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Event / できごと

屈原の入水

Qu Yuan drowns himself
BC278年頃
年に諸説あり重要度 5

概要

楚の王族の詩人。秦との同盟に反対して讒言で退けられ、二度追放された。秦が楚の都・郢を落とした年、湖南の汨羅江に石を抱いて入った。『離騒』『九歌』『天問』。「世を挙げて皆濁り、我独り清めり。衆人皆酔い、我独り醒めたり」。中国で最初の、名前の分かる詩人。人々が舟で探し、米を撒いて魚に食べられないようにした、というのが端午の節句と粽と龍舟の由来とされる。

場所

汨羅江
28.80°N 113.07°E · 中国・湖南省

関わった人(1)

屈原BC340年頃–BC278年頃 · 入水した

本文

戦国。楚は長江の中流域の大国で、北の中原の諸国とは言葉も習俗も違った。BC4世紀の終わり、西の秦が伸びてきた。

屈原。楚の王族の傍系(屈・景・昭が楚の三大氏族)。名は平、字は原。懐王の左徒。内政の法令を作り、外交で諸侯に応対した。方針は「連斉抗秦」——東の斉と結んで、西の秦に対抗する。

上官大夫(同僚)が、王の前で言った。「屈原は、法令を作るたびに、自分の功だと吹聴しています」。王は屈原を遠ざけた。

秦の張儀が来た。「斉と断交すれば、秦の商於の地600里を献じよう」。懐王は斉と断交した。使者が土地を受け取りに行くと、張儀は「私は6里と言った」と答えた。楚は怒って秦を攻め、2度、大敗した。

BC299年、秦の昭襄王が「武関で会いたい」と誘った。屈原は「秦は虎狼の国です。行ってはなりません」と諫めた。懐王は末子の子蘭に勧められて行き、捕らえられ、3年後、秦で死んだ。

頃襄王が立ち、子蘭が令尹(宰相)になった。屈原は子蘭を責め、また讒言されて、江南へ追放された。10年ほど、湖南をさまよった。

BC278年、秦の白起が、楚の都・郢(いまの湖北省荊州)を落とし、王家の墓を焼いた。楚は東へ都を移した。

同じ年(と伝える)の5月5日、屈原は汨羅江のほとりで、石を抱いて水に入った。

『漁父』(彼の作か、後人の作か議論がある)に、その前の対話がある。漁夫が問う。「あなたは三閭大夫ではありませんか。なぜここに」。「世を挙げて皆濁り、我独り清めり。衆人皆酔い、我独り醒めたり。それで追放された」。漁夫が言う。「聖人は物に滞らず、世と共に移る。世が濁っているなら、なぜ泥をかき混ぜて波を立てないのか。皆が酔っているなら、なぜ酒粕を食べて薄酒をすすらないのか」。「新しく髪を洗った者は冠を弾き、新しく体を洗った者は衣を振るう。どうして、この清らかな身に、世の汚れを受けられよう」。漁夫は笑って、櫂で舟を叩きながら歌って去った。「滄浪の水が清ければ、私の冠の紐を洗おう。滄浪の水が濁っていれば、私の足を洗おう」。

『楚辞』。『離騒』(「憂いに離(かか)る」。373句、2400字。自分の血筋と志を歌い、讒言を嘆き、天に昇って神々を訪ね、美人(=理想の君主)を求めてさまよう。香草(蘭、蕙、江離)を身につけることが、徳の比喩)。『九歌』(楚の民間の祭祀の歌を、彼が整えた、と考えられている。湘君、湘夫人、山鬼、国殤)。『天問』(172の問い。「天地はどう始まったのか。上下がまだ形をなさない時、誰がそれを知り得たのか」。神話と宇宙への問いだけが並ぶ、他に例のない詩)。

『詩経』が北の、民の、集団の歌であるのに対し、『楚辞』は南の、個人の、名前のある声だった。中国の詩の、二つの源。

端午。5月5日。人々が舟を出して彼を探し、魚が体を食べないように米を撒いた、という伝承から、龍舟の競漕と、粽(葉に包んだ米)ができた、と説明される。実際には、この日はもともと、夏の初めの厄除け(薬草を摘み、菖蒲を吊るす)の日で、屈原の伝説が後から結びついた、と民俗学は考える。それでも、2000年、中国と、朝鮮と、ベトナムと、日本で、この日は彼の名前と共にある。

1953年、世界平和評議会が、屈原を「世界四大文化名人」の一人に選んだ(コペルニクス、ラブレー、ホセ・マルティと共に)。

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