のエリオットは、神話を現代の混沌に重ねて秩序を与える新しい方法だとして、この小説を高く評価した。一方、作家のヴァージニア・ウルフは日記に、独学の労働者が書いた品のない本だと書いた。精神科医のユングは、ジョイスに宛てた手紙で、最後の章を読んで、悪魔の祖母なら女の心理についてこれほど知っているかもしれないと思った、と書き送っている。

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Wikimedia Commons James Joyce · Public domain

1933年、アメリカの出版社ランダムハウスが、わざと本を輸入させて税関に押収させ、裁判に持ち込んだ。12月6日、ニューヨーク連邦地裁のウルジー判事は、この本を読み通したうえで、猥褻ではないと判決した。読んで吐き気を催すところはあっても、情欲をそそるところはない、というのである。翌年、ランダムハウス版がアメリカで正式に出版され、1936年にはイギリスでも出版された。この判決は、文学と猥褻をめぐる裁判の歴史で、たびたび引かれる先例になった。

ジョイスは1941年、チューリヒで死んだ。故郷アイルランドに戻ることはなかった。その間にイースター蜂起があり、アイルランドは独立へ向かったが、ジョイスが描いたのは、イギリスの支配の下にあった1904年のダブリンだった。彼は、たとえダブリンが消えても、この本から町を建て直せるほど正確に書きたいと語ったと伝えられる。いまも6月16日は、主人公の名にちなんで「ブルームズデイ」と呼ばれる。1954年、50周年の日に作家たちが小説の道筋をたどったのが始まりで、いまでは毎年、世界中から集まった読者が、当時の服装でダブリンの町を歩き、作中の場面を朗読し、ブルームが昼に食べたゴルゴンゾーラ・チーズのサンドイッチを食べる。20世紀の小説の書き方を変えたこの本は、難解さで知られながら、同時に、平凡な一人の男の一日を、叙事詩の英雄と同じ重さで描いた本でもある。

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