人物

パブロ・ネルーダ

Pablo Neruda
AD1904年7月12日 – AD1973年9月23日(享年69)
チリ重要度 3

概要

恋愛詩から政治詩まで書き、外交官と上院議員も務めた。クーデターの12日後に死に、その死因はいまも争われている。

関わったできごと(1)

チリのクーデターAD1973年9月11日 · 12日後に死ぬ

本文

本名はリカルド・エリエセル・ネフタリ・レイエス・バソアルト。1904年7月、チリ中部の町パラルで生まれた。母は彼が生まれて2か月足らずで病で死んだ。鉄道員だった父は南部の町テムコに移って再婚し、少年はそこで育った。雨の多い森林と開拓地の町で、のちの詩に繰り返し現れる、雨と木と海の風景はこの土地から来ている。

パブロ・ネルーダ(1963年)
パブロ・ネルーダ(1963年)Wikimedia Commons Unknown ( Mondadori Publishers ) · Public domain

テムコの女学校には、のちにラテンアメリカで最初のノーベル文学賞を受ける詩人ガブリエラ・ミストラルが校長として赴任しており、少年に本を貸し、ロシアの小説などを読むよう勧めた。10代で詩を書き始めたが、父は息子が詩人になることを快く思わなかった。そのため彼は、16歳のころから「パブロ・ネルーダ」という筆名を使い始めた。チェコの作家ヤン・ネルダの名から取ったといわれる。のちにこれを正式な名前にしている。

首都サンティアゴの大学でフランス語を学びながら、1924年、19歳で詩集『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』を出した。若い恋の喜びと別れの痛みを、体と自然の比喩で歌ったこの詩集は、スペイン語圏で最もよく読まれた詩集の一つになり、いまも版を重ねている。

米議会図書館で詩を録音するネルーダ(1966年)
米議会図書館で詩を録音するネルーダ(1966年)Wikimedia Commons USGov · Public domain

暮らしのために外交官の道を選び、1927年、23歳で名誉領事としてビルマのラングーンに赴任した。その後、セイロン、ジャワ、シンガポールと、アジアの植民地の港町を転々とした。言葉も通じない土地での孤独の中で書かれた詩は、のちに詩集『地上の住処』にまとめられ、暗く濃密な言葉で知られるようになる。

1934年、スペインに赴任した。マドリードで、詩人ガルシア・ロルカら同世代の詩人たちと親しく交わり、その輪の中心の一人になった。だが1936年、スペイン内戦が始まり、ロルカはグラナダで反乱軍側に殺された。友人の死と、爆撃される街の光景が、ネルーダの詩を変えた。なぜ私の詩は夢や木の葉を語らないのか、と問われるなら、通りの血を見に来てくれ、という趣旨の詩を、詩集『心の中のスペイン』に書いている。以後、彼は社会と政治を正面から歌う詩人になった。

若き日のパブロ・ネルーダ
若き日のパブロ・ネルーダWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

内戦が共和国の敗北で終わると、ネルーダはチリ政府の特使としてパリに赴き、フランスの収容所にいたスペインの難民2000人あまりを船に乗せてチリへ送り出す仕事を担った。本人は後に、自分の詩が忘れられても、この仕事だけは覚えていてほしい、という趣旨のことを語っている。

1940年代、メキシコの総領事として働いた後、帰国の途中の1943年、ペルーのアンデスの山中にあるインカの遺跡マチュピチュを訪れた(マチュピチュの建設)。その体験から生まれたのが長詩『マチュピチュの頂』である。詩人は石の都に登り、この石を積み上げたのは誰か、と問いかける。そして、名を残すことなく石を運び、飢え、死んでいった無数の働き手たちに、私の口を通して語れ、と呼びかける。

1945年、チリ北部の鉱山地帯から上院議員に選ばれ、同じ年に共産党に入った。1948年、かつて支持したゴンサレス・ビデラ大統領が共産党を非合法化し、鉱山のストライキを弾圧すると、ネルーダは議会で大統領を激しく告発した。逮捕状が出され、彼は1年以上、支持者の家を転々として身を隠した。1949年の初め、馬に乗ってアンデス山脈の南部の峠を越え、アルゼンチンへ逃れた。潜伏の間も書き続けた原稿が、翌年メキシコで出版された大作『大いなる歌』である。ラテンアメリカの大地と歴史と人びとを、創世から現代まで歌い上げた詩集で、『マチュピチュの頂』もその一部に収められた。

1952年にチリへ戻ると、太平洋に面した海辺の村イスラ・ネグラなどに家を構え、船の模型や貝殻や船首像を集めて暮らした。トマトや玉ねぎ、靴下といった身近な物に寄せる短い頌歌の詩集も書いている。1970年の大統領選挙では、共産党の候補に推されたが、左派の統一のために社会党のサルバドール・アジェンデに候補を譲った。アジェンデが勝つと、ネルーダは駐フランス大使となり、パリにいた1971年、ノーベル文学賞を受けた。

1973年9月11日、軍がクーデターを起こし、アジェンデは大統領府で死んだ(チリのクーデター)。病を抱えてイスラ・ネグラにいたネルーダは、首都の病院に運ばれ、12日後の9月23日にそこで死んだ。69歳だった。軍は彼の家々を荒らし、本を投げ捨てた。軍政下の厳しい監視の中で行われた葬儀には多くの人が集まり、弔いの列は、クーデター後初めての公然とした抗議の場になった。

チリのクーデターに関わる図版:Atlas Van der Hagen-KW1049B13 089-CHILI
チリのクーデターWikimedia Commons Dirk Jansz van Santen · Public domain

死因は長く前立腺の癌とされてきた。だが2011年、当時の運転手が、死の直前に病院で腹部に注射を打たれたと証言し、毒殺の疑いが持ち上がった。2013年に遺体が掘り出されて調べられ、2017年には国際的な専門家の調査団が、死亡証明書に書かれた死因は事実と合わないと発表した。2023年には、遺骨から毒素を作る細菌が見つかったとの報告も出た。ただ、それが死の原因だったのか、誰かが意図して持ち込んだものかは確かめられておらず、死の真相はいまも争われている。

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