都市の歴史

概要
人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。
この物語について
密集して住むのは、割に合わない選択に見える。疫病も出るし、食べ物も運ばなければならない。それでも人は都市を作り続けた。
人類の歴史の大半、人は数十人の群れで移動しながら暮らしていた。一か所に何千、何万という人が住むのは、それに比べれば極端な選択である。ごみと排泄物がたまり、病がうつり、食べ物は周りの土地から運び込まなければならない。それでも、ある時期から世界の各地で、人は互いに離れて住むより、寄り集まって住むことを選ぶようになった。
その早い例の一つが、アナトリアのチャタル・ヒュユクである。紀元前7千年紀を中心に、数千人ほどが日干し煉瓦の家をびっしりと隙間なく建て並べて暮らしていた。通りはなく、人は屋根の上を歩き、天井の穴から梯子で家に入った。神殿や宮殿のような目立つ建物は見つかっておらず、家どうしの大きさの差も小さい。ここは都市というより大きな村だったとする見方もあるが、人が密集して住むという選択が、王や神殿より先にあったことを示している。
都市と呼べるものが現れたのは、紀元前4千年紀のメソポタミア南部だった。ウルクは、巨大な神殿を中心に数万の人を抱え、麦や家畜の出入りを記録するために文字が使われ始めた。農民だけでなく、神官、書記、陶工、織り手、商人が住み、それぞれが自分の仕事に専念した。一人ですべてをこなさなくてよいこと。分業こそが、都市が生んだいちばん大きなものだったかもしれない。
紀元前3千年紀には、インダス川の流域にも大きな都市が並んだ。モヘンジョダロの都市計画を見ると、通りは碁盤の目のように走り、家々には浴室があり、焼き煉瓦で覆った排水溝が通りの下を走っていた。煉瓦の大きさまで広い地域でそろっていたのに、王の墓や大きな宮殿ははっきりと見つかっていない。文字はまだ解読されておらず、誰がどのように町を治めていたのかは分かっていない。南米のペルーでも、紀元前3千年紀に、土器を使う前の人びとがカラルに大きな基壇と広場を持つ町を築いていた。
都市は、食べ物を周りから集める力の上に立っている。ローマは最盛期に100万ともいわれる人口を抱え、エジプトや北アフリカの小麦を船で運び込み、市民に配給した。水は十数キロ、ときに数十キロ先から水道橋で引かれ、公衆浴場と噴水を満たした。それでも密集した木造の集合住宅はたびたび火事を出し、紀元64年のローマ大火では、町の大部分が焼けた。皇帝ネロは、火事の後に広い通りと燃えにくい建物を定めた一方、自分のための宮殿も建て、放火の噂を立てられた。

同じ頃のアメリカ大陸にも、ローマと並ぶ規模の都市があった。メキシコ盆地では、テオティワカンの隆盛を迎えた紀元後の数百年、一つの町に十万人を超える人が住んでいたと推計される。太陽のピラミッドと月のピラミッドを結ぶ大通りが町を貫き、異なる地方から来た人びとが地区ごとに住んでいた。誰が建て、どんな言葉を話していたのかは分かっていない。テオティワカン、神々の生まれた場所という名は、町が廃れて何百年も後に訪れたアステカの人びとが付けたものである。
東アジアでは、7世紀に唐の都長安が人口100万ともいわれる都市になった。四角い城壁の中を碁盤の目に区切り、それぞれの区画を壁で囲んで、夜は門を閉ざした。西の市にはペルシアやソグドの商人が店を構え、日本からの留学生も学んだ。平城京や平安京は、この長安を手本に作られている。だが都市は、栄えた分だけ狙われた。後漢の末の190年、権力を握った董卓は、都の洛陽を焼き払い、住民を西の長安へ強引に移した。
8世紀のバグダードは、円形の城壁を持つ計画都市として築かれ、人口数十万から百万ともいわれる、世界有数の都市になった。紙と書物が集まり、バグダードの知恵の館ではギリシアやインドの学問がアラビア語に訳された。そのバグダードも1258年、モンゴル軍に落とされ、多くの住民が殺された。都市が集めた富と知識は、そのまま奪う者を引き寄せる。

11世紀から12世紀、いまのアメリカのミシシッピ川のほとりには、カホキアという町があった。カホキアの繁栄の時代には、土を盛り上げた巨大な基壇の上に建物が並び、人口は1万から2万ほど、当時のロンドンに匹敵したとされる。だが文字を持たず、13世紀には人びとが去り、今では盛り土だけが残る。東南アジアでは、クメールの都アンコールが、貯水池と水路を網のようにめぐらせて広い範囲に人を住まわせ、12世紀の末にはジャヤーヴァルマン7世が城壁で囲んだアンコール・トムを築いた。
1325年、メキシコ盆地の湖に浮かぶ小島に、アステカの人びとが都を築き始めた。テノチティトランの建設から200年足らずで、町は湖の上に土手道と運河をめぐらし、浮き畑で作物を育てる大都市になった。1519年にここを訪れたスペイン人たちは、ヨーロッパのどの町にも劣らない規模と整った町並みに驚いたと書き残している。そして2年後、町は包囲と疫病の末に破壊され、その上にメキシコ市が建てられた。

中世から近世のヨーロッパでは、都市は別の意味を持っていた。12世紀ごろから、北イタリアやフランドル、ドイツの商人と職人の町は、王や領主から特許状を得て、自分たちで役人を選び、裁判をし、城壁を築いた。「都市の空気は自由にする」という言い回しがあるように、領主のもとから逃れて町に一定の期間住み着いた農奴は自由の身になれるとされた。水の上に築かれたヴェネツィアは交易で地中海の東を押さえ、17世紀のアムステルダムは、株式会社と取引所と銀行を備えた世界の商業の中心になった。王の都ではなく、商人が自ら治める町が、新しい経済の仕組みを生んだのである。
江戸は、徳川家康が1590年に入ったころは小さな城下町だったが、江戸幕府の成立の後、大名とその家臣が全国から集まり、18世紀には人口100万ほどの世界最大級の都市になった。玉川上水などの上水が町に水を配り、人の排泄物は近郊の農村が買い取って肥料にした。それでも木造の家が密集した町は、たびたび大火に見舞われた。1657年の明暦の大火では、江戸の大半が焼け、10万人が死んだとも伝えられる。江戸はそのたびに道を広げ、火除け地を設けて建て直された。

都市を根本から変えたのは、産業革命だった。19世紀のイギリスでは、工場の働き口を求めて農村から人が押し寄せ、マンチェスターのような工業都市が急に膨らんだ。下水も整わない過密な長屋では、コレラや結核が広がり、平均寿命は農村より短かった。上下水道の整備、公園、住宅の規制は、こうした都市の病への答えとして生まれた。1851年、イギリスは都市に住む人が農村に住む人を上回った最初の大きな国になった。
都市は、何度でも壊れ、何度でも建て直された。1755年の万聖節の朝のリスボン大地震では、町が地震と津波と火災に同時に襲われ、その大半が失われた。宰相ポンバルは碁盤の目の街路と耐震の工夫を取り入れた建物で町を作り直した。1923年9月1日の関東大震災では、東京と横浜の大部分が焼け、10万人を超える人が亡くなった。その復興の中で、広い道路や公園、燃えにくい鉄筋コンクリートの学校が作られた。

2007年ごろ、世界の人口のうち都市に住む人の割合が、初めて半分を超えたとされる。病がうつりやすく、災害で一度に多くを失い、食べ物も水もすべて外から運ばなければならない。それでも人が都市に集まるのは、そこに仕事があり、出会いがあり、新しい考えが生まれるからだ。文字も法も分業も、人が寄り集まったところから始まった。都市の歴史は、割に合わないはずの選択が、なぜか割に合ってきた歴史である。
この物語が起きた場所
筋(349)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- イェリコの壁できごと約1万年前最も古い街の一つ死海の北の泉のほとりで、農耕が始まってすぐ、人が石の壁と塔を建てた。高さ8メートルの塔。何を防いだかは分からない。洪水か、人か。ヨシュアの角笛より6000年古い。世界で最も古い街、と言われる街の一つ。イェリコ
- 日干し煉瓦できごとBC7500年頃石の建築ばかりが残ったのは、泥が消えたからにすぎない泥に藁や糞を混ぜ、型で成形し、日に干す。焼かないので燃料が要らない。乾いた土地では、何千年も保つ。初期のものは手で丸めた紡錘形で、指の跡が残っている。型を使うようになるのは後である。同じ大きさの塊を大量に作れることが、直線の壁と、階を積むことと、そして工事の見積もりを可能にした。メソポタミアの神殿も、エジプトの住居も、インダスの街も、大部分はこれである。石の建築ばかりが残ったのは、泥の建物が溶けて消えたからにすぎない。イェリコ
- チャタル・ヒュユクできごと紀元前71世紀道が無く、屋根の上を歩いて出入りした道が無く、屋根の上を歩いて天井の穴から家に入る町。数千人が住んだが、王の家らしきものが見つからない。チャタル・ヒュユク
- ウルク。都市というものの始まりできごと紀元前35世紀数万人が城壁の中に住んだ。分業も神殿も官僚も、ここで一度に現れている。ウルク
- インダス文明できごとBC2600年碁盤の目の街路と下水を備えていた碁盤の目の街路と下水を備えた都市が並んだ。文字は未解読で、王の墓も神殿も見つかっていない。モヘンジョダロ
- ギザの大ピラミッド建設できごとBC2560年頃古王国のクフ王が築いた。3800年にわたり世界で最も高い建造物であり続けた。ギザ
- カラルの都市できごと紀元前26世紀ピラミッドを持つ都市が、ギザとほぼ同じ頃にペルーの海岸に建っていた。武器も城壁も見つかっていない。カラル
- モヘンジョダロの都市計画できごと紀元前25世紀碁盤の目の街路と、各戸から通じる下水。宮殿も王墓も見つかっておらず、誰が統治したのか分かっていない。モヘンジョダロ
- ビールとニンカシへの讃歌できごとBC1800年頃ストローで飲む理由粘土板に書かれた、醸造の女神への讃歌。同時に、ビールの作り方の手順書でもある。大麦を発芽させ、パン(バッピル)に焼き、砕いて水に浸し、発酵させ、濾す。文字を持たない者でも、歌として覚えられる。当時、ビールは日常の飲み物であり、そして労働の対価だった。ウルクの粘土板に、労働者への配給として、日に一定量のビールが記録されている。ストローで飲む。濾しきれない殻を避けるためである。ウル
- テラ島の噴火できごとBC17〜16世紀火山灰の下に町がそのまま残った島の中央が吹き飛び、火山灰の下に町がそのまま残った。クレタの宮殿文明が衰える一因とされる。アトランティスの伝説の元という説がある。テラ島(サントリーニ)
- 盤庚の遷都できごとBC1300年頃273年動かなかった都五度目の遷都で殷に落ち着き、以後273年動かなかった。だからこの王朝は殷と呼ばれる。その跡が殷墟で、甲骨文字はここから出た。殷墟
- カルタゴの建設できごとBC814年(伝承)ティルスから来たフェニキア人が北アフリカに築いた。母市が衰えたあとも西地中海の交易を握り、600年後にローマと三度戦うことになる。カルタゴ
- ローマの建国できごと紀元前8世紀(伝承ではBC753年4月21日)伝承ではロムルスがBC753年に建国したとされるが、考古学的には紀元前8世紀の集落の統合としか言えない。ローマ
- シラクサの建設できごとBC734年(伝承)200年で地中海と黒海の岸に数百の都市コリントスの人びとがシチリアに植民市を建てた。ギリシア人は200年で地中海と黒海の岸に数百の都市を築き、母市より大きくなる町も出る。シラクサ
- エトルリアの都市国家できごとBC7世紀頃ローマはここから王と文字と建築を学ぶイタリア中部に、言語の系統が分からない人びとの都市が並んだ。ローマは王をここから迎え、文字と占いと建築を学ぶ。タルクィニア
- カナートできごとBC700年頃乾燥地で水を引く。山麓の帯水層まで縦穴を掘り、そこから村へ向かって、ごく緩い勾配の横穴を通す。水は重力だけで流れ、地下を通るので蒸発しない。掘る途中の土を出すために、数十メートルごとに縦穴を開ける。空から見ると、点線が砂漠を横切っている。イランに三万数千本があり、総延長は数十万キロに及ぶ。北アフリカのフォガラ、中国のカレーズ、スペインとメキシコの水路も同じ技術である。掘る者は落盤と窒息で死んだ。イスファハーン
- 背もたれのある椅子できごとBC5世紀古代ギリシアの壺絵や墓碑には、脚が外へ反り、背板が肩を支える椅子が描かれている。クリスモスと呼ばれる。座っているのはたいてい家の主人か女主人である。多くの人は腰掛けか床に座り、背もたれのある椅子は長く身分の印だった。司教の座る椅子が司教座聖堂の名になり、会議を仕切る者を英語でチェアと呼ぶのはその名残である。誰もが椅子に座るようになったのは、椅子が安く作れるようになってからで、歴史の上ではごく最近のことになる。アテナイ
- パルテノン神殿の完成できごとBC432年ペリクレスのもとで15年かけて建てられた。同盟の資金が使われたことは当時も批判された。アテナイ
- 乳香の道できごとBC400年頃水のない岩山の通行税乳香と没薬は、アラビア半島南端のごく限られた地域にしか生えない木の樹脂である。切り傷から滲み出た涙を集め、乾かす。神殿で焚き、遺体に塗り、薬にした。年に3000トンが北へ運ばれたという推計がある。ラクダの隊商が、2000キロ以上を60日以上かけて進んだ。その道の要にあったのがナバテア人のペトラである。彼らは水の乏しい岩山に貯水の仕組みを作り、通行税を取って富を築いた。海路が開けると、道は衰えた。ペトラ
- アレクサンドリア建設できごとBC331年ナイル・デルタの西端に築かれ、後に地中海世界最大の学術都市になる。アレクサンドリア
- ローマの水道できごとBC312年監察官アッピウス・クラウディウスが、市の外の水源から水を引いた。全長約16キロ、そのほとんどが地下である。以後五百年で十一本が加わり、総延長は五百キロを超えた。動力は重力だけで、勾配は一キロあたり数十センチに保たれる。谷は水道橋で越えた。運ばれた水は、まず公共の泉と浴場へ行き、余った分が個人の家に配られた。管理者フロンティヌスが記録を残しており、無許可の分岐が横行していたことも書かれている。市内の水は、昼夜、止まらずに流れ続けた。ローマ
- ファロスの灯台できごとBC280年頃ナイル三角州の海岸は低く平らで、沖から陸の位置が分からない。プトレマイオス朝が、港の入口のファロス島に塔を建てた。高さは百メートルを超えたと伝えられ、四角、八角、円柱の三段。頂に火を焚き、金属の鏡で沖へ投げた。昼は煙を目印にした。設計者ソストラトスの名が、王の名の下の石に隠して刻まれていたという逸話がある。千五百年立ち、地震で崩れた。1994年、港の海底からその石材が見つかっている。ファロスの語が、多くの言語で灯台を意味する語になった。アレクサンドリア
- ジェンネ=ジェノの都市できごと紀元前3世紀王宮も神殿も見つかっていないのに数千人が住んでいた王宮も神殿も見つかっていないのに、数千人が住み、9世紀ごろには周囲2キロの城壁で囲まれた。都市には王が要る、という前提を揺さぶる遺跡。ジェンネ=ジェノ
- ナバテア人のペトラできごとBC1世紀年に一度の集まりの場所が町になった砂漠の岩の谷に、水路とダムで町を作った。乳香と没薬の道の要にあり、岩を彫って神殿の正面を刻んだ。ローマに併合されて商路が変わり、忘れられる。ペトラ
- アグリッパ人物BC63年 – BC12年パンテオンと下水無名の家の出で、オクタウィアヌスの同級生。彼の戦いをすべて代わりに戦った。ナウロコス、アクティウム。ローマの水道と浴場と最初のパンテオンを建て、地図を作った。娘婿になり、後継者になり、先に死んだ。孫は皇帝にならず、曾孫ネロが皇帝になった。
- 常平倉できごとBC54年1938年のアメリカにも同じ名の制度豊作の年は米が安く、農民が困る。凶作の年は高く、都市の貧民が困る。前漢の宣帝の時代、耿寿昌が提案した。国家が、安い年に買い上げ、高い年に放出する。価格を平らにするので常平という。米を蓄えるだけでなく、市場に介入して値を動かす仕組みである。隋唐の義倉、宋の社倉、そして朝鮮の還穀と日本の江戸期の囲米へ。1938年、アメリカの農業調整法にも同じ名の制度が入った。農務長官ヘンリー・ウォレスが、中国の古典から取ったと述べている。長安
- ウィギレスできごとAD6年警察と夜警と消防を兼ねた七千人百万都市で、木と日干し煉瓦の集合住宅が密集し、灯りは炎である。アウグストゥスは、それまで私的な奴隷の組と有志に任されていた消火を、常設の部隊にした。七つの大隊、各千人、市の十四区を二区ずつ受け持つ。夜通し街を巡回する。装備はバケツ、酢に浸した毛布、斧、手押しポンプ、そして延焼を止めるための破壊具である。解放奴隷が主で、六年勤めれば市民権を得られた。警察と、夜警と、消防を兼ねた。ローマ
- ローマ大火できごとAD64年7月市の大半が焼けた。ネロが放火犯としてキリスト教徒を処断したとタキトゥスは書く。ローマ

- テオティワカンの隆盛できごとAD100年誰が建てたかも分からないまま、ローマと並ぶ規模だった人口10万を超え、同時代のローマと並ぶ規模だった。誰が建てたのか、どの言語を話したのかも分かっていない。テオティワカン
- モンテ・アルバンのサポテカできごとAD1世紀山の頂を平らに削って広場を作った。メソアメリカで最も早い文字と暦の記録がここに残る。征服した町の名を刻んだ石板が並ぶ。モンテ・アルバン
- モチェ文化できごと100年砂漠に運河を引いて谷を潤し、日干し煉瓦の巨大な神殿を建てた。写実的な土器が数万点残り、文字のない社会の暮らしと儀礼を細かく伝えている。モチェ渓谷(位置は特定されていない)
- ローマのインスラ(集合住宅)できごとAD1〜2世紀人口が百万人に近づいた帝政のローマでは、市民の大多数が、インスラと呼ばれる何階建てもの集合住宅に住んでいた。一階には通りに面して店が並び、上の階ほど狭く、家賃は安く、貧しい人が住んだ。台所も便所も水道も無い部屋が多く、人々は公衆の浴場と便所、屋台の食べ物に頼った。急ごしらえの建物はしばしば崩れ、火事も絶えなかった。皇帝たちは建物の高さを制限し、64年の大火のあとには、ネロが通りを広げ、燃えにくい材料を使うよう命じた。詩人たちは、崩れかけた高い部屋の暮らしの惨めさを書き残している。ローマ
- 董卓の洛陽焼き討ちできごとAD190年都を焼いて長安へ遷った。皇帝は名だけになり、各地の実力者が割拠しはじめる。洛陽
- ヴァーラーナシーの火葬できごとAD500年頃絶えない火ガンジス河畔のこの町で死ねば輪廻から解脱できる、という信仰がある。マニカルニカー・ガートでは、薪の火が数百年、絶えたことがないとされる。遺体は布に包まれて川で清められ、薪の上で焼かれ、灰は川へ流される。墓は作らない。体は器であって、残すものではないという考え方である。焼く薪の量は一体に300キロ前後で、貧しい者には払えない。焼き切れなかった体が川へ流されることが、いまも問題になっている。ヴァーラーナシー
- 唐の成立できごとAD618年長安が人口100万を超える長安は人口100万を超える国際都市になり、東アジアの制度と文化の手本になった。長安
- アザーンできごとAD7世紀前半メディナの信徒が増えると、礼拝の時刻をどう知らせるかが問題になった。キリスト教徒は鐘を鳴らし、ユダヤ教徒は角笛を吹く。ムハンマドはどちらも採らず、人の声で呼ばわることに決めたと伝えられる。最初の呼びかけ手に選ばれたのは、奴隷の身から解かれたエチオピア出身のビラールで、声の良さで選ばれたという。日に五度、決まった文句を、街のいちばん高いところから声を張る。のちにミナレットが建ち、いまは拡声器が使われる。機械は替わったが、届けるのは人の声だという形は残った。メディナ
- 藤原京できごとAD694年碁盤の目の都唐の都を写して碁盤の目に道を通し、宮を中央に置いた。日本で最初の、計画された都。持統天皇が移り、16年使われ、平城京に移って捨てられた。田の下に、その道の跡が埋まっている。藤原京

- ヴェネツィア共和国国AD697年(最初のドージェの選出。伝承) – AD1797年(ナポレオンによる解体)潟の上に建った都市が1100年続いた潟の上に建った都市が、1100年続いた。東ローマの属領から始まり、第四回十字軍で帝都を略奪し、地中海東部の海を握った。ナポレオンが一言で終わらせる。
- 条里できごとAD8世紀律令の国家が、田を格子に区切った。一辺が六町(約六百五十メートル)の里を並べ、その中をさらに一町ごとの坪に分ける。何条何里何坪と言えば、どの田かが特定できる。班田収授のためには、誰にどの田を与え、死ねば返させるかを台帳で管理しなければならず、そのためには土地に住所が要った。日本で最初に、地面そのものに番地を振った制度である。班田の仕組みは早くに崩れたが、格子は残った。奈良盆地や讃岐の平野の道と畦は、いまも千三百年前の線をなぞっている。平城京
- 後ウマイヤ朝国AD756年(アブド・アッラフマーン1世の即位) – AD1031年(カリフ制の廃止)ダマスクスで一族が殺されたとき、一人だけ逃げてイベリアに国を建てた。コルドバは10世紀の西欧で最大の都市になり、図書館と学者を集めた。内戦で崩れて小国に割れる。
- バグダードの建設できごとAD762年500年、世界最大の都マンスールがティグリスの岸に円い都を作った。「平安の都」。直径2キロ、三重の壁、4つの門、中央にモスクと宮殿。10万人の職人。占星術師が着工の日を選んだ。50年で世界最大の都市になり、500年後にモンゴルが焼いた。バグダード
- コルドバの大モスクできごとAD785年(着工)西ゴートの教会の跡に建てはじめ、200年かけて広げた。レコンキスタのあと、その真ん中に大聖堂が建て込まれる。コルドバ
- ミシシッピ文化国AD800年頃 – AD1600年頃カホキアは当時のロンドンより大きかったトウモロコシで人口を養い、土のピラミッドを築いた。カホキアは12世紀に人口1万を超え、当時のロンドンより大きかった。ヨーロッパ人が来る前に、多くの都市が放棄されている。
- 中世の農業革命できごとAD800年頃森が畑になり村が街に重量有輪犂(鉄の犂先、撥土板、車輪。北の重い粘土の土を深く耕して、返す。牛8頭)。三圃制(冬穀、春穀、休閑。土地の3分の2を使う。二圃制の半分より多い。春に燕麦と豆——馬の餌と、人の蛋白質)。馬の首輪(肩に掛ける。馬が牛の倍の速さで引ける)。蹄鉄。水車。9世紀から13世紀、ヨーロッパの人口が2倍になり、森が畑になり、村が街になった。「暗黒時代」の中で。アーヘン
- ハンマームできごとAD8〜9世紀イスラームでは、礼拝の前に身を清めることが定められている。水を使う施設は、信仰の要件でもあった。ローマの浴場の作りを引き継ぎながら、湯に浸かる大きな浴槽は減り、湯を汲んでかける形が中心になる。町には必ず公衆浴場が置かれ、多くはモスクに併設され、その収益がモスクや学院の維持にあてられた。男女は時間か建物で分けられた。女性にとっては、外出して人と会える数少ない場所でもある。体を洗う場所が、そのまま社交と情報の場になっていた。ダマスクス
- クメール帝国国AD802年(ジャヤーヴァルマン2世の即位) – AD1431年(アユタヤによるアンコール陥落)アンコールは当時おそらく世界最大の都市域だった水を溜めて配る仕組みの上に建った。アンコールは当時おそらく世界最大の都市域で、そこにアンコール・ワットとバイヨンが残る。
- バグダードの知恵の館できごとAD830年頃ギリシアやインドの書物がアラビア語に訳された。この蓄積が後にヨーロッパへ還る。バグダード

- サーマッラーへの遷都できごとAD836年一直線に40キロムウタスィムはトルコ人の奴隷兵(マムルーク)を数千人買い、バグダードの民と兵が衝突し、新しい都をティグリスの上流に建てた。「見る者が喜ぶ」。50年。9人のカリフのうち4人がトルコ兵に殺された。螺旋のミナレット。街は一直線に40キロ。サーマッラー
- ダブリンの建設できごとAD841年ノルウェー人が作った首都ノルウェーのヴァイキングがリフィー川の河口に船を引き上げる場所を作った。ロングフォート。黒い水たまり、ドゥブ・リン。奴隷市場で栄え、アイルランドの王たちと戦い、1014年にクロンターフでブライアン・ボルに負けても残った。ノルウェー人が作ったアイルランドの首都。ダブリン
- 祖先プエブロ国AD850年頃(チャコの建設の始まり) – AD1300年頃(放棄)峡谷に数百室の石の建物砂漠の峡谷に、石を積んで数百室の建物を建てた。チャコ・キャニオンから真っ直ぐな道が四方に延びる。13世紀の干ばつで放棄され、人びとは南へ移った。
- マヤ低地の崩壊できごとAD900年頃都市が捨てられることもある南部の都市が次々に放棄された。干ばつ、戦争、環境の疲弊が挙げられるが、決着していない。ティカル
- チムー王国国AD9世紀頃 – AD1470年頃(インカによる併合)砂漠の海岸で、谷と谷を運河でつないだ。都チャン・チャンは日干し煉瓦の都市として世界最大級になる。インカに水源を押さえられて降伏した。
- 肩で引くできごとAD900年頃古代の馬具は、帯を馬の首に回して引かせる。力を出すほど気管と血管を圧迫し、馬は自分の首を絞めながら働く。だから重い荷は牛に引かせた。中国で先に現れた、肩の骨に当てる硬い枠が、中央アジアを経て九世紀のヨーロッパに届く。馬の牽引力が数倍になった。馬は牛より速く、持久力があり、長く働く。重い犂で北ヨーロッパの粘土質の土が耕せるようになり、農民は遠くの畑まで通えるようになった。村の形が変わった。アーヘン
- ファーティマ朝国AD909年(イフリーキヤでの成立) – AD1171年(サラーフッディーンによる廃止)カイロを建てたシーア派のカリフを名乗り、バグダードのカリフと並び立った。カイロを建て、アズハルを開く。地中海とインド洋の交易をつなぐ位置にあった。
- コルドバのカリフ宣言できごとAD929年ヨーロッパ最大の都市アブド・アッラフマーン3世が「信徒の長」を名乗った。バグダードとカイロと、三人のカリフが並ぶ。コルドバは人口数十万、図書館に40万巻、街灯があった。ヨーロッパで最大の都市だった。コルドバ
- メディナ・アッザフラーできごとAD936年40年で建て75年で焼かれたコルドバのカリフを名乗ったアブド・アッラフマーン3世が、街の西の山の斜面に宮殿の都を建てた。三段の段丘、大理石、水銀の池、1万人の役人と兵。40年で建て、75年で焼かれた。1911年に掘り出し、まだ1割。アンダルスの頂点の、廃墟。メディナ・アッザフラー
- チチェン・イッツァの繁栄できごとAD1000年頃マヤ北部の中心。天文台とされる建物があり、春分と秋分に階段へ蛇の影が降りる。チチェン・イッツァ
- カジュラーホーの寺院群できごとAD10〜11世紀85あった寺院のうち25が残る。壁面を埋める彫刻の一部が性愛を扱っており、その解釈をめぐって議論が続いている。密林に埋もれていたことが、破壊を免れた理由になる。カジュラーホー
- ダウ船とモンスーンできごとAD1000年頃待ち時間の上に建った都市インド洋は、季節で風向きが反転する。夏は南西から、冬は北東から。この規則性を掴めば、帆船は往復できる。紀元1世紀の『エリュトラー海案内記』に既に書かれている。ダウ船は、板を釘でなく椰子の繊維で縫い合わせ、三角の帆(ラティーン・セイル)で風上へも切り上がった。アラビア、ペルシア、インド、東アフリカを結び、季節ごとに港で数か月を過ごした。スワヒリの都市は、その待ち時間の上に建った。キルワ
- 泉州の海上交易できごと1000年マルコ・ポーロが世界最大の港の一つと書いた町。ムスリムの商人が数万人住み、モスクとヒンドゥー寺院とマニ教の像が並んでいた。泉州
- フォークは無作法できごとAD11世紀十一世紀、ビザンツから嫁いできた王女がヴェネツィアで二股の小さな道具を使って食事をした。聖職者は激怒したと伝えられる。神が指を与えたのに、金物で食べるとは何事か。当時のヨーロッパでは、手と刃物で食べるのが普通だった。フォークが広まるのは、まずイタリアで、それも熱くて手で扱いにくいパスタと結びついてからになる。十七世紀にフランス宮廷が採り入れ、十八世紀には作法の一部になった。同じ道具が、無作法の象徴から上品さの証拠へ、六百年かけて意味を変えている。ヴェネツィア
- 占城稲の導入できごとAD1012年米が余れば人は町へ出る11世紀初め、北宋の真宗が、ベトナム中部の占城(チャンパ)から早稲の種籾を取り寄せ、江南に配って栽培を奨励した。干魃に強く、100日ほどで実る。それまで一年一作だった土地で二期作ができ、丘陵にも田を開けるようになった。宋代の人口は、この時期に倍増して1億を超えた。米が余れば、人は都市へ出て、別の仕事に就ける。宋の都市と商業と貨幣経済は、この稲の上に立っている。杭州(臨安)
- パガン朝の成立できごとAD1044年平原に1万の仏塔アノーヤターがビルマを統一し、上座部仏教を国の柱にした。250年のあいだにイラワジ川の平原へ1万を超える仏塔が建てられる。バガン
- カホキアの繁栄できごとAD1050年人口は当時のロンドンに匹敵したとされるミシシッピ川流域の巨大な土塁都市。人口は当時のロンドンに匹敵したとされ、北米最大の遺跡になる。カホキア
- チャコ・キャニオンの大集落できごとAD1050年頃(最盛期)車輪も荷役の動物も無い社会が、真っ直ぐな道を延ばした砂漠の峡谷に、数百室・五階建ての石造建築が十数棟並んだ。数十キロ先まで真っ直ぐな道が延び、太陽と月の周期に合わせた建物の向きが残る。チャコ・キャニオン
- 纏足できごとAD1100年頃三寸金蓮南唐の宮廷の踊り子から始まった、と伝える。宋代に広まり、明清に、漢族の女の大半に及んだ。4〜6歳で、親指以外の指を足の裏へ折り曲げて布で縛り、骨を変形させる。歩けるが遠くへ行けない。「三寸金蓮」。母が娘に施した。良い縁組の条件で、階級の印で、恥じらいの象徴だった。満洲族とモンゴル族と客家はしなかった。1902年に清が禁令を出し、20世紀の前半に消えた。最後の世代が、いま100歳を超える。開封

- チャン・チャンの造営できごとAD1100年頃雨の降らない土地に日干し煉瓦で建てた雨のほとんど降らない海岸に、日干し煉瓦で20平方キロの都市を建てた。谷と谷を運河でつないで水を配る。チャン・チャン
- グレート・ジンバブエ国AD11世紀頃 – AD1450年頃(放棄)モルタルを使わずに積み上げた石の壁が、高さ11メートルで残る。内陸の金を海岸の港へ流す網の要にあった。ヨーロッパ人は長らくアフリカ人が造ったと認めなかった。
- ジャヤーヴァルマン7世人物AD1122年頃 – AD1218年頃アンコール・トムを築いた王。仏教を篤く保護し、各地に病院を置いたと碑文に残る。
- サン・ドニ修道院とゴシックの始まりできごとAD1144年壁を細くして光を入れる壁を細くして光を入れる建て方が生まれた。以後200年、ヨーロッパ中で天井が高くなっていく。サン・ドニ
- アンコールの隆盛できごとAD1150年頃精緻な水利で支えられていたクメール王朝の都。同時代の世界で最大級の都市で、精緻な水利で支えられていた。アンコール
- クラレンドン巡回裁判令できごとAD1166年巡回裁判官が基準を運んだヘンリー2世が、各地の12人の自由民に、地域で犯罪を犯した疑いのある者を国王の裁判官に申告させる仕組みを作った。告発する陪審である(裁く陪審になるのは後)。国王の巡回裁判官が全土を回り、同じ判断の基準を持ち帰る。地域ごとの慣習ではなく、王国に共通の法。「コモン・ロー」の語はここから来る。判例を積み上げて法とする体系が、この行政の都合から育った。クラレンドン
- レニャーノの戦いできごとAD1176年5月29日都市が皇帝に勝った皇帝バルバロッサの騎士を、北イタリアの都市同盟の歩兵が破った。皇帝は落馬して死んだと思われ、数日後にパヴィアに現れた。都市が皇帝から自治を勝ち取り、イタリアの国歌にこの名が出てくる。レニャーノ

- 福原遷都できごとAD1180年(治承4年)6月大輪田泊清盛が天皇と院を連れて、自分の別荘のある福原へ都を移した。大輪田泊。宋との貿易の港。公家も僧も反対し、東国で頼朝が挙兵し、半年で京に戻った。『方丈記』の鴨長明が「都遷り」の混乱を書いた。福原
- ベニン王国国AD12世紀頃 – AD1897年(イギリスの懲罰遠征)大通りと土塁を持つ都市。アムステルダムより整っていると書かれた幅の広い大通りと巨大な土塁を持つ都市で、訪れたオランダ人がアムステルダムより整っていると書いた。真鍮の飾り板に王朝の歴史が刻まれている。
- ジャヤヴァルマン7世とアンコール・トムできごとAD1181年病院102チャンパにアンコールを焼かれた4年後、王が奪い返して仏教徒の王になった。城壁の都アンコール・トム。中央にバイヨン。四面の顔が200。病院102、宿駅121。「民の病は王の病」。クメールの最大版図で、最後の大王。アンコール
- ラリベラの岩窟教会できごとAD1200年頃岩山を上から掘り下げて造った11の教会。十字軍で聖地へ行けなくなった代わりの巡礼地とされる。ラリベラ

- パリ大学の成立できごとAD1200年頃大学というものの原型ノートルダムの学校に集まった教師と学生が組合を作り、王から市の裁判権を免れる特権を得た。神学の中心になり、トマス・アクィナスが教えた。ボローニャと並ぶ、大学というものの原型。パリ
- 煙突の普及できごとAD1200年頃煙が抜ければ二階が作れる中世の家は、部屋の中央で火を焚き、煙は屋根の隙間から抜けた。すすで目を病み、天井は黒く、二階は作れない。12〜13世紀、壁に沿って炉を寄せ、煙道で外へ導く仕組みが広がった。結果は建築だけでなかった。煙のない部屋に天井を張れるから、家が二階建てになる。大広間で全員が一つの火を囲む必要がなくなり、部屋が分かれ、私室ができた。個人という感覚の物理的な条件の一つが、ここで整った。ロンドン
- ケルン大聖堂の起工できごとAD1248年8月15日クレーンが400年1164年、バルバロッサがミラノから東方三博士の聖遺物をケルンに持って来た。巡礼者。古い大聖堂が1248年に焼けて、大司教が、アミアンを手本に、フランスのゴシックで起工した。内陣は1322年に完成。1473年、金がなくなって、止まった。クレーンが南塔の上に400年立っていた。1842年、プロイセン王が再開して、1880年、完成。632年。高さ157メートル、当時、世界一。1945年の爆撃を、周りが更地になっても、立って耐えた。ケルン
- バグダードの陥落できごとAD1258年都市は繰り返し焼かれてきたモンゴル軍がアッバース朝を滅ぼした。イスラム世界の学問の中心が失われる。バグダード

- ドージェの選び方できごとAD1268年くじと投票を十回重ねて、票を固めさせなかったヴェネツィアの元首ドージェは終身で、有力な家が取り合えば共和国が割れる。1268年に定まった選び方は、くじと投票を十回交互に重ねるものだった。大評議会からくじで三十人、それをくじで九人に減らし、九人が四十人を選び、またくじで減らす。これを繰り返して、最後の四十一人が元首を選ぶ。途中で何度もくじが入るので、どこかの家が前もって票を固めておくことができない。玉を引くのは、サン・マルコ広場で最初に出会った少年だった。この仕組みは、共和国が終わる1797年まで使われた。ヴェネツィア
- 為替手形できごとAD1300年頃大市と決済の網金貨を持って山を越えれば、盗まれる。ジェノヴァの商人がシャンパーニュの大市で受け取るべき代金を、現地の同業者に払わせ、その分をジェノヴァで清算する。紙の上で債権が動く。教会が利子を禁じていたので、利益は為替の相場に折り込まれた。同じ通貨を貸して利子を取れば高利貸しだが、通貨と場所が違えば、それは為替の差益である。この迂回が、金融の技術を育てた。手形は裏書きで転々と流通し、決済の網が大陸を覆った。ジェノヴァ
- 煙突のある暖炉できごとAD13〜14世紀暖める仕組みが、誰とどこで過ごすかを変えた中世のはじめ、ヨーロッパの館では大広間の真ん中で火を焚き、煙は屋根の穴から抜いた。主人も家来も同じ火の周りで食べ、眠った。壁に炉を寄せ、煙を煙突で上へ導く造りが広がると、暖かい部屋を一つの火にまとめる必要がなくなる。部屋ごとに暖炉を置き、主人の家族は広間を離れて小さな私室で過ごすようになった。煙突の数が富の目印になり、のちに税の対象にもなる。暖める仕組みが変わると、誰とどこで過ごすかが変わった。ロンドン
- テノチティトランの建設できごとAD1325年湖上の島に築かれた湖上の島に築かれた都。運河と浮き島の農地を備え、スペイン人が見たとき人口20万を超えていた。テノチティトラン
- 機械時計と、等しい一時間できごとAD1335年一時間の長さが季節で違ったそれまでの時間は、日の出から日の入りまでを等分したものだった。だから、一時間の長さが、夏と冬で違う。日時計も水時計も、そう作られていた。修道院が、定時の祈りのために正確な合図を求め、脱進機を持つ機械が生まれた。1335年、ミラノのサン・ゴッタルド教会の塔で、時刻ごとに自動で鐘を打つ装置が動いた。以後、時間は、天体からではなく、機械の刻みから来るものになった。長さの等しい一時間が、そこから始まる。ミラノ
- ヴィジャヤナガル王国国AD1336年 – AD1646年当時世界で二番目に大きい都市だったと書かれた南インドのヒンドゥー王国。都は当時世界で二番目に大きい都市だったと訪れたポルトガル人が書いている。1565年の敗戦で都は放棄され、廃墟がハンピに残る。
- 浮浪を罰するできごとAD1349年働けるのに働かない者、という区分が法に入った黒死病で人が減り、労働力が不足した。賃金が上がりそうになる。イングランドは労働者勅令を出し、疫病前の賃金を超えて払うことも受け取ることも禁じ、健康な者が働かずに施しを受けることを罪とした。以後、浮浪はたびたび厳罰化される。1547年の法は、三日以上働かない者を二年間の奴隷とし、胸にVの烙印を押すと定めた。過酷すぎて二年で廃止されている。移動する貧しい者を罰する法は、その後も形を変えて長く残った。ロンドン
- カホキアの放棄できごとAD1350年頃理由は一つに絞れていない北米最大の都市が、200年で人口を失った。洪水、森の消費、内紛、気候の寒冷化。理由は一つに絞れていない。カホキア
- ラグーサの検疫できごとAD1377年7月27日港が病を止めた黒死病の30年後、アドリア海の商業都市が、疫病の地から来た船と人を島に30日留めると決めた。世界で最初の検疫の法。ヴェネツィアが40日にして「クアランタ」から「クアランティン」。病の原因を知らずに、隔てることで防ぐことを覚えた。ドゥブロヴニク(ラグーサ)
- ブルゴーニュ公の宮廷できごと1384年王より豊かな公が、儀礼と誓いと祝宴で世界を覆った。ファン・エイクが仕え、金羊毛騎士団が作られる。中世が終わりかけている場所で、中世の形式が最も華やかになった。ブリュージュ
- メディチ銀行できごとAD1397年フランス軍の侵入とともに終わったジョヴァンニ・ディ・ビッチが、フィレンツェに銀行を開いた。革新は組織にある。各地の支店を、本店が出資する別々の合名会社にした。一つの支店が潰れても、他へ及ばない。支店長は共同経営者で、利益を分ける。ローマ、ヴェネツィア、ジュネーヴ、ブリュージュ、ロンドン。最大の顧客は教皇庁で、全ヨーロッパの教会収入がこの銀行を通った。孫のロレンツォの代に、貸し倒れと放漫な経営で傾き、1494年、フランス軍の侵入とともに終わった。フィレンツェ
- ラザレットできごとAD1423年港を閉じずに、島で時間を稼ぐヴェネツィアは、ペストが船で来ることを知っていた。到着した船を沖に留め置く仕組みは、すでにあった。1423年、共和国は潟の島に、病人だけを収容する常設の施設を置く。世界で最初の恒久的な隔離病院とされる。四十五年後には、もう一つの島に、発病していない乗員と積荷を留め置く施設を作った。病んだ者と、病んでいるかもしれない者を、別々に扱う。四十日という期間から、隔離を意味する言葉が生まれた。都市が病を止めるには、港を閉じるのではなく、島を用意して時間を稼ぐ。この発想が、のちの検疫の原型になる。ヴェネツィア
- アステカ国AD1428年(三国同盟) – AD1521年(テノチティトラン陥落)メキシコ盆地の三つの都市が結んだ同盟。征服した土地を直接治めず、貢納を取る形で広げた。100年足らずでスペイン人と天然痘に倒れる。
- ブルネレスキのドームできごとAD1436年100年開いていた穴フィレンツェ大聖堂の穴は100年開いたままだった。幅45メートル、足場もアーチも無理。金細工師が二重の殻と、レンガの魚骨の積み方と、牛が回す起重機で16年で閉じた。設計図を誰にも見せなかった。ミケランジェロは「もっと大きくは作れるが、もっと美しくは作れない」。フィレンツェ

- ロレンツォ・デ・メディチ人物AD1449年1月1日 – AD1492年4月8日銀行家として芸術家を支え、ルネサンスの盛期を作った。ミケランジェロを見出す。
- テスココ湖の堤防できごとAD1449年洪水のあと、詩人でもある同盟国の王が16キロの堤防を設計した。塩水と真水を分け、湖上の都を守る。水道橋も引いている。テノチティトラン
- イタリア・ルネサンスの盛期できごと1450年古典の再発見と商人の富が結びついた。人間を測るのは神ではなく人間自身、という見方が育つ。フィレンツェ

- ヴァーラーナシーのガートできごとAD1500年頃絶えず燃えている火ガンガーの左岸、川が北へ折れる場所。世界で最も古く人が住み続けている都市の一つとされる。84のガート(川へ降りる石段)。夜明けに人が沐浴し、洗濯し、祈る。マニカルニカー・ガートでは、火が絶えず燃えている。ここで焼かれ、灰を川に流されれば、輪廻から解脱できる、と信じられている。年に3万体。ブッダが最初の説法をしたサールナートは、ここから10キロ。ヴァーラーナシー
- 京都の町衆と祇園祭できごとAD1500年町衆が祭りを再興した応仁の乱で京は焼けた。祇園祭の山鉾も33年、途絶えた。1500年、町衆(下京の商工業者)が、幕府でも公家でもなく、自分たちで再興した。町ごとに山鉾を出し、順番をくじで決めた(くじ取り式)。町は自警し、地子(地代)を交渉し、法度を作った。都市の自治が、祭りの形をとった。応仁の乱の後の京都を作り直したのは、この人々だった。京都
- システィーナ礼拝堂の天井画できごと1508年自分は彫刻家だと言い張る男が、4年かけて見上げたまま描いた。ローマ
- 風呂が消えた二百年できごとAD16世紀中世のヨーロッパの町には、蒸し風呂と湯屋があり、人々はよく通っていた。それが十六世紀から次々に閉じられる。理由は一つではない。梅毒が広まり、風呂屋が売春と結びついていると見られた。薪が高くなった。そして医学が、湯は毛穴を開いて悪い空気を体に入れると説いた。代わりに広まったのが、体を拭くことと、白い下着をこまめに替えることである。清潔とは、洗うことではなく、布を替えることだとされた。水で体を洗う習慣が戻るのは、十九世紀に衛生の考え方が変わってからになる。パリ
- 三味線の渡来できごとAD1560年頃町人の音楽の中心に中国の三弦が琉球に入って三線になり、蛇皮を張った。それが16世紀の半ば、堺に来た。日本には蛇がいないので、猫と犬の皮を張った。琵琶法師が、撥で弾く技法を持ち込んだ。棹に勘所を示す印がなく、音程を耳で取る。この楽器が、浄瑠璃と歌舞伎と、遊里の音楽を担った。町人の音楽の中心になり、江戸の音の風景を変えた。堺
- ターリコータの戦いできごとAD1565年1月26日デカンのスルタン諸国が連合してヴィジャヤナガルを破った。都は略奪されて放棄され、廃墟がハンピに残る。ターリコータ
- 江戸の湯屋できごとAD1591年(天正19年)徳川家康が江戸に入った翌年、伊勢与市という者が銭瓶橋のほとりに銭湯を建てたと記録にある。当初は蒸し風呂に近い形で、湯気を逃さないよう入口を低くしてあった。江戸の町家は火事を恐れて内風呂をほとんど持たず、人々は毎日のように湯屋へ通う。二階には座敷があり、湯上がりに茶を飲み、碁を打ち、噂を交わした。男女の別は長く緩く、寛政の改革などで繰り返し禁じられては戻る。裸で身分の差が見えにくくなる場所として、川柳にも多く詠まれた。東京
- サファヴィー朝のイスファハーンできごとAD1598年「世界の半分」「世界の半分」と讃えられた都。シーア派がイランの国家宗教として定まり、いまに続く。イスファハーン
- オランダの黄金時代できごと1600年株式会社と証券取引所が生まれ、小国が世界の海運を握った。レンブラントもこの時代の人。アムステルダム

- 二度に分かれた眠りできごとAD1600年頃照明と夜の娯楽が消した近代以前のヨーロッパで、人は夜、二度に分けて眠っていた。歴史家ロジャー・イーカーチが、日記、裁判の記録、医学書、そして文学から、数百の言及を集めた。日没後まもなく眠り、真夜中に一時間ほど目覚める。その時間に、祈り、語り、繕いものをし、隣家を訪ね、そして子を作った。医学書は、この覚醒を眠りの自然な一部として扱っている。18世紀以降、街の照明と夜の娯楽と労働時間の固定が、この習慣を消した。いま、夜中に目が覚めることは、不眠として扱われる。ロンドン
- モカとコーヒーの広がりできごとAD1600年頃1ペニー大学エチオピア原産の実を、15世紀のイエメンのスーフィーが、夜の勤行で眠らないために煮て飲んだ。紅海の港モカが積出港になり、オスマンが独占した(種の持ち出しを、煮てから出すことで防いだ)。17世紀、オランダがバンテンとジャワへ、フランスがカリブへ苗を持ち出した。コーヒーハウスは、ロンドンでは新聞と保険(ロイズ)と株式取引を、パリでは革命の議論を生んだ。「1ペニー大学」。モカ
- 五街道と宿場できごとAD1601年(慶長6年)関ヶ原の翌年、徳川家康は東海道の宿駅に、人足と馬を常備させる制度を敷いた。公用の書状と荷は、宿ごとに人と馬を替えて運ばれる。やがて中山道、日光、奥州、甲州を加えた五街道が整えられ、一里塚が築かれ、並木が植えられた。参勤交代で大名の行列が毎年往復し、宿場町が育つ。同時に、この道は管理の道具でもあった。関所で人と武器を検め、橋を架けない川では渡しを止められる。速く動かすための道と、動きを止めるための関所が、同じ制度の中にあった。東京
- 江戸幕府の成立できごとAD1603年18世紀には世界最大級の都市になる260年続く体制が始まった。参勤交代と身分制で、戦の無い時代を長く保つ。江戸
- ジェームズタウンの建設できごとAD1607年5月14日沼地の半島ヴァージニア会社の104人が沼地の半島に砦を建てた。金を探して、畑を作らず、最初の夏から秋で半分が死んだ。1609年の冬は「飢餓の時」、500人が60人に。人を食べた。ポカホンタス、ジョン・ロルフ、タバコ。1619年、最初のアフリカ人。イギリスの北米で、最初に残った植民地。ジェームズタウン
- 薬を扱う職できごとAD1617年薬草も香辛料も、もとは同じ商人が扱っていた。乾いた品を量り売りする商売である。1617年、ロンドンの薬種商たちは食料雑貨商の組合から分かれ、独自の組合を作った。誰が薬を調合してよいかを決め、粗悪品を取り締まり、徒弟の修業年数を定める。医師は診断と処方、薬剤師は調合と販売、という分業がここで形になった。もっとも、医者にかかる金の無い人々は薬剤師に直接相談し、薬剤師が事実上の町医者になる。線を引いても、貧しさのほうが強い場面では、線は越えられる。ロンドン
- クリストファー・レン人物AD1632年10月20日 – AD1723年2月25日記念碑を探すなら周りを見よ天文学者。オックスフォードの天文学教授、王立協会の創設者の一人。「ニュートンがいなければ、レンが英国最高の科学者」。30歳で建築を始めた。大火のあと、ロンドンの再建計画(採用されず)、教会51、セント・ポール(1675〜1710年、自分の生きている間に完成した唯一の大聖堂建築家)、グリニッジ、ハンプトン・コート。90歳。セント・ポールの地下。「記念碑を探すなら、周りを見よ」。
- 参勤交代の制度化できごとAD1635年(寛永12年)世界最大の街家光が武家諸法度を改めて、大名は1年おきに江戸と国元を往復し、妻子は江戸に置く、と定めた。人質。大名は行列の費用と江戸屋敷の費用で財を減らし、街道と宿場と江戸が栄えた。260年、日本中の大名が同じ道を歩き、江戸は世界最大の街になった。江戸
- チューリップ・バブルできごと1636年都市に集まった金が、球根一つを家一軒の値にした球根一つが家一軒の値になり、数か月で崩れた。記録に残る最初の投機バブルとして引き合いに出される。アムステルダム

- ゴンダールの城群できごとAD1636年エチオピアの皇帝が、移動する宮廷をやめて定住の都を築いた。石造りの城が並ぶ。ポルトガル人の影響とされてきたが、在来の建築の系譜で説明する見方が強い。ゴンダール
- レンブラント『夜警』できごとAD1642年市民自警団アムステルダムの市民自警団の集団肖像画。当時の慣例では、全員を横一列に、同じ大きさで並べて描く(一人あたりの料金で)。レンブラントは、隊が動き出す一瞬を描いた。前に出る者、影に沈む者、旗、犬、少女。注文主の一部は不満だった、と長く言われたが、記録はない。夜でもない(19世紀にニスが黒ずんでいた)。同じ年、妻サスキアが死んだ。彼は以後、注文を失っていった。アムステルダム
- 駕籠と輿できごとAD17世紀人が人を担いで運ぶ乗り物は、東アジアにも南アジアにも地中海にもあった。日本では、高い身分の者が乗る輿と、庶民も使える駕籠が分かれる。江戸には辻駕籠が並び、料金の相場ができ、担ぎ手の組合ができた。だれが乗ってよいかは幕府が細かく決めていて、乗り物は身分を外から見せる装置でもあった。動力は人の脚であり、坂と天候と担ぎ手の体力が、そのまま所要時間になる。車輪ではなく人を選んだのは、道が舗装されていないところでは、そのほうが速く、揺れなかったからである。江戸
- 時の鐘できごとAD17世紀江戸の町には、決まった時刻に鐘を撞く「時の鐘」が置かれた。日本橋の本石町のものが最初とされ、のちに上野や浅草など各地に増える。時刻は日の出と日の入りを基準にし、昼と夜をそれぞれ六つに分けたので、一刻の長さは季節で変わった。鐘の音が届く範囲の町は、撞く費用を負担したと伝わる。時計を持たない人びとの一日は、この音で区切られた。自分で時を測るのではなく、聞こえてくる時を共有して暮らしていた。江戸
- 玉川上水できごとAD1653年江戸は海を埋めて広がった街で、井戸を掘っても塩水が出る。多摩川の羽村で取水し、四十三キロを掘って四谷まで導いた。標高差は約92メートル、一キロあたり平均二メートルの勾配である。測量は夜、提灯の火を並べて行ったと伝えられる。玉川兄弟が請け負い、二度失敗して工費を自弁したという伝承が残る。市中では木と石の樋を地下に埋めて配り、井戸の形をした汲み上げ口から使った。上水を汚す行為は厳しく罰せられた。江戸
- 江戸のごみ捨て場できごとAD1655年(明暦元年)海を埋めて捨て、同時に買い取る人がいて回っていた百万都市の江戸では、ごみを川や堀に捨てる者が絶えず、水路が詰まった。幕府は1655年、深川の永代浦をごみの捨て場と定め、町ごとに集めて船で運ばせた。四十年ほど後には、不法な投棄と焼却を取り締まる役も置かれる。運ばれたごみは埋め立てに使われ、海だった場所が新しい町になった。同時に江戸は、捨てるものが少ない町でもあった。紙くず買い、古着屋、灰買い、箍屋。人の糞尿は近郊の農家が金を払って汲み取り、畑へ運ぶ。ごみを減らしていたのは制度ではなく、それを買う人がいたことになる。東京
- 明暦の大火できごとAD1657年3月2日(明暦3年1月18日)江戸の6割本郷の本妙寺から、と伝える。2日燃えた。江戸の6割。江戸城の天守と本丸。死者10万人と言う。天守は再建されず、260年、江戸城に天守はなかった。両国橋が架けられ、隅田川の東に町が広がり、火除地と広小路が作られた。「振袖火事」。江戸
- 死亡表と統計のはじまりできごとAD1662年誰も読まなかった紙束ロンドンの小間物商ジョン・グラントが、教区が毎週出していた埋葬の一覧(死亡週報)を数十年ぶん集計した。誰も統計として読んでいなかった紙束である。彼は、男児の出生がわずかに多いこと、死因の分布、そして疫病の年の異常を示し、年齢ごとの生存者数の表を作った。人口を数えることで社会を知るという考え方が、ここから始まる。ハレー(彗星の人)がブレスラウの記録でこれを精密にし、生命保険の保険料が計算できるようになった。ロンドン
- 飛脚できごとAD1663年旗振り通信で米相場を送る江戸と大坂を、二人一組で走り継ぐ。継飛脚は幕府の公用で、東海道を三日から四日で走った。町飛脚は民間で、定期便を出し、書状も金銀も荷も運んだ。大坂の商人が仕立てた三度飛脚は、月に三度、定日に発した。為替と手形も、この網に乗った。江戸の相場を大坂へ、大坂の米相場を江戸へ。堂島の米相場は、旗振り通信という別の手段でも、飛脚よりはるかに速く送られた。江戸
- ロンドン大火できごとAD1666年9月2日市壁の内側の8割プディング・レーンのパン屋から、日曜の未明。東風。木の家、狭い道、乾いた夏。4日。市壁の内側の8割、1万3200軒、教会87、セント・ポール大聖堂。死者は記録では6人(実際はもっと多いはず)。ピープスが日記に書いた。ペストの翌年で、鼠が焼けて疫病が終わった、という話は俗説。レンが51の教会と新しいセント・ポールを建てた。建物は煉瓦と石に。ロンドン

- 幕府の山林保護令できごとAD1666年城と町を建てるために山を裸にし、洪水が続いた。幕府は伐採を制限し、植林を命じた。人口3000万の島国が森を取り戻した例として『文明崩壊』が取り上げる。江戸
- パリの街灯できごとAD1667年9月2日暗がりを減らすことが、見張りを増やすことと同じ働きをしたルイ十四世は、パリに初めて警察の長官を置き、ラ・レニーを任じた。夜のパリは暗く、路地には盗賊が潜み、人は松明持ちを雇って歩いた。ラ・レニーが最初に打った手の一つが、明かりである。通りの上に縄を渡し、蝋燭を入れたランタンを吊るす。九百あまりの通りに二千七百を超えるランタンが下がり、冬の夜ごとに住民の当番が火を入れた。費用は住民の税でまかなった。暗がりを減らすことが、見張りを増やすことと同じ働きをする。のちにパリが「光の都」と呼ばれるのは、この夜の明かりから始まったとも言われる。パリ
- かつらの宮廷できごとAD17世紀後半ルイ十四世は若いころから髪が薄くなり、大きなかつらを着けるようになった。王が着ければ、宮廷が真似る。宮廷が着ければ、都市の富裕層が真似る。高く盛り上げた巻き毛は、人の髪を買い集めて作るので高価で、手入れにも人手が要る。つまり、それを着けられること自体が身分の表示になった。一方で、実務に就く者には邪魔でもある。革命の前後、フランスでは短い自分の髪が新しい徳の表現になり、かつらは旧体制の象徴として捨てられた。装いは、いつも次の世代に否定される。パリ
- グランドツアーできごとAD1670年17世紀の後半から18世紀にかけて、イギリスの貴族や富裕な家の若者たちは、学業の仕上げとして、家庭教師を連れてフランスとイタリアを1年から数年かけて巡った。パリで社交と言葉を学び、アルプスを越えて、フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマ、ナポリで古代の遺跡とルネサンスの美術を見る。この旅は「グランドツアー」と呼ばれた。若者たちは古代の彫刻や風景画を買って帰り、故郷に古典様式の屋敷を建てた。旅はイギリスの趣味と教養を形作ったが、異国での放蕩の場でもあった。鉄道と団体旅行の時代が来ると、こうした長い旅はすたれた。ローマ
- ピョートル1世人物AD1672年6月9日 – AD1725年2月8日湿地に都をつくらせた自ら西欧で造船を学び、国を強引に作り替えた。沼地に新しい首都を建てる。
- 大岡忠相人物AD1677年 – AD1752年旗本の四男。山田奉行を経て、1717年から十九年間、江戸の町奉行を務めた。吉宗の享保の改革の実務を担った。町火消いろは組の設置、小石川養生所の開設、目安箱に寄せられた訴えの処理、物価と米価の統制、そして公事方御定書の編纂に関わった。裁きの逸話を集めた大岡政談は後世の作り話が大半で、実際の彼は制度を作る行政官である。晩年は寺社奉行、そして大名に列した。
- 火災保険と火災標できごとAD1681年標のある家だけを消したロンドン大火で一万三千戸が焼けた。医師で不動産業者のニコラス・バーボンが、家屋を対象とする保険会社を作った。契約した家には金属の標を打ちつける。会社は自前の消防隊を雇い、標のある家だけを消した。標のない家の前で隊が引き返した、という話が語られる。競合が現場で争い、効率が悪い。やがて隊は統合され、1866年に公の首都消防隊が発足して、消防を引き受けた。私的な備えから、公共の役務への移行である。ロンドン
- ヴェルサイユ宮殿への移座できごとAD1682年都市から離れたところに作られた宮廷都市貴族を宮廷に集めて日課で縛った。反乱を起こす暇を与えない仕掛けとして、絶対王政の手本になる。ヴェルサイユ
- ロイズと海上保険できごとAD1688年コーヒーハウスに情報が集まるテムズ河畔のタワー街に、エドワード・ロイドという男がコーヒーハウスを開いた。船主と船長と商人が集まる。彼は客のために、船の出入りと海難の情報を集めて紙に刷った(ロイズ・リスト、1734年から現存する世界最古級の日刊紙)。情報が集まる場所に、引受人が集まった。航海一件ごとに、複数の個人が「この額まで引き受ける」と紙の下に署名する。アンダーライター(下に書く人)の語源である。会社ではなく、個人の集まりが、無限責任で危険を分け合った。ロンドン
- 板ガラスと窓できごとAD1688年店の陳列窓ガラスの窓は、ローマにもあったが、中世には教会と宮殿のものだった。小さな円形ガラス(クラウン・ガラス)を鉛の桟で継ぐ。1688年、フランスのサン=ゴバン王立工場が、溶けたガラスを鉄の台に流して延べ、冷ましてから磨く方法を工業化した。大きな平らな板が作れる。ヴェルサイユの鏡の間(1684年)は、それより前の吹きガラスの鏡だった。19世紀、円筒法と機械研磨で値段が下がり、庶民の家に窓が入った。室内が明るくなり、そして店の陳列窓が生まれた。パリ
- 宝くじと国家財政できごとAD1694年同じ年にイングランド銀行イングランドは、フランスとの戦争の戦費に困っていた。1694年、議会が「百万宝くじ」を可決した。10ポンドの札を10万枚売り、当選者に16年間、年金を払う。外れた者にも元本相当の利子を付けたので、実質は国債である。人々は、返ってこないかもしれない国債は買わないが、当たるかもしれない籤は買う。同じ年、イングランド銀行が設立された。宝くじは、税を課さずに金を集める方法として、各国が使い続けている。ロンドン
- 窓税できごとAD1696年測りやすいものを測ると、測られる側が形を変える家の中を調べずに、豊かさを測りたい。1696年、イングランドは窓の数に課税する仕組みを作った。外から数えられるので、徴税人が家に入らなくてよい。私有の領域を侵さない税として歓迎された面もある。だが人々は窓を塞いだ。煉瓦で埋めた跡が、いまもイギリスの古い家に残っている。安い集合住宅ほど窓が減り、暗く、風の通らない部屋が増えた。医師が健康を害すると訴え、1851年に廃止される。測りやすいものを測ると、測られる側がその形に合わせて変わる。ロンドン
- 江戸の下肥できごとAD1700年頃捨てるものではなく、買うものだった百万都市の排泄物は、捨てるものではなく買うものだった。近郊の百姓が船と桶で汲みに来て、代金を払う。長屋では、その代金が大家の収入になり、店賃の一部を肩代わりした。武家屋敷のものは食事が良いとされ、高く取引された。値をめぐる争いが訴訟になり、組合ができ、相場ができた。江戸に大規模な下水が要らなかったのは、これが理由である。同じ時期のロンドンとパリは、汚物を川に流し、そして疫病を得た。江戸
- 火口箱できごとAD18世紀火を新しく起こすのは、長いあいだ、面倒な作業だった。鋼を火打ち石に打ちつけ、飛んだ火花を、焦がした布に受ける。そこに硫黄を塗った木片を当てて、ようやく炎になる。慣れた者でも数分、湿っていれば十分以上かかり、うまくいかないこともある。だから人は火を作るより、絶やさないようにした。灰に埋めた炭を朝まで持たせ、消えていれば隣家から火種を借りに行く。台所の火が家の中心にあったのは、暖かいからではなく、消すと取り戻せなかったからである。ロンドン
- 江戸の上水井戸できごとAD18世紀江戸の井戸の多くは、地下水を汲むものではない。上水から木の樋で引いた水を、地中の枡に溜め、桶で汲み上げる仕組みだった。井戸の底が四角いのはそのためである。裏長屋では一つの井戸を十数世帯で共有し、年に一度、総出で樋と枡を洗った。井戸端は、水を汲む場所であり、洗い物と噂話の場所でもある。水道料は大家がまとめて払った。使う人が共同で管理する水は、誰のものでもなく、誰もが責任を負う水だった。江戸
- 江戸の裏長屋できごとAD18世紀九尺二間百万の人が暮らした江戸では、町人の多くが、表通りの裏の路地に建つ長屋を借りて住んだ。典型的な住まいは「九尺二間」と呼ばれ、間口が9尺(およそ2.7メートル)、奥行き2間(およそ3.6メートル)で、土間のかまどと流しのほかは、四畳半ほどの板の間か畳の部屋が一つきりだった。井戸と便所とごみ溜めは、路地の住人が共同で使った。壁は薄く、隣の話し声も筒抜けで、住人どうしは否応なく助け合った。家主に代わって長屋を管理する大家が、住人の世話と町の役目を担った。風呂は町の湯屋に通った。江戸
- サンクトペテルブルクの建設できごとAD1703年沼地に西欧向けの窓として都を築いた。ロシアが強引にヨーロッパの一員になろうとする。サンクトペテルブルク
- 宝永の大噴火できごとAD1707年12月16日(宝永4年11月23日)江戸に4センチの灰宝永地震(M8.6)の49日後。富士山の南東の斜面が裂けて、16日、火山灰を吐いた。江戸に4センチ、麓の須走村は3メートルに埋まった。関東の田は埋まり、酒匂川が土砂で塞がって何年も洪水した。幕府は全国に「諸国高役金」を課して復興費を集め、大半は使わなかった。富士山はそれから300年、噴いていない。富士山

- オーデコロンできごとAD1709年覆い隠す香りから、清潔さを示す香りへイタリア出身の商人ジョヴァンニ・マリア・ファリーナが、ケルンで売り始めた香水。柑橘の精油をアルコールに溶かした、軽く澄んだ香りで、それまでの重い動物性の香料とは違った。彼は兄への手紙に、雨の後のイタリアの朝を思い出させると書いている。地名がそのまま商品名になり、模倣品が溢れ、「ケルンの水」は普通名詞になった。強い香りで臭いを覆う段階から、清潔さそのものを香りで示す段階へ。体を洗う習慣が広まる前に、香りのほうが先に、その役を引き受けた。ケルン
- 江戸の町火消できごとAD1718年水では消えない。壊して止める明暦の大火の後も、江戸は繰り返し燃えた。町奉行大岡忠相が、町人自身による組を作らせた。いろは四十七組。のち本所深川にも置かれた。屋根に登り、纏を立て、そこから風下の家を壊す。水では消えない。壊して延焼を止めるのが仕事である。鳶職が担い、火事場での組同士の縄張り争いと喧嘩が絶えなかった。それでも、都市の防火を住民の組織が担うという形が、ここで定着した。江戸
- ヴィヴァルディ『四季』できごとAD1725年孤児院が観光の名所にヴェネツィアの孤児院ピエタで、赤毛の司祭が少女たちに音楽を教えていた。演奏会は観光の名所になり、旅行者が「あれほどの合奏はヨーロッパのどこにもない」と書き残した。『四季』は12曲の協奏曲集の最初の4曲。各曲にソネットが添えられ、鳥の声、雷、氷の上で滑って転ぶ人、蚊の羽音までが音で書かれている。彼は500の協奏曲を書き、忘れられ、20世紀に再発見された。ヴェネツィア

- 事務所という場所できごとAD1729年それまで、商人は自分の家で帳面をつけた。住むところと働くところが、同じ建物である。東インド会社は、扱う量が一人の手に負えなくなり、書記を大量に雇い、書くためだけの建物を建てた。リーデンホール街の本社である。名簿、帳簿、往復の書簡、そして議事録。それを保管し、参照し、決裁する手順が要る。書記の一人にチャールズ・ラムがいて、三十三年勤め、机の上でエッセイを書いた。会社は消えたが、そこで生まれた仕事の形は、残った。ロンドン
- 享保の飢饉と打ちこわしできごとAD1732年1732年の夏、西日本で稲の害虫が大発生し、実りがほとんど失われた。多くの村で餓死者が出た。翌年の正月、米の値が上がった江戸で、米を買い占めているとされた米問屋の家が、町人たちに襲われて壊された。江戸で初めての大きな打ちこわしである。幕府は米の値を抑えようとし、飢饉に強い作物として、蘭学を学んだ青木昆陽にさつまいもの栽培を広めさせた。食べ物の値段が、都市の治安を左右するようになっていた。江戸
- ホガース『放蕩一代記』できごとAD1735年ジン横丁8枚の絵と版画。遺産を継いだ若者が、放蕩し、娼婦と、賭博と、監獄と、精神病院ベドラムで裸で終わる。「近代的な道徳の主題」。版画は安く、海賊版が出て、ホガースは議会に版画の著作権法を作らせた(1735年、「ホガース法」)。ロンドンの街の顔。ジン横丁。絵で語る物語。漫画の祖父。ロンドン
- ロンドンで傘を差すできごとAD18世紀半ば恥ずかしいとされた行いが普通になるまでヨーロッパで傘は、長いあいだ女性の日よけの道具だった。男が雨の日に差すと、馬車も雇えない貧乏人だと笑われる。辻馬車の御者は客を奪われると考え、傘を差す者に石を投げたとも伝えられる。旅行家のジョナス・ハンウェイは、それでも三十年ほど傘を差して歩き続けた。彼の死後、ロンドンの男たちは当たり前に傘を持つようになる。傘屋が並び、雨の都市の風景が変わった。恥ずかしいとされた行いが普通になるまでの時間を、一人の頑固者が縮めている。ロンドン
- リスボン大地震できごとAD1755年11月1日諸聖人の日に都市が崩れた。なぜ神は善人を見捨てたのかという問いが、啓蒙思想を押し進める。リスボン(1755年)

- ジョンソンの英語辞典できごとAD1755年屋根裏と6人の写字生書店の組合が、フランスやイタリアのような国家的な辞典を英語にも、と企画した。アカデミー・フランセーズが60年近くかけた仕事を、サミュエル・ジョンソンは屋根裏で6人の写字生と9年で仕上げた。4万2773語。革新は、語義に文学からの引用を添えたことである。11万4000の用例。定義には彼の癖が出た。「オート麦——イングランドでは馬に、スコットランドでは人に与えられる穀物」「辞書編纂者——無害な苦役者」。150年、英語の標準であり続けた。ロンドン

- 産業革命できごと1760年都市が農村から人を吸い上げる石炭と蒸気で、人と家畜の力に頼らない生産が始まった。人類の暮らしが根本から変わる。マンチェスター

- プロイセンの義務教育できごとAD1763年出席の強制フリードリヒ2世が一般地方学事通則を出し、5歳から13歳の子に就学を義務づけた。七年戦争の直後である。目的は、読み書きできる兵士と、従順で勤勉な臣民を作ることだった。教員の養成、教科の指定、そして出席の強制。19世紀に整備が進み、学年制、時間割、卒業試験(アビトゥア)が揃った。この模型が、日本、アメリカ、フランス、そして世界中に写された。近代の学校の形は、ほとんどがここに遡る。ベルリン
- ベッカリーア『犯罪と刑罰』できごとAD1764年匿名で出した100ページ26歳のミラノの貴族が匿名で出した100ページの本。刑罰の目的は復讐ではなく、犯罪の抑止である。だから、罰は犯罪に比例し、確実で、迅速でなければならない。拷問は無実の弱い者を自白させ、罪ある強い者を放免するので、真実を得る手段として無効である。死刑は、抑止の効果が終身の労役に劣り、国家が殺人を犯すことで暴力を教える。各国語に訳され、エカチェリーナ2世、トスカーナ大公、そしてアメリカの起草者たちが読んだ。ミラノ

- アユタヤの陥落できごとAD1767年400年続いた都が焼かれたビルマ軍が400年続いた都を焼いた。記録の多くが失われ、王朝はバンコクで建て直される。アユタヤ

- じゃがいものヨーロッパ普及できごとAD1770年頃人口が増えたアンデス原産。16世紀にスペインが持ち帰ったが、200年、「聖書に出てこない」「ハンセン病を起こす」と嫌われて、家畜の餌だった。プロイセンのフリードリヒ2世は、農民に栽培を命じ、効かないので、畑に見張りを立てて「王の作物だから盗むな」と触れさせた。農民が夜に盗んで植えた。フランスではパルマンティエが同じ手を使った。同じ面積で穀物の2〜4倍を養え、地中にあるので軍隊に踏まれない。ヨーロッパの人口が増えた。ベルリン
- 家に番号を振るできごとAD1770年七年戦争でプロイセンに敗れたハプスブルク家は、兵をどこから何人集められるかを、正確に知りたかった。マリア・テレジアは1770年、領内の男と家畜を数え上げる調査を命じ、そのためにすべての家の壁に番号を書かせた。それまで家は、持ち主の名や屋号や、どの領主に属するかで呼ばれていた。番号は、それを村ごと、町ごとの通し番号に置き換える。役人と兵が戸口を一軒ずつ回り、数字を塗っていった。家に番号が付くと、そこに住む人は、国から見つけられる人になる。番地は、郵便より先に、徴兵のために生まれた。ウィーン
- 水洗便所とS字トラップできごとAD1775年家の中に便所を置けるようになった水洗の便器は1596年にジョン・ハリントンが考案していたが、広まらなかった。下水管から悪臭と害虫が逆流するからである。1775年、時計職人アレクサンダー・カミングスが、排水管をS字に曲げて水を溜める仕組みを特許にした。溜まった水が蓋になる。翌年、ジョセフ・ブラマーが弁を改良した。この単純な曲がりが、家の中に便所を置くことを可能にした。上下水道の整備と合わせて、19世紀後半、都市の家の間取りが変わった。ロンドン
- 鉄で橋を架けるできごとAD1779年セヴァーン川の谷は、製鉄の炉が並ぶ工業地帯だった。両岸を結ぶ橋が要るが、船の帆柱を通さねばならず、石のアーチでは橋脚が邪魔になる。鉄工所のエイブラハム・ダービー三世は、鋳鉄だけで一つのアーチを組むことにした。前例が無いので、継ぎ目は木造の指物や大工の仕口を真似ている。鉄を鋳物として使う発想そのものが新しく、できた橋は観光の名所になった。素材が変われば、形も作り方も変わる。その最初の実例として、いまも同じ場所に架かっている。コールブルックデール
- 乳母と捨て子できごとAD1780年頃赤子が荷車で運ばれた18世紀のパリで、生まれた子の大半が、田舎の乳母に預けられた。ある推計では、年に2万人の新生児のうち、母が自ら育てたのは1割に満たない。職人の妻も働かねばならず、乳を与える時間がない。乳母は乳の出る限り何人も預かり、赤子は荷車で運ばれた。死亡率は極めて高く、地域によっては半数を超えた。同じ時期、捨て子養育院に年に数千人が置かれた。誰かが乳を与えなければ、子は生きない。その労働に、名も、記録も、ほとんど残っていない。パリ
- パリの水売りできごとAD18世紀水の値段は、距離と高さで決まっていた十八世紀のパリに、水道の蛇口はほとんど無かった。人々はセーヌ川か公共の噴水から水を買う。天秤棒に二つの桶を下げた水売りが、六階まで階段を上って届けた。二万人ほどがこの仕事で暮らしていたと推定される。値段は階数で上がる。貧しい家ほど水を節約し、洗濯と入浴の回数が減った。運ばれた水は川の水そのままで、上流には下水が流れ込んでいる。水道が引かれると、この職は消えた。運ぶ労働が管に置き換わるまで、水の値段は距離と高さで決まっていた。パリ
- バンコクへの遷都できごとAD1782年アユタヤの陥落から15年、ラーマ1世が対岸に新しい都を築いた。焼けた都を意識して再現している。王宮の配置も、寺院の様式も。いまのタイの王朝はここから続く。トンブリー
- 破られない錠できごとAD1784年ジョゼフ・ブラマーは1784年、円筒の中に何枚もの滑り板を並べた錠を作り、店の窓に飾って札を掲げた。これを開けた者に二百ギニーを払う、と。六十七年、誰も開けられなかった。1851年のロンドン万国博覧会で、アメリカの錠前師アルフレッド・ホッブズが挑む。専用の道具を作り、五十時間以上かけて開けた。会場では、イギリスの錠がことごとく破られる実演が続き、安全だと思われていたものが安全でないと知れ渡った。この騒ぎが、錠の設計を一段進めることになる。ロンドン
- パリの地下納骨堂できごとAD1786年地下室の壁が破れたサンティノサン墓地は、1000年近く使われ、200万体が埋まっていた。地面が数メートル盛り上がり、隣家の地下室の壁が腐乱した死体の重みで破れる事件が起きた。1780年、閉鎖。市は、石灰岩を掘り出した後の地下坑道へ、遺骨を移すことにした。夜、松明を掲げた行列が、荷車で骨を運んだ。移送は数十年続き、600万体分が納められた。骨は種類ごとに積み上げられ、壁として整えられた。入口に「止まれ、ここは死の帝国である」と刻まれている。パリ
- ロバート・ピール人物AD1788年2月5日 – AD1850年7月2日ボビーランカシャーの綿工場主の子。内相として1829年にロンドンに警察を作った。警官は「ボビー」「ピーラー」。カトリック解放。保守党を作り直した(タムワース宣言)。首相として所得税、鉄道法、工場法、穀物法の廃止。党を割って辞めた。1850年、落馬して死んだ。「ピール派」がグラッドストンを連れて自由党に行った。
- パン屋の行列できごとAD1790年代前半足りないものを、力ではなく、立っている時間で分けた革命のさなかのパリでは、パンが足りず、値は統制されていた。夜明け前からパン屋の戸口に人が並び、先に来た者から売ってもらう。列はフランス語で「尾」(queue)と呼ばれ、戸口の鉄の輪に綱を結んで、並ぶ者がそれを握ったと伝えられる。英語で人の列を queue と呼ぶ用法は、この頃のフランスから入った。四十年後、トマス・カーライルは『フランス革命史』で、自然に列を作るこの才能こそフランス人を他の民から分けると皮肉を込めて書いた。行列は、足りないものを、力ではなく時間で分ける方法である。パリ
- 寄席の始まりできごとAD1798年1798年、江戸の下谷の神社の境内で、櫛職人だった三笑亭可楽が、木戸銭を取って客を集め、噺を聞かせた。職業として毎日のように噺を聞かせる寄席は、ここから始まったとされる。それまでも、道端や大名の座敷で笑い話をする人はいたが、町の人が少しの銭で毎晩通える場所ができたのである。19世紀の初めには、江戸の町に百を超える寄席ができ、落語のほか講談や手品や音曲が演じられた。天保の改革で一時は十数軒に減らされたが、すぐに息を吹き返した。江戸
- 江戸の再生の仕組みできごとAD1800年頃捨てるものに値段が付く人口100万の都市が、ごみをほとんど出さなかった。専門の買い手がいたからである。紙屑買いが古紙を集めて漉き返す。灰買いが竈の灰を買い、肥料と洗剤と染色に回す。古着屋、鋳掛屋、瀬戸物の焼き接ぎ、樽と桶の箍の直し。そして下肥。人の糞尿を、近郊の農家が買い取り、野菜にして市中へ戻した。値段が付き、盗まれる事件が起き、権利が売買された。捨てるものに値段が付けば、誰かが拾う。それだけの仕組みである。江戸
- 寺子屋できごとAD1800年頃国家が作ったのではない江戸の後期、町と村に無数の私塾があった。師匠は僧、神官、浪人、医者、そして女性。一部屋に年齢のばらばらな子が集まり、それぞれ違う手本を写す。一斉授業ではない。教えたのは「読み書き算盤」と、往来物と呼ばれる実用の教科書(商売往来、百姓往来)。全国で1万数千以上あったとされる。幕末の日本の識字率は、男子で4割前後という推計がある。国家が作った制度ではなく、需要に応じて自然に増えた。江戸

- ペール・ラシェーズ墓地できごとAD1804年死者を個人として記憶するナポレオンが、市内の埋葬を禁じ、郊外に新しい墓地を作らせた。宗教と身分を問わず、誰でも入れる。個人ごとの区画を持ち、名前を刻んだ石を立て、遺族が訪ねて花を置く。それまでの共同の墓穴とは、まったく違う考え方である。当初、遠すぎるとして人気がなかった。市は、ラ・フォンテーヌとモリエールの遺骨を移し、次いでアベラールとエロイーズの墓を作った。人が集まり始めた。死者を、個人として記憶する場所が生まれた。パリ

- 右が偶数、左が奇数できごとAD1805年2月4日番号を見れば、川がどちらにあるかも分かる革命のころのパリには、番地の付け方がいくつも混在していた。通りの片側を端から順に数えて向かい側を戻ってくるものもあれば、地区ごとに通し番号を振ったものもあり、同じ通りに同じ番号が二つあることさえあった。1805年の布告で、セーヌ県知事フロショは一つの決まりにそろえた。セーヌ川に向かう通りは川に近い端から、川に沿う通りは上流の端から数え始める。進む向きに右が偶数、左が奇数。番号を見れば、川がどちらにあるかも分かる。このやり方は、いまも世界の多くの町で使われている。パリ
- ガス灯と夜の街できごとAD1807年夜が使えるようになった石炭を蒸し焼きにして出るガスを管で送り、燃やす。1807年、ロンドンのポール・モール街に最初のガス灯が並んだ。それまで、夜の街は月と手提げの提灯だけだった。夜間の労働、夜の店、夜の劇場、そして夜の警察と犯罪。人の一日の使い方が変わった。副産物のコールタールは、当初は厄介な廃棄物で、そこからモーヴが、薬が、そして20世紀の有機化学工業が出てくる。ロンドン
- ナポレオン3世人物AD1808年4月20日 – AD1873年1月9日パリの大改造ナポレオンの甥。2度クーデターに失敗して、要塞に6年、ロンドンに亡命。1848年、大統領。1851年、クーデター。皇帝。パリの大改造(オスマン)、鉄道、銀行、クリミア、イタリア、メキシコ(失敗)、自由貿易。労働者に近づき、農民に愛された。スダンで捕まり、イギリスで死んだ。「小ナポレオン」とユゴーが呼んだ。
- アペールの瓶詰と缶詰できごとAD1810年缶切りは45年後革命政府とナポレオンが、軍の食料を保存する方法に懸賞を出したと伝えられる。パリの菓子職人ニコラ・アペールが、食品を瓶に詰め、コルクで栓をして、湯で長時間加熱する方法を14年かけて完成させた。政府は1万2000フランを与え、その方法を本にして公開させた。なぜ腐らないのかは分からないまま(微生物の発見はパスツールの50年後)。同じ年、イギリスのデュランドがブリキ缶の特許を取った。缶切りが発明されるのは45年後で、初期の缶にはノミと槌で開けよと書いてあった。パリ
- アリスティド・ブシコー人物AD1810年7月14日 – AD1877年12月26日ノルマンディーの帽子屋の子。行商から始め、パリの織物店の売り子になった。1852年、共同経営者としてボン・マルシェに入り、やがて全部を買い取る。薄利多売、正価、返品自由、自由な入店。従業員に利益分配と年金の制度を設け、社宅と食堂を用意した。同時に、労働は長時間で、規律は厳格である。妻マルグリットは、洗濯女から身を起こした人で、夫の死後に事業を継ぎ、その財産の大半を慈善に充てた。
- 姓を登録させるできごとAD1811年ナポレオンの支配下に入ったオランダで、住民に姓を届け出ることが義務づけられた。それまで多くの人は、父の名に由来する呼び名や、住む場所や仕事の名で呼ばれていた。同じ村に同じ呼び名の者が何人もいても困らなかったのは、顔で分かる範囲で暮らしていたからになる。国が徴兵し、課税し、登記するには、一人ひとりを取り違えずに指す名前が要る。急に姓を求められた人々の中には、役人をからかうような名を届けた者もいたと伝えられる。国家が個人を把握する道具として、姓が使われ始めた。アムステルダム
- 八時間労働できごとAD1817年八時間労働、八時間休息、八時間の自由ロバート・オーウェンが標語を作った。八時間労働、八時間休息、八時間の自由。当時の工場は、一日14時間から16時間が普通で、子どもも同じだけ働いた。彼は自分の紡績工場で、労働時間を短縮し、子どもの就労年齢を上げ、それでも利益が出ることを示した。以後100年、この三つの八が、世界中の労働運動の要求になった。1886年5月1日のアメリカのゼネスト、そしてヘイマーケット事件。1919年、国際労働機関の第1号条約が、これを国際基準とした。ニュー・ラナーク
- ジョゼフ・バザルジェット人物AD1819年3月28日 – AD1891年3月15日下水の大聖堂ロンドン。フランス系。鉄道の測量から、首都建設委員会の技師長へ。1858年の大悪臭の後、下水道を任された。管の勾配、断面(卵形。水量が少ないときも流速が保てる)、そしてポンプ場(アブビー・ミルズは「下水の大聖堂」と呼ばれる装飾)。テムズの堤も彼の仕事。ハマースミス橋、バタシー橋。ナイト。彼が計算の2倍の管を敷いたおかげで、ロンドンは150年、それで足りている。
- ラッフルズのシンガポールできごとAD1819年2月6日5年で1万人マラッカ海峡の南端の、人口1000人の島。東インド会社のラッフルズがジョホールの王位争いに介入して、条約で商館を置いた。自由港。関税なし。5年で人口1万、中国人、マレー人、インド人、アラブ人。オランダは抗議し、1824年の英蘭条約で線が引かれ、海峡の北がイギリス、南がオランダになった。マレーシアとインドネシアの境。シンガポール
- サミュエル・プリムソル人物AD1824年2月10日 – AD1898年6月3日議場で人殺しと叫んだブリストル生まれ。石炭商として失敗し、一時、宿無しになった。その経験から貧しい人々の側に立った。1868年、下院議員。船員の遺族の話を聞き、老朽船への過積みを追及した。1873年『我らの船員たち』を自費で出版。議場で船主の議員を「人殺し」と呼び、議長の制止を無視して退場になった。世論が沸き、1876年の商船法が通った。「船乗りの友」と呼ばれた。
- 乗合馬車できごとAD1826年相手ではなく、時刻に合わせて動く輸送が生まれたナントで製粉業を営むスタニスラス・ボードリーが、郊外の浴場へ客を運ぶ馬車を仕立てたところ、途中で乗り降りする者が増えた。運ぶ相手を決めずに、決まった道筋を決まった時刻に走らせる。乗り場が帽子屋の前にあり、その店の看板に「オムネス・オムニブス」(すべての人に)とあったのが名の由来だと伝わる。二年後にはパリで営業が始まり、ロンドン、ニューヨークへ広がった。個別の注文で動く馬車から、路線と時刻表で動く輸送へ。都市交通はここから数えられる。ナント
- ロンドン動物園できごとAD1828年zoo という語の由来王侯の見世物としての動物のコレクションは古い。ロンドン塔の獣舎は600年続いた。1826年、スタンフォード・ラッフルズらがロンドン動物学会を作り、1828年、リージェンツ・パークに「動物学的庭園」を開いた。当初は会員だけの研究施設で、一般公開は1847年から。zoological garden が略されて zoo という語になった。ダーウィンは1838年、ここでオランウータンのジェニーを観察し、その表情と癇癪を記録している。彼が人と動物の連続性を確信した場面の一つとされる。ロンドン

- 独房と沈黙できごとAD1829年それまでの牢は、判決を待つ人を放り込む場所だった。鞭打ちや追放や死刑が主な罰で、閉じ込めること自体が刑ではない。クエーカーの影響を受けたフィラデルフィアの改革者たちは、別の考えを持ち込む。人を一人きりにして、聖書と自分の心に向き合わせれば、悔い改める。放射状に伸びる廊下の両側に独房を並べ、外に出すときは頭巾をかぶせて他の囚人と顔を合わせないようにした。反省を促すはずの完全な孤独は、多くの囚人の精神を壊した。ディケンズが訪れ、これは残酷だと書いている。フィラデルフィア
- おかげ参りできごとAD1830年施行と抜け参り60年ほどの周期で、何百万人もが、突然、伊勢神宮へ歩き出した。1705年に362万人、1771年に200万人、1830年に486万人(当時の人口の6分の1)。奉公人が主人に無断で、子供が親に黙って出る(「抜け参り」)。沿道の人が食事と草鞋と宿を無償で提供した(施行)。柄杓一本を持って歩けば、たどり着けた。祭りと、旅行と、日常からの逸脱が、一度に起きた。1867年の「ええじゃないか」へ。伊勢神宮

- 駅と待合室できごとAD1830年9月15日リヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業した。世界で最初の、旅客の定期運行を主とする鉄道である。馬車は客が集まれば出たが、鉄道は時刻表で出る。だから客が、あらかじめ来て、待つ。切符を買う窓口、荷物を預ける場所、そして等級ごとに分かれた待合室が要った。開業式で、下院議員ハスキソンが線路上で轢かれて死んでいる。速く動く機械の前で、人がどう振る舞うべきかを、誰もまだ知らなかった。リヴァプール
- 解剖法できごとAD1832年8月1日イギリスでは、解剖に回してよい遺体は、処刑された殺人犯だけと定められていた。医学校は増え、処刑は減る。足りない分は、墓を掘り返す者たちが売った。1828年、エディンバラのバークとヘアは、掘るかわりに十六人を殺して解剖学者に売っていたことが露見する。議会が出した答えは、掘る動機を無くすことだった。救貧院や病院で死に、引き取り手のない者の体を、解剖に回せるようにする。墓を暴かれる恐れは消えたが、解剖台に載るのは、変わらず貧しい者だった。ロンドン
- バベッジの階差機関と解析機関できごとAD1837年政府が17000ポンドを失った当時の航海表と対数表は人が計算し、人が写し、誤植だらけだった。バベッジは「これを蒸気で計算できたなら」と言い、多項式を差分だけで求める階差機関を設計した。政府が資金を出し、17000ポンドを使って完成しなかった。彼は途中でより野心的な解析機関に移った。パンチカードで命令を与え、演算部(ミル)と記憶部(ストア)を分け、条件分岐と繰り返しを持つ。汎用計算機の設計である。一台も作られなかった。ロンドン
- ディケンズ『オリヴァー・トゥイスト』できごとAD1838年新救貧法の直後救貧院で生まれた孤児が、粥のおかわりを求めて「もう少しください」と言い、追い出され、ロンドンの窃盗団に拾われる。1834年の新救貧法(貧民を救貧院に押し込め、夫婦を分け、労働を強いる)が施行された直後の連載。月刊の分冊で、毎号、街が続きを待った。作者は12歳のとき、父が債務者監獄に入って、靴墨工場で働いた。そのことを、生涯、誰にも話さなかった。ロンドン
- 鉄道と標準時できごとAD1840年時間が電信で配られるそれまで、時刻は町ごとに違った。太陽が南中したときが正午である。ロンドンとブリストルでは10分ずれる。歩く速さでは問題にならない。鉄道が走ると、時刻表が組めず、単線ですれ違い事故が起きる。1840年、グレート・ウェスタン鉄道がロンドンの時刻を全線で使い始めた。1855年までにイギリスの時計の98%がグリニッジ時刻に合った。町の時計に針を二本つけた教会もある。時間が、天体からではなく、電信線を通って配られるものになった。ロンドン
- リストと独奏会の誕生できごとAD1840年リストマニアそれまで演奏会は、複数の演奏者が交互に出る寄せ集めだった。リストは一人で全部を弾き、ピアノを客席に横向きに置いて横顔を見せ、暗譜で弾いた。「リサイタル」という語をこのとき使った。熱狂は「リストマニア」と呼ばれ、女性が手袋やハンカチを奪い合った。彼は稼いだ金をベートーヴェン記念碑とハンガリーの水害の被災者に投じ、35歳で演奏活動をやめ、後に僧籍に入った。ロンドン
- 絵具のチューブできごとAD1841年鉄道が郊外へ延びていたそれまで絵具は、顔料を油で練って豚の膀胱に詰め、使うたびに針で穴を開けた。乾く。漏れる。持ち運べない。1841年、アメリカ人の画家ジョン・ゴフ・ランドが、錫の折りたためる筒に詰める方法を特許にした。絵具が保存でき、持ち運べる。屋外で、その場の光を見ながら描けるようになった。同じ頃、鉄道が郊外へ延びていた。ルノワールは後にこう言った。「絵具のチューブがなければ、セザンヌも、モネも、印象派もなかった」。ロンドン
- 団体旅行できごとAD1841年7月5日禁酒運動の世話人だったトマス・クックは、集会へ人を運ぶために鉄道会社と交渉し、往復の切符をまとめて安く買った。五百人ほどが参加し、一人一シリングである。これが団体旅行の始まりとされる。彼はやがて宿と食事と入場券を組み合わせ、前もって払えば現地で金を扱わずに済む仕組みを作った。旅は、金と暇のある人のものから、勤め人が一週間分の楽しみとして買うものになる。目的地で何を見るかも、あらかじめ決められた。旅程という商品が生まれたことになる。レスター
- テムズ・トンネルできごとAD1843年3月25日水底の軟らかい泥の下を掘る。崩れる。マルク・ブルネルは、船食い虫が硬い殻を分泌しながら木を進む様子から、掘る先端を鉄の枠で囲う方法を考えた。掘っては枠を前へ押し、後ろを煉瓦で固める。シールド工法である。1825年に着工し、五度の浸水と、汚水による病と、資金の枯渇に遭い、十八年かかった。息子イザムバードも溺れかけている。開通後は歩行者の通路となり、後に鉄道が通った。いまもロンドン地下鉄が走っている。ロンドン
- ニッカボッカーの規則できごとAD1845年9月23日ニューヨークの若い事務員や商人たちが作ったクラブが、棒で球を打って塁を回る遊びの決まりを書き留めた。それまでの遊びでは、走っている者に球をぶつければアウトだった。新しい決まりでは、ぶつけるのをやめ、球を持って塁に触れればよいことにした。大人がけがをせずに遊べるようにするためである。打った球が外に出ればファウル、三つアウトで攻守交代。試合は、川向こうのホーボーケンの原っぱで行われた。二十の条からなるこの決まりが、のちの野球の土台になった。ホーボーケン
- 公衆浴場と洗濯場できごとAD1846年工業都市の路地裏には水道が無く、井戸か共同の水栓に頼っていた。体も洗えず、衣類も洗えない。コレラが流行したとき、リヴァプールのキティ・ウィルキンソンは自宅の湯沸かしを近所に開放し、寝具を煮沸させた。市はこれを引き継いで公共の浴場と洗濯場を作る。1846年、議会は自治体が税で同じ施設を設けてよいという法律を通した。安い料金で体を洗い、衣類を煮て干して帰れる。清潔は個人の心がけではなく、設備の有無で決まると認めたことになる。リヴァプール
- ロンドンの塵芥山できごとAD1850年頃灰の山をふるいにかける家庭から出る灰と燃え殻を、業者が集めて山に積む。そこで、女たちがふるいにかけて選り分けた。細かい灰は煉瓦の材料と肥料に、燃え残りの石炭はまた燃やし、骨は膠と肥料に、ぼろ布は製紙に、金属は鋳直す。塵芥業者は、この選別で財を成した。ディケンズが『我らが共通の友』で、塵芥の山を相続する話を書いている。石炭から都市ガスへ、そして灰が出なくなると、この経済は消えた。回収する動機が、消えたからである。ロンドン
- ロイターの伝書鳩できごとAD1850年通信社の始まりベルリンとパリの間に電信線が引かれたが、アーヘンとブリュッセルの約120キロが繋がっていなかった。この空白を、ポール・ロイターが鳩で埋めた。ブリュッセルの株価を薄い紙に書いて鳩に付け、二時間でアーヘンへ運び、そこから電信でベルリンへ送る。郵便列車より数時間速い。翌年、線が繋がって鳩は不要になったが、彼はロンドンへ移り、通信社を作った。情報が速く着くことに、それ自体の値段が付くと分かった時期である。アーヘン
- 公共図書館法できごとAD1850年税で建て、誰でも無料で入れる。その建前が法になった本を読む場所は、それまで金を払って入る会員制の閲覧室だった。1850年、イギリスの議会は、自治体が税で図書館を作り、誰でも無料で入れるようにしてよいという法律を通した。反対もあった。労働者に読ませれば仕事をしなくなる、酒場の代わりにはならない、税の無駄だ。可決された条文は、集められる税をごくわずかに抑え、本を買う費用は含まないという、腰の引けたものだった。それでも1852年、マンチェスターが最初の無料図書館を開く。読みたい人が、金を払わずに本に触れられる。その建前が、ここで初めて公のものになった。マンチェスター
- 人を起こす仕事できごとAD19世紀工場の始業は早く、遅れれば賃金を引かれる。だが目覚まし時計は労働者には高かった。産業革命のイギリスには、夜明け前の町を回り、長い棒で二階の窓を叩いて人を起こす職業があった。管で豆を吹いて窓に当てる者もいた。客が窓から顔を出すまで叩き続け、週に数ペンスを受け取る。1920年代まで、地方によってはもっと後まで残ったとされる。時計に合わせて起きる暮らしは、まず人の手で作られ、それから機械に置き換えられた。マンチェスター
- ボン・マルシェできごとAD1852年アリスティド・ブシコーが、小さな織物店を、あらゆる品を並べる大きな店に変えていった。値札を付け、正価で売り、返品を認め、そして誰でも自由に入って、買わずに出てよいことにした。それまでの店は、入れば買わされる場所である。季節ごとの大売出し、通信販売の目録、そして店内の読書室と休憩室。1869年からの新築にはエッフェルの事務所が関わった。ゾラが取材して『ボヌール・デ・ダム百貨店』を書いている。買い物が、外出の目的になった。パリ
- アルフォンス・ベルティヨン人物AD1853年4月22日 – AD1914年2月13日ドレフュスを陥れた鑑定パリ。父は医師で人類学会の創設者、兄は統計学者。学校を次々に放校になり、軍隊を経て、1879年にパリ警視庁の最下級の書記になった。前科者の記録カードを書き写す仕事の中で、身体の寸法で人を同定する方法を考えた。上司に何度も却下され、1882年に試験導入が認められた。写真の規格化と、犯行現場の測量写真も彼の考案である。一方、ドレフュス事件では筆跡鑑定の専門家として証言し、決定的に誤った鑑定で無実の将校を有罪にした。
- 蒸気消防ポンプできごとAD1853年手押しポンプは、四十人が交代で漕いでも高い建物に水が届かず、人が疲れれば水が止まる。蒸気機関に汲ませればよい。1829年にロンドンで作られたものは、消防隊員自身の反対で使われなかった。仕事が奪われるためである。1853年、シンシナティが公費で運用を始めた。市は同時に、有志の消防組を廃して有給の職員に切り替えた。喧嘩と政治の温床でもあった有志組が、常勤の職業に変わる転機になった。シンシナティ
- オスマンのパリ改造できごとAD1853年大通りで中世の町を貫く19世紀の半ばのパリは、中世からの狭く曲がりくねった路地に人がひしめき、コレラが繰り返し流行し、革命のたびに路地にバリケードが築かれた。1853年、皇帝ナポレオン3世は、セーヌ県の知事にジョルジュ・オスマンを任じ、都の大改造を命じた。古い家並みを取り壊して、広くまっすぐな大通りを貫き、下水道と上水道を整え、公園を造り、建物の高さと正面の形をそろえた。17年にわたる工事で、パリはいまの姿になった。だが立ち退かされた貧しい人々は町の外れへ追いやられ、莫大な借金が残り、オスマンは1870年に職を解かれた。パリ
- ジョン・スノウのコレラ地図できごとAD1854年9月8日ソーホーの井戸ロンドンのソーホーで、3日で127人が死んだ。麻酔医ジョン・スノウは、死者の家を地図に点で打った。ブロード・ストリートの井戸の周りに集まっていた。離れた場所の死者は、その井戸の水を好んで運ばせていた。近くの救貧院とビール工場(自前の井戸)では死者が出なかった。9月8日、彼はポンプの取っ手を外させた。「悪い空気」でなく水だという説は、10年後に認められた。疫学が始まった。ソーホー(ブロード・ストリート)
- オーティスの安全装置できごとAD1854年5月荷物用の昇降機は古くからある。人を乗せなかったのは、綱が切れれば落ちるからである。エリシャ・オーティスは、綱の張力が消えたときに板ばねが開き、両側の歯付きの案内レールに噛みつく仕掛けを作った。ニューヨーク万国博覧会の会場で、自ら昇降台に乗り、斧で綱を切らせてみせた。台は数センチ落ちて止まった。建物の高さは、階段を上がれる高さで頭打ちになっていた。それが外れ、高い階のほうが高く売れるようになった。ニューヨーク
- 秘密投票できごとAD1856年十九世紀の選挙は、たいてい公開だった。投票所で名前と候補者を読み上げるか、色の違う紙を人前で出す。誰が誰に入れたかが分かるので、地主は小作に、雇い主は労働者に、そのとおりに投票させることができた。酒や金も配られる。1856年、オーストラリアのヴィクトリア植民地は、政府が全候補者の名を印刷した用紙を配り、仕切りの中で印を付け、箱に入れる方式を定めた。「オーストラリア式投票」と呼ばれ、各国に広がる。誰に入れたかを言わなくてよいことが、投票の前提になった。メルボルン
- オックスフォード英語辞典できごとAD1857年庭の鉄板小屋語の意味を定めるのではなく、その語が歴史の中でどう使われてきたかを、用例で示す。1857年に文献学協会が構想し、完成まで71年かかった。方法は市民の参加である。世界中の読者に本を割り当て、語の用例をスリップに書いて送らせた。集まった紙片500万枚。編集主幹マレーは庭に鉄板の小屋を建て、1000個の仕切りにそれを収めた。最大の寄稿者の一人マイナーは、殺人を犯してブロードムア精神病院に収容されていた軍医だった。1928年完成、全10巻、41万4825語。オックスフォード

- 迷子しるべ石できごとAD1857年(安政4年)2月役所を通さず、通りがかりの目を集めて子を探した江戸では、迷子が出ると、見つけた町がその子を預かって養う決まりだった。人の多い日本橋のあたりでは、それが町の重い負担になる。安政4年、西河岸町の人々は一石橋のたもとに石の柱を建てた。右の面に「志らする方」、左の面に「たづぬる方」と彫ってある。探す者は子の年恰好や着物を書いた紙を左に貼り、心当たりのある者は右に貼る。役所の手を通さず、通りがかりの目を集める掲示板である。同じような石は湯島や浅草にもあった。一石橋のものは、いまも同じ場所に立っている。一石橋
- セントラルパークできごとAD1858年自然に見える風景は、設計して造られている人口が急に増えたニューヨークで、緑地を作るべきだという声が上がった。理由は健康と、都市の体面と、不動産の価値である。設計はオルムステッドとヴォーの案が選ばれ、自然に見える風景を人工的に造った。岩を砕き、沼を埋め、木を何十万本も植える。横切る道路は地面を掘り下げて、公園の景色から隠した。造る前、その土地にはセネカ・ヴィレッジという黒人とアイルランド移民の集落があり、収用で壊されている。誰のための公園かという問いは、最初から付いて回った。ニューヨーク
- ビッグ・ベンできごとAD1859年国の議会の上で、国の時刻が鳴る焼けた国会議事堂を建て直すとき、塔に大時計を置くことになった。王室天文官エアリーは、最初の一打が一秒以内に正確であること、毎日グリニッジへ電信で時刻を報せることを求めた。時計職人たちは無理だと反発したが、弁護士で時計好きのデニソンが仕掛けを考え、1859年に動き出す。大鐘はその年のうちにひびが入り、向きを変えて撞き続けている。鐘の名が塔の名として広まった。国の議会の上で、国の時刻が鳴る。ロンドン
- 野良犬の収容所できごとAD1860年飼う生き物と飼われない生き物の境が、制度から引かれたロンドンの路上には、行き場のない犬があふれていた。捕らえて殺すのが行政の仕事である。1860年、メアリー・ティールビーが迷い犬の一時保護所を開いた。飼い主を探し、見つからなければ引き取り手を探す。犬に金をかけるとは何事かと新聞に叩かれたが、1885年にはヴィクトリア女王が後援者になった。狂犬病への恐れが、街から犬を減らす圧力にもなる。保護と駆除は、同じ「路上の犬をどうするか」から出てきた二つの答えだった。飼う生き物と、飼われない生き物の境が、制度の側から引かれていく。ロンドン
- ジェームズ・ネイスミス人物AD1861年11月6日 – AD1939年11月28日歴代で唯一の負け越し監督オンタリオの開拓地。9歳で両親をチフスで失い、伯父に育てられた。木を切り、そりを作り、丸太小屋の学校に通った。マギル大学で神学と体育を修め、説教より体を動かすことで人を導けると考えた。1891年、スプリングフィールドで籠と球の競技を考案。後にカンザス大学の初代バスケットボール監督になり、その通算成績は55勝60敗で、同校の歴代監督で唯一の負け越しである。競技で金を稼ぐことに、生涯、関心を持たなかった。
- ロンドン地下鉄の開業できごとAD1863年1月10日都市が垂直に広がったパディントンからファリンドン・ストリートまで6キロ。世界初の地下鉄。掘割を掘って蓋をする「開削工法」。蒸気機関車が走ったので、煙が充満した(換気口を開け、機関車は自分の煙を水槽に溜める仕組みを積んだ。それでも息苦しかった)。初日に4万人。1890年、電化された最初の深い地下鉄(シティ・アンド・サウス・ロンドン線)。都市が、垂直に広がり始めた。ロンドン
- モンテカルロできごとAD1863年地中海沿いの小さな公国は、レモンとオリーブのほかに売るものが無く、財政が傾いていた。大公は、ドイツの温泉町で賭博場を成功させていた経営者フランソワ・ブランを招く。ブランは岩山の上に賭博場と劇場とホテルを建て、鉄道を引かせ、ヨーロッパ中の貴族と富裕層を呼び集めた。数年で公国の収入は安定し、1869年、モナコは住民の所得税を廃止する。賭博を国の産業にした最初の例である。客が負ける確率がわずかに高いという仕組みだけで、国家の財政が成り立つことを示してしまった。モナコ(モンテカルロ)
- ロンドンの下水道できごとAD1865年大悪臭1858年の夏、テムズが悪臭を放ち、議会が石灰を浸した布を窓に垂らした。「大悪臭」。18日で法案が通り、ジョゼフ・バザルジェットが132キロの主要下水管と1800キロの支管を作った。汚水を川へ直接流さず、下流へ運ぶ。彼は必要な管の径を計算し、それを2倍にした(「予想外のことは必ず起きる」)。コレラが消えた。堤(エンバンクメント)が造られ、その下に下水管と地下鉄が通った。150年、いまも使われている。ロンドン
- 気送管の郵便できごとAD1866年電信は速いが、局に持ち込んで打ってもらう必要があり、文が短く、内容が人に読まれる。都市の中では、手紙そのものを管で飛ばすほうが良い、と考えられた。地下に鉄の管を通し、圧縮空気で筒を押す。パリでは1866年から網が広がり、最盛期には総延長400キロを超えた。速達の便りは市内を三十分で渡った。プヌマティックと呼ばれ、電話が普及した後も長く残り、廃止は1984年である。パリ
- 鉄筋コンクリートできごとAD1867年コンクリートは押されるのに強く、引かれると割れる。鉄は逆である。両者を組み合わせれば、どちらの弱点も消える。しかも熱膨張率がほぼ同じで、アルカリ性のコンクリートが鉄を錆から守る。パリの造園業者ジョゼフ・モニエは、割れない植木鉢を作ろうとして、金網を入れたモルタルを試し、1867年に特許を得た。原理は後にドイツとフランスの技師が構造力学として整理する。二十世紀の建物のほとんどが、この組み合わせで建っている。パリ
- ゲオルギー・ガポン人物AD1870年2月17日 – AD1906年4月10日警察社会主義ウクライナの農民の子、正教の司祭。警察の後援で「ロシア工場労働者会」を作った(労働運動を政府の管理下に置く「警察社会主義」)。1905年1月、自分の組織で請願行進を率いて、撃たれ、逃げ、ヨーロッパへ。革命の英雄になり、帰って、秘密警察との関係が発覚し、社会革命党に別荘で絞殺された。
- 人力車できごとAD1870年明治のはじめ、東京府が三人の男に人力車の営業を許した。駕籠を担ぐ代わりに、二輪の車を人が引く。担ぐより軽く、速く、値段も安い。数年で東京だけで数万台に増え、駕籠は姿を消した。やがて中国、インド、東南アジアへ輸出され、それぞれの都市の風景になる。動力はやはり人だが、車輪を入れたことで運べる距離が伸びた。道の舗装が進み、車輪のほうが有利になった時期と、ちょうど重なっている。後の輪タクとタクシーは、この形の延長にある。東京
- 日本の靴できごとAD1870年(明治3年)明治の軍隊は、洋式の軍靴を必要とした。だが、輸入品は日本人の足に合わない。幅が狭く、甲が低い。1870年、西村勝三が築地に製靴の工場を開き、陸軍に納めた。当初は寸法が合わず、返品が相次いだと伝えられる。一般の人はまだ草履と下駄で、靴は役人と軍人のものだった。土間で脱ぐ暮らしと、靴を履いたまま家に入る暮らしは、床の作りから違う。靴が広まるには、道が舗装され、家の作りが変わるのを待つ必要があった。東京
- パリ・コミューンできごとAD1871年3月18日血の週間普仏戦争でパリは4か月囲まれて降伏し、国民議会はプロイセンに屈した。3月18日、モンマルトルの大砲を取りに来た政府軍に、パリの国民衛兵が立った。72日。選挙、政教分離、夜のパン職人の労働禁止、女性の参加。ヴェルサイユの政府軍が5月21日に入り、1週間。「血の週間」。2万人が殺され、4万人が裁かれ、ニューカレドニアへ。「労働者の政府の最初の形」とマルクスは書いた。パリ

- 午砲できごとAD1871年(明治4年)9月9日江戸の町は、寺の鐘が打つ時刻で暮らしていた。昼と夜をそれぞれ六つに分けるので、一刻の長さは季節で変わる。明治政府は、西洋の時刻に合わせた合図を必要とした。旧江戸城の本丸で、毎日正午に大砲の空砲を一発撃つ。その音は町じゅうに響き、人々は「ドン」と呼んで、昼飯の合図にした。役所も学校も工場も、この音で時計を合わせた。やがて各地の都市でも撃たれるようになる。空砲の費用がかさみ、1929年にサイレンに替わるまで、ドンは半世紀以上、東京の正午を告げた。東京
- 銀行が休む日できごとAD1871年産業革命のイギリスでは、工場は日曜のほかほとんど休まなかった。銀行家で政治家のジョン・ラボックは、銀行が閉まれば手形の支払いも止まり、商売全体が休めると考えた。1871年、復活祭の翌月曜日や八月の月曜日などを銀行の休日と定める法律を通す。人びとはその日を、海辺や郊外へ出かける日にした。祝う理由を宗教に置かない、ただ休むための日である。休日を作ったのは、労働者の要求よりも、金融の仕組みの都合だった。ロンドン
- FAカップと近代サッカーできごとAD1872年土曜の午後が半休に1863年、ロンドンのパブでフットボール・アソシエーションが結成され、手を使う流儀(後のラグビー)と分かれた。1872年、最初のFAカップ決勝(ワンダラーズ対ロイヤル・エンジニアーズ)と、最初の国際試合(イングランド対スコットランド、0対0)。初めは上流の学校のスポーツだったのが、20年で工場労働者のものになった。土曜の午後が半休になり、鉄道が観客を運んだ。1888年、リーグ発足。シェフィールド
- 銀座煉瓦街できごとAD1872年(明治5年)燃えない文明開化の町1872年2月、東京の和田倉門の近くから出た火は、銀座から築地にかけての一帯を焼き尽くした。江戸の町は火事に弱かった。政府は、焼け跡を燃えない煉瓦の町に作り変えることを決め、イギリス人の技師トーマス・ウォートルスに設計を任せた。広い通りの両側に歩道と街路樹を設け、二階建ての煉瓦造りの洋風の建物を並べた。1877年に完成した煉瓦街は、文明開化の見本とされたが、湿気がこもって住みにくいと嫌われ、はじめは空き家が目立った。やがて新聞社や洋品の店が集まり、銀座は日本で最も華やかな通りになった。1923年の関東大震災で、煉瓦の建物の多くは崩れた。東京
- バジョットと最後の貸し手できごとAD1873年恐怖に対しては貸されない恐慌が起きると、誰もが現金を求めて銀行に走る。健全な銀行でも、全員が同時に来れば潰れる。『エコノミスト』の編集長ウォルター・バジョットが『ロンバード街』で原則を書いた。中央銀行は、危機のとき、良質な担保に対して、高い金利で、惜しみなく貸せ。高い金利は、本当に困っている者だけを来させる。良質な担保は、潰れるべき者を救わないためである。この一行が、以後150年の中央銀行の教科書になった。2008年にも引かれた。ロンドン
- 火葬禁止令できごとAD1873年(明治6年)7月18日明治政府は、火葬を仏教の葬法と見て、これを禁じた。神道を国の形に据え直す流れのなかの一つである。だが都市では、土に埋める場所がすぐに足りなくなった。寺と火葬場からは撤回を求める書が相次ぎ、衛生の面からも火葬のほうがよいという意見が出る。二年足らずの1875年5月、禁令は取り消された。同じころ、ロンドンでは火葬協会が、墓地の満杯と地下水の汚れを理由に火葬を広めようとしていた。片方は禁じて戻し、片方は禁を破ろうとしていた。同じ都市の問題に、逆の方向から行き着いている。東京
- 近代の火葬できごとAD1874年貧しい者の埋葬費ヨーロッパのキリスト教は、復活の教義から火葬を避けてきた。19世紀後半、都市の墓地が満杯になり、地下水の汚染が問題になった。外科医ヘンリー・トンプソンが、1874年に火葬協会を設立した。彼が挙げた理由は、衛生と、土地と、そして貧しい者の埋葬費である。1884年、ウェールズの医師が自分の子の遺体を焼いて起訴され、裁判所が「火葬は、公然と迷惑を及ぼさない限り、違法ではない」と判断した。1902年、火葬法。日本では、仏教とともに古くから行われていた。ロンドン
- 満載喫水線できごとAD1876年棺桶船19世紀のイギリスで、老朽船に過積みして沈没させ、保険金を得る商法があった。「棺桶船」。船員は乗船を拒めば投獄された。議員サミュエル・プリムソルが、船主の議員たちを相手に10年戦い、議場で「人殺し」と叫んで退場処分になった。1876年の商船法で、船腹に丸に横線の印を義務づけた。この線より下に沈めてはならない。塩分と季節で必要な余裕が違うので、印は数本の線でできている。ロンドン
- エジソンの白熱電球できごとAD1879年10月22日パール街発電所メンローパークの「発明工場」で、炭化した木綿糸のフィラメントが13時間半光った。翌年、京都の八幡の竹で1000時間以上。電球より重要だったのは、発電所と、配電網と、メーターと、スイッチと、料金の仕組みを、まとめて作ったこと。1882年、ニューヨークのパール街発電所。「私は失敗していない。うまくいかない方法を1万通り見つけただけだ」。メンローパーク
- 冷蔵船できごとAD1882年労働者が肉を食べた1882年、ニュージーランドのポート・チャーマーズを出た帆船ダニーデン号が、圧縮式の冷凍機を積み、羊5000頭分の枝肉を98日かけてロンドンへ運んだ。腐らずに着いた。以後、アルゼンチンの牛、オーストラリアとニュージーランドの羊、アメリカのバターが、ヨーロッパの食卓に流れ込んだ。イギリスの労働者が肉を食べられるようになり、ヨーロッパの農業は打撃を受けた。南半球の草原が、北半球の都市の胃袋に繋がった。ロンドン
- ベルティヨンの人体測定法できごとAD1883年11項目を測る常習犯を見分けたい。名前は偽れる。顔も変わる。パリ警視庁の書記アルフォンス・ベルティヨンは、成人の骨格は変わらないという前提で、身長、頭の長さと幅、中指の長さ、左足の長さ、前腕、耳の形など11項目を測り、カードに記録した。正面と横顔の写真を規格化して添えた(現在の顔写真の形式はここから来る)。導入の翌年、241人の再犯者を特定した。世界中の警察が採用し、そして1903年、測定値がほぼ同じ別人が現れて、崩れた。パリ
- カーネギー図書館できごとAD1883年鉄鋼で巨万の富を築いたアンドリュー・カーネギーは、少年時代に働きながら、ある篤志家が私設の蔵書を若者に開放してくれたことを恩に感じていた。1883年、故郷スコットランドのダンファームリンに図書館を寄贈したのを皮切りに、英語圏を中心に二千五百を超える図書館を建てた。ただし建物だけである。土地を用意し、毎年の運営費を出し続けることを、町の側に約束させた。金を出すだけでは続かないと考えたからになる。労働争議で人を撃たせた経営者でもある彼が、その富をこう使ったことを、どう評価するかは、いまも分かれる。ダンファームリン
- ブルックリン橋できごとAD1883年設計者が死に、跡を継いだ息子も倒れ、妻が監督したイースト川に架ける吊り橋を設計したジョン・ローブリングは、着工前の測量中に事故で破傷風にかかり死んだ。跡を継いだ息子は、川底で基礎を築く潜函の作業で潜水病になり、以後は自宅から望遠鏡で現場を見て指示を出す。妻エミリーが現場と技師のあいだを毎日往復し、実質的な監督を務めた。鋼の針金を束ねた主索は当時としては桁違いに長く、十四年かけて1883年に開通する。開通直後、橋が落ちるという噂で群衆が殺到し、十二人が圧死した。翌年、象の群れを渡らせて安全を示したと伝えられる。ニューヨーク
- ごみ箱できごとAD1884年3月7日分別収集の早い例。屑拾いは仕事を失ったパリでは、家庭のごみを夜のうちに道へ出しておくのが習わしだった。夜明け前に屑拾いが来て、売れるものだけを持っていく。残りは道に散らばった。セーヌ県知事ウジェーヌ・プーベルは1884年、建物の所有者に蓋つきの容器を備えさせる条例を出した。しかも三つに分けさせている。生ごみ、紙と布、陶器と貝殻。分別収集の早い例である。費用を負う家主と、稼ぎを失う屑拾いが反対した。新聞はその容器を知事の名で呼び、いまもフランス語でごみ箱は「プーベル」になる。パリ
- 最初の摩天楼できごとAD1885年壁が、支えるのをやめた組積造では、高くするほど下の壁を厚くしなければならない。十六階建てなら、一階の壁が二メートルを超える。窓も床面積も失われる。ウィリアム・ル・バロン・ジェニーは、シカゴのホーム・インシュアランス・ビルで、鉄と鋼の骨組みに建物の重さを負わせ、壁を単なる覆いにした。十階、四十二メートル。壁が薄くなり、大きな窓が開いた。エレベーター、鉄骨、電話、そして大火の後の地価が、同じ場所で重なった。シカゴ
- 砂場できごとAD1885年子どもが遊ぶ場所を、大人が設計して与える都市の子どもは、路地と道路で遊んでいた。馬車と、のちに自動車が走る場所である。ベルリンで砂の山が子どもの遊び場になっているのを見た医師の紹介で、1885年、ボストンの慈善団体が空き地に砂を積んだ。監督する大人を置いたのが新しい。遊びを危険から守り、同時に、街頭の子どもを目の届く場所に集める狙いもあった。やがて滑り台とブランコが並び、学校と公園に設けられていく。子どもが遊ぶ場所を、大人が設計して与える。それが当たり前になったのは、この百数十年のことになる。ボストン
- ヘイマーケット事件できごとAD1886年5月4日メーデーの由来5月1日、8時間労働を求めて全米で35万人がストライキに入った。5月3日、シカゴのマコーミック工場前で警官が発砲して死者が出た。翌4日の抗議集会が終わりかけたとき、爆弾が投げられ、警官7人と市民4人が死んだ。投げた者は分からないまま、無政府主義者8人が裁かれ、4人が絞首刑になった。1889年、第二インターナショナルが5月1日をメーデーに定めた。ヘイマーケット(シカゴ)

- タイムレコーダーできごとAD1888年ニューヨーク州オーバーンの宝石商ウィラード・バンディが、従業員ごとの鍵を差し込むと、時刻が紙に打刻される装置を作った。それまで、出勤と退勤は監督者が帳面に書き留めていた。争いが絶えない。機械が押した数字は、争えない。労働が時間で測られ、時間で支払われるという形が、ここで完成する。彼の会社は合併を重ね、1924年にIBMという名になった。時計を作っていた会社が、後に計算機の会社になった。ニューヨーク
- マッチ工場の少女たちできごとAD1888年7月5日白リンの蒸気を吸い続けると顎の骨が腐る。「燐顎」と呼ばれ、患部は暗闇で青白く光り、外科医は骨を削り取るしかなかった。ロンドン東部のブライアント・アンド・メイ社では、十代の少女が長時間働き、遅刻や取り落としに罰金を科されていた。アニー・ベサントが労働の実態を記事にすると、会社は署名を強要しようとし、拒んだ女性が解雇された。千四百人が仕事を止めた。三週間で罰金制度が廃され、組合ができた。白リンの使用が英国で禁じられるのは、その二十年後である。ロンドン
- リース『向こう半分の人々の暮らし』できごとAD1890年写真が貧民街を暴くデンマークから移民した新聞記者ジェイコブ・リースは、警察の担当の記者として、ニューヨークの下町の貧民街を歩き回った。そこでは、移民の家族が、窓の無い部屋の並ぶ集合住宅に詰め込まれ、ひとつの便所を何十人もが使っていた。リースは、発明されたばかりの閃光の粉を使って、暗い部屋の中や路地の奥を写真に撮った。1890年、写真と文章で貧しい人々の暮らしを伝えた『向こう半分の人々の暮らし』を出すと、豊かな人々は衝撃を受けた。のちに大統領となるセオドア・ローズヴェルトはリースとともに夜の貧民街を回り、1901年には、集合住宅に光と風と便所を義務づける法ができた。ニューヨーク
- バスケットボールの考案できごとAD1891年2週間の宿題として考えられたマサチューセッツのYMCA訓練校で、体育の教師ジェームズ・ネイスミスが、上司から2週間の宿題を出された。冬の間、屋内でできる、退屈しない運動を考えよ。彼は既存の競技を分解して、けがの原因は走りながらの接触だと考えた。だからボールを持って走ることを禁じ、得点する的を頭より高い水平の位置に置いた(上から落とすので、強く投げても意味がない)。桃を入れる籠を手すりに釘で打ちつけた。13条の規則を紙に書いて壁に貼った。最初の試合の得点は1対0だった。スプリングフィールド
- ハンブルクのコレラできごとAD1892年8月ろ過場エルベ川の水をろ過せずに飲んでいた港町で、10週間に8600人。隣のアルトナはろ過していて、通りの向かいで死者が分かれた。コッホが来て「私はヨーロッパにいることを忘れる」と言った。ドイツ最後のコレラ。翌年、ろ過場。ハンブルク
- エリス島の移民検査場できごとAD1892年1月1日連邦政府が移民の審査を州から引き取り、ニューヨーク湾の島に施設を置いた。六十二年間で約1,200万人が通った。一等と二等の船客は船上で済ませ、三等船客だけが上陸させられる。医師が階段を上る様子を見て、息切れや跛行を探した。目を金具でめくって、失明に至るトラコーマを見る。問診が二十九問。返されたのは全体の約2%だが、その多くが病と、公費に頼るおそれである。今日そこは、移民の記念館になっている。エリス島
- 動く歩道できごとAD1893年シカゴ万国博覧会の桟橋に、環状の動く歩道が掛けられた。二重になっていて、外側は立ったまま、内側は腰を掛けたまま運ばれる。船着き場から会場までの数百メートルを歩かせないための仕掛けで、乗客を運んだというより、来場者に未来を見せる展示だった。七年後のパリ万博では三重の速度差を持つ版が現れ、乗り移りながら加速する。歩く速さを機械が肩代わりするという発想は、ここから空港や地下通路へ移り、いまでは長い乗り換え通路の標準になっている。シカゴ
- 白い制服の清掃隊できごとAD1895年見えない仕事を、白い制服で見える仕事に変えた十九世紀末のニューヨークの道は、馬糞と灰と生ごみで埋まっていた。清掃の仕事は政治の分け前として配られ、誰も働かない。1895年、市長は南北戦争の元大佐ジョージ・ワーリングに清掃局を任せた。彼は職員を白い制服と白い帽子で揃え、路上を持ち場ごとに割り当て、成績を公表した。白ずくめの姿は「ホワイト・ウィングス」と呼ばれ、市民が拍手する行進まで行われた。道は数年で見違え、病の発生も減った。誰かがやる仕事を、見える仕事に変えたことが効いた。ニューヨーク
- 第1回近代オリンピックできごとAD1896年4月6日マラソンはこの大会で創られたクーベルタンが1894年にパリで提唱し、2年でアテネに開いた。14か国、241人(全員男性)。9競技43種目。パナシナイコ・スタジアム、6万人。マラソンは、この大会のために創られた種目(フェイディッピデスの伝説から。古代の競技にはなかった)。ギリシアの羊飼いスピリドン・ルイスが勝った。優勝者に与えられたのは銀のメダルとオリーブの枝。金銀銅は1904年から。アテネ(近代)
- エスカレーターできごとAD1896年一人ずつ運ぶのではなく、人の流れをそのまま上下させるコニーアイランドの遊園地に、傾いた板が環になって回り続ける乗り物が置かれた。乗る人は横向きに座り、坂を運ばれる。遊具として作られたそれが、まもなく段の付いた形になり、デパートの階段脇に置かれる。止まらずに流れ続けるので、待ち行列ができない。エレベーターが一度に運ぶ人数で限られるのに対し、こちらは人の流れそのものを上下させる。売り場を上の階まで見せたい商業建築と相性がよく、地下鉄の深い駅を実用にしたのも、この仕組みだった。ニューヨーク
- 指紋による身元確認できごとAD1897年1901年にロンドンが採用指紋が個人ごとに違い、生涯変わらないことは、19世紀に複数の人が指摘した。日本で医師として働いたヘンリー・フォールズが1880年に『ネイチャー』に発表し、犯罪捜査への利用を提案した。実用にするには、数万枚の指紋から一致するものを探し出す分類法が要る。ベンガル警察のアジズル・ハックとヘム・チャンドラ・ボースが、渦と弓と蹄の形で1024の区分に分ける方式を作った。上司の名を取って「ヘンリー式」と呼ばれる。1901年、ロンドン警視庁が採用した。コルカタ
- 田園都市できごとAD1898年構想は、都合の悪い部分を外して真似されるロンドンは煤煙と過密で、地方は仕事が無く寂れていた。速記者だったエベネザー・ハワードは、両方の良いところを取る第三の道を本に書く。人口三万程度の町を作り、周りを農地の帯で囲んで広がりを止める。土地は住民の共同体が所有し、地価の上昇分は町の財産にする。工場も学校も町の中に置き、通勤を短くする。レッチワースとウェリンで実際に作られ、各国の郊外開発に影響した。もっとも、多くの国では土地の共有という肝心の部分が外され、住宅地の意匠だけが真似られた。ロンドン
- ちゃぶ台できごとAD20世紀初め食卓の形は、家族の形の写しになる江戸時代の食事は、一人ずつの膳だった。身分と序列が、膳の高さと置く位置に表れる。明治の終わりから、家族が一つの低い台を囲む形が広まった。ちゃぶ台である。都市の狭い住宅で、折りたためて場所を取らないことが利点になった。同じ鍋から取り分け、顔を見て話す。家族という単位の見え方が変わり、それを明治政府の家族観の広まりと結びつけて論じる研究もある。戦後の台所の洋式化とともに、食卓は椅子式へ移っていく。半世紀ほどの、短い主役だった。東京
- コンセントが合わないできごとAD20世紀初め電気が家に入り始めたころ、配線は電力会社ごと、器具は製造者ごとに作られた。差込口の形も、電圧も、周波数もばらばらである。各国が国内を統一するときには、すでに国ごとに違う形が広まっていた。あとから合わせるには、全部の家の配線と器具を替えねばならない。だから、いまも世界には十数種類の差込口が残っている。日本は、東西で周波数が違うという形で同じ問題を抱え込んだ。最初に敷いた設備が、その後の百年を縛る。規格は、早く決めた者が勝つのではなく、早く広めた者が勝つ。ロンドン
- 吸い取る掃除機できごとAD1901年埃は掃いても舞い上がって、また落ちる。技師ヒューバート・セシル・ブースは、吹き飛ばすのではなく吸い込めばよいと考え、1901年に特許を取った。機械は馬車ほどの大きさで、家の前に停めた車から長い管を窓へ通して使う。1902年、国王の戴冠式の前にウェストミンスター寺院の絨毯を掃除して名を上げた。家の中に入る小型の掃除機が広まるのは、電気が各家庭に来てからである。掃除は、家の外から来る業者の仕事から、家の中の家電の仕事になった。ロンドン
- 空気を調えるできごとAD1902年7月17日ブルックリンの印刷工場が困っていた。夏になると紙が湿気で伸び縮みし、色が重ならない。若い技師ウィリス・キャリアは、冷やした管に空気を通せば水分が結露して落ちることに着目し、温度と湿度を同時に制御する装置を設計した。目的は人の快適さではなく、紙の寸法である。工場、繊維、たばこ、薬品と広がり、1925年にニューヨークの映画館が導入すると、夏の興行が成り立つようになった。人が涼しさに金を払うと分かってから、この技術は建物そのものの形を変えていく。ニューヨーク
- 見世物小屋の保育器できごとAD1903年早く生まれた小さな子を、病院は診なかった。助からないものとされ、親は家へ連れ帰るしかない。マーティン・クーニーは、遊園地に小屋を建て、保育器に入れた赤ん坊を二十五セントで見せた。見物料で運営し、親からは一銭も取らない。看護師を雇い、母乳を確保し、温度を管理した。コニー・アイランドの小屋は四十年続き、数千人の子が生きて帰ったとされる。医学の世界がこの器械を受け入れるのは1930年代である。見世物という形でしか続けられなかったことが、当時の医療の姿を映している。ニューヨーク
- 日比谷公園できごとAD1903年(明治36年)日本にも寺社の境内や名所はあったが、洋風の「公園」は明治に入ってきた考え方である。1903年に開いた日比谷公園は、練兵場の跡地に、林学者の本多静六が設計した。芝生、花壇、洋風の音楽堂、そしてベンチ。日本人がベンチに座って休むという習慣は、ここから広まったとも言われる。開園後、この広場は別の役割も持つ。1905年、講和条約に反対する集会が開かれ、暴動になった。人が集まれる広い場所は、憩いの場であると同時に、政治の場にもなる。東京
- 血の日曜日事件できごとAD1905年1月22日イコンを掲げて司祭ガポンが率いる労働者と家族が、皇帝の肖像とイコンを掲げ、賛美歌を歌いながら、冬宮へ請願に行った。8時間労働、憲法制定議会、日本との戦争の終結。皇帝はいなかった。軍が撃った。公式には130人、実際は1000人以上。「皇帝が我々を守る」という信仰が、その日に消えた。1905年の革命、10月詔書、ドゥーマ。12年後の本番の予行。サンクトペテルブルク
- 大部屋の事務所できごとAD1906年効率と、衛生と、そして監視フランク・ロイド・ライトが、通信販売会社ラーキンのために建てた。中央が五階分の吹き抜けで、そこに事務員の机が整然と並ぶ。管理者は上の階から見下ろせる。空調と、金属製の家具と、壁に折りたたむ椅子まで設計された。効率と衛生と、そして監視である。この形が二十世紀の事務所の原型になり、後に個室化と、また大部屋化を繰り返す。建物は1950年に取り壊され、いまは駐車場になっている。バッファロー
- モンテッソーリの子どもの家できごとAD1907年1月6日スラムの子ども50人ローマのスラム、サン・ロレンツォ地区。親が働く間、放置されていた3歳から6歳の子ども50人余りを預かる施設として始まった。医師マリア・モンテッソーリは、知的障害児の教育で用いた教具を、ここで健常児に試した。子どもは自分で教具を選び、集中し、繰り返し、そして満足すると自分で片付けた。大人が教え込むのではなく、環境を整えて子どもが自分で学ぶのを待つ。子どもの背丈に合わせた家具も、彼女の考案である。ローマ
- 電気洗濯機できごとAD1908年灰汁で煮て板でこする洗濯は、家事の中で最も重い労働だった。水を汲み、湯を沸かし、灰汁で煮て、板でこすり、絞り、干す。一家族の一週間分に丸一日かかった。1908年、シカゴのアルヴァ・フィッシャーが、電動機で回す洗濯桶「トール」を売り出した。1920年代にアメリカの家庭に普及し、1950年代に日本へ。歴史家ルース・シュウォーツ・コーワンは、家電が普及しても主婦の家事時間はほとんど減らなかったと指摘した。基準が上がり、外注していた仕事が家に戻ったからである。シカゴ
- 娯楽としてのキャンプできごとAD1908年同じ行為が、一方は罪であり、一方は余暇である仕立屋のトマス・ハイラム・ホールディングは、少年期に幌馬車の隊で北米の草原を渡った経験を持っていた。自転車が普及すると、軽い装備で野営して回る仲間を集め、1901年に自転車野営者協会を作る。1908年の『キャンプ入門』が広く読まれた。屋外で寝ることが、貧しさではなく選択になる。同じころスカウト運動が始まり、野営が少年の教育に組み込まれた。都市に住む者が、そこから離れることを、わざわざ買うようになった。ロンドン
- 水道に塩素できごとAD1908年濾過だけでは腸チフスが減らない。1908年、ジョン・リールがジャージーシティの水道に次亜塩素酸カルシウムを入れた。市民に知らせずに始めたため、裁判になる。法廷でリールは、水は安全で純粋になったと主張し、認められた。以後、塩素消毒は世界中の水道の標準になる。アメリカの腸チフスによる死亡は数十年で激減した。二十世紀に人の寿命を延ばしたものの多くは、医療ではなく水道である。反対に、消毒の副産物や塩素の匂いは、いまも議論の対象であり続けている。ジャージーシティ
- T型フォードできごとAD1908年10月1日自動車は長く金持ちの道楽だった。1908年10月1日、フォード社は、丈夫で修理しやすく、悪路も走れる車を売り出す。T型である。流れ作業で作るようになると値段は下がり続け、1920年代には発売時の三分の一以下になった。二十年近くで千五百万台が売れる。色は黒しか選べない、と言われた時期もあった。農民も労働者も車を持つようになり、道路が整備され、町は郊外へ広がった。一つの車種が、国の形を作り替えた。デトロイト
- トライアングル・シャツウエスト工場の火災できごとAD1911年3月25日ビルの八階から十階の縫製工場で火が出た。働いていたのは大半が十代から二十代の移民の女性である。九階の出口の扉は、盗みを防ぐという理由で施錠されていた。非常階段は途中で崩れ落ちた。消防のはしごは六階までしか届かない。窓から飛び降りた者が多数いた。146人が死んだ。経営者二人は無罪になった。この火災が、労働安全の法規と、防火の規制と、そして労働組合を、決定的に押し進めた。ニューヨーク
- タイタニックの沈没できごとAD1912年4月15日規則は総トン数で決めていた処女航海の4日目、夜11時40分に氷山と接触し、2時間40分で沈んだ。2224人のうち1514人が死んだ。救命艇は定員の半分ぶんしかなく、法令はそれを満たしていた(船の大きさでなく総トン数で決める古い規則)。無線技士は氷山の警告を「取り込み中」と断っていた。翌年の海上人命安全条約(SOLAS)で、全員分の救命艇、無線の24時間当直、氷山監視が定められた。タイタニック沈没地点

- フォードの流れ作業できごとAD1913年モダン・タイムスハイランドパーク工場。シカゴの食肉工場の「解体の流れ」を逆にした。組み立てる物が動き、人は動かない。T型フォード1台の組み立てが12時間半から93分に。値段は850ドルから260ドルへ。1914年、日給5ドル(当時の倍)と8時間労働。「私の工場の労働者が、自分の作る車を買えるように」。単純な動作の繰り返し。チャップリンが『モダン・タイムス』で笑った。ハイランドパーク(デトロイト)
- リョコウバトの絶滅できごとAD1914年9月1日マーサの死んだ時刻かつて北アメリカで最も数の多い鳥だった。推定50億羽。群れが通ると空が数日暗くなったと記録されている。1860年代から、電信で群れの位置を知らせ、鉄道で運ぶ商業的な狩猟が始まった。この鳥は密集して繁殖するので、繁殖地を襲えば一挙に絶える。40年で消えた。最後の一羽マーサが、1914年9月1日午後1時、シンシナティ動物園で死んだ。これほど多い種でも絶滅しうるという事実が、アメリカの自然保護法制を動かした。シンシナティ
- 宝塚少女歌劇の初公演できごとAD1914年4月1日鉄道の会社が、沿線に娯楽を作る大阪から宝塚へ電車を通した箕面有馬電気軌道の小林一三は、乗る人を増やすために、終点に温泉の娯楽場を作った。そこの室内プールは、水が冷たすぎるうえに男女が一緒に泳げないという理由で客が来なかった。小林はプールに床を張って客席にし、少女たちの歌と踊りの一座を作る。1914年4月1日、16人の少女による初めての公演が開かれた。女性だけで男の役も演じる舞台は、のちに宝塚歌劇団となり、1974年の『ベルサイユのばら』で社会現象を起こした。鉄道の会社が沿線に娯楽を作り、客を運ぶというやり方の、先がけでもある。宝塚
- 拡声器できごとAD1915年12月24日デンマーク生まれのピーター・イェンセンとエドウィン・プリダムは、電磁石で振動板を動かす仕組みを大きくして、音を空気へ押し出す装置を作った。1915年12月24日の夜、サンフランシスコ市庁舎前の広場に置かれた喇叭から、音楽と演説が流れた。十万人が集まったと伝えられ、後ろのほうでも聞き取れたという。数日後には、病気で出られない州知事の声を、自宅から線で運んで会場に流した。この日から、一人の声が届く範囲は、肺の力ではなく電気の量で決まるようになる。サンフランシスコ
- セルフサービスできごとAD1916年9月6日それまでの食料品店では、客が欲しいものを店員に告げ、店員が棚から取ってくる。時間がかかり、人手が要る。クラレンス・サンダースは、メンフィスの店で、客を回転式の木戸から入れ、通路を一本道にして、すべての棚を通らせ、出口で精算させた。店員が減り、値が下がる。すべての商品に値札を付ける必要が生まれ、包装と銘柄が意味を持つようになった。買う物を、客が自分で選ぶ。ピグリー・ウィグリーという名の由来を、彼は最後まで説明しなかった。メンフィス
- ニューヨークのゾーニング条例できごとAD1916年7月25日摩天楼の形を決めた決まり1915年、ニューヨークの下町に、38階建てのエクイタブル・ビルが完成した。敷地いっぱいにまっすぐ立ち上がる巨大な建物は、周りの通りと建物に一日じゅう影を落とし、周囲の不動産の値打ちを下げた。1916年7月25日、ニューヨーク市は、アメリカで初めての都市全体にわたるゾーニング条例を定めた。土地を住宅、商業、工業などの用途に分け、建物は高くなるほど通りから後ろへ下げなければならないとした。この決まりから、上に行くほど段々に細くなる、ウェディングケーキのような摩天楼の形が生まれた。用途を分けるゾーニングは、アメリカ中の都市に広がった。ニューヨーク
- ジャズの最初のレコードできごとAD1917年2月26日ストーリーヴィルニューオーリンズの白人5人、オリジナル・ディキシーランド・ジャス・バンドが、ヴィクターで『リヴァリー・ステイブル・ブルース』を録音した。100万枚。ニューオーリンズの黒人が20年演奏していた音楽が、白人の録音で世界に出た。同じ年、ニューオーリンズの歓楽街ストーリーヴィルが閉じられ、楽士がシカゴへ。1922年、ルイ・アームストロングがシカゴへ。ニューヨーク
- 受験と学歴できごとAD1918年偏差値1872年の学制で学校ができ、1886年の学校令で帝国大学を頂点とする階梯が固まった。中学、高等学校、帝国大学。定員が限られ、入るには試験がある。1918年の高等学校令で高校が増設されたが、競争は緩まなかった。新聞が合格者名を載せ、「受験地獄」の語が大正期に定着した。家柄でなく試験で人を選ぶという建前は、機会を開くと同時に、失敗を本人の責任にした。予備校、模擬試験、偏差値(1960年代)。科挙と同じ構造が、別の形で現れた。東京
- 体臭を売るできごとAD1919年シンシナティの外科医が、手が汗ばまないようにと作った塩化アルミニウムの液を、娘のエドナ・マーフィーが「オドロノ」の名で売り出した。売れない。広告代理店のジェイムズ・ウェッブ・ヤングが、女性向けの雑誌に一文を載せた。腕の内側の曲線に、恥ずべき匂いがある——それを本人だけが知らない、と。抗議が来て、購読を止めた読者もいたが、売上は跳ね上がった。存在しなかった不安を作り、それを解く商品を売る。広告というものの性格が、この一件で、はっきり見えた。シンシナティ
- 禁酒法できごとAD1920年1月17日需要が地下へ潜った合衆国憲法修正第18条により、酒の製造・販売・輸送が禁じられた。飲むこと自体は禁じられていない。運動を担ったのは、禁酒同盟と、女性キリスト教禁酒同盟である。背景に、酒場が政治と労働と移民の男性文化の中心にあったことと、それへの反発がある。結果は、需要が地下へ潜っただけだった。密造、密輸、そして組織犯罪。ニューヨークだけで数万の潜り酒場ができた。1933年、修正第21条で撤廃された。憲法の修正が撤廃された唯一の例である。ニューヨーク
- 最初のラジオ放送できごとAD1920年11月2日政治家の声が家に入ったウェスティングハウス社の技師が、大統領選挙の開票を電波に乗せた。局名KDKA。聴取者は数百人。無線は、それまで船と船、軍と軍が一対一で交わすものだった。これを、名も知らぬ多数へ一方的に送る(放送する)という考え方が生まれた。5年で全米に500局。音楽と、野球と、そして広告。政治家の声が、家の中に入った。ヒトラーもローズヴェルトも、この装置を使った。ピッツバーグ
- コロラド川協定できごとAD1922年11月24日ロッキー山脈から砂漠を抜けて流れるコロラド川を、流域の七つの州が奪い合っていた。下流のカリフォルニアは急速に人を増やし、上流の州は取られる前に権利を確かめたかった。商務長官フーヴァーの仲立ちで、七州の代表がサンタフェ近くの宿に集まり、流域を上と下に分けて、それぞれ毎年同じ量の水を使えると決めた。基にした川の水量は、たまたま雨の多かった年の数字だった。のちの研究で、実際の平均はそれより少ないことが分かる。紙の上で配った水は、川が運ぶ水より多かった。その不足は、百年たったいまも協定の見直しを迫っている。サンタフェ(ニューメキシコ)
- 関東大震災できごとAD1923年9月1日10万人以上が死んだ。混乱のなかで流言により朝鮮人らが虐殺される。東京

- 帝都復興計画できごとAD1923年9月27日大風呂敷1923年9月1日の関東大震災で、東京の下町は火の海になり、市街の4割あまりが焼けた。内務大臣の後藤新平は、これを機に、近代の都市を一から作り直そうとした。9月27日、帝都復興院が作られ、後藤が総裁に就いた。後藤は欧米の都市にならった壮大な計画を掲げたが、議会と財界の反対で予算は大きく削られ、「大風呂敷」と呼ばれた計画は縮められた。それでも、焼け跡の土地を区画し直して道を広げ、昭和通りなどの大通り、隅田川に架かる鉄の橋、公園、鉄筋コンクリートの小学校が造られ、1930年に復興の完成が祝われた。東京
- 揺れに耐える建物の決まりできごとAD1924年関東大震災で、東京と横浜の煉瓦の建物は多くが崩れた。建築学者の佐野利器は、建物の重さの一定の割合の力が横から加わっても壊れないように設計せよ、という考え方を唱えていた。震災の翌年の1924年、それが建築の法律に書き込まれる。地震の力を数字で見込んで設計することを、国の決まりとして求めた最初の例の一つとされる。揺れに耐えるかどうかを、建てる人の経験ではなく計算で確かめる時代が始まった。東京
- 同潤会アパートできごと1924年5月集合住宅の先がけ関東大震災のあと、家を失った人々のための住まいを造るため、1924年5月、国内外から寄せられた義援金をもとに、財団法人同潤会が作られた。同潤会は、木造の住宅とともに、燃えにくく地震に強い鉄筋コンクリートの集合住宅を、東京と横浜に16か所建てた。表参道の青山アパート、代官山アパート、江戸川アパートなどである。水洗の便所やガス、電気を備え、食堂や共同の浴場、娯楽の部屋を持つものもあった。集合住宅という住まい方を日本に根づかせる先がけとなった。同潤会は1941年に解散し、アパートは老朽化してほとんどが建て替えられた。東京
- 数を絵で見せるできごとAD1925年社会党が市政を握った「赤いウィーン」で、哲学者オットー・ノイラートは、社会と経済の博物館を開いた。住宅はいくつ足りないのか、乳児はどれだけ死んでいるのか。そうした数字を、学校に通えなかった労働者にも見てもらいたい。そこで、人や家や工場を簡単な形の記号にし、一つの記号が決まった数を表すと決めた。数が倍なら、記号を大きくするのではなく、数を倍に並べる。版画家ゲルト・アルンツが、その記号を一つずつ彫った。のちにこの方式はイソタイプと名づけられ、いまの図表や案内の記号の祖先になった。ウィーン
- ハチ公できごとAD1925年5月21日物が残り、込められた意味だけが入れ替わる東京帝国大学の教授、上野英三郎の飼い犬は、毎日渋谷駅まで送り迎えをした。1925年5月21日、上野は勤務先で急死する。犬はそれから約九年、駅に通い続けた。駅員に追われ、子どもに叩かれた時期もある。1932年に新聞が取り上げると一変し、忠犬として全国に知られた。生前に銅像が建ち、戦時下では忠義の手本として使われる。犬が何を考えていたかは分からない。人の側が、そこに読み取りたいものを読み取った。像は撤去と再建を経て、いまも待ち合わせの目印になっている。東京
- フランクフルト・キッチンできごとAD1926年公営住宅1万戸ウィーン初の女性建築家マルガレーテ・シュッテ=リホツキーが、フランクフルト市の公営住宅1万戸のために設計した台所。6.5平方メートル。彼女は主婦の動きを撮影して歩数を数え、作業の順に棚と流しと竈を並べた。回転椅子、引き出し式の材料入れ、作り付けの収納、そして床の色まで(青は蝿が寄らないとされた)。工場の動作研究を家庭に持ち込んだのである。現代のシステムキッチンの原型になった。彼女自身は、後に「私は料理をしたことがなかった」と語っている。フランクフルト

- 騒音を測るできごとAD1930年測ることは、許すことでもある都市の音は、長く苦情の対象であって、測定の対象ではなかった。1929年、ニューヨーク市が騒音削減委員会を置く。技術者が測定車で街を回り、地点ごとの数値を記録した。市民から一万を超える苦情が寄せられ、その順位が公表される。交通、地下鉄、ラジオ、そして工事。健康への影響の調査も行われた。数値になったことで、規制が可能になり、同時に「この数値以下なら我慢すべきである」という線も引かれた。測ることは、許すことでもある。ニューヨーク
- 街頭紙芝居できごとAD1930年ごろ不況の東京で、職を失った男たちが自転車の荷台に木の枠を載せて、路地を回り始めた。拍子木を打つと子どもが集まり、飴を買った子が前に座る。枠の中の絵を一枚ずつ引き抜きながら、声色を使って語る。続きは明日。1930年に生まれた「黄金バット」は、骸骨の顔をした正義の味方で、子どもたちを夢中にさせた。絵は手描きで、同じ絵を何人もの紙芝居屋が借りて回した。字の読めない小さな子にも、物語が毎日届いた。戦後にもう一度盛り返したが、テレビが家に入ると、路地から消えていった。東京
- エンパイア・ステート・ビルできごとAD1931年5月1日大恐慌の時代の都市の夢株価の大暴落のあとも、ニューヨークの高さ比べの競争は止まらなかった。1931年5月1日、百二階建てのビルが、着工からわずか四百日あまりで完成する。鉄骨は工場で切られて運び込まれ、一週間に四階を超える速さで積み上がった。だが不況で借り手がつかず、空っぽの帝国ビルと揶揄された。それでも四十年近く世界一の高さを保ち、映画の中で大猿がよじ登る。大恐慌の時代に、都市の夢の象徴として立ち続けた。ニューヨーク
- 救急車の配置できごとAD1933年急な病や怪我で倒れた人を、誰が病院へ運ぶのか。長いあいだ、家族や近所の人が戸板や大八車で運んでいた。1933年、横浜の消防署に救急車が置かれ、公の救急搬送が始まったとされる。翌年には名古屋、1936年には東京にも広がる。1963年、救急業務が消防の仕事として法に定められ、全国の市町村へ広がった。いまは誰でも無料で呼べる。運ぶ手段を公が持つことで、倒れた場所による命の差が縮まった。横浜
- ショッピングカートできごとAD1937年セルフサービスの食料品店では、客は自分で籠を持って歩く。籠が重くなれば、それ以上は買わない。オクラホマシティの店主シルヴァン・ゴールドマンは、折りたたみの椅子に車輪を付け、籠を二つ載せる台を作った。1937年のことである。はじめは誰も使わなかった。男は弱く見えると嫌い、女は乳母車のようだと嫌った。ゴールドマンは人を雇って押させ、使うのが当たり前に見えるようにした。運べる量が増えると、一度に買う量が増えた。オクラホマシティ
- ロンドン大空襲できごとAD1940年9月7日空の戦いでイギリスの空軍を倒せなかったドイツは、1940年9月7日から、ロンドンなどの都市を夜ごと爆撃した。八か月あまりのあいだに、四万人を超える市民が死ぬ。人びとは地下鉄の駅のホームで夜を明かし、子どもたちは田舎へ疎開した。爆撃は、市民の心を折って降伏させるためのものだったが、かえって抵抗の意志を固めたとも言われる。その後、連合国の側も、ドイツや日本の都市をはるかに大規模に焼くことになる。ロンドン
- ロッテルダム爆撃できごとAD1940年5月14日1940年5月10日、ドイツ軍は中立のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに攻め込んだ。ロッテルダムでは、川の橋をはさんでオランダ軍が抵抗を続けていた。14日、ドイツ軍は降伏しなければ町を爆撃すると迫り、話し合いが進んでいた昼すぎ、爆撃機の編隊が中心街に爆弾を落とした。中止の合図は一部の機にしか届かなかった。火は燃え広がり、九百人近くが死に、八万人ほどが家を失う。ユトレヒトも同じ目に遭わせると脅されたオランダは、翌日降伏し、女王と政府はロンドンへ渡った。古い中心街を失ったロッテルダムは、戦後、近代建築の町として建て直された。ロッテルダム
- 金属類回収令できごとAD1941年8月30日銅と鉄が足りない。政府は、寺の梵鐘、家庭の鍋と釜、火鉢、仏具、門扉、そして銅像を供出させた。町内会と隣組が割当を負い、出さない家は非国民と呼ばれた。全国で数万口の梵鐘が失われたとされる。渋谷のハチ公像も供出された。集めた金属の多くは、選別と輸送と溶解が追いつかず、山積みのまま終戦を迎えている。物が足りないことより、全員が差し出したという事実のほうが、目的として大きかったと論じられている。東京
- 砂漠の賭博場できごとAD1946年合法化とは、締め出さずに課税して管理することネバダ州は1931年、大恐慌の税収難のなかで賭博を合法化した。同じ時期、近くでフーヴァー・ダムの工事が始まり、労働者が集まる。1946年、犯罪組織の資金を受けたベンジャミン・シーゲルが、砂漠の街道沿いに冷房の効いた豪華なホテルと賭博場を開いた。彼自身は翌年に射殺されるが、この形は真似される。賭けだけでなく、食事と舞台と部屋をまとめて売る。やがて組織の金は企業と州の規制に置き換わり、街は家族連れと見本市の街になった。合法化とは、締め出すのではなく、課税して管理することでもある。ラスベガス
- 郊外住宅の量産できごとAD1947年1日30戸復員兵に住宅がなかった。レヴィット父子は、ロングアイランドのジャガイモ畑を買い、家を工場方式で建てた。基礎を打たず、コンクリート板の上に建てる。部材を寸法通りに切って運び、27の工程に分けた職人の班が家から家へ移動する。1日30戸以上。7990ドル、頭金なしで復員兵に売った。1万7000戸。アメリカの郊外と自動車社会の原型になった。当初の売買契約には、白人以外への転売を禁じる条項があった。レヴィットタウン
- マクドナルドの流れ作業できごとAD1948年厨房に流れ作業を持ち込むカリフォルニアのドライブインで、マクドナルド兄弟が店を一度閉め、作り直した。品目をハンバーガーなど9つに絞り、皿と食器をやめ、注文係と焼き係と包む係を分けた。自動車工場の流れ作業を厨房に持ち込んだのである。値段を半分にし、待ち時間を30秒にした。1954年、ミキサーの営業マンだったレイ・クロックが、8台注文が来たこの店を見に行った。加盟店の網が、食の均質化と、農業と物流の再編を引き起こした。サンバーナディーノ
- ロンドン・スモッグできごとAD1952年12月5日空気が政策の対象になった12月5日から4日間、無風で気温が逆転し、家庭と工場の石炭の煙が地表に留まった。視界が数メートルになり、昼でも暗く、劇場は舞台が見えないので公演を中止した。牛が窒息死し、人が川に落ちた。当時の集計で死者4000人とされたが、後の推計では1万2000人に上る。それまでロンドンの霧は名物であり、風物として描かれてきた。1956年、大気浄化法。無煙燃料への転換と、煙を出す暖房の規制。都市の空気が、政策の対象になった。ロンドン
- ル・コルビュジエのユニテ・ダビタシオンできごとAD1952年10月14日スイス生まれの建築家ル・コルビュジエは、家は住むための機械であると唱え、緑地の中に高層の住宅を建てる都市を構想していた。第二次世界大戦のあと、住まいを失った人々のために、フランス政府は彼にマルセイユの集合住宅を任せた。1952年10月14日に完成したユニテ・ダビタシオンは、柱で持ち上げた高さ56メートルの建物に、337の住戸と、商店の並ぶ中の通り、屋上の幼稚園やプールを収めた、一つの町のような建物だった。打ち放しのコンクリートの荒々しい表情は、のちの建築に大きな影響を与え、戦後の世界の大規模な団地の手本にもなった。マルセイユ
- テレビ放送の始まりできごとAD1953年2月1日1953年2月1日、NHKが東京でテレビの本放送を始めた。受信の契約は千件ほどで、受像機は給料の何年分もした。夏には民放の日本テレビが開局し、駅前や公園に大きな受像機を置いた。街頭テレビである。力道山のプロレスや野球の中継に、数千人が群がった。1959年の皇太子の結婚の中継を前に受像機が爆発的に売れ、テレビは十年足らずで家の居間の中心になる。人びとは同じ時刻に同じ映像を見る経験を共有するようになった。東京
- 押し屋できごとAD1955年(昭和30年)10月24日線路が増えるまでのあいだ、足りない輸送力を人の手で埋めた戦後の東京では郊外に人が移り住み、朝の電車に乗客が溢れた。扉が閉まらず、発車が遅れ、その遅れが次の電車に積み重なっていく。国鉄は新宿駅に、ホームで乗客を車内へ押し込む係を置いた。正式の名は「旅客整理係学生班」で、多くは大学生のアルバイトだった。列に並んで待つ者を、一本でも早く運ぶために、車両の中の隙間を詰める。高度成長期には定員の二倍を超える混雑が当たり前になり、白い手袋で背中を押す姿は外国の雑誌にも載った。線路と車両を増やすまでのあいだ、足りない輸送力を人の手で埋めた仕事である。新宿
- 電話で時刻を聞くできごとAD1955年1955年、東京で、電話をかけると声が時刻を告げる仕組みが始まった。のちに全国で117番になる。録音した声の断片をつなぎ、十秒ごとに時刻を読み上げる。時計を合わせたいとき、家に正確な時計が無い人はここにかけた。年に数億回かけられた時期がある。電波時計と携帯電話が時刻を自分で合わせるようになり、かける人は減った。正しい時刻は、いまは誰も意識しないまま機械に届いている。東京
- 公団住宅と2DKできごとAD1956年食べる場所と寝る場所を分ける戦後の住宅不足は420万戸と見積もられた。1955年、日本住宅公団が発足し、翌年から鉄筋コンクリートの集合住宅を大量に建てた。間取りの標準が2DK。食事をする場所と寝る場所を分ける(食寝分離)という設計思想である。ダイニングキッチン、ステンレスの流し台、水洗便所、そしてベランダ。畳に布団を敷いて一家が寝る暮らしから、椅子とテーブルの暮らしへ。「団地族」と呼ばれた入居者は、抽選の倍率が数十倍の中から選ばれた中間層だった。東京
- コンテナ輸送のはじまりできごとAD1956年4月26日港が沖へ移ったトラック運送業のマルコム・マクリーンが、改造したタンカー「アイデアルX」に58個の金属の箱を積み、ニューアークからヒューストンへ送った。荷役費が1トン5.83ドルから15.8セントになった。それまで、船荷は港で人の手で一つずつ積み替えられ、費用の半分近くが港で消えていた。箱の寸法が国際規格になり、船と鉄道とトラックが繋がり、港は都市の中心から沖の埋立地へ移った。工場が海の向こうへ行けるようになった。ニューアーク
- 州間高速道路できごとAD1956年どこに道を通すかは、誰の暮らしを壊すかを決めることアイゼンハワーは若いころ、陸軍の車列で大陸を横断し、二か月かかった経験を持つ。大統領になった彼は、ドイツで見たアウトバーンを引き合いに、全国を結ぶ高速道路の建設を進めた。1956年の法は、費用の九割を連邦が負う仕組みを作る。核攻撃のときの避難路という理由づけも使われた。四万マイルを超える網ができ、郊外の住宅地とトラック輸送が広がり、鉄道と都心は衰える。都市を通す区間は、地価の安い地区、多くは黒人の住む地区を貫いた。道をどこに通すかは、誰の暮らしを壊すかを決めることでもあった。ワシントンD.C.
- 東京タワーできごとAD1958年12月23日復興から成長へ向かう東京の象徴テレビの局が増えると、それぞれが電波塔を建てていたのでは東京の空が塔だらけになる。一本の大きな塔にまとめることになり、1958年12月23日、高さ三百三十三メートルの東京タワーが完成した。エッフェル塔より高く、当時は自立する鉄塔として世界一だった。上部の鉄材には、朝鮮戦争で使われた戦車を溶かしたものが含まれていると言われる。展望台には一年で数百万人が上り、復興から成長へ向かう東京の象徴になった。東京
- 回転寿司の誕生できごとAD1958年ビール工場のベルトを寿司に1958年、大阪の布施(いまの東大阪)で、立ち食い寿司の店を営んでいた白石義明は、ビール工場で瓶がベルトの上を流れていくのを見て、寿司を皿に載せて客の前を回す仕組みを思いついた。人手が足りず、職人の給料も高い。曲がり角で皿がうまく回らない問題を、扇形の板を組み合わせるやり方で解いた。「元禄寿司」の一号店である。1970年の大阪万博に出店して知られるようになり、寿司は、値段の分からない高級な料理から、皿の色で値段が分かる家族の外食になった。東大阪
- 伊勢湾台風できごとAD1959年9月26日予報が当たることと、人が動くことは別の問題だった猛烈な台風が紀伊半島に上陸し、高潮が伊勢湾の奥に押し寄せた。海抜より低い干拓地に水が入り、貯木場の巨大な丸太が濁流に乗って家々を壊した。死者・行方不明は五千人を超える。戦後の日本で最悪の風水害になった。予報は前日から強い警戒を呼びかけていたが、避難には結びつかなかった。この災害を受けて、1961年に災害対策基本法が作られ、国と自治体が計画を持ち、警報と避難の体制を整えることになる。予報が当たることと、人が動くことは、別の問題だと分かった。伊勢湾(位置は特定されていない)
- 冷房が変えた人口できごとAD1960年代冷房が、人口と議席の地図を書き換えたアメリカ南部と南西部は、夏の暑さと湿気のため、長く人口の少ない地域だった。役所も議会も、夏は閉じるのが普通である。家庭用の冷房が安くなると、それが変わった。工場が移り、退職者が移り、企業の本社が移る。フェニックス、ヒューストン、アトランタが急速に大きくなり、連邦議会の議席も南へ動いた。冷房は快適さの道具であると同時に、人口と政治の地図を書き換える装置でもあった。その電力の多くは、いまも化石燃料から来ている。涼しくするほど、外は暑くなるという循環も抱えている。ヒューストン
- ブラジリア遷都できごとAD1960年4月21日描いた都市と、住む人の都市ブラジルの人口と富は、大西洋の海岸に集まっていた。大統領クビシェッキは、五十年の進歩を五年で、と掲げ、内陸の高原に一から首都を造らせる。都市計画家ルシオ・コスタが飛行機の形の町を描き、建築家オスカー・ニーマイヤーが白い曲線の建物を設計した。わずか四年ほどで、1960年4月21日に首都が移される。車で移動することを前提にした町は、歩く人に優しくなかった。工事に集まった労働者たちは、計画の外の周辺の町に住むことになった。ブラジリア
- シンガポールの住宅開発庁できごとAD1960年2月1日国民の8割が公営住宅に1950年代のシンガポールでは、人口の多くが、燃えやすい木造の小屋が密集する集落や、すし詰めの長屋に暮らしていた。自治を始めたリー・クアンユーの政府は、1960年2月1日、住宅開発庁を作り、高層の公営住宅を猛烈な速さで建て始めた。1961年に大火で一万六千人が家を失うと、建設はさらに急がれた。1964年からは、住む人が99年の借地権つきで住戸を買える制度を始めた。民族ごとに住む地区が偏らないよう、棟ごとの割合も定めた。いまでは国民のおよそ8割が公営住宅に住み、その大半が自分の住戸を持っている。シンガポール
- ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』できごとAD1961年通りの目戦後のアメリカの都市では、古い下町を「スラム」として取り壊し、高層の住宅と高速道路と広場を造る再開発が進められていた。ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに住む建築雑誌の記者ジェイン・ジェイコブズは、1961年、『アメリカ大都市の死と生』を出し、専門家たちの都市計画を正面から批判した。都市の活気と安全は、住まいと店と仕事場が混じり合い、短い街区に古い建物と新しい建物が並び、通りに人の目が絶えないことから生まれる。彼女は、街を貫く高速道路の計画に反対する住民の運動を率い、計画を撤回させた。ニューヨーク
- 住居表示できごとAD1962年5月10日税のための土地の番号を、家を探すための番号に振り直した日本の住所は、明治の地租改正で土地に振った番号、つまり地番をそのまま使っていた。地番は税をかけるための土地の番号で、家を探すための番号ではない。土地が分けられれば枝番が付き、隣り合う家の番号が飛び、同じ番号の家がいくつもある。郵便配達も、訪ねる客も迷った。1962年、住居表示に関する法律が作られ、町を道路で囲まれた区画に分け、区画ごとに建物へ番号を振り直すことになった。何丁目何番何号という住所は、ここから広まった。ただし、土地の登記には、いまも元の地番が使われている。東京
- 千里ニュータウンできごと1962年9月日本で最初のニュータウン高度経済成長の時代、仕事を求めて大都市に人が押し寄せ、住まいが足りなくなった。大阪府は、大阪の北の千里の丘陵を切り開き、日本で初めての大規模なニュータウンを造った。1962年9月、最初の住民が入居した。小学校を中心にした近隣住区ごとに、団地と一戸建て、商店、公園を配置し、鉄道で大阪の都心と結んだ。1970年には隣で大阪万博が開かれた。人口は13万人に達し、多摩ニュータウンなど全国のニュータウンの手本になった。同じ世代の家族が一斉に入居したため、のちには住民の高齢化と建物の老朽化が一斉に進んだ。千里ニュータウン(位置は特定されていない)
- 五桁の郵便番号できごとAD1963年7月1日第二次世界大戦のあと、アメリカの郵便は二十年足らずで倍に増えた。手紙は宛先の州、町、通りを人の目で読まれ、平均して十数か所で仕分けられていた。郵便検査官ロバート・ムーンは、国を地域に分けて番号を振り、その番号で仕分ける案を戦時中から唱えていた。1963年7月1日、郵便局は五桁の番号を始めた。最初の数字が国の中の大きな地域、次の二桁が仕分けの拠点、最後の二桁が配達する局を表す。住所を読まなくても、数字を読めば行き先が決まる。のちに機械が読むようになり、郵便番号は、人ではなく機械のための住所になった。ワシントンD.C.
- 東海道新幹線できごとAD1964年10月1日鉄道は時代遅れで、これからは自動車と飛行機だと、世界の多くが考えていた。国鉄総裁の十河信二と技師長の島秀雄は、線路の幅を広げ、専用の線路を新しく敷いて、東京と大阪を高速で結ぶ計画を押し通す。世界銀行から金を借りた。1964年10月1日、東京オリンピックの九日前に開業し、最高時速二百十キロで両都市を四時間で結んだ。以来、列車の衝突や脱線で乗客が亡くなった事故は起きていない。鉄道の復権は、ここから世界に広がった。東京
- 東京オリンピックできごとAD1964年10月10日1964年10月10日、アジアで初めてのオリンピックが東京で開かれた。聖火の最後の走者は、広島に原爆が落とされた日に広島県で生まれた十九歳の学生だった。首都高速、地下鉄、ホテルが開会に間に合わせて造られ、東京の姿が数年で変わる。女子バレーボールの金メダルの試合は、テレビで国じゅうが見た。敗戦から十九年で、日本は国際社会への復帰を目に見える形で示した。その裏で、川は蓋をされ、古い町並みは壊された。東京
- 週休二日できごとAD1965年戦後の日本は、土曜も半日働くのが当たり前だった。1965年、松下電器が大企業として早くに完全週休二日制を導入する。生産性を上げ、余暇に物を買ってもらうという狙いも語られた。広まるのは遅い。学校の土曜授業が無くなるのは2002年である。国が公務員の週休二日を完全に実施したのは1992年で、そこから民間にも広がった。休みの日数は、技術や豊かさよりも、まわりが休むかどうかで決まる。一人だけ休んでも、取引先が動いていれば休めないからになる。大坂
- ワッツ暴動できごとAD1965年8月11日投票権法が成立して五日後の1965年8月11日、ロサンゼルスの黒人の住む地区ワッツで、白人の警官が飲酒運転の黒人の若者を止めた。集まった住民と警官がもみ合いになり、騒ぎは六日間に及ぶ暴動になる。三十四人が死に、多くの店が焼かれ、州兵が出動した。法の上の差別は取り除かれつつあったが、北部や西部の都市の黒人の地区には、仕事の無さと、警察への不信と、住む場所の分け隔てが残っていた。ロサンゼルス
- レトルト食品できごとAD1968年缶詰は重く、開けるのに道具が要り、捨てるのも面倒である。アルミ箔と樹脂を重ねた袋なら、軽く、薄く、湯で温められる。もともとは軍用の携行食として研究されたものだった。1968年、日本で家庭用のカレーが袋入りで売り出される。常温で保存でき、三分で温まる。台所の設備が小さく、単身の世帯が増えていく社会に合っていた。同じころ、冷凍食品と電子レンジも広がる。食事を「作る」ことと「温める」ことの境目が、このあたりから曖昧になっていった。東京
- ファミリーレストランの始まりできごとAD1970年7月7日アメリカの郊外を、日本の郊外へ1970年7月7日、東京の国立の甲州街道沿いに、「すかいらーく」の一号店が開いた。もとは食料品のスーパーを営んでいた四兄弟が、大手のスーパーの進出で先行きを危ぶみ、アメリカで見た郊外の車で来るレストランをまねたのである。広い駐車場があり、子どもの椅子があり、家族みんなで気軽に洋食を食べられる。料理は工場でまとめて仕込み、店では温めて仕上げる。車を持つ家族が郊外に増えた時代に合い、ロイヤルホストやデニーズとともに、休日の家族の外食の場になった。国立
- 東京ごみ戦争できごとAD1971年9月28日自分の出したごみをどこへ持っていくのか高度成長で、東京のごみは十年で倍以上に増えた。行き先は江東区の埋立地である。生ごみをそのまま埋めるので蠅と鼠が大量に湧き、近くの小学校では給食に蠅が飛び込んだ。江東区は、各区が自前の清掃工場を持つことを求めたが、杉並区では建設予定地の住民が強く反対して進まない。1971年9月、美濃部知事は都議会で「ごみ戦争」を宣言した。江東区は杉並区のごみを積んだ車の搬入を実力で止め、対立は裁判にもなる。自分の出したごみをどこへ持っていくのか、という問いが、都市の中で表に出た。東京
- マクドナルドの日本一号店できごとAD1971年7月20日流行は銀座から1971年7月20日、東京の銀座の三越の一階に、マクドナルドの日本での一号店が開いた。ハンバーガーは一つ80円。日本の会社を興した藤田田は、流行は銀座から始まると考え、郊外から店を開くよう勧めるアメリカ本社の言い分を退けた。歩行者天国になった銀座の通りで、若者たちは立ったままハンバーガーを食べた。立って物を食べるのは行儀が悪いとされていた時代である。藤田は、日本人も肉とパンを食べ続ければ体つきが変わる、と冗談めかして語っている。ハンバーガーは、米の飯に代わる手軽な食事の一つになった。東京
- 四日市ぜんそくできごとAD1972年7月24日並んで操業する会社は、共同して責任を負う1959年、四日市に石油化学の工場群が動き出すと、周りの町で喘息に苦しむ人が増えた。煙突から出る硫黄酸化物が原因だった。1967年、患者たちがコンビナートの六つの会社を訴える。1972年7月24日の判決は、一社ごとの排出が少なくても、並んで操業する会社は共同して責任を負うとした。国は大気汚染の規制を強め、汚染者が被害者に補償する制度を作った。煙突の高さを上げて薄めるのではなく、出す量を減らすことが求められるようになった。四日市
- プルーイット=アイゴーの爆破できごとAD1972年3月16日近代建築が死んだ日1950年代の半ば、アメリカのセントルイスに、11階建ての33棟からなる巨大な公営住宅、プルーイット=アイゴーが完成した。設計したのは、のちにニューヨークの世界貿易センターを設計する日系の建築家ミノル・ヤマサキだった。だが、住む人の多くを占めた貧しい黒人の家族の暮らしは支えられず、維持の予算も足りず、建物は荒れ、犯罪と空き家が増えた。1972年3月16日、最初の棟が爆破されて崩れ落ちる様子がテレビで流れた。ある建築の評論家は、近代建築はこの日に死んだと書いた。セントルイス
- ヒップホップの誕生できごとAD1973年8月11日ブロンクスの集合住宅、セジウィック街1520番地の集会室。妹の新学期の服を買う資金集めの催しだった。ジャマイカから来たクライヴ・キャンベル(クール・ハーク)は、曲の中で打楽器だけになる短い部分を客が待っていることに気づいた。同じレコードを二枚使い、その部分だけを交互につないで延ばした。「メリーゴーラウンド」。そこで踊る者、そこに言葉を乗せる者が現れた。ニューヨーク
- コンビニの一号店できごとAD1974年5月15日町の小さな店が、生活の窓口になった1974年5月15日、東京の豊洲に、アメリカの店の名を借りたコンビニエンスストアの一号店が開いた。酒屋を営んでいた家が、店を改装して加わったものである。大型スーパーの進出で町の小売店が苦しむなか、小さな店が生き残る道として始まった。売れた品を細かく記録して仕入れを決め、一日に何度も少量ずつ届ける。やがて弁当、公共料金の支払い、銀行の窓口まで引き受ける。町の小さな店が、生活の窓口に変わった。東京
- カードの鍵できごとAD1975年ホテルの鍵は落とされ、複製され、退職した従業員の手に残る。錠を替えるには職人を呼ばねばならない。ノルウェーの技術者トール・セルネスは、客ごとに違う穴の並びを開けたカードを鍵にし、客が替わるたびに錠の側の設定を変えられる仕組みを考えた。やがて磁気の帯になり、いまは電波で応じる小さな札になっている。鍵が情報になると、いつ誰がどの扉を開けたかが記録として残る。安全のために入れた仕組みが、そのまま人の動きの記録装置にもなった。オスロ
- ボトルの水できごとAD1977年安全な水道が普及した国で、水を瓶で買う市場が生まれた。フランスのペリエは1977年からアメリカで大規模な広告を打ち、健康と洗練の記号として売った。ダイエット飲料の代わりであり、そしてワインの代わりである。以後、世界の消費量は増え続け、いまや年間数千億リットルに達する。水道水と品質に有意な差が無い例が多く、価格は数百倍から千倍になる。使われるペットボトルの多くは再生されず、輸送の燃料と合わせて、環境の負荷が論じられている。ニューヨーク
- 明かりが消えた夜できごとAD1977年7月13日街灯は見張りでもあると、消えてから知った夏の夜、ハドソン川沿いの変電所に雷が落ち、送電の網が次々に切れて、一時間ほどでニューヨークのほぼ全域が暗くなった。十二年前にも大停電があったが、そのときは人々が助け合ったと語られている。この夜は違った。財政破綻の寸前で、失業が増え、警官も減らされていた街で、暗がりに紛れて千六百を超える店が壊されて荒らされ、千件を超える火事が起きた。明かりが戻るまで、およそ二十五時間かかった。街灯は、見張りでもある。そのことを、明かりが消えたときに人々は知った。ニューヨーク
- ラブ・カナル事件できごとAD1978年住民の運動が法律を動かしたナイアガラの滝に近い住宅地の下には、かつて化学会社が二万トンを超える有害な廃棄物を埋めた運河の跡があった。土地は市に売られ、学校と家が建つ。1970年代、大雨のあと地下室に黒い液体がしみ出し、流産や子どもの病気が相次いだ。母親たちが調べて声を上げ、1978年、大統領は非常事態を宣言し、住民を移転させる。二年後、汚染の浄化の費用を汚した企業に負わせる法律ができた。住民の運動が国の法律を動かした例である。ナイアガラフォールズ
- ウォークマンできごとAD1979年7月1日ソニーの技術者たちは、録音機能を外し、スピーカーも外し、再生と軽いヘッドホンだけを残した小さな機械を作った。社内では、録音できないテープレコーダーが売れるはずがないと反対された。1979年7月、発売。街を歩きながら、電車に乗りながら、自分だけの音に包まれる。それまで音楽は、その場にいる人が共有するものだった。ここから、同じ場所にいながら別々の音を聴くことが当たり前になる。人前でヘッドホンをすることへの違和感は、数年で消えた。いまのイヤホンの景色は、この機械から始まっている。東京
- 新しい耐震基準できごとAD1981年6月1日いつ建てたかが、生死を分けた1978年の宮城県沖地震で、仙台の新しい建物やブロック塀が崩れ、多くの死者が出た。これを受けて1981年6月1日、建物の耐震の基準が大きく改められる。中くらいの地震でほとんど傷まず、まれな大地震でも倒れて人を押しつぶさないことを目標にした。1995年の阪神・淡路大震災では、この基準より前に建てられた建物に倒壊が集中した。その後、古い建物の耐震診断と補強が進められている。いつ建てたかが、生死を分けた。東京
- 行き場のないごみ船できごとAD1987年一隻の船の映像が、制度を動かした1987年、ニューヨーク州ロングアイランドのごみ三千トンを積んだ運搬船モブロ4000号が、捨て場を探して出航した。ノースカロライナ、ルイジアナ、メキシコ、ベリーズ、バハマと、どこも受け入れを拒む。半年近く海をさまよい、結局ニューヨークへ戻って焼かれた。ごみそのものは特に危険なものではなかった。だが報道で船の姿が繰り返し映され、埋め立て地が足りなくなるという不安が広がる。アメリカで資源ごみの回収が一気に進むきっかけになった。ニューヨーク
- 九龍城砦の取り壊しできごと1993年3月世界で最も密な場所香港の九龍城砦は、もとは清朝の小さな砦だった。1898年にイギリスが九龍の北の土地を借りたとき、この砦だけは清の管轄として除かれ、どちらの政府の手も及ばない場所になった。第二次世界大戦のあと、中国本土から逃れた人々がここに住みつき、無秩序に建て増しを重ねた。わずか2.6ヘクタールの土地に、十数階の建物がすき間なくつながり、三万人を超える人が住んで、世界で最も人口の密度が高い場所といわれた。無許可の医者や工場、闇の商売もあった。イギリスと中国の合意で住民は立ち退かされ、1993年から1994年にかけて取り壊されて、跡は公園になった。九龍城砦
- 海の上の空港できごとAD1994年9月4日大阪の空港は住宅地の中にあり、騒音への訴えで夜は飛べなかった。沖合五キロの海を埋め立てて島を造り、そこに空港を置く。1994年9月4日、日本で初めて二十四時間使える国際空港として開港した。だが海の底の軟らかい粘土の上に造った島は、予想を超えて沈み続け、護岸を高くする工事が続く。2018年の台風では、高潮で滑走路が水に浸かり、連絡橋にタンカーがぶつかって島が孤立した。関西国際空港
- シカゴの熱波できごとAD1995年7月13日1995年7月、シカゴで気温が四十度近い日が続き、一週間で七百人以上が亡くなった。多くは高齢の一人暮らしである。同じ暑さの中で、死者の多い地区と少ない地区がはっきり分かれた。社会学者エリック・クリネンバーグの調査によれば、違いは所得だけではない。人が歩く商店街があるか、隣人が声をかけ合うか、窓を開けて眠れる治安かどうか。冷房のある避難所があっても、そこへ行けるつながりが無ければ届かない。災害の被害は、その社会のふだんの姿を映す。シカゴ
- 阪神・淡路大震災できごとAD1995年1月17日1995年1月17日の午前5時46分、淡路島の北を震源とする地震が、神戸を中心とする都市を襲った。六千四百人余りが亡くなり、その多くは倒れた家の下敷きになった。高速道路の高架が横倒しになり、長田の町では火災が広がった。古い木造の家と、古い基準で建てられた建物に被害が集中する。全国から百万人を超える人がボランティアとして駆けつけ、この年はボランティア元年と呼ばれた。市民の活動を支える法律が、この経験から生まれた。神戸
- 地下鉄サリン事件できごとAD1995年3月20日1995年3月20日の朝、通勤客で混む東京の地下鉄三路線五本の車内で、オウム真理教の信者たちが猛毒のサリンを撒いた。十四人が亡くなり、六千人を超える人が被害を受けた。霞ケ関の官庁街を狙ったものだった。教団はそれまでにも殺人や松本での毒ガス事件を起こしていた。高い学歴を持つ若者が多く加わっていたことも、社会に衝撃を与えた。阪神・淡路大震災の二か月後で、安全だと信じていた日常が、続けて揺らいだ年になった。東京
- ビルバオのグッゲンハイム美術館できごとAD1997年10月18日一つの建物が都市を立て直すスペイン北部のビルバオは、造船と製鉄が衰え、失業とテロに苦しむ港町だった。市は、アメリカの美術財団の分館を呼び、建築家フランク・ゲーリーに設計させる。チタンの板がうねる、魚のような建物が、1997年10月18日に開館した。世界じゅうから観光客が押し寄せ、町は生まれ変わる。一つの建物が都市を立て直すことを、ビルバオ効果と呼ぶようになった。その後、多くの都市が同じ夢を追い、うまくいかない例も多い。ビルバオ
- 介護保険できごとAD2000年4月1日見えなかった労働に値段が付いたそれまで、高齢者の介護は家族が、実際にはその家の女性が担うものとされていた。措置制度の下で、行政が対象者と内容を決めた。2000年、40歳以上が保険料を払い、要介護の認定を受けて、事業者と契約してサービスを選ぶ仕組みに変わった。介護の社会化と呼ばれた。家の中で見えなかった労働の一部が、値段の付いた仕事になった。同時に、その賃金は他の産業より低く、人手不足が続いている。数えられるようになっても、安いままである。東京
- 9・11同時多発テロできごとAD2001年9月11日2977人旅客機4機。2機が世界貿易センターの2棟に、1機が国防総省に、1機はペンシルベニアの野に落ちた(乗客が操縦室に突入した)。2977人が死んだ(19人の実行犯を除く)。93か国の人。生中継された。アメリカは「テロとの戦争」を宣言し、10月にアフガニスタン、2003年にイラク。空港の検査、監視法、そして「9・11以後」という言い方が残った。ニューヨーク

- ごみゼロを宣言した町できごとAD2003年徳島の山あいの上勝町には、ごみの収集車が来ない。住民が自分でごみステーションへ持ち込み、数十の種類に分けて出す。野焼きと小さな焼却炉をやめなければならなくなったとき、町は焼く施設を作るより、分けることを選んだ。2003年、日本で初めてごみゼロを宣言する。再び使えないものは作る側が考えるべきだ、という考えも掲げた。人口千数百人の町だからできる、という見方もある。それでも、ごみは出してからではなく出す前に減らせることを示した。上勝町
- 清渓川の復元できごとAD2005年10月1日高速道路を壊して川を戻すソウルの中心を流れる清渓川は、朝鮮戦争のあと、川辺にあふれた避難民のバラックと汚れた水に悩まされ、1950年代の末から蓋をされて道路になり、1970年代にはその上に高架の高速道路が架けられた。急成長する都市の象徴だった高架の道は、やがて老朽化した。2003年、ソウル市長の李明博は、高架の道路を取り壊し、川を地上に戻す工事に踏み切った。2005年10月1日、5.8キロにわたる川の流れが姿を現した。周りの気温が下がり、市民の憩いの場になったが、漢江から水をくみ上げて流す人工の川だという批判もあった。道路を壊して水辺を取り戻す試みとして、世界の都市の注目を集めた。ソウル
- ふるさと納税できごとAD2008年地方で生まれ育った人も、就職すれば都市に住み、都市に税を納める。育てた地方にも税を回せるように、2008年、好きな自治体に寄付すれば、その分の住民税などが軽くなる仕組みが始まった。自治体は寄付の礼に特産品を贈る。やがて返礼品の豪華さを競う争いになり、牛肉や旅行券、家電まで並んだ。国は返礼品を寄付額の三割以下の地場産品に限る決まりを作る。税の仕組みが、通信販売の売り場のようになった。東京
- 道の名の住所できごとAD2014年1月1日韓国の住所は、日本の統治下の1910年代、土地調査事業で土地に振られた番号にもとづいていた。税と登記のための番号で、家を探すには向かない。町が大きくなり、道が引き直されると、地番はますます並びがばらばらになった。韓国は道に名前を付け、道の起点から建物に番号を振る仕組みに切り替えることにした。法律は2006年に作られ、切り替えを延ばした末、2014年1月1日から道の名の住所だけを使うことになった。人々は長年使ってきた住所を手放すのを嫌がった。住所を変えることは、植民地の名残を外すことでもあった。漢城(ソウル)
- ノートルダム大聖堂の火災できごとAD2019年4月15日世界が中継で見た850年の屋根の木組みが燃え、尖塔が倒れた。世界が中継で見た。荊の冠は消防士が持ち出した。翌日に10億ユーロの寄付が集まり、五年後に再開した。パリ
- トルコ・シリア地震できごとAD2023年2月6日基準を満たさない建物が崩れたマグニチュード7.8と7.5。トルコとシリアで6万人が死んだ。耐震の基準を満たさない建物が崩れ、建設業者が逮捕された。内戦下のシリア北部には、援助が届かなかった。カフラマンマラシュ
- 能登半島地震できごとAD2024年1月1日港が干上がった元日の夕方、マグニチュード7.6。輪島の朝市が焼け、海岸が4メートル隆起して港が干上がった。半島の道が寸断され、孤立した集落が多かった。高齢化した土地の復興の難しさが問われた。輪島
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
技術と産業71件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。交易路とお金54件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。住まいの歴史35件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。表現の歴史32件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。考えることの歴史27件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。主権はだれのものか18件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。感染症と人類17件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。支え合いの歴史17件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史17件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。武士の700年16件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。接触前のアメリカ16件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。イスラム世界14件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。帝国と独立13件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。働くことの歴史13件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。食の歴史13件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。交通と旅の歴史13件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。女性の権利12件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。キリスト教のひろがり10件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。確かめるという方法10件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。教育の歴史10件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。日本の古代9件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。文明のはじまり9件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。誰が書き残したか9件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。老いと死の歴史8件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。お金の歴史8件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。明治7件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。冷戦のあと7件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。海の歴史7件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。二つの大戦6件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。『文明崩壊』で読む歴史6件を共有 / イースター島、マヤ、グリーンランドのノルウェー人。環境を使い尽くした社会と、そうしなかった社会。差別の歴史6件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。ローマ人の物語5件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。インドと仏教5件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。中国の王朝5件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。『サピエンス全史』で読む歴史5件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『万物の黎明』で読む歴史5件を共有 / 狩猟採集から農耕へ、村から都市へ、そして国家へ。その一本道の筋書きそのものが間違いだ、という本。民族移動の時代4件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。メディアの歴史4件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。子どもの歴史4件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。古代オリエント3件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史3件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『世界史』(マクニール)で読む歴史3件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀3件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。『1491』『1493』で読む新大陸3件を共有 / コロンブス以前のアメリカは人の少ない原野ではなかった。以後の世界は、生き物の大移動でできている。『物質文明・経済・資本主義』で読む三つの層3件を共有 / 毎日の暮らし、市場での取引、そしてその上に乗る資本主義。ブローデルは経済を三層に分けた。冷戦2件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。『ローマ人の物語』で読むローマ2件を共有 / 塩野七生が15年かけて15巻で書いた、建国から西の帝国の終わりまで。このデータベースの第一期と同じ範囲になる。『疫病と世界史』で読む歴史2件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『大分岐』で読む歴史2件を共有 / 1800年まで、長江下流とイングランドは同じくらい豊かだった。分かれたのは石炭と植民地のせいだ、という本。『繁栄』で読む歴史2件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で読む歴史2件を共有 / 資本主義を生んだのは強欲ではなく、救われているか分からない不安だった、という100年前の論文。『近代世界システム』で読む歴史2件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。『アラブが見た十字軍』で読む十字軍2件を共有 / 同じ200年を、襲われた側の年代記だけで書き直した本。彼らはそれを「フランク人の襲来」と呼んだ。『暴力と不平等の人類史』で読む格差2件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス2件を共有 / 「ルネサンス」という時代の像そのものを作った本。150年たっても、まだその像の中にいる。『交易の世界史』で読む物の流れ2件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。性の歴史2件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。障害の歴史2件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。法と裁判の歴史2件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。近代と宗教2件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。言葉と文字の歴史2件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。ポエニ戦争1件を共有 / 地中海の覇権をめぐる、ローマとカルタゴの120年。三度戦い、三度目でカルタゴは消えた。アレクサンドロスの東方遠征1件を共有 / 20歳で王になった男が、11年でギリシアからインダス川まで到達した。そして32歳で死ぬ。共和政の終わり1件を共有 / 500年続いた仕組みが、なぜ一人の男に明け渡されたのか。三国志1件を共有 / 400年続いた漢が壊れ、三つに割れ、そしてまた一つに戻るまでの約100年。幕末1件を共有 / 黒船が来てから15年で、700年近く続いた武家政権が終わった。大航海時代1件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。朝鮮半島1件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。探検と発見1件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。草原の帝国1件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。東ローマ千年1件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。ヴァイキング1件を共有 / 襲撃者として現れ、交易者になり、入植者になった。北アメリカにも、ロシアにも、イングランドにも痕跡がある。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史1件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『暴力の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が人を殺す率は、狩猟採集の時代から今まで、長い目で見ればずっと下がってきた、という本。反論も多い。『地中海』で読む歴史1件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後1件を共有 / 冷戦が終わったあと、世界はどうなるのか。3年違いで出た二冊が、正反対の答えを出した。『反穀物の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が穀物を育てたのではなく、穀物と国家が人を囲い込んだ。最初の国家は、なぜ壁の内側に人を閉じ込めたのか。『大転換』で読む歴史1件を共有 / 市場はずっと社会の一部だった。それが逆転して、社会のほうが市場に合わせはじめた19世紀に何が起きたか。『中世の秋』で読む中世の終わり1件を共有 / ルネサンスの前夜ではなく、中世そのものの終わり方。過剰な儀礼と、死への執着に覆われた14〜15世紀。『砂糖の世界史』で読む世界商品1件を共有 / 一つの白い粒を追いかけると、カリブの奴隷とイギリスの朝食と産業革命が一本につながる。『リオリエント』で読む世界経済1件を共有 / 1800年まで、世界経済の中心はアジアだった。ヨーロッパは、その列に遅れて並んだ客にすぎない。『武士の家計簿』で読む幕末1件を共有 / 加賀藩の会計係の家が、37年つけた家計簿が見つかった。武士は、思われているよりずっと借金に苦しんでいた。『歴史序説』で読む王朝の寿命1件を共有 / 14世紀の北アフリカで、社会には法則があると考えた人がいた。王朝はなぜ三代で衰えるのか。戦争と平和の歴史1件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史1件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。大学の講義で学ぶ歴史1件を共有 / 東京大学の公開講座や放送大学の動画から、歴史の項目に当たる講義を選んで付けた。研究者が自分の専門を語る、長めの講義が中心になる。元禄から化政へ — 江戸の町人文化1件を共有 / 戦のない時代が続いた江戸時代、文化の担い手は大名と公家から、上方の、そして江戸の町人へ移っていった。寛永・元禄・宝暦天明・化政と、時代ごとに中心が変わる。明治・大正の文化 — 文明開化から大衆文化へ1件を共有 / 西洋の思想・学校・新聞・文学が一度に入ってきた明治と、ラジオと雑誌と映画で文化が大勢のものになった大正から昭和の初め。