概要
1748年、大坂の竹本座で、人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初めて上演された。四十数年前の赤穂の浪士の討ち入りを描いた作である。幕府は武家の実際の事件を芝居にすることを禁じていたので、時代を室町の初めに移し、吉良を高師直、大石内蔵助を大星由良之助という名に変えている。すぐに歌舞伎にも移され、どれほど客の入らない時でもこれを出せば当たるという意味で、芝居の世界では「独参湯」(よく効く薬)と呼ばれた。「忠臣蔵」は、主君への忠義の物語として、映画やテレビで繰り返し作り直された。
場所
34.69°N 135.53°E · 日本・大阪府
本文
1702年の暮れ、元赤穂藩の浪士47人が江戸の吉良邸に討ち入り、主君の仇を討った(赤穂事件)。事件はすぐに芝居の種になったが、幕府は、実際に起きた武家の事件をそのまま舞台にすることを許さなかった。作者たちは、時代と名前を変えて描くことを重ねていった。
1748年、竹田出雲、三好松洛、並木千柳の三人の合作による『仮名手本忠臣蔵』が、大坂の竹本座で人形浄瑠璃として上演された。舞台は南北朝の時代、『太平記』の世界に移されている。吉良にあたるのは足利の執事の高師直、浅野内匠頭は塩冶判官、大石内蔵助は大星由良之助。「仮名手本」は、いろは47文字と47人の浪士を掛けた題とされる。
全部で十一段。討ち入りそのものより、そこに至るまでの人々の苦しみに重みが置かれた。仇討ちの資金のために身を売る妻、主君の大事に居合わせなかったことを悔いて腹を切る若侍、敵の目を欺くために遊びにふける由良之助。忠義のために、それぞれが何を失うかが描かれる。
作はすぐに歌舞伎に移され、江戸でも上方でも繰り返し演じられた。客の入りが悪いときでもこれを出せば必ず当たるので、芝居の世界では、よく効く気付けの薬の名から「独参湯」と呼ばれた。明治以後、忠臣蔵は講談や浪曲や映画やテレビで作り直され続け、年の暮れの定番になった。主君への忠義を美しいものとして語る物語は、戦時中には国民に忠を説く材料にも使われた。