人物

定朝

Jōchō
? – AD1057年
平安時代重要度 4

概要

康尚の子。法成寺の仏像で道長に用いられ、仏師で初めて法橋、法眼。寄木造。分業。「定朝様」。柔らかい顔、浅い衣の襞、丸い肩。平等院の阿弥陀如来が、唯一確かな作。それから運慶が現れるまでの百数十年、日本の仏像はみなこの顔。

関わったできごと(1)

平等院鳳凰堂AD1053年(天喜元年) · 阿弥陀を彫った

本文

生まれた年は分からない。仏師康尚の子とされ、弟子だったとする説もある。康尚は10世紀の終わりから11世紀の初めにかけて都で活躍した仏師で、それまで寺に属していた仏像作りの職人たちの中から、寺を離れて独立した工房を構えた最初期の一人だった。定朝はその工房で腕を磨いた。

定朝作、平等院の阿弥陀如来像(1053年)
定朝作、平等院の阿弥陀如来像(1053年)Wikimedia Commons Jhocho, the master sculptor, book:FUKUYAMA TUNEO and MORI TORU · Public domain

時代は、藤原道長の栄華の頂点にあった。そして同時に、極楽浄土への往生を願う浄土の信仰が、貴族たちの心をとらえていた。源信の『往生要集』(源信『往生要集』)は、地獄の恐ろしさと極楽の美しさを生々しく説き、念仏を唱えて阿弥陀仏の迎えを待つことを勧めた。貴族たちは、自分の屋敷の近くに阿弥陀仏を祀る堂を建て、死の床では仏の手と自分の手を五色の糸で結んで息を引き取ることを望んだ。

道長はその最たる人だった。1020年、都の東に壮大な寺の造営を始め、まず阿弥陀堂を建てた。のちに法成寺と呼ばれる寺である。堂には、人の背丈の倍ほどもある丈六の阿弥陀如来が9体並べられた。極楽への往生には上品上生から下品下生まで九つの段階があるとされ、それに合わせたものだった。この9体を作ったのが康尚と定朝の工房である。道長は7年後、この9体の阿弥陀の手から引いた糸を握りながら、念仏の中で死んだと伝えられる。

1022年、法成寺の金堂が完成し、盛大な供養が行われた。このとき道長は、仏像を作った定朝に法橋の位を与えるよう願い出て、認められた。法橋は本来、高僧に与えられる位である。仏師がこの位を受けたのは定朝が初めてだった。職人として扱われてきた仏師の地位が、ここで大きく引き上げられた。1048年には、焼け落ちた奈良の興福寺の再建で仏像を作り、さらに上の法眼の位を得た。

定朝の名と結びつけられる技術が、寄木造である。平安時代の初めまで、大きな仏像は一本の太い木から彫り出す一木造で作られることが多かった。だが巨木はなかなか手に入らず、彫り上げた像は重く、乾くにつれて割れやすい。寄木造では、頭と胴をいくつもの材に分けて彫り、内側を刳り抜いて中を空にしたうえで、組み合わせて一体の像に仕上げる。像は軽く、割れにくくなり、大きな像も作れるようになった。

寄木造のいちばんの利点は、分業ができることだった。腕の確かな大仏師が全体の形を決め、配下の大勢の小仏師が、それぞれの部分を同時に彫り進める。寄木造の技法そのものは定朝より前から試みられていたが、それを大規模な工房の仕組みとして完成させたのが定朝だったとされる。貴族たちが競って阿弥陀堂を建て、大きな仏像を何体も求めた時代に、この仕組みは欠かせなかった。

1052年、末法の世が始まると信じられたその年(末法の始まり)、関白藤原頼通は宇治の別荘を寺に改めて平等院とした。翌1053年、阿弥陀堂、いまの鳳凰堂が完成し(平等院鳳凰堂)、その中央に定朝の作った阿弥陀如来が据えられた。高さはおよそ2.8メートル。深く瞑想するように目を伏せ、両手を膝の上で組んでいる。背後には雲に乗った飛天が舞う光背が立ち、頭上には透かし彫りの天蓋が掛かる。堂の壁には、雲に乗って楽器を奏で舞い踊る50体あまりの菩薩の像が掛けられ、これも定朝の工房の作と考えられている。

平等院鳳凰堂に関わる図版:Phoenix Hall in Byodo-in Temple, Ujirenge Uji city 2026
平等院鳳凰堂Wikimedia Commons Tomio344456 · CC0

この阿弥陀如来の姿が、のちに「定朝様」と呼ばれる様式の手本である。顔は満月のように丸く、目は細く伏せられ、眉はなだらかな弧を描く。頬はふくよかで、口もとはかすかに微笑む。肩はなで肩で丸みを帯び、体は厚みを抑えて穏やかにまとまる。衣のひだは浅く、規則正しく流れる。平安時代の初めの仏像に見られた、重々しく張りつめた量感や、深く鋭い衣のひだは影をひそめた。威圧するのではなく、包み込む仏。極楽への迎えを待つ貴族たちが求めたのは、こうした仏だった。

定朝の作として確かに言えるのは、平等院のこの一体だけである。法成寺の9体も、興福寺の像も、そのほか記録に残る多くの像も、火災や戦乱で失われた。だが一体残ったこの像が、彼の名を不滅にした。

1057年、定朝は死んだ。死後、彼の作った像は「仏の本様」、つまり仏像の手本とされた。平安時代の終わりの貴族の日記には、新しい阿弥陀像を作るにあたって、仏師たちが定朝の作った像のもとへ出かけ、寸法を細かく測って写したことが記されている。こうして定朝様は全国へ広がり、運慶が現れるまでの百数十年、日本の仏像の顔はみなこの顔になった。鎌倉時代に入ってからも、京都の仏師たちはこの様式を守り続けた。

工房は、子の覚助や弟子の長勢らに受け継がれた。やがて京都を拠点とする院派と円派、そして奈良を拠点とする奈良仏師に分かれていった。奈良仏師の系統から、平安時代の終わりに康慶が現れ、その子が運慶である。運慶は、東大寺の再建(東大寺の再建)などで、たくましい体と鋭いまなざしをもつ写実的な仏像を作り、定朝様の穏やかな仏の時代に区切りをつけた(物語「鎌倉文化 — 武士と民衆の仏教」)。だが、その運慶の工房の仕組みも寄木造の技術も、もとをたどれば定朝に行き着く。いま十円硬貨の鳳凰堂の中に座る阿弥陀如来は、日本の仏像の歴史の一つの頂点であり、出発点でもある。

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