ボナンパクの壁画
概要
1946年、アメリカ人がラカンドン人に連れられて見た。三部屋。行列、戦い、捕虜の拷問、生贄。指の爪を剥がれた捕虜の手から血が落ちる。「マヤは平和な天文学者」という像が、この絵で消えた。描かれた10年後、街は捨てられた。
場所
16.70°N -91.06°E · メキシコ
本文
ボナンパクは、メキシコ南部チアパス州の東の端、グアテマラとの国境を流れるウスマシンタ川に近いラカンドンの森の中にある、小さなマヤの都市である。古典期の後半には、川沿いの大きな都市ヤシュチラン(ヤシュチランのまぐさ石)の影響下にあった。ボナンパクという名は、マヤ語で「彩色された壁」を意味し、壁画が見つかったあとで考古学者がつけた。
1946年、この森に暮らすラカンドン人が、二組のアメリカ人を遺跡へ案内した。2月には探検家のチャールズ・フレイとジョン・ボーンが、5月には写真家のジャイルズ・ヒーリーが訪れた。ヒーリーは、果物会社の後援でマヤの土地を紹介する記録映画を撮っていた。壁画のある建物に最初に入ったのが誰だったかは、後になって争いの種になったが、ヒーリーが撮った写真によって壁画が世界に知られたことは確かである。ラカンドン人は、この古い建物にいまも祈りに来ていた。

壁画は、構造物1と呼ばれる小さな建物の三つの部屋の、壁と天井をすき間なく覆っている。どの部屋も、数歩で横切れるほどの広さしかない。絵は湿った漆喰に顔料を塗り込んだ技法で描かれ、背景には「マヤ・ブルー」と呼ばれる、藍と粘土を合わせた鮮やかな青が使われている。
第一の部屋には、王ヤハウ・チャン・ムワーンの宮廷の儀式が描かれる。王族の子どもが貴族たちの前に披露され、白い衣の貴族が並び、ラッパや太鼓、亀の甲羅を打ち鳴らす楽隊と、水の生き物の仮面をつけた踊り手が行列を作る。王の後継ぎを人々に示す儀式だったと考えられている。

第二の部屋は一変して、戦いの場面である。密林の中で、豹の毛皮をまとった戦士たちが槍を突き出し、敵をつかみ、髪をつかんで引き倒している。北の壁では、捕虜たちが神殿の階段に並べられ、その上に立つ王の前で、裸の捕虜たちの指から血が滴っている。爪を剥がされたか、指先を傷つけられたとみられる。一人は横たわって死んでいるように見え、そばの段には切り落とされた首が置かれている。
第三の部屋は、勝利を祝う祭りである。羽根の大きな飾りをつけた踊り手たちが神殿の階段で舞い、王家の女たちが座って、自分の舌に棘を通して血を流す儀式を行っている。神々に血を捧げる放血の儀礼は、マヤの王族の大切な務めだった。碑文に記された日付から、壁画は791年ごろに奉納されたと考えられ、王の妃がヤシュチランの王家の出であることも書かれている。
この壁画が見つかるまで、マヤは平和な人々だと考えられていた。20世紀の前半のマヤ研究を率いたイギリス出身の考古学者エリック・トンプソンは、マヤの石碑に刻まれた文字は暦と天文のことばかりで、神官たちが星を観察して静かに暮らす社会だったと説いた。ボナンパクの壁画は、その像を真っ向から覆した。そこに描かれていたのは、王が戦い、捕虜を辱め、血を流して神々と王権を支える世界だった。
文字の研究も同じ方向に進んだ。1958年、ハインリヒ・ベルリンが都市ごとの名を表す「紋章文字」を見つけ、1960年にはタチアナ・プロスクリアコフが、石碑の日付は王の誕生や即位や死を記録したものだと示した。碑文が王の歴史を語っていることが分かり、マヤ文字の解読(マヤ文字の解読)が大きく進むと、マヤの都市どうしが絶えず争っていたことが読み取れるようになった。
壁画には仕上がっていない部分がある。人物のそばの説明の文字の枠がいくつも空白のまま残され、描き終える前に作業が止まったとみられている。ボナンパクはその後まもなく人が住まなくなった。9世紀にかけて、マヤの低地の都市は次々に捨てられていく(マヤ低地の崩壊)。
見つかってからの壁画の歩みは、平坦ではなかった。発見の直後には、色を見やすくするために灯油を吹きつけたことがあり、これが傷みを早めたと言われる。壁には石灰の膜が張り、密林の湿気が絵をむしばむ。20世紀の後半からは保存の作業が重ねられ、赤外線の撮影で肉眼では見えない線や文字が読み取られた。メキシコシティの国立人類学博物館には、壁画を復元した部屋が作られている。
ラカンドン人は、マヤ系の言葉を話す人々である。ただ、古典期のボナンパクの住民の直接の子孫ではなく、17世紀から18世紀にかけて、スペインの支配を逃れてユカタンやグアテマラのペテンの方から森へ移り住んできた人々と考えられている。それでも彼らは、千年以上前に捨てられた都市の神殿に、香を焚いて祈り続けていた。