できごと

『荘子』

Zhuangzi
BC300年頃
年に諸説あり重要度 5
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民マウリヤ朝セレウコス朝周の諸侯国ヒンドゥーの諸王国と共和国シャンシュン王国秦アイヌヒンドゥーの諸王国シンハラBC300年頃蒙(商丘)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC300年頃の版図を描いています(11勢力)。

概要

宋の蒙の漆園の役人。「荘周が夢で蝶になった。目覚めて、荘周が蝶の夢を見たのか、蝶が荘周の夢を見ているのか」。「無用の用」。「混沌に七つの穴を開けたら、混沌は死んだ」。楚王が宰相にと使者を送り、「泥の中で尾を引きずる亀でいたい」と断った。妻が死んで、盆を叩いて歌った。内篇7篇が荘子の作で、外篇と雑篇は後の人。魏晋の玄学、禅、そして中国の絵と詩の半分は、ここから。

場所

蒙(商丘)
34.41°N 115.66°E · 中国・河南省商丘

関わった人(1)

荘子BC369年頃–BC286年頃 · 著者

本文

戦国時代の中国は、七つの大国が互いに併呑を狙って争い、諸侯は国を強くする策を求めて思想家たちを競って招いていた。儒家は仁義と礼を説き、墨家は兼愛と非戦を説き、法家は法と賞罰による統治を説いた。いずれも、乱れた世をどう治めるかという問いへの答えだった。その中で、治めること、役に立つこと、正しくあることそのものを笑い飛ばし、まったく別の場所から世界を眺めた書物がある。『荘子』である。

著者とされる荘周(荘子)の伝記は、司馬遷の『史記』(『史記』の完成)に200字ほどしかない。宋の国の蒙(いまの河南省商丘のあたりとされる)の人で、漆の林を管理する小役人を務めたことがある。その学問は見渡さないものがなかったが、要は老子の言葉に帰着し、10万語あまりの著書の大部分は寓話である、と司馬遷は書く。孟子とほぼ同じ時代を生きたが、二人はともに相手の名に一度も触れていない。

『荘子』(宋時代に出版された刊本、金沢文庫旧蔵)
『荘子』(宋時代に出版された刊本、金沢文庫旧蔵)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

いま伝わる『荘子』は33篇からなる。そのうち内篇の7篇が荘周自身の思想をもっともよく伝えると考えられ、外篇15篇と雑篇11篇は、弟子や後の時代の道家の人々の手が加わったものとされる。もとは52篇あったものを、西晋の郭象(300年ごろ)が整理して注を付け、それがいまの形になった。

書物は、とてつもなく大きなものの話から始まる。北の果ての暗い海に、鯤という魚がいる。大きさは何千里あるか分からない。それが姿を変えて鵬という鳥になる。翼は空を覆う雲のようで、つむじ風に乗って9万里の高さに舞い上がり、南の果ての海へ飛んでいく。蝉と小鳩がそれを笑う。自分たちは楡の枝まで飛び上がり、届かなければ地面に落ちるだけだ、9万里も昇って南へ行くなど何のためか。小さな知恵は、大きな知恵に及ばない。

敦煌本、『荘子』天運篇冒頭
敦煌本、『荘子』天運篇冒頭Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

荘周の論敵で友人でもあったのが、論理家として名高い恵施(恵子)である。恵子が、魏の王にもらった瓢箪の種から、五石も入る大きな実がなったが、水を入れると重くて持ち上げられず、割って柄杓にすると平たくて何も汲めない、役に立たないので叩き壊した、とこぼした。荘子は、あなたは大きなものの使い方を知らない、大きな樽のように腰に結わえて川や湖に浮かべればよかったのに、と答えた。世間の物差しで役に立たないものにこそ、別の使い道がある。「無用の用」と呼ばれる考え方である。同じように、山の中の巨大な櫟の木は、船にすれば沈み、棺にすればすぐに腐り、柱にすれば虫に食われると大工に見向きもされない。役に立たないからこそ、誰にも切られず、こんなにも大きく長生きできたのである。

もっとも有名なのは、「斉物論」篇の最後に置かれた蝶の夢だろう。むかし荘周は、夢で蝶になった。ひらひらと楽しく飛び回る蝶で、自分が荘周であることなど知らなかった。ふと目が覚めると、まぎれもなく荘周である。荘周が夢で蝶になったのか、それとも蝶が夢で荘周になっているのか、分からない。荘周と蝶には必ず区別があるはずだが、これを物の移り変わり(物化)という。是と非、生と死、自分と他者といった区別は、見る立場によって生じるにすぎない。この篇は、そうした区別を一つ一つほどいていく。

荘子の「胡蝶の夢」を描いた挿絵
荘子の「胡蝶の夢」を描いた挿絵Wikimedia Commons Lu Zhi · Public domain

技の話もある。料理人の庖丁が、文恵君(魏の恵王とする説がある)の前で牛を解体した。手の動き、肩の構え、刀の音が、まるで舞と音楽のようだった。君が感心すると、庖丁は答えた。私が好むのは道であって、技を超えたものです。初めは牛の全体しか目に入りませんでしたが、3年たつと牛の全体が見えなくなり、いまでは目で見ずに心で向き合っています。骨と肉の間には自然の隙間があり、刃には厚みがありません。厚みのないものを隙間に入れるのですから、刃を自在に遊ばせる余裕があります。19年、数千頭の牛をさばきましたが、刃はいま研ぎ上げたばかりのようです。文恵君は、これで命を養う道が分かった、と言った。

最後の「応帝王」篇は、混沌の死の話で終わる。南の海の帝の儵と、北の海の帝の忽が、中央の帝の混沌のもとで出会い、手厚くもてなされた。二人は恩返しをしようと相談した。人には誰にも七つの穴があって、それで見て、聞いて、食べて、息をしている。混沌にだけそれがない。開けてやろう。1日に1つずつ穴を開けていくと、7日目に混沌は死んだ。善意の手出しが、生まれつきのものを損なう。為政者への皮肉としても読める寓話である。

『荘子』天運篇の唐代写本の複製(1932年東京で出版)
『荘子』天運篇の唐代写本の複製(1932年東京で出版)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

荘子の人柄を伝える逸話も多い。楚の王が使者を送って宰相に迎えようとしたとき、彼は川で釣りをしていた。楚には3000年前に死んだ神聖な亀の甲羅が、絹に包まれて廟に大切に祭られているという。その亀は、死んで骨を尊ばれるのと、生きて泥の中で尾を引きずっているのと、どちらを望んだだろうか、と彼は問い、使者が後者だろうと答えると、帰ってくれ、私も泥の中で尾を引きずっていたい、と言った。妻が死んだとき、弔いに来た恵子は、荘子が足を投げ出して座り、盆を叩いて歌っているのを見てとがめた。荘子は、初めは自分も嘆いたが、彼女のもとをたどれば、もともと命も形も気もなかった、それが変化して生まれ、いままた変化して死に帰っていく、四季の巡りと同じだ、天地という大きな部屋で静かに眠ろうとしている人の横で泣き叫ぶのは、運命の道理が分かっていないことになる、と答えた。自分の死を前に、弟子たちが手厚く葬りたいと言うと、天地を棺とし、日月と星々を副葬の玉とし、万物を供え物とするのだから、何を付け足すのか、と退けた。野ざらしでは鳥に食われますと弟子が言うと、地上に置けば鳥に食われ、地中に埋めれば蟻に食われる、あちらから取り上げてこちらにやるとは、ずいぶん偏った扱いだ、と笑ったという。これらは外篇・雑篇の話で、荘周自身の実際の言動かどうかは分からない。

この書物は、その後の中国の精神に深く染みこんだ。漢の初めには黄帝と老子を尊ぶ「黄老」の思想が政治を動かし、魏晋の乱世には、王弼らが老荘の言葉で世界の根本を論じる玄学が栄え、竹林の七賢のような隠逸の文人を生んだ(竹林の七賢)。インドから来た仏教の教えを理解するときにも、老荘の言葉が借りられ、やがて禅の気風にもその影が濃く差している。李白の奔放な詩、蘇軾の文章、山水画の描く悠々たる天地。日本でも、松尾芭蕉が荘子に親しんだことはよく知られている。儒家の教えが表の秩序を支えたとすれば、そこからはみ出す自由を語る言葉は、いつもこの書物から汲まれてきた。

同じ時代のできごと

『マハーバーラタ』の成立BC4世紀からAD4世紀にかけて(層が重なっている)『原論』BC300年頃アッピア街道BC312年ローマの水道BC312年イプソスの戦いBC301年算木BC300年頃ヘラクレアの戦いBC280年アレクサンドリアの図書館BC3世紀
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC300年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →