概要
妻と二人の子を続けて失い、前作が失敗して、もう書かないと決めていた28歳に、スカラ座の支配人が台本を押しつけた。開いた頁に「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」。バビロン捕囚のユダヤ人の合唱。初演は熱狂で迎えられ、この旋律がオーストリア支配下のイタリアで歌われた。彼の名 VERDI が「イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ」の頭文字と重なり、壁に落書きされた。
場所
45.46°N 9.19°E · イタリア・ロンバルディア州
関わった人(1)
ジュゼッペ・ヴェルディAD1813年10月10日–AD1901年1月27日 · 作曲した本文
1836年、ジュゼッペ・ヴェルディ22歳。ミラノで、恩人バレッツィの娘マルゲリータと結婚した。
1838年8月、長女ヴィルジニアが1歳4か月で死んだ。1839年10月、長男イチリオが1歳3か月で死んだ。1840年6月、妻マルゲリータが脳炎で死んだ。26歳。2年の間に、家族を全部失った。
その最中、スカラ座と契約していた喜劇『一日だけの王様』を書き上げなければならなかった。1840年9月5日、初演。ブーイングで、1回で打ち切られた。
彼は、二度と書かないと決めた。
以後の経緯は、彼が晩年に語った回想(1879年)による。話が整えられている可能性が高いが、そのまま伝わっている。
冬のある夜、雪の中を歩いていて、スカラ座の支配人バルトロメオ・メレッリに会った。メレッリは彼を劇場に引っ張り込み、「オットー・ニコライが断った台本がある」と、ソレーラの『ナブッコドノゾール』の原稿を、無理やり彼のコートのポケットに押し込んだ。
家に帰って、原稿を机に投げた。開いた頁に、一行あった。
「Va, pensiero, sull'ali dorate(行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って)」。
「私は読んだ。次の頁も読んだ。……読まないと決めていたのに、朝までに全部を暗記していた」。
『ナブッコ』。バビロン捕囚。ネブカドネザル王(ナブッコ)に囚われたヘブライ人が、故郷を思って歌う。
第3幕の合唱「行け、我が想いよ」。ユーフラテスの岸で、ヘブライ人の奴隷たちが歌う。全員が同じ旋律を、ほとんどユニゾンで歌う(当時のオペラの合唱としては異例の簡素さ)。
「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って。/行け、丘に、山に憩え。/そこでは、生ぬるく柔らかい風が、/故郷の甘い大気を運ぶ。……/おお、失われた美しい祖国よ。/おお、絶望に満ちた、いとしい思い出よ」。
1842年3月9日、スカラ座。初演。熱狂した。その年のシーズンで57回上演された(当時としては空前)。
イタリアの状況。ロンバルディアとヴェネツィアはオーストリア帝国の直轄領。ミラノにはオーストリアの検閲があった。「囚われた民が、故郷を思って歌う」という筋を、聴衆がどう受け取るかは明らかだった。
ただし、「初演でアンコールの嵐になり、オーストリア当局が集会を恐れた」という語り口は、後の時代(統一後、19世紀末から20世紀)に作られた面がある。当時のアンコールは別の曲だった、という研究がある。それでも、19世紀の半ばから、この合唱がイタリア統一運動の中で歌われたことは確かで、1901年のヴェルディの葬列では、トスカニーニの指揮で、30万人が歌った。
「Viva VERDI」。1859年頃から、イタリアの街の壁に書かれた落書き。V.E.R.D.I. = Vittorio Emanuele Re D'Italia(イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ)。作曲家の名を叫べば、検閲に引っかからずに、統一と王を讃えられた。
その後のヴェルディ。『エルナーニ』『マクベス』、そして1851〜53年の3作——『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』。『シチリア島の夕べの祈り』『仮面舞踏会』『ドン・カルロ』『アイーダ』(1871年、カイロ。スエズ運河の開通を記念する劇場の柿落としのために書かれた、という話は正確でない。開通の2年後)。
1874年、『レクイエム』(マンゾーニの死を悼んで)。以後16年、オペラを書かなかった。
1887年、73歳、『オテロ』。1893年、79歳、『ファルスタッフ』(生涯で2作目の喜劇。最初の喜劇の失敗から53年)。最後のフーガ。「世の中はすべて冗談だ」。
1901年1月27日、ミラノのホテルで死んだ。87歳。市当局は、彼の家の前の道に藁を敷いて、馬車の音を消した。
遺言。財産で、老いた音楽家のための家(カーサ・ディ・リポーゾ・ペル・ムジチスティ)をミラノに建てた。「私の作品の中で、最も美しいのは、あの家だ」。いまも、そこに音楽家が住んでいる。ヴェルディと妻は、その家の礼拝堂に葬られている。