できごと

『春の祭典』初演

The Rite of Spring
AD1913年5月29日
重要度 5
大英帝国ロシア帝国グリーンランドオスマン帝国ドイツ帝国アラビアポルトガル帝国エジプトペルシアスウェーデン=ノルウェーオーストリア=ハンガリー帝国フランススペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国アルジェリアモロッコイタリアルーマニアアイスランドチュニジアブルガリアギリシャデンマークセルビアボスニア・ヘルツェゴビナAD1913年5月29日パリ
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概要

シャンゼリゼ劇場。ディアギレフのバレエ・リュス、ニジンスキーの振付。異教のロシアの春の儀式、乙女が踊り死ぬ。不協和音、拍子が変わり続け、踊りは内股で地面を踏む。客席が騒ぎ、罵り合い、殴り合い、警察。ストラヴィンスキーは舞台裏に逃げた。1年後、演奏会で喝采された。20世紀の音楽の始まり。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

イーゴリ・ストラヴィンスキーAD1882年6月17日–AD1971年4月6日 · 作曲した

本文

20世紀の初め、パリの舞台を最も騒がせていたのは、ロシアから来たバレエ団だった。興行主ディアギレフが率いる「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」は、1909年からパリで毎年公演を重ね、異国風の色彩の舞台、男性ダンサーの跳躍、新しい音楽で、上流の観客と前衛の芸術家を同時に熱狂させていた。その看板のダンサーが、宙に浮くような跳躍で知られたニジンスキーであり、ディアギレフが見いだした若い作曲家がイーゴリ・ストラヴィンスキーだった。1910年の『火の鳥』、1911年の『ペトルーシュカ』で、ストラヴィンスキーは一躍パリの寵児になっていた。このバレエ団の舞台には、のちにパブロ・ピカソも美術を描くことになる。

ストラヴィンスキーの回想によれば、『火の鳥』を仕上げていた1910年の春、彼の頭にある光景が浮かんだ。異教の儀式で、長老たちが輪になって座り、一人の乙女が死ぬまで踊るのを見つめている。春の神の怒りを鎮めるための生贄である。彼はこの構想を、古代スラヴの風俗に詳しい画家で考古学者のレーリヒと練り上げ、台本と舞台の美術をレーリヒに任せた。作曲は主に1911年から1912年にかけて、スイスのレマン湖畔のクラランで進められ、1913年の春に仕上がった。

『春の祭典』初演時のバレエ・ダンサーたち(1913年)。左から2番目がマリー・ランベール。初演時の衣装、舞台装置を撮影した、現存する数少ない写真の一つである
『春の祭典』初演時のバレエ・ダンサーたち(1913年)。左から2番目がマリー・ランベール。初演時の衣装、舞台装置を撮影した、現存する数少ない写真の一つであるWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

作品は『春の祭典』、副題は「ロシアの異教の情景」。第1部「大地の礼賛」と第2部「生贄」の二部からなり、筋らしい筋はない。春の訪れ、若者たちの占いと遊び、敵対する部族の争い、長老による大地への口づけ、そして選ばれた乙女の死の踊り。音楽は冒頭から聴き手を驚かせた。ファゴットが、ふだんは出さないほどの高い音域で、民謡の断片のような旋律を奏でる。続く「春のきざし」では、弦楽器が同じ不協和な和音を、予測できない位置にアクセントを置いて叩きつけるように繰り返す。拍子は小節ごとに変わり、終曲の「生贄の踊り」では、16分の5、16分の3、8分の2といった拍子がめまぐるしく入れ替わる。二つの調が同時に鳴り、オーケストラ全体がまるで巨大な打楽器のように扱われる。

振付を任されたニジンスキーは、20代の前半だった。前年に『牧神の午後』で振付家として初めて世に出て、問題作として騒がれたばかりである。彼は古典バレエの決まりをことごとく逆にした。古典バレエでは脚を外へ開き、上へ伸び、軽く跳ぶ。ニジンスキーのダンサーは、爪先を内に向け、膝を曲げ、肩をすぼめ、頭を傾け、重く地面を踏みしめる。音楽の複雑な拍子に合わせるため、稽古は100回を超えたと伝えられる。ダルクローズのリズム教育を学んだダンサーのマリー・ランベルトが、拍を数える手助けをした。ダンサーたちには評判が悪く、体を痛める者もいた。

ニコライ・レーリヒによる『春の祭典』の舞台美術
ニコライ・レーリヒによる『春の祭典』の舞台美術Wikimedia Commons Nicholas Roerich · Public domain

1913年5月29日、木曜日。会場は、その春に開場したばかりのシャンゼリゼ劇場だった。最初の演目は優美な古典風の『レ・シルフィード』で、その後に新作が上演された。客席には着飾った上流の観客と、ディアギレフが招いた芸術家たちが混じっていた。作曲家のドビュッシーとラヴェル、詩人のコクトーらがいたとされる。

序奏のファゴットが鳴り始めると、客席から忍び笑いが起きた。幕が上がり、内股のダンサーたちが跳ねるように足を踏み鳴らし始めると、笑いは野次と口笛に変わった。医者を呼べ、いや歯医者だ、と叫ぶ声がしたという。作品を支持する人々が言い返し、客席は二手に分かれて怒鳴り合った。ある証言者は、興奮した後ろの席の男に、拍子に合わせて頭を叩かれたと書いている。騒ぎで音楽が聞こえなくなり、ニジンスキーは舞台袖の椅子の上に立って、ダンサーたちに拍の数を叫び続けた。ディアギレフは客席を静めようと照明を点けたり消したりした。ストラヴィンスキーは怒って客席を立ち、舞台裏へ回った。それでも、指揮者モントゥーとオーケストラは最後まで演奏をやめず、ダンサーたちも最後まで踊り抜いた。

バレエ・リュスを主宰したセルゲイ・ディアギレフの肖像(レオン・バクスト画)
バレエ・リュスを主宰したセルゲイ・ディアギレフの肖像(レオン・バクスト画)Wikimedia Commons Léon Bakst · Public domain

何がどこまで起きたのかについては、証言が大きく食い違う。殴り合いがあった、警察が呼ばれた、という話もあれば、騒ぎは誇張だという証言もある。翌日の新聞には、手厳しい批評も熱烈な擁護も載った。騒ぎの原因は音楽よりも、見慣れない踊りのほうにあったとする見方が多い。音楽は騒ぎでほとんど聞こえなかったからである。ストラヴィンスキーの回想では、公演の後、ディアギレフは、まさに望んでいたとおりになった、とだけ言ったという。スキャンダルは興行の宣伝にもなった。

ニジンスキーの振付は、パリとロンドンで数回上演されただけで舞台から消えた。その年の秋、南米公演の途中でニジンスキーが結婚すると、恋人でもあったディアギレフは彼を解雇した。数年後、ニジンスキーは心を病み、二度と踊ることはなかった。1920年にはマシーンが新しい振付で作品を蘇らせた。

ニジンスキー(1911年、ジョン・シンガー・サージェント画、別の舞台の衣装姿)
ニジンスキー(1911年、ジョン・シンガー・サージェント画、別の舞台の衣装姿)Wikimedia Commons John Singer Sargent · Public domain

音楽のほうは、すぐに独り立ちした。1914年4月、モントゥーが踊りなしの演奏会で演奏すると、今度は熱狂的な喝采が起き、ストラヴィンスキーは聴衆の肩に担がれて会場を出た。拍子が変わり続けるリズムと不協和の響きは、その後の作曲家たちに深い影響を与え、20世紀の音楽の出発点の一つに数えられるようになった。1940年、ディズニーの映画『ファンタジア』は、この音楽を地球の誕生と恐竜の絶滅の場面に使った。編曲と曲の順序の入れ替えに、ストラヴィンスキーは不満を述べている。

失われたニジンスキーの振付は、当時の写真、スケッチ、ダンサーの記憶、楽譜への書き込みを手がかりに、研究者のミリセント・ホドソンらが長い年月をかけて復元し、1987年にアメリカのジョフリー・バレエが上演した。初演から1年あまり後、ヨーロッパは第一次世界大戦に突入する。古い秩序が激しい音とともに崩れていくこの作品を、のちの人々は、来るべき時代の予告として聞いた。

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