『ラーマーヤナ』の成立

概要
王子ラーマが、さらわれた妻シーターを取り戻す物語。インドを越えて東南アジアへ渡り、タイ、インドネシア、カンボジアで別々の形になった。
場所
23.18°N 75.78°E · インド(グプタ朝の学術の中心)
本文
『ラーマーヤナ』は「ラーマの旅」を意味する。『マハーバーラタ』と並ぶ、インドの二大叙事詩の一つである。古代インドのサンスクリット語で書かれた叙事詩で、詩人ヴァールミーキの作と伝えられる。7巻、約2万4000の詩節からなる。いまの形になるまでには長い時間がかかっており、紀元前5世紀ごろから紀元2世紀ごろにかけて成立したと考えられている。中心にある第2巻から第6巻が古く、最初と最後の巻は後から加えられたとする見方が強い。
物語の舞台は、北インドのコーサラ国の都アヨーディヤーである。王ダシャラタには4人の息子がいて、長男のラーマは誰からも愛される王子だった。ラーマは、弓の試しに勝って、美しく徳の高いシーターを妻に迎えた。

王がラーマに位を譲ろうとしたとき、事件が起きる。王の妃の一人カイケーイーが、かつて王が約束した二つの願いを持ち出し、自分の子バラタを王にすること、ラーマを14年間森へ追放することを求めたのである。王は約束を破れず、ラーマは父の言葉に従って都を去った。シーターと弟のラクシュマナが、自ら望んでついていった。王は悲しみのあまり亡くなり、兄を慕うバラタは、兄のサンダルを玉座に置いて、その代わりとして国を治めた。
森で暮らすうちに、南の島ランカーの王で、十の頭を持つ魔王ラーヴァナがシーターに目をつけた。ラーヴァナは金色の鹿でラーマとラクシュマナを誘い出し、その隙にシーターをさらってランカーへ連れ去った。

シーターを探すラーマは、猿の王国と手を結んだ。猿の勇士ハヌマーンは海を跳び越えてランカーに渡り、捕らわれたシーターを見つけ出す。猿の軍勢は海に石を積んで橋を架け、ランカーへ攻め込んだ。激しい戦いの末、ラーマはラーヴァナを射倒し、シーターを取り戻した。
ところがラーマは、長く魔王のもとにいた妻の貞節を疑った。シーターは火の中に身を投じ、火の神が彼女を無事に送り返したことで、潔白が示された。二人はアヨーディヤーに戻り、ラーマは王となった。最後の巻では、民のあいだの噂を気にしたラーマが、身ごもったシーターを再び森へ追いやる。シーターはヴァールミーキの庵で双子を生み、最後は大地に身を沈めて去っていく。

ラーマは、父への孝、妻への愛、民への責任を体現する理想の王子として描かれる。やがてラーマは、ヴィシュヌ神がこの世に姿を変えて現れた化身とされ、信仰の対象になった。16世紀には、詩人トゥルシーダースが北インドの言葉で『ラーマの行いの湖』を書き、この物語を民衆の信仰の中心に据えた。グプタ朝の詩人カーリダーサも、ラーマの一族を題材にした詩を書いている。
物語は、インドを越えて広がった。東南アジアには、交易や王たちの宮廷を通じて、紀元1千年紀のうちに伝わった。カンボジアでは、12世紀に建てられたアンコール・ワットの回廊の壁に、ランカーでの戦いの場面が長々と彫られた。アンコールの王たちは、自らをラーマのような英雄になぞらえた。アンコールの隆盛の時代の建築は、物語の場面で埋め尽くされている。カンボジアでは『リアムケー』という独自の物語になった。

タイでは『ラーマキエン』になった。いま残る版は、1797年ごろにいまの王朝の初代の王のもとで編まれた。1351年のアユタヤ朝の成立で都となったアユタヤの名も、ラーマの都アヨーディヤーに由来する。いまのタイの王たちは代々「ラーマ」の名で呼ばれている。バンコクの王宮寺院の回廊にも、物語が壁画で描かれている。
インドネシアでは、9世紀に建てられたジャワのプランバナン寺院に物語の浮き彫りが彫られ、古いジャワ語の詩にもなった。ハヌマーンの物語が中国に伝わり、『西遊記』の孫悟空の姿に影響を与えたとする説もあるが、確かなことは分かっていない。島々の多くがイスラームを受け入れた後も、物語は影絵芝居のワヤンや踊りで演じ続けられている。土地ごとに、ハヌマーンの役どころや結末が違う。ラーヴァナに同情的な語り方をする地方もある。

インドでも、一つの話ではない。地方の言葉ごとに、数多くの『ラーマーヤナ』がある。シーターが火の中を歩く場面や、ラーマが身分の低い修行者を殺す場面などは、女性や下層の人々の立場から、昔から批判されてきた。
1987年から88年にかけて、インドの国営放送がこの物語を連続ドラマにすると、放送の時間には町から人が消えたといわれるほどの人気を集めた。同じころ、ラーマが生まれた地とされるアヨーディヤーのモスクの場所に、ラーマの寺院を建てようとする運動が勢いを増した。1992年にはバーブリー・モスクの破壊が起き、各地で暴動が続いた。2024年、その跡地にラーマの寺院が開かれた。物語は、いまのインドの政治とも深く結びついている。