考えることの歴史

概要
同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。
この物語について
遠く離れた土地で、同じころに似たことが問われた。そして、考えを運ぶ器のほうが、中身より歴史を動かすことがある。では、人はなぜある時期に、根本から考え直しはじめたのか。そして、その考えはどうやって千年先まで届いたのか。
考えることの歴史は、書くことから始まる。前4千年紀の終わりのメソポタミアで、粘土板に刻まれた楔形文字は、はじめは穀物や家畜の数を記す帳簿だった。やがてその文字で、友を失った王が死を恐れて不死を探す『ギルガメシュ叙事詩』が書かれる。中国では殷の王が亀の甲や牛の骨に占いの問いを刻んだ。神々や祖先に尋ねることが、考えることの最初の形だった。
紀元前8世紀から前3世紀ごろ、ばらばらの場所で似たことが起きている。ドイツの哲学者ヤスパースは、この時期を「枢軸の時代」と呼んだ。インドでは、祭式の手順を説く書物の奥からウパニシャッドの成立が生まれ、宇宙の根本と「私」とは何かが問われた。同じ土壌から、前5世紀前後にブッダが現れ、苦しみの原因とそこから抜け出す道を説く。イランのザラスシュトラは善と悪の二つの力の戦いとして世界を説いたが、彼がいつの人かは前1500年ごろから前6世紀まで説が大きく分かれている。

中国では、周の王の力が衰え、諸国が争った春秋・戦国の時代に、多くの思想家が現れた。鉄の農具が広まって国々は豊かになり、君主たちは国を強くする知恵を求めて人を集めた。孔子は前6世紀から前5世紀の人で、乱れた世を、親を敬い礼を守ることで立て直そうとした。その言葉は、死後に弟子たちが編んだ『論語』の成立に残る。『老子』は、そうした礼や仁そのものを、人為の押しつけとして疑った。老子という人物が実在したかどうかは分かっていない。墨子は、身内も他人も区別なく愛せと説き、侵略の戦争を否定した。そして戦国の末、韓非は人は利で動くという前提から、法と賞罰で国を治める仕組みを組み立てた(『韓非子』)。秦の始皇帝はその書を読んで感嘆したと『史記』は伝える。
ギリシアでは、前6世紀にタレスが、世界の成り立ちを神話ではなく水という一つの原理で説明しようとした。ピュタゴラスは数のなかに世界の秩序を見た。前5世紀のアテナイでは、ソクラテスが街角で人々に、正しさとは何か、勇気とは何かと問い続け、知っているつもりの人の無知をあらわにした。前399年、彼は若者を堕落させ、国の神々を認めないという罪で訴えられ、70歳で毒を飲んで死んだ(ソクラテスの死)。逃げる機会があったのに法に従ったと、弟子のプラトンは書いている。プラトンはアテナイの郊外に学園アカデメイアを開き、その弟子アリストテレスは、論理学から生物学まで、あらゆる学問の枠組みを作った。

歴史を書くという営みも、この時代に始まった。ヘロドトスは、ペルシアとギリシアがなぜ戦ったのかを、聞き集めた話で解き明かそうとした。中国では前1世紀の初め、司馬遷が宮刑の屈辱に耐えながら『史記』を書き上げた。起きたことをそのまま記すのではなく、なぜそうなったのかを問う書き方が、東西で別々に生まれている。
考えを保存して運ぶ器が、次の問題になった。中国では紙が発明され、105年、宦官の蔡倫が改良した製紙法を皇帝に献上したと伝えられる(蔡倫の製紙法)。紙はそれ以前からあったが、安い材料で量産できるようになったことが大きかった。竹簡や絹よりはるかに軽くて安い紙は、のちにイスラム世界を経てヨーロッパへ渡る。前300年ごろにエウクレイデスがまとめた『原論』は、少数の公理から定理を積み上げる書き方で、二千年以上も数学の教科書であり続けた。インドでは、7世紀のブラフマグプタが零を数として扱い、計算の規則を書いている。

古代の学問の場は、しだいに閉じていった。415年、アレクサンドリアで数学者・哲学者のヒュパティアがキリスト教徒の群衆に殺され、529年には東ローマのユスティニアヌス帝がアテナイの哲学の学校に教えることを禁じたとされる。西ヨーロッパでは、修道院が古典の写本を書き写して守った。
ギリシアの学問を受け継いだのは、イスラム世界だった。9世紀、アッバース朝の都バグダードでは、カリフの保護のもとバグダードの知恵の館を中心に、アリストテレスやガレノス、エウクレイデスの書物がアラビア語に訳された。訳しただけでなく、アル=フワーリズミーは代数学の基礎を書き、その名は「アルゴリズム」という語に残っている。970年代にはカイロにアズハル学院ができ、いまも続いている。

ヨーロッパがそれを取り戻したのは、12世紀のことである。1085年にキリスト教徒の王がイスラム教徒の都市トレドを取ると、そこに残ったアラビア語の蔵書がラテン語に訳され始めた。同じ頃、イタリアのボローニャでは、ローマ法を学ぶ学生たちが教師を雇う組合を作り、ボローニャ大学の創立が生まれた。創立は1088年とされるが、これは後の時代に定めた年である。パリやオックスフォードでも大学ができ、トマス・アクィナスはアリストテレスの哲学とキリスト教の信仰を一つの体系にまとめようとした。オッカムのウィリアムは、必要もないのに説明のための存在を増やすなと説いた。中国では12世紀に朱熹が儒学を宇宙論から組み立て直し、その注釈はのちに科挙の標準になって、朝鮮と日本の学問にも深く影響する。
14世紀の北アフリカでは、イブン・ハルドゥーンが『歴史序説』を書いた。砂漠の民は強い連帯の意識で王朝を建てるが、都市の豊かさに慣れるうちにその結束がゆるみ、おおむね三、四代で衰えて、新しい集団に取って代わられる。王朝の興亡を、偉人の行いではなく社会の仕組みから説明しようとしたこの書は、近代の社会学の先駆けとされる。

15世紀の半ばにヨーロッパで活版印刷が広まると、考えを運ぶ器は桁違いに大きくなった。エラスムスの風刺やルターの文書は、何万部も刷られて国境を越えた。1637年、デカルトは『方法序説』で、疑えるものはすべて疑い、それでも疑えない「考える私」から知識を組み立て直そうとした。18世紀には、ディドロらが『百科全書』で知識を体系立てて読者に開き、教会と王の権威を揺さぶった。
近代に入ると、考えることの対象に人間自身が入ってくる。1859年、ダーウィンの『種の起源』は、生き物は長い時間のうちに自然選択によって姿を変えてきたと論じ、人を特別に造られた生き物の座から降ろした。マルクスは歴史を、生産の仕組みと階級のあいだの争いとして読み解いた。1905年、スイスの特許局に勤めていた26歳のアインシュタインは、一年のうちに光の粒としての性質、分子の実在、そして特殊相対性理論についての論文を発表した(アインシュタインの奇跡の年)。時間と空間が、見る者の動きによって違うという考えは、人の直観そのものを疑わせた。

アジアでは、西洋の学問をどう受け入れるかが問われた。日本では1872年から福沢諭吉が『学問のすゝめ』を書き、天は人の上に人を造らずと言われる、と書き出した。この本は一説に数百万部売れたとされる。中国では魯迅が、民衆の心を変えなければ国は変わらないと考え、医学を捨てて文学に進んだ。インドのベンガルでは、西洋の学問とインドの伝統を結び直そうとする動きが起きた。
ソクラテスは本を書かず、問いだけを残した。その問いを書き留めたプラトンの対話篇は、写本と翻訳と印刷を経て、いまも読まれている。中身がいかに優れていても、運ぶ器がなければ消える。逆に、器が変わるたびに、考えることそのものが変わってきた。紙が、印刷が、そしていまはインターネットと生成AIが、考えを運ぶ器になっている。何を問い、何を疑うかは、二千五百年前と同じく、受け取る側にかかっている。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(412)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- スンギールの埋葬できごとBC3万2000年頃狩人が死者に数年分の労働を費やしたモスクワの東200キロ、氷期の狩人の遺跡。成人男性の墓と、頭を接して並べられた二人の子どもの墓が出た。三人が身につけていた象牙のビーズは、合わせて1万3000個を超える。マンモスの牙を削って一つずつ穴を開ける作業は、一個に45分から1時間かかると実験で見積もられた。全部で数年分の労働である。子どもの墓には、まっすぐに伸ばしたマンモスの牙の槍が添えられていた。狩猟採集の社会が、死者のためにこれだけを費やした。スンギール
- 犬の家畜化できごとBC1万4200年頃役に立たない犬を世話した農業より前に、人は犬と暮らしていた。ボン近郊の墓に、男女と一緒に子犬が葬られていた。1万4200年前。その犬は生後半年ほどで、重いジステンパーを二度患った痕がある。介護なしには生きられない。つまり、役に立たないと分かっていて、誰かが世話をしていた。遺伝子の研究では、家畜化の起源は2万〜4万年前、狼の一系統からとされ、場所は複数説がある。人が最初に結んだ、他の種との長い関係である。ボン=オーバーカッセル
- 猫と人の関係できごとBC7500年頃用途のために作り変えられなかったキプロス島に、野生の猫はいなかった。それなのに、9500年前の墓に、人と猫が並んで葬られていた。誰かが船に乗せて連れて来たことになる。猫の家畜化は、農業とともに始まったと考えられている。穀物を貯めれば鼠が来る。鼠が来れば猫が来る。人は追い払わなかった。エジプトで神になり、船に乗って世界へ広がった。犬と違い、猫は用途のために作り変えられなかった。品種の大半は19世紀以降の産物である。シロウロカンボス
- 楔形文字の成立できごと紀元前32世紀最初に書かれたのは詩でも法でもなく、麦とビールの帳簿だった。文字は数えるために生まれている。ウルク
- エンヘドゥアンナ人物BC2285年頃 – BC2250年頃名前の分かる世界最初の著述家名前の分かる世界最古の著述家。サルゴンの娘で、ウルの月神の大神官を務め、自分の名で讃歌を書いた。
- 『ギルガメシュ叙事詩』できごと紀元前21世紀記録に残る最古の文学記録に残る最古の文学。友の死を受け入れられず、不死を探しに行って手ぶらで帰る話になっている。ニップル

- 『死者の書』とミイラできごとBC1500年頃生前の行いが死後を決める正しくは「日のもとに現れ出る呪文」。死者が冥界を通り抜けるための呪文集で、パピルスに書いて棺に納めた。中心にあるのが心臓の計量である。死者の心臓が天秤の一方に、真理の女神の羽根が他方に置かれる。釣り合えば来世へ、傾けば怪物に食われて消える。生前の行いが死後を決めるという考え方が、ここに明確な形で現れている。体を残さねば魂が戻れないので、内臓を取り出し、ナトロンで乾かし、樹脂と布で包んだ。テーベ

- 甲骨文字できごと紀元前13世紀亀の甲羅を焼いて割れ目で占い、問いと答えを彫りつけた。漢字はここから続いている。殷墟(安陽)

- 周公旦人物? – BC1030年頃武王の弟。幼い成王の摂政として反乱を鎮め、封建と礼楽の制度を整え、7年で王位を返した。儒家が最初の聖人と数え、『周礼』を仮託した。
- ゾロアスターの教えできごと不明(BC1500年頃からBC600年頃まで諸説)善と悪の二つの原理が争い、人はどちらに与するかを選べる。死後に審判があり、最後に善が勝つ。この筋立ては、のちの一神教の終末観とよく似ている。バクトラ(バルフ)
- ザラスシュトラ人物不明(BC1500年頃からBC600年頃まで諸説) – ?善と悪が争い、人はどちらに与するか選べると説いた。死後の審判という考えは、のちのユダヤ教・キリスト教・イスラームにも影を落としている。
- ホメロス人物紀元前8世紀頃 – ?『イリアス』『オデュッセイア』の作者とされる。実在したかどうかも含めて議論がある。
- ウパニシャッドの成立できごとBC8〜BC5世紀祭式の手順から「私とは何か」が枝分かれする祭式の手順を伝えるヴェーダから、「私とは何か」を問う思索が枝分かれした。輪廻と解脱という枠組みができ、仏教もジャイナ教もここを土台に反論する形で出てくる。ガンジス川中上流域(位置は特定されていない)

- 春秋の争覇と鉄製農具できごとBC8〜BC5世紀諸子百家の土壌周王の権威が名ばかりになり、諸侯が覇を競った。鉄の農具と牛耕で収穫が増え、それを支えに新しい人材が身分によらず登用されていく。諸子百家の土壌になる。洛陽
- ヘシオドス『神統記』できごとBC700年頃混沌から始まり、大地と天が生まれ、三代の神々が争って、ゼウスが頂点に立つまでを整理した。ギリシアの神話に系譜という形を与えた。アスクラ(位置は特定されていない)

- ヘシオドス人物BC700年頃 – ?世界は良くなるのではなく衰えていく、という見方ボイオティアの農民の詩人。神々の系譜を整理し、農民の一年を詩にした。ホメロスと違って自分のことを語る、最初の詩人になる。
- 管仲人物? – BC645年食えなければ道徳は説けない敵だった公子に仕え、その公子を覇者にした宰相。塩と鉄を国が握り、商業を認めた。「衣食足りて礼節を知る」はこの人の言葉として伝わる。
- タレス人物BC624年頃 – BC546年頃世界の成り立ちを神話でなく一つの原理で説明しようとした世界の成り立ちを神話ではなく、水という一つの原理で説明しようとした。答えは外れているが、そう問うこと自体が始まりになる。
- ドラコンの成文法できごとBC621年慣習を書いて掲げたそれまで貴族が口で伝えていた慣習を、初めて書いて掲げた。罰が厳しすぎたので「ドラコン的」という言葉が残るが、書いて公開したこと自体が大きい。アテナイ
- 七日の週できごとBC6世紀一年は太陽で決まり、一月は月で決まる。だが一週間には、天体の裏づけがない。七という数は、肉眼で動いて見える天体の数と同じで、メソポタミアではその七つに日を割り当てて数えた。ユダヤの暦は七日目を安息日と定め、働かない日を宗教の決まりとして固定する。ローマは惑星の名を曜日に当て、それがヨーロッパの言語に残った。日本の「日月火水木金土」も、この並びが中国を経て伝わったものになる。自然に根拠のない区切りが、いま世界のほぼ全域で共有されている。バビロン
- マハーヴィーラ人物BC599年頃 – BC527年頃釈迦とほぼ同時代の王族が、30歳で出家して12年苦行した。あらゆる生き物を傷つけないことを徹底する教えを説く。ジャイナ教の第24代の祖師とされる。
- タレスの日食予言できごとBC585年5月28日リュディアとメディアの戦いの最中に日が欠け、両軍が戦いをやめた。タレスがこれを予言したとヘロドトスが書く。自然を神話でなく法則で説明する試みの始まりに置かれる。ミレトス(BC585年の日食)
- ピュタゴラス人物BC570年頃 – BC495年頃数が世界の骨組みだと考える一団を率いた。定理の名で知られるが、それはバビロニアで千年前から使われていた。
- クレイステネス人物BC570年頃 – BC508年頃名門アルクメオン家の出。僭主を追い出したあと、血縁の集団を解体して地域で組み替えた。抽選と陶片追放を制度にし、民主政の骨格を作った。
- 『孫子』の兵法できごとBC512年頃二千年読まれる兵法呉王闔閭に仕えた孫武の名で伝わる13篇。戦わずに勝つことを上とし、敵を知り己を知れと言う。二千年後のナポレオンも毛沢東も読み、いまはビジネス書として売られている。蘇州(呉)

- マハーヴィーラの教えできごとBC6〜BC5世紀あらゆる生き物を傷つけない釈迦とほぼ同時代に、あらゆる生き物を傷つけないことを徹底した教えが説かれた。ジャイナ教になる。断食して死ぬことを最後の修行とした。ヴァイシャーリー
- クレイステネスの改革できごとBC508年血縁の集団を解体し、10の地域に組み替えて代表を出させた。抽選で選ばれる評議会と、追放を投票で決める仕組み。民主政の骨格がここで組まれる。アテナイ
- 孔子の遍歴できごとBC497年14年、用いる君主を探した魯の官職を捨て、14年、諸国を回って自分を用いる君主を探した。どこにも用いられず、故郷に帰って弟子を教えた。その弟子が言葉を書き留める。曲阜
- 陶片追放できごとBC487年アテナイの民主政は、僭主が現れることを恐れていた。そこで、罪を問わずに人を追い出す仕組みを作る。年に一度、追放すべき者がいるかを民会に諮り、必要と決まれば、市民が壊れた陶器の欠片に名を刻んで投じた。一定数を超え、最も多く書かれた者は十年間、市を離れる。財産は没収されず、名誉も奪われない。戻れば元の市民である。つまり、危険な人物を裁くのではなく、力を持ちすぎた人物を減らすための仕組みだった。やがて派閥の道具になり、百年ほどで使われなくなる。アテナイ
- ソクラテス人物BC470年頃 – BC399年問答によって人に無知を自覚させた哲学者。国家の神を認めず若者を惑わしたとして死刑になった。
- マハーヴィーラの入滅できごとBC468年頃真理は一つの立場からは言えないクシャトリヤの家に生まれ、30歳で出家し、12年、裸で歩いて苦行した。「ジナ(勝者)」。教え。全ての生き物に霊魂がある。だから殺さない(アヒンサー)。水を漉し、夜は食べず、道を掃きながら歩き、口を布で覆う。世界は誰かが作ったのではなく、はじめから在る。真理は一つの立場からは言えない(アネーカーンタヴァーダ)。ブッダとほぼ同時代で、二人は会っていない。ジャイナ教は、いまもインドに450万人。パーヴァー
- クリティアス人物BC460年 – BC403年ソクラテスの弟子プラトンの母の従兄弟。ソクラテスの弟子。詩人、悲劇作家、「神は賢い人間の発明」と書いた。三十人の首領。テラメネスを毒杯に送った。ムニキアでトラシュブロスと戦って死んだ。ソクラテスの裁判で「彼はクリティアスの師だった」と言われた。
- アルキビアデス人物BC450年 – BC404年饗宴で酔って登場ペリクレスの養子、ソクラテスの弟子、アテナイで最も美しい男。シケリア遠征を煽り、召還されてスパルタに逃げ、スパルタ王の妻に子を産ませ、ペルシアに逃げ、アテナイに戻って将軍になり、また追われ、フリギアで矢に射られた。『饗宴』で酔って登場する。
- ヘロドトス『歴史』できごとBC430年頃「なぜ戦争が起きたか」を人の側から書いたなぜ戦争が起きたのかを調べて書いた最初の書。「歴史」という言葉の出所になる。ハリカルナッソス

- 墨子の兼愛と非攻できごとBC430年頃すべての人を等しく愛せ職人の出の思想家が、身内をひいきする儒家を退け、すべての人を等しく愛せと説いた。攻める戦争を否定し、守る技術を弟子に教え、実際に城を守りに出向いた。秦のあと、その学派は消えた。曲阜
- プラトン人物BC427年頃 – BC347年ソクラテスの弟子。アカデメイアを開き、対話篇によって西洋哲学の枠組みを作った。
- 『論語』の成立できごとBC400年頃孔子の言葉を弟子たちが集めた。東アジア2000年の倫理の土台になる。曲阜

- 『老子』の成立できごと成立年代に諸説あり孔子の説く礼そのものを疑う側作為を捨てよと説く。儒家と並ぶ思想の柱になり、後に道教の経典となる。洛陽
- ヒポクラテス集典と医の誓いできごとBC400年頃害をなさないことエーゲ海の島コスの医師たちが残した60編ほどの文書の束。一人の著者のものではない。病は神の罰でも祟りでもなく、自然の原因を持つ、と書いた(『神聖病について』は、てんかんを神の病と呼ぶのは無知の言い訳だと言う)。観察と記録を重んじ、患者ごとの経過を書き留めた。「誓い」は、害をなさないこと、毒を与えないこと、患者の秘密を守ることを誓わせる。医が職業倫理を持つという考えが、ここから来る。コス島
- パーニニの文法できごとBC400年頃3959の規則ガンダーラの人が、サンスクリット語を3959の規則で記述した。『アシュターディヤーイー(八章)』。音から語の形成、文まで。規則は代数のように短く(メタ言語、省略、順序の優先)、口で暗誦された。2400年、誰もこれより正確な文法を書けなかった。19世紀のヨーロッパが読んで、比較言語学と、20世紀の生成文法とプログラミング言語の記法(バッカス・ナウア記法)が影響を受けた。タキシラ
- ソクラテスの死できごとBC399年問い続けたことが罪になった国家の神を認めず若者を惑わしたとして死刑になり、毒杯を仰いだ。アテナイ

- プラトンのアカデメイアできごとBC387年900年続いた学園。アリストテレスもここで学ぶ。「アカデミー」の語源になる。アテナイ
- 荘子人物BC369年頃 – BC286年頃魚の楽しみ荘周。宋の蒙。漆園の吏。恵施(名家)が友人で、論争の相手。「魚の楽しみ」(「君は魚でないのに、どうして魚の楽しみが分かる」「君は私でないのに、どうして私が魚の楽しみを分からないと分かる」)。恵施が死んで、「私には語る相手がいなくなった」。楚王の招きを断った。「万物斉同」。「逍遥遊」。大鵬。「無為」。死を恐れなかった。「天地を棺にして、日月を璧にする。何を足す必要があるか」。
- 抽選器できごとBC4世紀買収する相手が、前もって決まらないようにしたアテナイの民主政では、役人の多くと裁判の陪審員を、選挙ではなくくじで選んだ。選挙をすれば、弁の立つ者や金のある者が勝つ。くじなら誰にでも順番が回る。法廷の朝には、石の板に名札を差す溝が縦横に並んだ抽選器が使われた。市民は自分の青銅の名札を溝に差し、脇の筒から黒と白の玉を一つずつ落として、白が出た列の者がその日の陪審員になる。誰がどの法廷に座るかは、朝まで誰にも分からない。買収する相手が、前もって決まらないのである。ただし戦争を率いる将軍だけは、くじではなく選挙で選んだ。アテナイ
- ディオゲネスとアレクサンドロスできごとBC336年樽の哲学者ギリシアの総司令官になった若い王が、樽に住む哲学者を訪ねた。「何か望みは」「日陰になるからどいてくれ」。王は「私がアレクサンドロスでなければ、ディオゲネスになりたい」と言った。作り話かもしれないが、二人はその年に同じ街にいた。コリントス

- エウクレイデス人物BC4世紀後半(生没年は伝わっていない) – ?『原論』を書いた。定義と公理から順に積み上げるという書き方そのものが、以後2000年の手本になる。本人については何も分かっていない。
- 荀子人物BC313年頃 – BC238年頃青は藍より趙の人。50歳で斉の稷下に遊学し、3度祭酒。讒言で楚へ。春申君が蘭陵の令にした。春申君が殺されて、免職、蘭陵で死んだ。「性は悪」。「学は止むべからず」(勧学篇)。「青は藍より出でて藍より青し」。「天行は常あり。堯のために存せず、桀のために亡びず」。礼を作った聖人と、礼を学ぶ人間。弟子の韓非と李斯が秦を作り、秦が儒者を埋めた。
- 『原論』できごとBC300年頃公理から積み上げる書き方は、数学の外にも真似された定義と公理を先に置き、そこから証明を積み上げる。この書き方が数学の作法として2000年以上使われた。アレクサンドリア
- 『マハーバーラタ』の成立できごとBC4世紀からAD4世紀にかけて(層が重なっている)10万詩節。数百年かけて層が積み重なった10万詩節。ホメロスの二大叙事詩を合わせた10倍近い長さになる。一人の作ではなく、数百年かけて層が積み重なった。その一部が『バガヴァッド・ギーター』になる。クルクシェートラ

- 『荘子』できごとBC300年頃蝶の夢宋の蒙の漆園の役人。「荘周が夢で蝶になった。目覚めて、荘周が蝶の夢を見たのか、蝶が荘周の夢を見ているのか」。「無用の用」。「混沌に七つの穴を開けたら、混沌は死んだ」。楚王が宰相にと使者を送り、「泥の中で尾を引きずる亀でいたい」と断った。妻が死んで、盆を叩いて歌った。内篇7篇が荘子の作で、外篇と雑篇は後の人。魏晋の玄学、禅、そして中国の絵と詩の半分は、ここから。蒙(商丘)
- アルキメデス人物BC287年頃 – BC212年浮力の原理と円周率の評価を残し、投石機で祖国を守った。ローマ兵に殺される。
- 屈原の入水できごとBC278年頃最初の名の分かる詩人楚の王族の詩人。秦との同盟に反対して讒言で退けられ、二度追放された。秦が楚の都・郢を落とした年、湖南の汨羅江に石を抱いて入った。『離騒』『九歌』『天問』。「世を挙げて皆濁り、我独り清めり。衆人皆酔い、我独り醒めたり」。中国で最初の、名前の分かる詩人。人々が舟で探し、米を撒いて魚に食べられないようにした、というのが端午の節句と粽と龍舟の由来とされる。汨羅江
- エラトステネス人物BC276年頃 – BC194年頃地球の大きさを棒の影から出した井戸の影の差から地球の大きさを計算した。誤差は数パーセントに収まる。
- 荀子と稷下の学できごとBC260年頃性は悪斉の稷下の学宮で、荀子は3度「祭酒」(学長)になった。「人の性は悪、その善なるものは偽(人為)である」。孟子の性善説に反対した。礼は聖人が作った制度で、学んで身につける。天は意志を持たず、人が治める。「天を制して用いる」。弟子に韓非と李斯。儒家から法家が出た。楚の蘭陵で死んだ。『荀子』32篇。漢の儒教は荀子の儒教で、宋の儒教は孟子を選んで、荀子を外した。臨淄
- 『韓非子』できごとBC233年頃人は利で動く、という前提から制度を組む法・術・勢で君主が国を保つ道を説いた。始皇帝が感嘆し、そして著者を獄死させた。咸陽

- カルネアデス人物BC214年 – BC129年カルネアデスの板キュレネ生まれ。アカデメイアの学頭で、懐疑主義の完成者。「確実な知識はない。ありそうなことで生きる」。書かなかった。弟子が書いた。ローマで二日続けて逆のことを説き、追い返された。板の話。難破で一枚の板を二人が争ったら。
- 『ラーマーヤナ』の成立できごとBC5世紀からAD2世紀にかけて同じ話が、渡った先ごとに違う結末を持つ王子ラーマが、さらわれた妻シーターを取り戻す物語。インドを越えて東南アジアへ渡り、タイ、インドネシア、カンボジアで別々の形になった。ウッジャイン

- 董仲舒人物BC179年頃 – BC104年頃天と人は感応し、皇帝の失政は天災で示される、と説いた。儒学を国の学問にする献策をし、皇帝の権力に儒教の枠をはめた。
- カルネアデスのローマ訪問できごとBC155年懐疑主義アテナイの三人の哲学者が使節として来た。アカデメイアの学頭は一日目に正義を讃え、二日目に正義を否定して、同じ聴衆を説得した。大カトーは「早く帰らせよ」と言った。ローマの若者が哲学を知った日、とされる。ローマ
- ミリンダ王の問いできごとBC150年頃ギリシアの王とインドの僧インド・グリーク朝の王メナンドロスが、僧ナーガセーナに問うた。「自我はあるか」。「車は、輪か、軸か、車体か。どれでもない。名前だけ」。ギリシアの王とインドの僧の対話。パーリ語で残った。プルタルコスは王の遺骨を都市が分け合ったと書いた。サーガラ(シアールコート)

- 儒学の官学化できごとBC136年武帝が五経博士を置き、董仲舒の献策で儒学が国の学問になった。以後2000年、官僚は儒学の経典で選ばれる。長安
- ルクレティウス人物BC99年頃 – BC55年頃生涯のことはほとんど分からない。原子論を六巻の詩にした。中世の写本はわずかしか残らず、1417年にポッジョが見つけた写本の写しから広まる。
- 『史記』の完成できごとBC91年頃伝説の時代から同時代までを紀伝体で書いた。以後2000年の中国の歴史書の型になる。長安
- 塩鉄会議できごとBC81年国が塩と鉄を専売するのは正しいか。官僚と儒者が朝廷で論じ、その記録が残った。国家と市場をめぐる最古の討論の一つになる。長安
- ルクレティウス『事物の本性について』できごとBC55年頃原子論がこの詩を通って近代に届いた世界は原子と空虚でできていて、神は関わらず、死は恐れるに足りない。エピクロスの教えを詩にした。1417年に写本が見つかり、ルネサンスを揺らす。ローマ

- パウロ人物AD5年頃 – AD65年頃キリスト教徒を捕らえて回っていた律法学者が、ダマスクスへの道で回心した。割礼を求めずに異邦人へ説き、地中海を三度回った。その手紙が新約聖書の最も古い部分になる。
- 王充人物AD27年 – AD97年頃虚妄を疾む会稽上虞。孤児で貧しく、洛陽の太学で班彪に学び、書店で立ち読みして暗記した。地方の小役人。『論衡』85篇、30年。「天に意志はなく、雷は火、鬼はいない、孔子も誤る」。家に本がなく、壁に筆を置いて、思いついたら書いた。「虚妄を疾む」。
- 張道陵人物AD34年 – AD156年正一盟威の道張陵。沛の人。太学で学び、江州の令になり、辞めて山に入った。鶴鳴山で太上老君から「正一盟威の道」を授かった、と伝える。米五斗。符水。24の治。孫の張魯。天師。「張天師」は63代を経て、龍虎山から台湾へ。
- プルタルコス人物AD46年頃 – AD120年頃デルフォイの神官ボイオティアのカイロネイア。「小さな街で、もっと小さくならないように」と生涯そこに住み、デルフォイの神官を30年務めた。『対比列伝』『モラリア』。ローマ市民権を持ち、皇帝と交わり、ギリシア語で書いた。ルネサンスと啓蒙は、彼の本で古代を学んだ。
- 王充『論衡』できごとAD80年頃天に意志はない会稽の貧しい書生が、書店で立ち読みして暗記し、85篇を書いた。「天は意志を持たない」。「雷は火」。「人は死ねば鬼にならない」。「孔子も間違える」。「虚妄を嫌う」。当時は読まれず、200年後に蔡邕が隠して読んだ。中国で最も徹底した懐疑の本。紹興(会稽)
- 蔡倫の製紙法できごとAD105年考えを保存して運ぶ器樹皮や布くずから安価な紙を作る方法をまとめた。600年後、タラス河畔で西へ渡る。洛陽
- プルタルコス『対比列伝』できごとAD110年頃歴史でなく生涯をギリシア人とローマ人を一人ずつ並べて、23組。アレクサンドロスとカエサル、デモステネスとキケロ。「私は歴史でなく、生涯を書く」。小さな言葉と冗談に人柄を見た。シェイクスピアが4つの劇をここから取った。カイロネイア
- 五斗米道の始まりできごとAD142年米五斗張陵が鶴鳴山で老君から啓示を受けた、と伝える。病は罪、罪を告白して治す、入信料は米五斗。孫の張魯が漢中を30年治めた。義舎で旅人に米と肉を無料で。曹操に降って、道教は残った。天師道。張天師は今も台湾にいる。鶴鳴山

- マルキオンの正典できごとAD144年正典を決め始めたシノペの船主の子が、ローマの教会に大金を寄付して、追放された。「旧約の神は、正義で残酷。イエスの神は、愛。別の神」。ルカ福音書とパウロの10通を削って、自分の聖書を作った。教会はそれに答えて、自分の正典を決め始めた。彼の教会は300年続いた。ローマ
- ナーガールジュナ人物AD150年頃 – AD250年頃「空」の論理が大乗の方向を決めた「空」の論理を組み立て、大乗仏教の方向を決めた。東アジアの仏教の諸宗派が、そろって彼を祖と数える。
- 『自省録』できごとAD170年頃皇帝が自分に向けて書いた覚書北方の戦陣で皇帝が自分に向けて書いた覚え書き。公開するつもりのない文章が残った。

- 何晏人物AD195年 – AD249年粉侯何進の孫。母が曹操の妾になり、曹操の家で育ち、曹操の娘を妻に。「粉侯」。顔が白く、白粉を塗っていると疑われた。『論語集解』『道徳論』。清談。五石散。曹爽の側で、高平陵で司馬懿に殺された。三族。
- ナーガールジュナの中論できごとAD200年頃ものごとにはそれ自体で成り立つ本質が無い、という「空」の論理を組み立てた。相手の主張をその論理で崩す方法を使い、大乗仏教の方向を決めた。ナーガールジュナコンダ(南インド)(位置は特定されていない)
- プロティノス人物AD204年頃 – AD270年エジプトで学び、ペルシアの哲学を知ろうと遠征軍に加わり、ローマで教えた。肉体を恥じて誕生日を祝わず、肖像を残させなかった。
- マニ人物AD216年 – AD277年ローマから中国まで広がったバビロニアの洗礼教団に育ち、24歳で啓示を受け、光と闇の二元の宗教を作った。インドへ渡り、シャープール1世に迎えられ、自分で経典を書いて絵で説いた。次の王に鎖で繋がれて死んだ。その宗教はローマから中国まで広がり、1000年続いて、消えた。
- 王弼人物AD226年 – AD249年言は意を尽くさず『老子注』『周易注』『論語釈疑』。「無」。「言は意を尽くさず。意を得て言を忘れる」。何晏が「後生畏るべし」。24歳で死んだ。曹爽が高平陵で倒れた年。彼の『老子』と『周易』の注は、それから1800年、教科書。24歳で。
- 正始の音(玄学の始まり)できごとAD240年無を本とする魏の正始年間。何晏が『論語集解』、王弼が『老子注』『周易注』。「無を本とする」。儒教と老荘を一つに。清談。王弼は24歳で死に、何晏は司馬懿に殺された。竹林の七賢が続いた。中国の哲学は、200年、「無」を語った。洛陽
- プロティノスの新プラトン主義できごとAD253年(書きはじめる)キリスト教とイスラームの神学が借りていく万物は「一者」から流れ出し、魂はそこへ帰ろうとする。プラトンを神秘的に読み直した体系で、キリスト教とイスラームの神学が借りていく。ローマ
- 竹林の七賢できごとAD260年頃政治を語れば殺される時代の逃げ道司馬氏が魏を乗っ取る政争の時代に、七人の名士が竹林で酒を飲み、琴を弾き、礼教を嘲った。嵆康は処刑され、阮籍は酔って逃げた。洛陽

- マニの処刑できごとAD277年光と闇の宗教シャープール1世に守られた預言者が、その子バフラーム1世に鎖で繋がれ、26日で死んだ。ゾロアスター教の神官カルティールが背後にいた。皮を剥がれて門に吊るされた、と伝わる。信徒は東西へ散った。グンデシャープール
- グプタ朝の黄金時代できごとAD320年ゼロが数として書かれたのはこの時代ゼロを含む十進法の記数法がここで整い、アラビアを経てヨーロッパへ渡る。いま世界が使う数字の出所。ウッジャイン
- ヒュパティア人物AD355年頃 – AD415年アレクサンドリアの数学者・天文学者。街の宗教対立のなかで群衆に殺された。
- アウグスティヌスの回心できごとAD386年8月告白の第8巻ミラノの庭で泣いていた修辞学の教師が、隣の家の子の「取って読め」という声を聞き、パウロの手紙を開いた。「酒宴と酩酊、淫乱と好色をやめ」。母モニカに告げた。翌年の復活祭にアンブロシウスから洗礼。『告白』の第8巻。ミラノ
- ヒュパティアの死できごとAD415年数学者が街の宗教対立のなかで群衆に殺された。アレクサンドリアの学問の終わりの象徴として引かれる。アレクサンドリア
- ナーランダー僧院の創建できごとAD5世紀前半入学に試験があった数千人が学ぶ、記録に残る最古級の大学になる。中国、朝鮮、チベット、スリランカから留学生が来た。玄奘も5年ここで学んでいる。ナーランダー
- 范縝人物AD450年頃 – AD510年頃論を売って官を買わない貧しい家。竟陵王の宴で「人の貴賤は花が風に落ちて畳に着くか便所に落ちるかの違い」と言って因果を否定した。「あなたが本を書き換えれば高官になれる」「私は論を売って官を買わない」。『神滅論』。武帝の時代に流されて戻り、また書いた。
- ボエティウス人物AD480年頃 – AD524年最後のローマ人、最初のスコラ学者ローマの貴族。執政官。テオドリックの下で「官職の長」。アリストテレスの論理学をラテン語に訳した。中世が知るアリストテレスは、彼の訳だけ。反逆の疑いでパヴィアの獄。『哲学の慰め』。棍棒で殺された。「最後のローマ人、最初のスコラ学者」。
- 范縝『神滅論』できごとAD507年刃がなければ鋭さはない「形は神の質、神は形の用。刃と鋭さのように、刃がなければ鋭さはない」。仏教の輪廻を、皇帝と60人の僧と貴族が反論する中で退けなかった。「私は本を売って官を買わない」。梁の武帝が仏教を国教にする直前の、最後の反対。南京
- ボエティウス『哲学の慰め』できごとAD524年死刑を待つ牢で書いた死刑を待つ牢で書いた。運命の車輪は回り、本当の幸福は失われないものの中にある、と。中世を通じて最もよく読まれた本の一冊になる。パヴィア

- アテナイのアカデメイア閉鎖できごとAD529年古代の学問が公に閉じられた年としてよく引かれるユスティニアヌスが異教の学校を閉じた。古代の学問が公に終わった年としてよく引かれるが、学者は東へ移って続けている。アテナイ
- ベネディクトの戒律できごとAD529年頃後世「祈り、かつ働け」とまとめられる、修道院という暮らし方の設計図になり、写本を通じて古代の書物が生き延びる器にもなった。モンテ・カッシーノ

- ホスロー1世の改革できごとAD531年アテナイを追われた哲学者を受け入れた税を土地の測量に基づく定額にし、軍を国が養う騎兵に変えた。ササン朝の最盛期で、アテナイを追われた哲学者を受け入れ、インドから『パンチャタントラ』とチェスを得た。クテシフォン
- セビリアのイシドルス人物AD560年頃 – AD636年4月4日最後の教父兄レアンデルの後を継いでセビリアの司教。兄の代に西ゴートの王レカレドがアリウス派からカトリックに改めていた。トレド公会議。『語源』『ゴート族の歴史』『事物の本性』。「教育は野蛮に対する砦」。1997年、ヨハネ・パウロ2世がインターネットの守護聖人に。
- チャトランガとチェスの伝播できごとAD600年頃大臣がクイーンになったインドで生まれた「四つの部分」という名の盤上遊戯。歩兵、騎兵、象、戦車、そして王と大臣。四つの兵科がそのまま駒になった。7世紀にペルシアへ渡ってシャトランジになり(王手を意味する「シャー・マート」が、チェックメイトの語源)、アラブ世界を経て、10世紀にヨーロッパへ。15世紀のヨーロッパで、大臣が最強の駒「クイーン」に変わった。同じ時期にイサベル女王がいたことと結びつける説がある。東へは、中国象棋、朝鮮のチャンギ、そして日本の将棋になった。パータリプトラ
- 憲法十七条できごとAD604年(推古12年)4月憲法という名だが憲法ではない「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」。「篤く三宝を敬へ」。「詔を承りては必ず謹め」。役人の心得。儒教と仏教と法家。憲法という名だが、憲法ではない。『日本書紀』が全文を載せ、後世の作という説が江戸時代から消えない。飛鳥
- 科挙の始まりできごとAD605年数千分の一の合格率それまで官吏は、家柄と推薦で選ばれた。九品官人法の下で、有力な家が官職を世襲した。隋の文帝が推薦制を廃し、煬帝が進士科を置いた。試験の成績で選ぶ。唐で制度が整い、宋で決定的になった。宋代には、答案から名前を隠し(糊名)、筆跡で分からないよう書記が写し直した(謄録)。合格率は数千分の一。試験は3日3晩、独房のような号舎に籠って行われた。家柄でなく試験で人を選ぶという考え方は、ここから世界へ広がった。長安
- 貞観の治できごとAD627年貞観政要太宗の23年。「創業と守成、いずれが難きか」。魏徴が200回諫め、太宗が聞いた。「君は舟、民は水」。人口が戻り、米が安く、死刑が29人の年があった。『貞観政要』。日本の天皇も徳川家康も読んだ。年号が理想の政治の名になった。長安

- ブラーマグプタのゼロできごとAD628年借金から借金を引くと『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』。ゼロを数として扱い、負の数(借金)を含む計算の規則を書いた最初の本。「ゼロを足しても引いても変わらない」「借金から借金を引くと財産になる」「ゼロで割ると……」(この最後だけ、彼は答えを出せなかった)。10進の位取りと、この規則が、8世紀にバグダードへ、12世紀にヨーロッパへ渡って、いまの数字になった。ビンマール(ビッラマーラ)
- イシドルス『語源』できごとAD630年頃ほとんどが誤りで最も読まれたセビリアの司教が、古代の知識を全部、20巻に。文法、医学、法、神、動物、宇宙、船、道具、食べ物。「語の起源を知れば物が分かる」。ほとんどが誤りで、中世で最も読まれた本。1000の写本。「最後の教父」。インターネットの守護聖人。セビリャ
- バクティ運動できごとAD700年儀式や身分ではなく、神への献身で救われると説いた。地方の言葉で歌われ、広く民に届く。タンジャーヴール

- シャンカラ人物AD700年頃 – AD750年頃四方に僧院ケーララのカーラティ。8歳で出家を望み、母が許さなかったので、川でワニに足を掴まれたと言って「死ぬ前に出家を許して」と頼んで許された、と伝える。ゴーヴィンダに学び、ヴァーラーナシーで教え、インド中を三度歩いて論客と討論した(クマーリラ、マンダナ・ミシュラとの論争が名高い)。四方に僧院(シュリンゲリ、プリー、ドヴァーラカー、バドリナート)を置いた。『ブラフマ・スートラ注』『ウパデーシャ・サーハスリー』。32歳で死んだ、と伝える。
- 鐙と騎士できごとAD700年頃鐙が封建制を生んだか鐙は中国で4世紀に、アヴァールが6世紀にヨーロッパへ。鐙に足を掛けて、槍を脇に挟んで突撃すると、馬の重さが槍に乗る(「衝撃戦」)。リン・ホワイトは1962年、「鐙が騎士を生み、騎士を養う土地の制度(封建制)を生んだ」と論じた。カール・マルテルが教会の土地を騎士に配った(732年)。反論も多い。確かなのは、8世紀から、鎧の騎兵が戦場の主で、それを養うのに村一つが要った、ということ。ポワティエ
- ラービア・アル=アダウィーヤ人物AD714年頃 – AD801年報酬でも罰でもなく、ただ愛するためにバスラの神秘家。報酬も罰も求めず、ただ神を愛するという考え方をイスラームの信仰にもたらした。
- アルクィン人物AD735年頃 – AD804年群衆の声は狂気に近いヨークの学校で学び、カール大帝に招かれてアーヘンの宮廷学校を率いた。七自由学芸を教え、写本の書体を整え、皇帝に「民の声は神の声、と言う者に耳を貸すな。群衆の騒ぎは狂気に近い」と手紙を書いた。
- 韓愈人物AD768年 – AD824年儒教の道統を立てた仏舎利を宮中に迎える皇帝に「仏骨を論ずる表」を出して、潮州に流された。古文を復興し、儒教の道統を立てた。朱子学は、この人から始めることが多い。潮州でワニに文を送って追い払ったと伝わる。
- シャンカラの不二一元論できごとAD800年頃梵我一如南インドのケーララに生まれ、32歳で死ぬまでに、インド中を歩いて論争し、四方に僧院を建てた。「ブラフマンのみが実在で、世界は幻(マーヤー)であり、個我はブラフマンに他ならない」。梵我一如。『ブラフマ・スートラ』の注釈。仏教を論駁しながら、その論理を吸収したので、後の人に「仮面の仏教徒」とも呼ばれた。ヒンドゥー教が仏教を押し戻し、インドの主流に戻る転換点にいた。シュリンゲリ
- フワーリズミーの代数できごとAD820年頃移項と同類項知恵の館の学者が『ジャブルとムカーバラの計算の書』を書いた。「ジャブル」は移項(負の項を反対側へ移す)、「ムカーバラ」は同類項の整理。二次方程式を6つの型に分けて、幾何の図で解を証明した。記号はなく、全部が言葉で書かれている。ラテン語訳の題「アルジェブラ」が代数の名になり、彼の名前のラテン読み「アルゴリトミ」が算法(アルゴリズム)の語源になった。バグダード

- バグダードの知恵の館できごとAD830年頃ギリシアの本がアラビア語になり、のちにラテン語へ戻るギリシアやインドの書物がアラビア語に訳された。この蓄積が後にヨーロッパへ還る。バグダード

- ミフナ(審問)できごとAD833年鞭打たれたイブン・ハンバルマームーンが死ぬ4か月前に「クルアーンは被造物である」と法学者に認めさせよと命じた。ムウタジラ派の教義。拒んだイブン・ハンバルは鞭打たれた。15年。ムタワッキルが止めた。カリフが教義を決めることは、それきり二度と受け入れられなかった。バグダード
- サーマーン朝の興りできごとAD875年イブン・シーナーの図書館バルフの貴族の孫たちがカリフからトランスオクシアナを与えられた。ブハラ。ペルシア語をアラビア文字で書き、宮廷で使った。ルーダキー、フェルドウスィーの『王書』。イブン・シーナーがブハラの図書館で学んだ。トルコの奴隷兵を育て、その奴隷兵に取られた。ブハラ
- 安倍晴明人物AD921年 – AD1005年五芒星陰陽師。賀茂保憲に学び、天文博士。花山天皇の出家の夜、星を見て「天皇が退位した」と言った、と『大鏡』。道長を呪詛から守った。『今昔物語』『宇治拾遺』で式神を使い、狐の子とされ、江戸で浄瑠璃に、平成で夢枕獏の小説に。晴明神社。五芒星。
- トルテカのトゥーラできごとAD950年頃トルテカは職人の意味にテオティワカンの後、メキシコ中央の中心。4.6メートルの戦士の石柱。チャクモール。ケツァルコアトルを名乗った王が追われて東へ去った、と伝える。アステカは自分たちの祖をトルテカに求め、「トルテカ」は「職人」の意味になった。1150年頃に焼かれた。トゥーラ
- アズハル学院の創設できごとAD972年千年続いている学院現存する最古級の大学。1000年以上、イスラム世界の学問の中心であり続ける。カイロ
- イブン・スィーナー人物AD980年 – AD1037年治癒の書『医学典範』は、イスラーム世界でもヨーロッパでも600年にわたって教科書として使われた。哲学者でもあり、宮廷の医師でもあった。
- 源信『往生要集』できごとAD985年(寛和元年)八大地獄比叡山横川の僧が、経と論から極楽と地獄を集めた3巻。「厭離穢土、欣求浄土」。八大地獄。等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間。念仏で極楽へ。宋に送られて「日本の小釈迦」と呼ばれた。地獄の絵は、この本から描かれた。比叡山横川
- 范仲淹人物AD989年 – AD1052年岳陽楼記2歳で父を失い、母が再婚し、朱説と名乗って育った。寺で粥を凍らせて4つに分けて食べた。進士。西夏との戦いで「小范老子」。慶暦の改革。「岳陽楼記」。「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」。義荘。一族のための田。中国の福祉の始まり。
- 『源氏物語』できごとAD1008年頃長編の物語として世界で最も古い部類に入る。作者の本名は分かっていない。京都

- ニザームルムルク人物AD1018年 – AD1092年二代のスルタンに30年仕えた宰相。イクター制で軍を養い、マドラサを各地に建てた。統治論『政治の書』を残し、イスマーイール派の刺客に殺された。
- 末法の始まりできごとAD1052年(永承7年)末法1万年釈迦の死から2000年、正法1000年、像法1000年が終わり、末法1万年が始まると計算された。教えだけ残って行も証もない。この年、頼通が平等院を。源信の『往生要集』が読まれ、経を土に埋める経塚が各地に。法然、親鸞、日蓮、道元は末法の中で生まれた。京都
- ガザーリー人物AD1058年 – AD1111年12月19日舌が動かなくなったトゥース。ジュワイニーに学び、33歳でニザーミーヤの教授。『哲学者の矛盾』。1095年、危機。「舌が動かなくなった」。教授を捨て、ダマスクス、エルサレム、メッカ。スーフィー。『宗教諸学の再興』40巻。『誤りから救うもの』。「イスラームで最も影響力のある人」。
- ニザーミーヤ学院の創設できごとAD1065年給費で学生を集める学校の形宰相が建てた法学の学院。給費で学生を集め、教授を雇う。マドラサという形式が、ここからイスラム世界に広がる。バグダード
- 王安石の新法できごとAD1069年国が農民に金を貸す神宗が宰相にした。青苗法、募役法、均輸法、市易法、保甲法、方田均税法。国が農民に金を貸し、労役を金で代え、大商人の利を国が取る。司馬光、蘇軾、欧陽修が反対した。「祖宗の法を変えるな」。新法党と旧法党が50年争い、宋は弱った。開封
- 烏台詩案できごとAD1079年檜は不忠蘇軾の詩が「新法を誹謗している」と御史台に訴えられ、獄で4か月。「根は九泉に到りて曲がる所なし」の檜は皇帝への不忠、と読まれた。死刑を求められ、太皇太后と王安石が助けた。黄州へ。そこで『赤壁賦』と「東坡」。中国で最初の文字の獄と言われる。開封
- ジャラーリー暦できごとAD1079年三次方程式マリク・シャーがイスファハーンに天文台を建て、オマル・ハイヤームら8人に暦を作らせた。春分を年の始めに。1年を365.2424日。グレゴリオ暦より正確。ハイヤームは三次方程式を幾何で解き、酒と無常の四行詩を書いた。イランの暦は、いまもこれ。イスファハーン
- ピエール・アベラール人物AD1079年 – AD1142年4月21日然りと否ブルターニュの騎士の長男が、剣を捨てて論理学を選んだ。師を全員論破した。「然りと否」。普遍論争の「概念論」。三位一体の本で二度、異端に。ベルナールが敵。『我が災厄の歴史』。クリュニーの分院で死んだ。「私は知らない、と言えないなら、哲学者ではない」。
- トレドの陥落できごとAD1085年アラビア語の蔵書がラテン語に訳されるキリスト教勢力が学問の都を得た。ここでアラビア語の蔵書がラテン語に訳され、ギリシアの知がヨーロッパへ戻る。トレド
- ボローニャ大学の創立できごとAD1088年現存する最古の大学。学生が教師を雇う組合として始まり、法学の研究から発展した。ボローニャ
- ガザーリー『哲学者の矛盾』できごとAD1095年哲学より神秘をニザーミーヤ学院の教授が、イブン・シーナーの哲学を20の点で「矛盾」と論じ、3点で「不信仰」と裁いた。世界の永遠、神の個物の認識、肉体の復活。その年、教授を辞めて、10年放浪した。「私は言葉で信じていて、心で信じていなかった」。『宗教諸学の再興』。イスラームの神学は、それから哲学より神秘を選んだ。バグダード
- トルバドゥールの歌できごとAD1100年頃恋愛はここで作られたアキテーヌ公ギヨーム9世が、オック語で、恋の歌を作った最初の人。「フィン・アモール(雅な愛)」。手の届かない貴婦人に、騎士が仕える。ベルナール・ド・ヴァンタドゥール、ベルトラン・ド・ボルン、ジャウフレ・リュデル(「遠くの愛」)、女のトロバイリッツ(ディア伯爵夫人)。孫娘アリエノールが北へ、イギリスへ運んだ。トルヴェール、ミンネゼンガー、ダンテ、ペトラルカ。ヨーロッパの恋愛は、ここで作られた。ポワティエ
- エロイーズ人物AD1100年頃 – AD1164年5月16日神のためでなくあなたのためにラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を読む娘。叔父の家でアベラールに学び、愛した。息子アストロラーブ。結婚を拒んだ。「あなたの妻より娼婦と呼ばれたい」。アルジャントゥイユの修道女、パラクレの修道院長。手紙。「私は神のためでなく、あなたのために修道女になった」。
- アベラールとエロイーズできごとAD1117年頃妻より愛人とパリで最も人気の哲学教師が、参事会員の姪の家庭教師になり、子を作り、秘密に結婚した。叔父が人を雇って教師を去勢させた。彼は修道士に、彼女は修道女に。20年後の手紙。「妻より愛人と呼ばれたい」。二人はペール・ラシェーズに一緒にいる。ノートルダム
- イブン・ルシュド人物AD1126年 – AD1198年12月10日哲学と啓示は矛盾しないと論じたコルドバの法官にして医師、そしてアリストテレスの注釈者。ラテン世界では「注釈者」とだけ呼ばれた。
- 朱熹(朱子)人物AD1130年 – AD1200年理と気四書を選んで注を付け、理と気で世界を説いた。役人としては9年、あとは教えて書いた。生前は「偽学」として弾圧され、死んで100年で科挙の正解になる。以後600年、東アジアの読書人はこの本で試験を受けた。
- クラレンドン巡回裁判令できごとAD1166年コモン・ローの語源ヘンリー2世が、各地の12人の自由民に、地域で犯罪を犯した疑いのある者を国王の裁判官に申告させる仕組みを作った。告発する陪審である(裁く陪審になるのは後)。国王の巡回裁判官が全土を回り、同じ判断の基準を持ち帰る。地域ごとの慣習ではなく、王国に共通の法。「コモン・ロー」の語はここから来る。判例を積み上げて法とする体系が、この行政の都合から育った。クラレンドン
- イブン・ルシュドのアリストテレス注釈できごとAD1180年頃ギリシア語を読めないまま、アラビア語訳から本文と注釈を精密に書き分けた。哲学と啓示は矛盾しないと論じ、ラテン世界では「注釈者」とだけ呼ばれる。コルドバ
- マイモニデス『迷える者の手引き』できごとAD1190年アリストテレスと聖書を合わせたコルドバ生まれのユダヤ人医師が、サラディンの宮廷に仕えながら、アリストテレスと聖書を合わせる本をアラビア語で書いた。ユダヤ教の中で焼かれ、トマス・アクィナスに読まれた。カイロ

- 朱子学の成立できごとAD1190年格物致知朱熹が四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を選び、注をつけて、五経より先に読む基本の書とした。理(世界の筋道)と気(材料)。「格物致知」——物に至って理を窮める。「性即理」。仏教と道教に対抗して、儒教に形而上学を与えた。生前は「偽学」として禁じられ、死後に正統になり、1313年から科挙の答案の基準になった。日本の江戸、朝鮮、ベトナムの官学。漳州
- パリ大学の成立できごとAD1200年頃諸学の母ノートルダムの学校に集まった教師と学生が組合を作り、王から市の裁判権を免れる特権を得た。神学の中心になり、トマス・アクィナスが教えた。ボローニャと並ぶ、大学というものの原型。パリ
- 道元人物AD1200年1月26日 – AD1253年9月22日正法眼蔵内大臣の子と伝える。3歳で父、8歳で母を失った。比叡山で「本来仏なら、なぜ修行するのか」と問い、栄西の門を叩き、宋へ。天童山の如浄に「身心脱落」。帰って「只管打坐」。『正法眼蔵』。北条時頼に呼ばれて鎌倉に半年いて、寺の寄進を断って永平寺に帰った。
- 煙突の普及できごとAD1200年頃部屋が分かれ、私室ができた中世の家は、部屋の中央で火を焚き、煙は屋根の隙間から抜けた。すすで目を病み、天井は黒く、二階は作れない。12〜13世紀、壁に沿って炉を寄せ、煙道で外へ導く仕組みが広がった。結果は建築だけでなかった。煙のない部屋に天井を張れるから、家が二階建てになる。大広間で全員が一つの火を囲む必要がなくなり、部屋が分かれ、私室ができた。個人という感覚の物理的な条件の一つが、ここで整った。ロンドン
- 『ニーベルンゲンの歌』できごとAD1200年頃ニーベルンゲンの忠誠ジークフリート、クリームヒルト、ブリュンヒルト、ハーゲン、グンター、エッツェル(アッティラ)。ライン川のヴォルムスと、ドナウの向こうのフン族の宮廷。竜の血、隠れ蓑、宝、槍で背中を刺され、復讐で全員が死ぬ。5世紀のブルグント族の滅亡と、ゲルマンの神話が、宮廷の叙事詩になった。パッサウの司教の周りで書かれた、と言われる。ワーグナー、ヒトラー(「ニーベルンゲンの忠誠」)、フリッツ・ラング。パッサウ

- アルベルトゥス・マグヌス人物AD1200年頃 – AD1280年11月15日普遍博士シュヴァーベンのラウインゲン。パドヴァで学び、ドミニコ会に。ケルン、パリ(1245〜48年、教授。弟子にトマス・アクィナス)、ケルン(1248年、大学の元になる学院)。アリストテレスの全部に注釈した。植物、動物、鉱物を自分で観察した(「経験だけが確かにする」)。「普遍博士」。錬金術と魔術の噂。レーゲンスブルクの司教(2年で辞めた)。1277年、パリでアリストテレス主義が断罪されたとき、80歳近くで、弟子トマスを弁護しにパリへ行った。ケルンで死んだ。1931年、聖人、教会博士。
- フランチェスコ会の認可できごとAD1209年何も持たない布商人の息子が父の前で服を脱いで捨て、「私の父は天の父だけ」。何も持たず、乞食をし、鳥に説教した。11人でローマへ。インノケンティウス3世が口頭で認めた。10年で5000人。金を持たない修道会が、中世で最も金の集まる修道会になった。アッシジ
- 神明裁判の終わりできごとAD1215年誰が事実を決めるのか被告に熱した鉄を握らせ、傷の治り方で有罪を決める。水に沈めて浮けば有罪。決闘で決める。中世ヨーロッパの裁判は、神が正しい者を守るという前提で成り立っていた。1215年の第4ラテラノ公会議が、聖職者がこの儀式に立ち会うことを禁じた。神の保証が消えた。代わりに、人が事実を認定しなければならなくなる。イングランドは陪審へ、大陸は職権による審理と自白の重視、そして拷問へ向かった。同じ年、マグナ・カルタが署名されている。ローマ
- ドミニコ会の認可できごとAD1216年12月22日大学と托鉢カスティーリャの司祭ドミニコが、ラングドックでカタリ派に会って、説教で戻すには、彼らのように貧しく、彼らより学んでいなければならない、と考えた。「説教者修道会」。托鉢、学問、都市、大学。パリとボローニャ。アルベルトゥス、トマス・アクィナス。1231年から、教皇の異端審問官はドミニコ会士が多かった。「主の犬(ドミニ・カネス)」。トゥールーズ
- トマス・アクィナス人物AD1225年 – AD1274年3月7日もの言わぬ牛アクィノの伯爵の子。ドミニコ会に入るのを家族が1年幽閉して止めた。「もの言わぬ牛」とパリの学生が呼び、アルベルトゥスが「この牛の声は世界に響く」。『神学大全』『対異教徒大全』。太っていて、机に半円を切った。リヨンへ向かう途中で死んだ。1323年、聖人。「天使博士」。
- ラームカムヘーン人物AD1237年頃 – AD1298年頃タイ文字を作ったとされる。碑文の真贋に議論があるタイ文字を作ったと碑文が伝える。その碑文が後世の偽作ではないかという説が出て、いまも議論が続いている。
- 水の法廷できごとAD1238年ごろバレンシアの周りの平野には、ムスリムの時代に掘られた用水路が網の目のように走っていた。1238年に町を征服したアラゴン王ハイメ一世は、水の分け方を「サラセン人の時代のとおりに」続けるよう認めた。用水路ごとに農民が選ぶ代表が集まり、水の盗みや順番の争いを裁く。いまも木曜の正午、大聖堂の使徒の扉の前に八人の代表が座り、その場で訴えを聞いて、その場で裁く。書類も弁護士もなく、言葉はバレンシア語である。判決は、それでも守られてきた。守るのは、同じ水路の下流と上流に住む隣人だからである。バレンシア
- 道元の永平寺できごとAD1244年有時宋から帰った道元は「只管打坐」、ただ坐れ、と説いた。京で比叡山に嫌われ、越前の山に寺を建てた。「永平」は中国に仏教が来た年号。『正法眼蔵』95巻。「現成公案」。「有時」。時間と存在を書いた最初の日本語の哲学。永平寺
- ルーミー『精神的マスナヴィー』できごとAD1270年頃喪失から詩が法学者だった彼は、37歳のとき、放浪の修行者シャムスに会って、人が変わった。2年後にシャムスが消え(弟子たちに殺されたとも)、その喪失から詩が溢れ出した。『マスナヴィー』2万5000句。冒頭は葦笛の嘆き。「葦の笛が語るのを聞け。別れを嘆いている。葦原から切り取られてから、私の泣き声に、男も女も泣いた」。旋回舞踏(セマー)は、彼の死後、息子が儀礼にした。アメリカで最も読まれている詩人、と言われる。コンヤ
- トマス・アクィナス『神学大全』できごとAD1274年頃藁のようだドミニコ会士がアリストテレスでキリスト教を体系にした。3部、512の問題、2669の項目。「信仰と理性は矛盾しない」。神の存在の五つの道。1273年12月、ミサの後で書くのをやめた。「私が見たものに比べれば、藁のようだ」。3か月後に死んだ。未完。パリ

- オッカムのウィリアム人物AD1287年頃 – AD1347年普遍は名前にすぎないサリーの村の名を名乗るフランシスコ会士。普遍は実在せず名前にすぎない、と論理で切った。「剃刀」。清貧をめぐって教皇と争い、ミュンヘンの皇帝の宮廷に逃げ、教皇は異端だと書き続けた。黒死病の年に死んだ。
- ペトラルカ人物AD1304年7月20日 – AD1374年7月19日古代を光、その後を暗黒と呼んだアヴィニョンの教会でラウラを見て、生涯366篇のソネットを書いた。キケロの手紙を見つけ、古代を「光」、その後を「暗黒」と呼んで、ルネサンスの言葉を作った。ヴァントゥー山に登って景色のために登った最初の人とされる。机で本を読んだまま死んだ。
- 『神曲』できごと1308年ラテン語ではなく話し言葉で書いた。それがイタリア語という書き言葉を作ることになる。フィレンツェ

- 人前で、体を開くできごとAD1315年ボローニャ大学の医師モンディーノ・デ・リウッツィが、人の体を学生の前で開いた。医学は千年のあいだ、ガレノスの書物を読むことで教えられてきた。解剖そのものが禁じられていたというより、遺体をどう手に入れ、誰の目に触れさせるかが重かった。用いられたのは処刑された者の体である。教授が高い椅子から書を読み上げ、床屋外科が刀を入れ、助手が該当の部位を指す。翌年に書かれた手引きは、二百五十年にわたって教室で読まれ続けた。見ることが、読むことの下に置かれた時代が、ここから終わっていく。ボローニャ
- オッカムの剃刀できごとAD1320年頃必要なしに存在を増やすな「必要なしに存在を増やすな」。フランシスコ会の哲学者が、普遍は名前にすぎないと説いた。教皇に呼ばれて異端を疑われ、皇帝のもとへ逃げ、「剣で私を守れ、私はペンで守る」と言ったと伝えられる。オックスフォード
- 浮浪を罰するできごとAD1349年黒死病で人が減り、労働力が不足した。賃金が上がりそうになる。イングランドは労働者勅令を出し、疫病前の賃金を超えて払うことも受け取ることも禁じ、健康な者が働かずに施しを受けることを罪とした。以後、浮浪はたびたび厳罰化される。1547年の法は、三日以上働かない者を二年間の奴隷とし、胸にVの烙印を押すと定めた。過酷すぎて二年で廃止されている。移動する貧しい者を罰する法は、その後も形を変えて長く残った。ロンドン
- 『歴史序説』できごとAD1377年王朝がなぜ三代で衰えるのかを法則として書こうとした王朝の興亡を連帯意識の盛衰で説明した。社会を法則で捉える試みとして、群を抜いて早い。トンブクトゥ

- ケーララ学派の無限級数できごとAD1400年頃詩の形の数学マドハヴァが、円周率と、正弦と余弦と逆正接を、無限に続く項の和で表した。「マドハヴァ・ライプニッツ級数」(π/4=1−1/3+1/5−…)は、ライプニッツより270年早い。誤差の補正項まで作った。微積分の入り口に立っていた。写本はサンスクリットの詩の形で、南インドの外に出なかった。ヨーロッパに伝わったかどうかは、いまも研究されている。イリンジャーラクダ(ケーララ)
- ネサワルコヨトル人物AD1402年4月28日 – AD1472年王であり詩人でもあった三国同盟の一角の王であり、詩人であり、技師でもあった。堤防を築いて湖の塩水と真水を分けている。
- 線遠近法の発見できごとAD1413年頃500年続いた規則ブルネレスキが、洗礼堂を正確に描いた板に穴を開け、裏から覗いて、鏡に映した像と実景を見比べる実験をした。一点に収束する消失点。1435年、アルベルティが『絵画論』で理論にした。「絵は、開かれた窓である」。それから500年、ヨーロッパの絵は、この規則で空間を作った。1907年、ピカソがそれを壊すまで。フィレンツェ
- カビール人物AD1440年頃 – AD1518年頃布をめくると花だけヴァーラーナシー。ムスリムの織工の家で育った(捨て子だった、と伝える)。師はヒンドゥーの聖者ラーマーナンダ。生涯、機を織り続けた。詩は書かず、ヒンディーの俗語で歌った。「私はヒンドゥーでもムスリムでもない」。寺院の像も、モスクの呼びかけも、巡礼も、断食も、カーストも、批判した。死んだとき、ヒンドゥーとムスリムが遺体の扱いで争い、布をめくると花だけがあった、という伝説。彼の詩は『グル・グラント・サーヒブ』に500篇以上、収められている。
- カビールの詩できごとAD15世紀織物職人が、ヒンドゥーもイスラームも否定する詩を口語で歌った。「私はヒンドゥーでもムスリムでもない」。その詩がシク教の聖典にも収められている。ヴァーラーナシー
- 花の戦争できごとAD1450年頃花のように美しい戦いアステカとトラスカラが、生贄のための捕虜を取るために、決められた場所と日に戦った。殺さずに捕える。「花のように美しい戦い」。それで神に太陽を回させた。トラスカラは滅ぼされず、恨みを溜め、1519年にコルテスに兵を出した。テノチティトラン
- ピコ・デッラ・ミランドラ人物AD1463年2月24日 – AD1494年11月17日骨から砒素伯爵の子。ボローニャ、パドヴァ、パリ。ヘブライ語、アラビア語、カバラ。900の命題。教皇に禁じられ、フランスで捕まり、ロレンツォが救った。人妻と駆け落ちして捕まった。サヴォナローラの信者になった。31歳で死んだ。2007年、骨から砒素。
- エラスムス人物AD1466年頃 – AD1536年7月12日両方から攻撃された司祭の私生児で、修道院を嫌って出た。ギリシア語の新約聖書を印刷し、教会を笑い、ルターに「あなたは正しいが、やり方が」と言い、両方から裏切り者と呼ばれた。「ヨーロッパ最初の知識人」。「エラスムスが卵を産み、ルターが孵した」。
- グル・ナーナク人物AD1469年 – AD1539年9月22日カーストも偶像も否定したシク教の開祖。「ヒンドゥーもムスリムもいない」と語り、カーストも偶像も否定して、共に食事する場(ランガル)を置いた。
- 王陽明人物AD1472年10月31日 – AD1529年1月9日竹を7日見つめた名は守仁、余姚の人。若い頃、朱熹の「格物」に従って庭の竹を7日見つめ続けて、理を得られず病んだ。28歳で進士。1506年、宦官劉瑾を弾劾して杖40、貴州龍場へ流された。1508年、悟り。以後、講学と、そして軍。江西の反乱と、寧王の乱を50日で鎮めた(学者にして名将)。「知は行の始め、行は知の成るところ」。広西からの帰路、船中で死んだ。「此の心光明、また何をか言わん」。
- トマス・モア人物AD1478年2月7日 – AD1535年7月6日ユートピア法律家、下院議長、大法官。娘たちにギリシア語を教え、エラスムスの友人で、『ユートピア』を書き、異端者を焼かせた。王の離婚と教会首長を認めず、ロンドン塔で15か月、斧で死んだ。「髭は反逆をしていない」と髭をよけた。
- ピコ『人間の尊厳について』できごとAD1486年自分で自分を作る23歳の伯爵が900の命題を掲げ、ヨーロッパ中の学者を討論に呼んだ。教皇が13を異端として禁じた。序文の演説。「神は人間に定まった場所も形も与えなかった。あなたは自分で自分を作る」。討論は開かれず、演説だけ残った。「ルネサンスの宣言」。ローマ
- 複式簿記の刊行できごとAD1494年最も美しい発明の一つルカ・パチョーリの『算術・幾何・比および比例全書』の中の27ページ。ヴェネツィアの商人が200年使ってきた記帳法を、初めて印刷した。借方と貸方、日記帳・仕訳帳・元帳、そして「貸借が合わなければ、どこかが間違っている」。ゲーテは「人間の精神が生んだ最も美しい発明の一つ」と言った。会社が、持ち主から独立した「一つの計算の単位」になった。ヴェネツィア
- グル・ナーナクとシク教の成立できごとAD1500年頃ヒンドゥーもムスリムもいないパンジャーブのヒンドゥーの家に生まれ、川で沐浴して3日、姿を消した。戻って最初に言った。「ヒンドゥーもいない、ムスリムもいない」。神は一つ(イク・オンカール)。形を持たず、像に宿らない。カーストを認めない。出家せず、家庭を持ち、働き、分かち合う。共同の食事(ランガル)では、誰もが同じ床に座って同じものを食べる。24年、東はアッサム、西はバグダードまで歩いた。10代のグルを経て、シク教になった。アムリトサル
- 将棋の持ち駒できごとAD1500年頃他のどの系統にも現れなかったチェスも象棋も、取った駒は盤から消える。日本の将棋だけが、取った駒を自分のものとして打ち直せる。この規則がいつ生まれたかは分かっていない。16世紀の文献に現れる。駒に文字だけを書いて色で敵味方を分けないので、持ち駒が成立した、という説明がある。結果として、駒の総数が減らず、終盤ほど盤が複雑になる。引き分けが極端に少ない。取った駒を使うという発想が、他のどの系統にも現れなかったのは、いまも不思議とされる。京都
- 王陽明の龍場の悟りできごとAD1508年心即理宦官の劉瑾を批判して杖刑を受け、貴州の龍場(駅站)に流された37歳の官僚が、瘴気の土地で石の棺を作って寝起きし、ある夜、跳ね起きて叫んだ。「聖人の道は、自分の性の中にすでに足りている。外の物に理を求めていたのが誤りだった」。「心即理」「知行合一」、後に「致良知」。朱子学の「外に理を求める」を裏返した。日本の中江藤樹と大塩平八郎と幕末の志士が読んだ。余姚
- エラスムス『愚神礼賛』できごとAD1511年愚かさの女神の演説愚かさの女神が自分を讃える演説をする。神学者、修道士、教皇、みな愚かさで生きている。トマス・モアの家で1週間で書いた。ラテン語で40版を重ね、教会を笑った本として、ルターの6年前に読まれた。ロンドン
- マキャヴェッリ『君主論』できごとAD1513年共和主義者が書いた君主の本フィレンツェ共和国の書記官が、メディチ家の復帰で職を失い、拷問を受け、郊外の農場に追われた。夜、汚れた仕事着を脱いで正装に着替え、書斎で古人と語る、と友人に書いた。4か月で書いた。君主は、愛されるより恐れられるほうがよい。必要なら約束を破る。運命は女で、大胆な者に従う。復職のためにメディチに献じたが、読まれなかった。死後5年で刊行され、禁書になり、以後500年、読まれ続けている。フィレンツェ
- トマス・モア『ユートピア』できごとAD1516年私有財産のない島「どこにもない場所」。私有財産がなく、6時間働き、金を便器に使う島。羊が人を食うイングランドの囲い込みを、その島から批判した。書いた人は王の大法官になり、王に首を斬られた。ロンドン
- 食卓の作法できごとAD1530年恥ずかしさという感覚が、社会の側から作られたエラスムスが少年向けに書いた礼儀作法の本は、印刷されて版を重ね、各国語に訳された。鼻を手でかまない、食卓で骨を投げない、共用の皿に手を突っ込む前に指を舐めない。逆に言えば、それが当たり前だった。作法の本が売れたのは、身分が固定されなくなり、振る舞いで人を測る場面が増えたからになる。宮廷や都市で新しく上に来た人々が、教わらずに済ませられない。恥ずかしさという感覚が、ここで社会の側から作られていく。バーゼル
- クリストファー・クラヴィウス人物AD1538年3月25日頃 – AD1612年2月6日バンベルクの生まれ。イエズス会に入り、ローマ学院で四十年以上、数学を教えた。ユークリッドの注釈と算術の教科書は各国語に訳され、イエズス会の学校を通じて中国にも渡った。徐光啓と利瑪竇が訳した『幾何原本』は彼の版による。グレゴリオ暦の改暦委員会の中心となり、リリオの案を検討し、細部を定め、批判に反論する著作を書いた。ガリレオと文通し、望遠鏡による木星の衛星の観測を確認した。月にクラヴィウスの名のクレーターがある。
- イエズス会の創立できごとAD1540年9月27日100年で500校バスクの元軍人イグナティウス・デ・ロヨラが、砲弾で足を砕かれた療養中に聖人伝を読んで転じた。1534年、パリのモンマルトルで7人が誓い、1540年、教皇パウルス3世が認可した。修道院に籠もらず、世界へ出る。教皇への「第四の誓願」。『霊操』による訓練。学校を作った(100年で500校)。ザビエル、リッチ、ヴァリニャーノ、そして南米の布教区。1773年に一度解散させられ、1814年に再興された。ローマ
- グレゴリオ暦への改暦できごとAD1582年10月15日ユリウス暦の一年は365.25日で、実際より約11分長い。千二百年で十日ずれ、復活祭の基準になる春分が三月十一日に来ていた。教皇グレゴリウス13世の勅書により、1582年10月4日木曜の翌日を10月15日金曜とした。十日が消えた。閏年の規則も直した。百で割れる年は平年、四百で割れる年は閏年。カトリック諸国が先に従い、プロテスタントと正教の国は遅れた。イギリスは1752年に十一日を消し、日本は1873年、ロシアは1918年、ギリシアは1923年である。ローマ
- トマス・ホッブズ人物AD1588年4月5日 – AD1679年12月4日私と恐怖は双子アルマダの年に、母が恐怖で早産した。「私と恐怖は双子」。オックスフォード、キャヴェンディッシュ家の家庭教師(中断をはさんで約70年仕えた)。ベーコンの秘書、ガリレオに会い、デカルトと論争した。1640年、内戦を恐れてパリへ。『リヴァイアサン』。1651年、帰った。王党派に憎まれ、議会に無神論で調べられ、チャールズ2世が守った。91歳。「私は暗闇の中の跳躍をする」。
- 『西遊記』できごとAD1592年役所の風刺玄奘の求法の旅が、900年かけて、講談と芝居の中で変わり、明代に100回の小説になった。孫悟空、猪八戒、沙悟浄、白馬。石から生まれた猿が天宮を暴れ、五行山に500年封じられ、経を取りに行く。妖怪81難。呉承恩の作とされるが、確証はない。仏教と道教と民間信仰と役所の風刺が混ざった、笑いの本。東アジアで最も広く読まれた物語の一つ。南京

- ルネ・デカルト人物AD1596年3月31日 – AD1650年2月11日座標イエズス会の学校で朝寝を許され、生涯朝はベッドで考えた。三十年戦争の軍に入り、暖炉の部屋で三つの夢を見た。オランダに20年隠れて書いた。ガリレオの裁判を聞いて『世界論』を出さなかった。スウェーデン女王に朝5時に呼ばれて、肺炎で死んだ。
- ジョルダーノ・ブルーノの火刑できごとAD1600年2月17日星は太陽である宇宙は無限で、星は太陽で、その周りに世界がある、と言った元ドミニコ会士が、8年の裁判のあと花の広場で焼かれた。舌を木で止められて。「判決を受ける私より、下すあなたたちのほうが恐れている」。ローマ
- 二度に分かれた眠りできごとAD1600年頃真夜中に一時間、目覚めていた近代以前のヨーロッパで、人は夜、二度に分けて眠っていた。歴史家ロジャー・イーカーチが、日記、裁判の記録、医学書、そして文学から、数百の言及を集めた。日没後まもなく眠り、真夜中に一時間ほど目覚める。その時間に、祈り、語り、繕いものをし、隣家を訪ね、そして子を作った。医学書は、この覚醒を眠りの自然な一部として扱っている。18世紀以降、街の照明と夜の娯楽と労働時間の固定が、この習慣を消した。いま、夜中に目が覚めることは、不眠として扱われる。ロンドン
- 算盤と読み書き算盤できごとAD17世紀中国の算盤が室町の終わりに伝わり、日本で珠の数を減らした形に変わった。上に一つ、下に四つ。1627年、吉田光由の『塵劫記』が出る。米の売買、面積、両替、旅の日数を、絵入りで解いてみせた。海賊版が溢れるほど売れ、寺子屋の教科書になった。武士のためではなく、商人と百姓のための数学である。答えを載せない問題を巻末に置く習慣が生まれ、解いた者がまた本を出す。和算という、実務から離れた数学の伝統が、その連鎖から育った。江戸
- モンテヴェルディ『オルフェオ』できごとAD1607年2月24日古代の悲劇は歌われていたはずマントヴァのゴンザーガ公の宮廷。謝肉祭の余興として上演された。フィレンツェの人文主義者たちが「古代ギリシアの悲劇は全部歌われていたはずだ」と考え、語るように歌う様式(レチタティーヴォ)を作った。その実験を、モンテヴェルディが音楽として立たせた。40近い楽器を指定し、どの場面でどれを鳴らすか書いた(最初期の管弦楽法)。オペラという形式が、ここから400年続く。マントヴァ
- グロティウス『戦争と平和の法』できごとAD1625年国際法の出発点オランダの法学者フーゴー・グロティウスは、国内の宗教の争いに巻き込まれて終身刑を言い渡されたが、妻の手引きで本を運ぶ箱に隠れて城から逃げ、パリに亡命した。三十年戦争のさなかの1625年、そこで出したのが『戦争と平和の法』である。国と国の間にも、人の理性から導かれる法がある。戦争には正しい理由が要り、戦争の最中にも守るべき決まりがある。グロティウスは、神がいないと仮定しても、この法は成り立つとまで書いた。王も宗派も超えて国々を縛る法を考えたこの本は、国際法の出発点とされる。パリ
- バールーフ・スピノザ人物AD1632年11月24日 – AD1677年2月21日神に酔った人アムステルダム。ポルトガルから逃げたユダヤ人の商人の子。1656年、23歳、シナゴーグから破門。「昼も夜も呪われよ」。レンズを磨いて生きた。ラテン語名ベネディクトゥス。『神学政治論』(1670年、匿名。聖書批判、思想の自由)。『エチカ』。ハイデルベルクの教授職を断った。「静けさを愛する」。44歳、肺(ガラスの粉)。「神に酔った人」(ノヴァーリス)。
- ジョン・ロック人物AD1632年8月29日 – AD1704年10月28日心は白紙サマセットの法律家の子。オックスフォード、医学。シャフツベリ伯の医者で秘書。伯の肝臓の膿瘍を手術して助けた。伯が失脚して、1683年、オランダへ。1689年、名誉革命でメアリと同じ船で帰った。『人間知性論』(心は白紙。経験が書く)、『統治二論』、『寛容書簡』、『教育論』。カロライナ憲法を起草し、奴隷貿易の会社の株を持った。72歳。「自由主義の父」。
- アカデミー・フランセーズの創設できごとAD1635年国が言葉の正しさを定めるパリで文学を語り合っていた私的な集まりに目をつけた宰相リシュリューは、1635年、これを国王の認めた公の機関にした。アカデミー・フランセーズである。会員は40人に限られ、その務めは、フランス語を純粋で雄弁なものにし、芸術と学問を語るにふさわしい言葉に整えることとされた。会員は「不滅の人々」と呼ばれ、亡くなると後任が選ばれる。最初の辞書が出たのは、60年近く後の1694年だった。国が言葉の正しさを定める機関を持つ考えは、スペインなど他の国にも広がった。女性の会員が初めて選ばれたのは、1980年だった。パリ
- デカルト『方法序説』できごとAD1637年すべてを疑って残ったもの「我思う、ゆえに我あり」。すべてを疑って、疑っている自分だけが残った。ラテン語でなくフランス語で、匿名で、屈折光学と幾何学の序文として。座標も、この本の付録から始まる。ライデン

- ゴットフリート・ライプニッツ人物AD1646年7月1日 – AD1716年11月14日葬儀に来たのは秘書一人ライプツィヒの大学教授の子。父の蔵書を独学で読み尽くした。20歳で法学博士。生涯、ハノーファー侯家の顧問・図書館長・史料編纂官として仕えた。微積分を独自に発見し、いま使われる記号(dxと積分記号)は彼のもの。ニュートンとの先取権争いで晩年を消耗した。二進法、計算機、記号論理、単子論、「可能な世界のうち最善」。哲学、数学、法学、外交、鉱山技術。葬儀に参列したのは秘書一人だったと伝わる。
- 『リヴァイアサン』できごとAD1651年万人の万人に対する闘争内戦の間、パリに亡命していたホッブズが書いた。自然状態は「万人の万人に対する闘争」で、人の生は「孤独で、貧しく、汚く、残忍で、短い」。人々は互いに契約して、全ての権利を一人の主権者に渡す。国家は人工の巨人。表紙の巨人は無数の小さな人でできている。王党派は無神論だと言い、議会派は王権論だと言った。近代の政治哲学の最初。ロンドン
- 確率論のはじまりできごとAD1654年神の存在への賭け賭博師シュヴァリエ・ド・メレが、パスカルに二つの問いを出した。中断した賭けの掛け金をどう分けるか。パスカルはフェルマーと手紙を交わし、「これから起こりうる場合を数え上げて、期待値で分ける」という答えに達した。過去の実績ではなく、未来の可能性を数える。ここから、保険、年金、統計、そして意思決定の理論が出る。パスカル自身は、この考えを神の存在への賭けにも使った。パリ
- ベラスケス『ラス・メニーナス』できごとAD1656年フーコーが20ページ論じた画家が、大きなカンヴァスの裏側に立って、こちらを見ている。中央にマルガリータ王女と侍女たち。奥の鏡に、国王夫妻がぼんやり映る。つまり、描かれているのは、絵を見ている私たちの位置にいる国王夫妻。奥の扉には人影。誰が誰を見ているのかが、入れ子になっている。フーコーが『言葉と物』の冒頭で20ページ論じた。プラド美術館。マドリード
- 『大日本史』の編纂開始できごとAD1657年(明暦3年)作った家が倒される側に徳川光圀が江戸駒込の別邸に史局を置いて、神武天皇から後小松天皇まで、紀伝体で。明の遺臣朱舜水を招いた。250年。1906年に完成、397巻。大友皇子を天皇に、神功皇后を后妃に、南朝を正統に。この三つの判断から水戸学が出て、幕末の尊王が出た。作った家が、倒される側になった。水戸
- ニュートンのプリズムできごとAD1666年ゲーテが反論したペストで大学が閉鎖され、故郷に戻っていた年。窓の鎧戸に穴を開け、差し込む光を三角のガラスに通すと、壁に虹の帯が伸びた。当時の説では、色はガラスが白い光を「汚す」ことで生じるとされていた。彼は帯の一色だけを二枚目のプリズムに通し、それ以上分かれないことを示した。白色光は色の混合であり、プリズムはそれを分けているだけである。1704年『光学』。ゲーテは半世紀後、これに真っ向から反論する色彩論を書いた。ケンブリッジ
- パスカル『パンセ』できごとAD1670年パスカルの賭け「人間は考える葦である」。キリスト教の弁護のために書き溜めた紙片を、死後に姉と友人が綴じた。賭け、二つの無限、気晴らし、クレオパトラの鼻。順序は本人が決めていない。パリ

- スピノザ『エチカ』できごとAD1677年神即自然アムステルダムのユダヤ人共同体から23歳で破門されたレンズ磨きが、死の年に友人が遺稿を出した。幾何学の形式。定義、公理、定理、証明。「神即自然」。実体は一つ。精神と物体はその属性。自由意志はなく、必然を理解することが自由。「永遠の相の下に」。危険な本として100年隠され、ゲーテとヘーゲルとアインシュタインが読んだ。アムステルダム

- 人身保護法できごとAD1679年独裁が最初に手を付ける令状「身体を差し出せ」。人を拘束している者に対し、その人を裁判所に連れて来て、拘束の理由を示せと命じる令状。中世から存在したが、国王が無視すれば効かなかった。1679年の法律が、期限と罰則と手続きを定めて実効性を与えた。理由を示せない拘束は違法である。アメリカ合衆国憲法は、反乱や侵略のとき以外はこれを停止できないと定めた。独裁が最初に手を付けるのは、たいていこの令状である。ロンドン
- 生類憐みの令できごとAD1687年(貞享4年)殺す文化を変えた綱吉が、犬、鳥、魚、虫を殺すな、と何十回も出した。捨て子と病人と牛馬の遺棄の禁止から始まって、犬の殺傷は死罪、中野に犬小屋16万坪、犬10万匹。江戸の人は「犬公方」と言った。綱吉が死んだ10日後に廃止。近年は、戦国の殺す文化を変えた、と評価する人もいる。江戸
- ロック『統治二論』できごとAD1689年生命、自由、財産名誉革命の翌年、匿名で。第一論はフィルマーの王権神授説を潰し、第二論が本論。自然状態、自然権(生命、自由、財産)、労働による所有、同意による政府、信託、抵抗権。「政府が信託に背けば、人民は新しい立法部を作る権利を持つ」。アメリカ独立宣言はここから。ロックは死ぬまで著者だと認めなかった。ロンドン

- モンテスキュー人物AD1689年1月18日 – AD1755年2月10日ボルドーの法服貴族。ペルシア人の目でパリを描いた風刺で名を出し、20年かけて『法の精神』を書いた。権力を分けて互いに抑えさせる、という発想の元になる。
- ソル・フアナ「フィロテア修道女への返答」できごとAD1691年女性が世俗の学問に耽るのは本分から外れる、という司教の書簡に反論した。禁じる根拠は聖書に無い、台所でも哲学はできる、と。その後、筆を折る。テノチティトラン
- セイラムの魔女裁判できごとAD1692年何を証拠と認めるか牧師の娘と姪が発作を起こし、医師が「魔女の仕業」と診断した。少女たちが名を挙げ、告発が連鎖した。200人以上が告発され、19人が絞首、1人が石で圧死、5人以上が獄死した。決め手になったのは「幽霊証拠」——被害者にしか見えない霊が誰の姿をしていたか——である。マサチューセッツ総督が妻を告発されて裁判所を解散させ、幽霊証拠を禁じると、有罪はほぼ止まった。何を証拠と認めるかが、生死を分けた。セイラム

- ヴォルテール人物AD1694年11月21日 – AD1778年5月30日寛容を説き、教会を嘲った二度バスティーユに入り、イギリスに亡命し、フリードリヒ大王と文通して喧嘩した。冤罪の再審を勝ち取り、寛容を説き、教会を嘲った。
- ライプニッツの二進法できごとAD1703年易経を見て考えた0と1だけで、すべての数を書く。ライプニッツは1679年頃からこれを考え、1703年に論文として発表した。彼はイエズス会士から送られた『易経』の六十四卦の配列を見て、陰と陽が0と1に対応することに気づき、古代中国が同じ体系を持っていたのだと考えた(この解釈は現在では否定されている)。彼にとって二進法は、無(0)から神(1)がすべてを創る象徴でもあった。実用になるのは、電気の入切で計算する機械が現れてからである。ハノーファー
- 先住民による西洋批評できごとAD17世紀末〜18世紀初め自由と平等の理念が、外からの批判に育てられたウェンダットの指導者カンディアロンクが、金と身分と刑罰でしか人を動かせないフランス人を論駁した。その対話が本になり、ヨーロッパで版を重ねる。ケベック
- サミュエル・ジョンソン人物AD1709年9月18日 – AD1784年12月13日猫のために牡蠣を買いに行ったリッチフィールドの書店の子。幼時の結核性リンパ節炎で片目と片耳がほとんど利かず、生涯、不随意な動き(トゥレット症候群と推定される)があった。金が尽きてオックスフォードを中退し、ロンドンで雑文を書いて食いつないだ。辞典、シェイクスピア全集の校訂、詩、そして『詩人列伝』。会話の名手で、その言葉はボズウェルの伝記に膨大に記録された。「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ」。貧しい人々を家に住まわせ、猫のホッジのために自分で牡蠣を買いに行った。
- 正徳の治できごとAD1709年(宝永6年)西洋紀聞6代家宣と7代家継の6年、儒者の新井白石が側用人間部詮房と政治をした。生類憐みの令の廃止、金の含有量を戻した正徳金銀、長崎貿易の制限(金銀の流出を止める)、朝鮮通信使の待遇の簡素化。8代吉宗が来て、白石は追われた。『折たく柴の記』『読史余論』『西洋紀聞』。江戸
- 書いた人の権利できごとAD1710年報いることと世に返すことを、期限で折り合わせた印刷が始まってから二百年、本の権利を持っていたのは書いた人ではなく、出版の組合だった。組合が登録した者だけが刷れる仕組みで、王にとっては検閲の道具でもある。その独占が切れたとき、議会が新しい法を作った。1710年のこの法は、権利の持ち主を著者だと書いた最初の法とされる。期限も決めた。十四年、生きていればもう十四年。それを過ぎれば誰でも刷ってよい。永久ではないことが肝心だった。書いた人に報いることと、知識を世の中に返すことを、期限で折り合わせる。いまの著作権の骨組みは、ここでできた。ロンドン
- デイヴィッド・ヒューム人物AD1711年5月7日 – AD1776年8月25日必然は証明できないと論じた原因と結果は習慣で結びつけているだけで、必然は証明できないと論じた。カントが「独断のまどろみから覚まされた」と書いた相手になる。
- 持続可能という言葉できごとAD1713年「持続可能」という語は、鉱山を止めないために生まれたザクセンの銀鉱山は、坑道の支柱と製錬の燃料に大量の木を使い、周りの森を裸にしていた。鉱山を監督するハンス・カール・フォン・カルロヴィッツは1713年、林業の本を書く。伐る量を、育つ量の範囲に収めること。彼はそれを「持続する利用」と呼んだ。いま世界で使われる「サステナビリティ」という言葉は、この本のドイツ語にさかのぼるとされる。動機は自然への愛ではない。鉱山を止めないためである。資源を使い続けたいという都合から、使いすぎない決まりが生まれた。フライベルク
- 平均律クラヴィーア曲集できごとAD1722年純正な五度を積むと、十二回でもとの音に戻らない。わずかに余る(ピュタゴラスのコンマ)。どこかで狂いを押しつけるしかない。どの調も使えるように狂いを配る調律が広まりつつあった。バッハは全二十四の長短調で前奏曲とフーガを書いた。表題の wohltemperirt は等分平均律を指すとは限らず、どの調でも弾ける調律の意である。第二巻は1742年頃。ケーテン
- アダム・スミス人物AD1723年(6月5日洗礼) – AD1790年7月17日グラスゴーの道徳哲学の教授。人が自分の利益を追うことが、意図せず社会の富を増やすと論じた。「見えざる手」は本の中で一度しか出てこない。
- イマヌエル・カント人物AD1724年4月22日 – AD1804年2月12日ケーニヒスベルクから生涯ほとんど出なかった。57歳で『純粋理性批判』を出し、認識・道徳・美の三つの批判で哲学を作り直す。散歩の時刻で町の人が時計を合わせた。
- 『ガリヴァー旅行記』できごとAD1726年10月28日人間が家畜ヤフーダブリンの聖パトリック大聖堂の首席司祭が、匿名で。小人の国(政争と戦争の縮図)、巨人の国(人間の醜さ)、空飛ぶ島ラピュタ(学者の愚かさ。火星の衛星2つを予言した)、馬の国(人間が家畜ヤフー)。子供の本にされて、第4部は削られた。「私は人間という種を憎む」。イギリスとアイルランドへの怒りで書いた。ロンドン

- 石門心学できごとAD1729年京都の商家に奉公した石田梅岩は、1729年、自宅で誰でも無料で聴ける講釈を始めた。武士が上で商人が下とされた世の中で、商人が利益を得るのは武士が禄をもらうのと同じ正しい道だと説く。ただし、正直に、倹約して、人の役に立つ商いでなければならない。儒学と仏教と神道を混ぜた教えは、弟子たちによって全国の町人に広まった。商いの倫理を説いた最初の日本の思想として、のちの経営者たちにも読まれている。京都
- 本居宣長人物AD1730年6月21日 – AD1801年11月5日もののあはれ松阪の木綿商の子。京で医学を学び、松阪で小児科医をしながら、夜、『源氏物語』と『古事記』を講じた。34歳、松阪の宿で賀茂真淵に一晩会った(松坂の一夜)。「もののあはれ」。「漢意を去れ」。『古事記伝』44巻。『玉勝間』。「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」。門人500人。鈴を集めた。72歳。
- 大覚醒できごとAD1734年1730年代から40年代にかけて、イギリス領の北アメリカの植民地を、激しい信仰の復興の波が覆った。マサチューセッツの牧師ジョナサン・エドワーズの教会では、罪と地獄を説く説教に、町の人々が次々に回心した。イギリスから来た説教師ジョージ・ホワイトフィールドは、植民地を縦断して野外で説教し、数万人を集めた。信仰は教会の儀式ではなく、一人ひとりが心で体験するものだとされた。教会は新しい流れと古い流れに割れ、新しい大学がいくつも生まれた。植民地を超えて人々が同じ体験を分かち合ったことは、のちの独立への下地の一つになったともいわれる。ノーサンプトン(マサチューセッツ)
- トマス・ペイン人物AD1737年2月9日 – AD1809年6月8日イギリスのコルセット職人が、37歳でアメリカに渡って『コモン・センス』を書いた。フランス革命では国民公会の議員になり、王の処刑に反対して投獄された。
- チェーザレ・ベッカリーア人物AD1738年3月15日 – AD1794年11月28日26歳で書いた薄い本が、拷問と死刑を正面から否定した最初の本になった。ヨーロッパの刑法が、この本のあとで書き換わっていく。
- 『人間本性論』できごとAD1739年カントを揺さぶった原因と結果は習慣で結びつけているだけで、必然は証明できない。28歳が書いて売れなかった本が、のちにカントを揺さぶる。エディンバラ(啓蒙期)

- フランクリン・ストーブできごとAD1742年開いた暖炉は、熱の多くを煙突から逃がす。ベンジャミン・フランクリンは、鉄の箱を部屋の中へ突き出させ、熱い空気の通り道を工夫した暖房器具を考えた。1742年頃のことで、薪は少なくて済む。ペンシルベニアの知事は特許を与えると申し出たが、フランクリンは断った。他人の発明から多くの恩恵を受けているのだから、自分の発明も自由に使ってもらうべきだと自伝に書いている。実際の設計には欠点もあり、のちの改良品がその名で売られた。フィラデルフィア
- ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ人物AD1746年1月12日 – AD1827年2月17日子供の側からチューリヒ。5歳で父を失った。ルソーの『エミール』。ノイホーフの農場で貧民の子を教えて破産(1774〜80年)。『隠者の夕暮』『リーンハルトとゲルトルート』(小説で教育を説いた。ヨーロッパ中で読まれた)。シュタンツ。ブルクドルフ、イヴェルドン。「頭・心・手」。直観、生活、母。子供の側から。フレーベル、ヘルバルトが学びに来た。「私は自分自身の全部を、自分の子供たちに与えた」。
- ジェレミー・ベンサム人物AD1748年2月15日 – AD1832年6月6日最大多数の最大幸福ロンドンの弁護士の子。3歳でラテン語、12歳でオックスフォード。法律を学んで、法律を憎んだ。「自然権は戯言、生まれながらの権利は竹馬に乗った戯言」。功利。「最大多数の最大幸福」。快楽計算。『道徳と立法の原理序説』(1789年)。監獄、救貧法、選挙法、法典、動物の権利(「彼らは苦しめるか」)、同性愛の非犯罪化(未刊)、ロンドン大学。ミル父子、急進派。遺体を解剖して、骨格に服を着せて「オート・アイコン」にし、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに座っている。
- 『法の精神』できごとAD1748年権力を分けて互いに抑えさせる立法・行政・司法を分けて互いに抑えさせる、という考えを体系にした。アメリカ合衆国憲法が、この本を最も多く引いている。パリ

- ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ人物AD1749年8月28日 – AD1832年3月22日詩人であり、行政官であり、色彩論を書いた自然研究者でもあった。『ファウスト』を60年かけて完成させる。
- 『百科全書』できごと1751年20年かけて全28巻。知識を教会と王の手から取り上げて並べ直す仕事で、たびたび発禁になっている。パリ

- 二名法できごとAD1753年分類の枠が、そのまま見方を決めてしまうそれまでの学名は、その種を他と区別するための短い記述文だった。長く、そして書く人ごとに違う。リンネは『植物の種』で、属名と種小名の二語だけを、余白に添えた。それは記述ではなく、名前である。何であるかを説明せず、ただ指し示す。動物についても『自然の体系』第十版で同じ方式を通した。以後、この二つの本の刊行日が、学名の出発点と定められている。分類の内容は何度も覆されたが、呼び方の規則は残った。ウプサラ
- 安藤昌益『自然真営道』できごとAD1753年東北の八戸で医者をしていた安藤昌益は、飢饉に苦しむ農民を見て、自ら耕さずに食べる者を厳しく批判した。武士も僧も学者も、耕さずに他人の作ったものを食べる泥棒だと言う。誰もが自分で土を耕し、上下の差の無い世の中こそ、自然の真の姿だと説いた。1753年ごろの著作の一部が刊行されたが、ほとんど知られないまま忘れられる。明治になって原稿が見つかり、封建の世に平等を唱えた思想家として再び光が当てられた。八戸
- ジョンソンの英語辞典できごとAD1755年無害な苦役者書店の組合が、フランスやイタリアのような国家的な辞典を英語にも、と企画した。アカデミー・フランセーズが60年近くかけた仕事を、サミュエル・ジョンソンは屋根裏で6人の写字生と9年で仕上げた。4万2773語。革新は、語義に文学からの引用を添えたことである。11万4000の用例。定義には彼の癖が出た。「オート麦——イングランドでは馬に、スコットランドでは人に与えられる穀物」「辞書編纂者——無害な苦役者」。150年、英語の標準であり続けた。ロンドン

- 『カンディード』できごとAD1759年最後は「自分の庭を耕そう」で終わるこの世は最善だという楽天論を、リスボン地震と戦争と奴隷制を並べて笑った。最後は「自分の庭を耕そう」で終わる。パリ

- メアリ・ウルストンクラフト人物AD1759年4月27日 – AD1797年9月10日劣って見えるのは教育を与えられていないから人権宣言が男性のものだった時代に、『女性の権利の擁護』を書いた。女性が劣って見えるのは教育を与えられていないからだ、と。娘が『フランケンシュタイン』を書く。
- ろう学校と手話できごとAD1760年頃彼らの言葉で教えるパリの司祭ド・レペが、街で出会った二人のろうの姉妹に教えるところから始めた。彼はろう者が既に互いの間で使っていた身振りの言葉に気づき、それを土台にした。ここが重要である。話し言葉を教え込むのではなく、彼らの言葉で教える。1760年頃に無償の学校を開き、公開の授業で生徒に質問させて世に示した。フランス手話がここから広がり、ガローデットがアメリカへ運んだ。一方、19世紀後半には口話法が優勢になり、多くの国で手話が学校から締め出された。パリ
- ルソー『社会契約論』できごとAD1762年主権は王ではなく人民にある人間は自由なものとして生まれた。しかし至るところで鎖につながれている。1762年、ジャン=ジャック・ルソーはこう書き出す本をアムステルダムで出版した。人びとが互いに約束を交わして一つの共同体を作り、その全体の意志に従うとき、人は自分自身に従うのだから自由でいられる、と説く。主権は王ではなく人民にある。本はフランスとジュネーヴで禁じられ、ルソーは逃げ回った。二十数年後、フランス革命の人びとはこの本を掲げた。アムステルダム
- ルソー『エミール』できごとAD1762年1762年、ジャン=ジャック・ルソーは、架空の少年エミールを家庭教師が育てていく物語の形で、教育の本を出した。子どもは小さな大人ではなく、子どもには子どもの見方、考え方、感じ方がある。大人の知識を早くから詰め込まず、自然の中で、自分の体と感覚で学ばせよ。そう説いたこの本は、宗教を論じた部分がとがめられてパリの高等法院に焼かれ、ルソーは逮捕を逃れて国を出た。だが本は広く読まれ、ペスタロッチやフレーベルの教育を通じて、子ども時代を人生の特別な時期と見る考えを育てた。ルソー自身は、自分の5人の子をみな孤児院に預けていた。パリ
- プロイセンの義務教育できごとAD1763年近代の学校の形はここに遡るフリードリヒ2世が一般地方学事通則を出し、5歳から13歳の子に就学を義務づけた。七年戦争の直後である。目的は、読み書きできる兵士と、従順で勤勉な臣民を作ることだった。教員の養成、教科の指定、そして出席の強制。19世紀に整備が進み、学年制、時間割、卒業試験(アビトゥア)が揃った。この模型が、日本、アメリカ、フランス、そして世界中に写された。近代の学校の形は、ほとんどがここに遡る。ベルリン
- ベッカリーア『犯罪と刑罰』できごとAD1764年罰は復讐ではない26歳のミラノの貴族が匿名で出した100ページの本。刑罰の目的は復讐ではなく、犯罪の抑止である。だから、罰は犯罪に比例し、確実で、迅速でなければならない。拷問は無実の弱い者を自白させ、罪ある強い者を放免するので、真実を得る手段として無効である。死刑は、抑止の効果が終身の労役に劣り、国家が殺人を犯すことで暴力を教える。各国語に訳され、エカチェリーナ2世、トスカーナ大公、そしてアメリカの起草者たちが読んだ。ミラノ

- トマス・マルサス人物AD1766年2月13日 – AD1834年12月23日人口は倍々に増え、食料は足し算でしか増えない。だから貧困は避けられない、と書いた牧師。以後200年、繁栄を疑う側の拠り所になる。
- ヴィルヘルム・フォン・フンボルト人物AD1767年6月22日 – AD1835年4月8日言語は世界の見方を作るポツダム近郊の貴族の家。弟は探検家アレクサンダー。ゲーテとシラーの親友で、シラーの創作に長く助言した。外交官としてローマとウィーンに駐在し、ウィーン会議に出た。1809年から1年半だけ内務省の教育部門を率い、その短い期間に初等教育の改革とベルリン大学の設立を進めた。晩年は言語学に没頭し、バスク語、ジャワの古ジャワ語、アメリカ先住民の言語を研究した。言語は世界を写すのではなく、世界の見方そのものを形づくる、と論じた。
- ラーム・モーハン・ローイ人物AD1772年5月22日 – AD1833年9月27日経典を読み直して内側から慣習を覆した寡婦の焚死(サティー)の廃止を求めた。経典を自分で読み直し、それは経典の要求ではないと論証する。
- 『国富論』できごとAD1776年経済学がここから一つの学問になる富は金銀ではなく労働の生産物だと定め、分業と市場が国を豊かにすると論じた。経済学がここから一つの学問になる。エディンバラ

- 『コモン・センス』できごとAD1776年1月10日王政そのものを否定した小冊子匿名の小冊子が、王政そのものを否定して独立を説いた。数か月で10万部を超え、半年後に独立宣言が出る。フィラデルフィア

- 『ローマ帝国衰亡史』の刊行できごとAD1776年歴史を脚注つきで書く型第1巻が出た年は、アメリカ独立宣言と『国富論』の年でもある。1788年に全6巻。ローマが「なぜ滅びたか」を問う型を、以後の全員がこの本から引き継ぐ。ロンドン
- 拷問の廃止できごとAD1780年自白か2人の目撃者かローマ法を継受した大陸の刑事手続きでは、死刑にするには自白か2人の目撃証人が要った。証拠が半分しかないとき、残りを埋めるために拷問が制度化されていた。18世紀、これが次々に廃止される。プロイセン1754年、スウェーデン1772年、トスカーナ1786年、フランスは1780年に予備拷問を、1788年に処刑前の拷問を廃した。理由は人道だけではない。状況証拠から裁判官が心証で判断してよい、という証拠法の転換が並行していた。パリ
- 『純粋理性批判』できごとAD1781年哲学の問いの立て方が、この本の前と後で変わった人は世界をそのまま見ているのではなく、自分の認識の形を通して見ている。哲学の問いの立て方が、この本の前と後で変わった。ケーニヒスベルク

- フリードリヒ・フレーベル人物AD1782年4月21日 – AD1852年6月21日禁止された翌年に死んだテューリンゲンの牧師の子。生後9か月で母を失い、孤独な少年期を過ごした。森林管理の徒弟、測量、建築を経て、ペスタロッチの学校で教えた。ナポレオン戦争に義勇兵として従軍。1837年、幼児のための施設を開き、1840年に「キンダーガルテン」と名づけた。球と立方体から始まる20の恩物を設計し、遊びを教育の中心に置いた。1851年、プロイセンが幼稚園を禁止(甥の無神論的な著作と混同された)。その翌年、失意のうちに死んだ。
- シラー『群盗』初演できごとAD1782年1月13日疾風怒濤22歳の軍医が、公爵の軍医学校で夜に書いた劇。兄弟の憎しみ、盗賊団の首領になった長男、自由と反逆。マンハイムの劇場で、客が叫び、失神し、抱き合った。「疾風怒濤」。公爵は「これ以上書くな」と言い、シラーは逃げた。フランス革命はシラーに名誉市民権を贈った。『ドン・カルロス』『ヴァレンシュタイン』『ヴィルヘルム・テル』『歓喜に寄す』。マンハイム
- パリの地下納骨堂できごとAD1786年ここは死の帝国であるサンティノサン墓地は、1000年近く使われ、200万体が埋まっていた。地面が数メートル盛り上がり、隣家の地下室の壁が腐乱した死体の重みで破れる事件が起きた。1780年、閉鎖。市は、石灰岩を掘り出した後の地下坑道へ、遺骨を移すことにした。夜、松明を掲げた行列が、荷車で骨を運んだ。移送は数十年続き、600万体分が納められた。骨は種類ごとに積み上げられ、壁として整えられた。入口に「止まれ、ここは死の帝国である」と刻まれている。パリ
- 寛政の改革できごとAD1787年(天明7年)異学の禁白河藩主松平定信が老中首座になって、田沼の政策を戻した。棄捐令で旗本の借金を帳消し、囲米、旧里帰農令、寛政異学の禁(朱子学以外を昌平坂で教えない)、山東京伝と蔦屋重三郎の処罰、石川島の人足寄場。「白河の清きに魚のすみかねて、もとの濁りの田沼こひしき」。6年で辞めた。江戸

- アメリカ合衆国憲法の制定できごとAD1787年9月17日独立したアメリカの13の邦は、ゆるい連合を組んでいたが、中央の政府には税を取る力も軍を持つ力も無く、借金も邦どうしの争いも収められなかった。1787年夏、各邦の代表55人がフィラデルフィアに集まり、扉を閉ざして4か月話し合い、まったく新しい憲法を書いた。法を作る議会、法を行う大統領、法を裁く裁判所に力を分け、互いに抑え合わせる。下院は人口に応じて、上院は各州2人ずつ選ぶ。奴隷を人口の5分の3と数える妥協も入った。9月17日に署名され、9州の批准を経て1789年に動き出した。いまも使われている成文の憲法としては、世界で最も古い。フィラデルフィア
- 人権宣言できごとAD1789年8月26日人は生まれながらに自由で権利において平等である。国民議会が17条で書いた。女性は含まれておらず、2年後にグージュが「女性の権利宣言」で問い直す。パリ

- 最初の国勢調査できごとAD1790年8月2日合衆国憲法は、下院の議席と直接税を人口で割り振ると定め、そのために十年ごとに数えることを義務づけた。国家が、自分の民を定期的に数える最初の仕組みである。連邦保安官が戸別に回った。記録したのは世帯主の名と、六つの区分だけ。十六歳以上の自由白人男性、十六歳未満の自由白人男性、自由白人女性、その他の自由人、そして奴隷。総数 3,929,214人、うち奴隷 697,681人。奴隷は議席の計算では五分の三として数えられた。ニューヨーク
- ベンサムのパノプティコンできごとAD1791年見られているかもしれない円形の監獄。中央の塔から全部の独房が見え、囚人からは塔の中が見えない。見られているかもしれない、という意識が囚人を規律する。ベンサムは20年、政府に建てさせようとして、金を失った。建たなかった。フーコーが1975年に「近代の権力の図式」として掘り出した。「最大多数の最大幸福」の人が考えた、最も効率のよい監視。ロンドン
- 『女性の権利の擁護』できごとAD1792年人権宣言が男性のものだった3年後に書かれた。女性が劣って見えるのは、劣った教育しか与えられていないからだ、と論じた。ロンドン

- 国の歌できごとAD1792年同じ歌を同時に歌う経験が、国民という感覚を作る革命下のフランスがオーストリアに宣戦した夜、ストラスブールの工兵大尉が行進曲を作った。マルセイユから来た義勇兵がパリへ入るときに歌ったことから、その名で呼ばれるようになる。歌詞は血なまぐさく、敵の血で畑を潤せと歌う。1795年に国歌と定められ、帝政と王政復古の時期には禁じられ、第三共和政で復活した。国民が同じ歌を同時に歌う。その経験が、国民という感覚を作る。以後、各国が国歌を持つようになり、式典と競技場で必ず流れるようになった。パリ
- パン屋の行列できごとAD1790年代前半革命のさなかのパリでは、パンが足りず、値は統制されていた。夜明け前からパン屋の戸口に人が並び、先に来た者から売ってもらう。列はフランス語で「尾」(queue)と呼ばれ、戸口の鉄の輪に綱を結んで、並ぶ者がそれを握ったと伝えられる。英語で人の列を queue と呼ぶ用法は、この頃のフランスから入った。四十年後、トマス・カーライルは『フランス革命史』で、自然に列を作るこの才能こそフランス人を他の民から分けると皮肉を込めて書いた。行列は、足りないものを、力ではなく時間で分ける方法である。パリ
- 王の絵を民のものにできごとAD1793年8月10日革命で王が処刑された翌年、王宮だったルーヴルが美術館として開かれた。王家が集めた絵と彫刻は、国民の財産だと宣言される。週のうち数日は誰でも入れ、残りは模写をする画家のために空けられた。学ぶ場でもある、という考え方が最初から入っていた。やがてナポレオンが遠征先から美術品を運び込み、館は膨れ上がる。彼の失脚後、多くは返還された。宝物を「王のもの」から「国民のもの」へ移す動きは各国に広がり、美術館という制度が生まれる。パリ
- 十日の週できごとAD1793年数え方は理屈で決まるが、暮らしの区切りは替わらないフランス革命は、暦も作り替えようとした。一年を三十日の十二か月に分け、余りを祭日にする。月の名は、風、雨、芽、花など季節から取った。そして一週間を十日にした。理由は十進法への統一と、日曜という宗教の区切りを消すことである。休みは十日に一度になった。働く側にとっては、休みが減ったことになる。農民も職人も従わず、教会の暦がそのまま使われ続けた。十二年でナポレオンが廃止する。数え方は理屈で決められても、暮らしの区切りは簡単には替わらない。パリ
- メートル法の制定できごとAD1795年4月7日王の腕や足ではなく、地球そのものを基準にする。1791年、科学アカデミーの提案で、北極から赤道までの子午線の一千万分の一を一メートルと定めた。ドランブルとメシャンが、ダンケルクからバルセロナまでを、革命と戦争のただ中で六年かけて三角測量した。二人は捕らえられ、資金を絶たれ、それでも測り続けた。1795年の法で単位系が定まり、1799年に白金の原器が納められた。地球は真球ではなく、この定義による値は現在の一メートルより約0.2ミリ短い。パリ
- カント『永遠平和のために』できごとAD1795年永遠平和の条件1795年、プロイセンがフランス革命の政府と講和を結んだ年、71歳のカントは、平和条約の形をとった小さな本を出した。将来の戦争の種をひそかに残した条約は平和条約とはいえない。常備軍はいずれ全廃する。戦争のために国が借金をしてはならない。ほかの国の体制に力で口を出してはならない。そのうえで、どの国も市民が戦争の是非を決める共和的な体制をとり、自由な国々が連合を作るべきだと説いた。戦争の苦しみを負う市民が決めるなら、軽々しく戦争はしないはずだ、という理屈である。国際連盟や国際連合を構想する人々が、この本を読み返した。ケーニヒスベルク
- 本居宣長『古事記伝』できごとAD1798年(寛政10年)漢意を去れ松阪の医者が、35年かけて『古事記』を全部注釈した。44巻。1000年、誰も読めなくなっていた古事記の音を、万葉集と祝詞から復元した。「漢意(からごころ)を去れ」。儒教と仏教の理屈で読まず、あったままを。「もののあはれ」。国学の頂点で、そこから平田篤胤の復古神道が出て、幕末の尊王が出た。松阪
- 『人口論』できごとAD1798年人口と食料の理屈人口は倍々に増え、食料は足し算でしか増えない。だから飢えと貧困は避けられない。匿名で出たこの薄い本が、以後200年の悲観論の型になる。ロンドン

- ペスタロッチのシュタンツ孤児院できごとAD1799年1月頭と心と手フランス軍がニトヴァルデンの村を焼き、孤児が残った。52歳の破産した農場主が、一人で、80人の子供と修道院の建物に住んだ。「私は彼らと泣き、彼らと笑った」。頭と心と手。生活が教育。半年で、軍が建物を野戦病院に取り、終わった。『シュタンツ便り』。イヴェルドンの学校(1805〜25年)に、ヨーロッパ中から教師が見に来た。シュタンツ
- ベンガル・ルネサンスできごと1800年英国支配下のベンガルで、社会改革と文学が同時に興った。タゴールがアジア初のノーベル賞を受ける。コルカタ

- ニュー・ラナークの実験できごとAD1800年性格は環境が作るクライド川の紡績工場を買ったロバート・オーウェンが、10歳未満の児童労働をやめ、労働時間を10時間半に減らし、工場の中に学校(1816年、性格形成学院)と、世界初とされる幼児学校と、安い店を作った。生産は落ちなかった。「人の性格は環境が作る」。1819年の工場法、協同組合、労働組合、そしてユートピア社会主義が、ここから出た。2001年、世界遺産。ニュー・ラナーク

- 見えない熱できごとAD1800年天文学者ウィリアム・ハーシェルは、太陽を観るときの色ガラスによって、目に来る熱さが違うことに気づいた。色ごとに熱の量が違うのではないか。プリズムで日光を虹に分け、その帯の上に温度計を並べていった。紫から赤へ進むほど温度は上がる。そして赤の外側、何も見えないところに置いた温度計が、いちばん高く上がった。光と同じようにふるまい、目には映らず、熱として測れるものがある。のちに赤外線と呼ばれる。目に見えるものだけが世界のすべてではないことを、温度計が示した。スラウ
- ペール・ラシェーズ墓地できごとAD1804年宗教と身分を問わないナポレオンが、市内の埋葬を禁じ、郊外に新しい墓地を作らせた。宗教と身分を問わず、誰でも入れる。個人ごとの区画を持ち、名前を刻んだ石を立て、遺族が訪ねて花を置く。それまでの共同の墓穴とは、まったく違う考え方である。当初、遠すぎるとして人気がなかった。市は、ラ・フォンテーヌとモリエールの遺骨を移し、次いでアベラールとエロイーズの墓を作った。人が集まり始めた。死者を、個人として記憶する場所が生まれた。パリ

- ナポレオン法典できごとAD1804年3月21日法の前の平等革命前のフランスには、北の慣習法と南のローマ法、そして地方ごとに数百の法体系があった。ナポレオンは4人の法律家に起草させ、自ら102回の審議のうち57回に出席した。全2281条。法の前の平等、所有権の絶対、契約の自由、宗教から切り離された婚姻。同時に、妻を夫の許可なしには何もできない立場に置いた。征服地とその模倣を通じて、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、中東、そして日本の民法へ広がった。彼は言った。「私の真の栄光は、40の戦勝ではない。永遠に生きるのは、私の民法典である」。パリ
- 右が偶数、左が奇数できごとAD1805年2月4日革命のころのパリには、番地の付け方がいくつも混在していた。通りの片側を端から順に数えて向かい側を戻ってくるものもあれば、地区ごとに通し番号を振ったものもあり、同じ通りに同じ番号が二つあることさえあった。1805年の布告で、セーヌ県知事フロショは一つの決まりにそろえた。セーヌ川に向かう通りは川に近い端から、川に沿う通りは上流の端から数え始める。進む向きに右が偶数、左が奇数。番号を見れば、川がどちらにあるかも分かる。このやり方は、いまも世界の多くの町で使われている。パリ
- ヘーゲル『精神現象学』できごとAD1807年世界精神が馬に乗って行く1806年10月、ナポレオンの軍がイェーナの町に迫るなか、大学の講師ヘーゲルは大著の原稿の最後の部分を書き上げていた。馬に乗って町を行くナポレオンを見て、世界精神が馬に乗って行く、と友人への手紙に書いたと伝えられる。翌年出版された『精神現象学』は、意識が自分を知っていく道のりを、対立とその乗り越えの繰り返しとして描いた。歴史は理性が自分を実現していく過程だ、という考えは、のちにマルクスがひっくり返して使うことになる。イェーナ
- チャールズ・ダーウィン人物AD1809年2月12日 – AD1882年4月19日種が変化することを膨大な観察で示した。人間が特別ではないという考えが広がる。
- フンボルトの大学できごとAD1810年国家は金を出すが介入しないナポレオンに敗れ、領土の半分を失った直後のプロイセンで、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトが新しい大学を構想した。中世以来の大学は、既にある知識を教える場所だった。彼はそこに研究を持ち込んだ。教授は自分の研究を教え、学生はその研究に参加する(研究と教育の一致)。国家が金を出すが、内容には介入しない(学問の自由)。実験室とゼミナールが中核になった。19世紀後半、アメリカと日本の大学が、この形を輸入した。ベルリン
- グリム童話できごとAD1812年12月20日ナポレオンに支配されたドイツで、ヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟は、ドイツの人々が語り継いできた昔話を、民族の宝として集めた。1812年の暮れに出た『子どもと家庭のための昔話集』の第1巻には、「赤ずきん」「ヘンゼルとグレーテル」「シンデレラ」など86の話が収められた。話を語ったのは、素朴な農民というより、町の教養ある家の若い女性たちが多かった。版を重ねるうちに、兄弟は性的な場面を削り、教訓を加えて、子どもに読ませる本へと書き直していった。最後の版では210話になり、聖書に次いで多くの言葉に訳されたドイツの本の一つになった。カッセル
- カール・マルクス人物AD1818年5月5日 – AD1883年3月14日産業社会の仕組みを分析し、歴史を階級の争いとして描いた。20世紀の国家の形を左右する。
- ヤーコプ・ブルクハルト人物AD1818年5月25日 – AD1897年8月8日バーゼルの牧師の家に生まれ、生涯その町で教えた。ルネサンスを「個人の発見」として描き、その像がいまも通用している。
- カールスバート決議できごとAD1819年9月20日30年地下に学生カール・ザントが、ロシアの密偵と噂される劇作家コッツェブーを刺した。メッテルニヒはそれを口実に、ドイツ連邦の全部の国に、大学の監視、学生団体の禁止、出版の検閲を課した。「メッテルニヒ体制」。1848年まで30年、ドイツの自由主義は地下に潜った。ハイネはパリに行った。ウィーン
- フリードリヒ・エンゲルス人物AD1820年11月28日 – AD1895年8月5日第二ヴァイオリンバルメンの紡績工場主の長男。マンチェスターの父の工場で働きながら『イギリスにおける労働者階級の状態』を書いた。マルクスと40年。生活費を送り続けた。「私は第二ヴァイオリンだった」。『反デューリング論』『家族・私有財産・国家の起源』。マルクスの死後、『資本論』第2巻と第3巻を編集した。狐狩りが好きだった。
- 動物を守る法できごとAD1822年子どもを守る法より、家畜を守る法のほうが早かった荷車を引く馬を鞭で打つのも、牛を市場まで殴って歩かせるのも、持ち主の自由だった。動物は財産であり、財産をどう扱おうと他人の口出しすることではない。1822年、リチャード・マーティンの提出した法が議会を通り、家畜への虐待が罰せられるようになる。人間以外の生き物を守る、世界で最初期の法である。二年後には動物虐待防止協会が作られ、自前の監視員が街を歩いて摘発した。所有物への扱いに、公共が線を引いた。子どもを守る法より、家畜を守る法のほうが早かった。ロンドン
- 点字の考案できごとAD1824年採用は死の2年後ルイ・ブライユは3歳のとき、父の革細工の錐で目を突いて失明した。パリの盲学校の生徒だったころ、軍人シャルル・バルビエが「夜間文字」——暗闇で読める12点の符号——を持ち込んだ。ブライユは、指の腹で一度に触れる大きさが要ると考え、点を6つに減らした。縦3×横2。64通り。文字も、数字も、句読点も、そして楽譜も書ける。15歳で完成させた。盲人が自分で書けるようになった最初の体系である。学校が公式に採用したのは、彼の死の2年後だった。パリ

- シューベルト『冬の旅』できごとAD1827年皆が黙り込んだ24曲。失恋した男が、冬の夜に町を出て、あてもなく歩く。菩提樹、鬼火、宿屋(墓地のこと)、そして最後に、村外れで空の手回しオルガンを回し続ける老人。「不思議な老人よ、私はあなたと行こうか。私の歌に、あなたの楽器を合わせてくれるか」。31歳のシューベルトが、死の前年に書いた。友人に聞かせたとき、皆が黙り込んだ。「この歌は、他のどれよりも私を捉えた。君たちにもいつか分かる」。ウィーン
- レフ・トルストイ人物AD1828年9月9日 – AD1910年11月20日『戦争と平和』で歴史を英雄ではなく無数の人の集まりとして描いた。晩年は財産と著作権を手放そうとして家族と対立する。
- ウェブスターのアメリカ英語辞典できごとAD1828年綴字教科書が1億部独立した国には独立した言語が要る、とノア・ウェブスターは考えた。26年かけて7万語を集め、うち1万2000語はそれまでどの辞書にもなかった。スカンク、ヒッコリー、大統領選挙人。そして綴りを変えた。colour を color に、centre を center に、defence を defense に。理屈は「発音どおりに、簡潔に」だが、動機の半分は独立宣言である。学校用の綴字教科書は1億部売れ、彼の綴りがアメリカの標準になった。ニューヘイヴン
- マタイ受難曲の復活上演できごとAD1829年3月11日過去の名作を弾き続ける習慣20歳のメンデルスゾーンが、ベルリンの歌唱協会で、100年ぶりにこの曲を演奏した。彼の祖母が写譜を贈り、彼はそれを抱えて育った。切り詰めた版で、楽器も当時のものではなかったが、聴衆は打たれた。「二代の隔たりを越えて、一人のユダヤ人がこの偉大なキリスト教の音楽を人々に返した」と彼は言った。これがバッハ再発見の始まりで、以後、音楽に「過去の名作を演奏し続ける」という習慣ができた。ベルリン
- 独房と沈黙できごとAD1829年善意から始まった孤独が、別の苦痛を生んだそれまでの牢は、判決を待つ人を放り込む場所だった。鞭打ちや追放や死刑が主な罰で、閉じ込めること自体が刑ではない。クエーカーの影響を受けたフィラデルフィアの改革者たちは、別の考えを持ち込む。人を一人きりにして、聖書と自分の心に向き合わせれば、悔い改める。放射状に伸びる廊下の両側に独房を並べ、外に出すときは頭巾をかぶせて他の囚人と顔を合わせないようにした。反省を促すはずの完全な孤独は、多くの囚人の精神を壊した。ディケンズが訪れ、これは残酷だと書いている。フィラデルフィア
- 平均人できごとAD1835年天文学者ケトレーは、観測の誤差が釣鐘の形に散らばることを知っていた。同じ形が、人の身長や胸囲にも現れることに気づく。彼はそこから「平均人」という概念を作った。平均から外れるほど、望ましくないとされる。犯罪率や自殺率も、集団としては毎年ほぼ一定であることを示し、社会にも法則があると論じた。統計を人に当てはめる道を開いた功績は大きい。同時に、平均を理想と取り違える見方も生んだ。体格指数として彼の名が残る計算式も、本来は集団を比べるための指標だった。ブリュッセル
- グリム兄弟のドイツ語辞典できごとAD1838年言語で国民を定義するメルヒェンを集めた兄弟の、本来の仕事は言語学である。兄ヤーコプは、ゲルマン語の子音が規則的に推移したことを示した(グリムの法則)。1838年、二人は生涯をかけてドイツ語の歴史的な辞典に取りかかった。ドイツがまだ統一されていない時代に、共通の言語をもって国民を定義する仕事でもあった。ヤーコプはF項の Frucht(果実)まで書いて死んだ。完成したのは1961年、着手から123年後、全32巻である。カッセル
- チャーティスト運動できごとAD1838年5月8日570万の署名1832年の選挙法改正で選挙権を得たのは中産階級だけだった。労働者は「人民憲章」6か条を掲げた。男子普通選挙、秘密投票、議員の財産資格の廃止、議員の歳費、平等な選挙区、毎年の選挙。署名128万、330万、570万(1848年、偽名が多かった)。議会は3回とも拒んだ。運動は消えた。6か条のうち5つは、1918年までに実現した。ロンドン

- ペニー・ブラックと郵便改革できごとAD1840年5月6日庶民が手紙を書くようになったそれまでの郵便は、受け取る側が距離に応じて払った。高額で、受取拒否が多く、集金の手間が費用の大半を占めていた。ローランド・ヒルは、費用を分析して、距離はほとんど関係ないことを示した。かかるのは仕分けと配達である。だから、全国どこでも重さだけで決め、前払いにし、支払いの証拠として紙片を貼る。半オンスまで一ペニー。世界初の切手。10年で郵便物は5倍以上になり、識字と教育と、庶民の手紙の習慣が広がった。ロンドン
- フレーベルと幼稚園できごとAD1840年子どもの庭それまで、就学前の子どもを預かる施設は、母親が働く間の託児所だった。フリードリヒ・フレーベルは、幼児期そのものに固有の意味があると考えた。子どもは遊びを通して世界を理解する。彼は球、立方体、円柱から始まる一連の教具(恩物)を作り、庭仕事と歌と手仕事を組み合わせた。施設を「子どもの庭(キンダーガルテン)」と名づけた。1851年、プロイセンが革命思想の温床として禁止した。彼の死後、弟子たちが世界へ広めた。バート・ブランケンブルク
- エミール・ゾラ人物AD1840年4月2日 – AD1902年9月29日私は弾劾する『ルーゴン・マッカール叢書』20巻。『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』。自然主義。1898年1月13日、『オーロール』紙の一面に「私は弾劾する」。大統領への公開書簡。参謀本部の将軍を名指しで。名誉毀損で有罪、イギリスへ逃げた。1902年、寝室の煙突が詰まって一酸化炭素で死んだ。事故か、反ドレフュス派の職人の仕業か。パンテオンに移された式典で、ドレフュスが撃たれた(軽傷)。
- ハーヴェイ・ワイリー人物AD1844年10月18日 – AD1930年6月30日インディアナの農家に生まれ、南北戦争に従軍した。医学と化学を修め、1883年から農務省の主任化学者。砂糖と食品の分析から、防腐剤と着色料の乱用を確信した。1902年、志願した十二人の若い職員に防腐剤入りの食事を摂らせて記録する試験を始めた。新聞が毒物班と名づけ、世論が動いた。1906年の法の成立に大きく寄与したが、運用をめぐって業界と省内で孤立し、1912年に辞職した。以後は雑誌で消費者運動を続けた。
- エーテル麻酔の公開できごとAD1846年10月16日押さえつけて速く切ることだったマサチューセッツ総合病院の階段教室。歯科医ウィリアム・モートンが、印刷業者ギルバート・アボットにガラスの吸入器でエーテルを吸わせ、外科医ウォーレンが首の腫瘍を切った。患者は動かず、叫ばなかった。ウォーレンが振り向いて言った。「諸君、これはインチキではない」。それまで手術は、押さえつけて、速く切ることだった。1年で世界中に広がった。「エーテル・ドーム」。ボストン

- ゼンメルワイスの手洗いできごとAD1847年5月認められずに死んだウィーン総合病院の産科は、医師の病棟の産褥熱の死亡率が10%を超え、助産婦の病棟は4%だった。ゼンメルワイスは、医師が朝の解剖から手を洗わずに分娩に来ることに気づいた。晒し粉の水で手を洗わせた。死亡率が1%台に落ちた。同僚は「自分たちが殺していた」と言われたに等しく、認めなかった。彼は職を追われ、精神病院で、看守に殴られた傷の敗血症で死んだ。47歳。細菌はまだ知られていなかった。ウィーン
- 『共産党宣言』できごとAD1848年2月21日妖怪がヨーロッパを共産主義者同盟の綱領として、マルクス29歳とエンゲルス27歳が書いた。23ページ。「一つの妖怪がヨーロッパを徘徊している」。「これまでの全ての社会の歴史は階級闘争の歴史である」。「万国のプロレタリア、団結せよ」。1848年革命の直前に出て、革命の中では読まれなかった。50年で35の言語。20世紀に、これを綱領にした国が世界の3分の1を治めた。ロンドン

- ジークムント・フロイト人物AD1856年5月6日 – AD1939年9月23日話す治療モラヴィアのフライベルク。4歳からウィーン。神経科医。シャルコーのヒステリー、ブロイアーのカタルシス、コカイン。「話す治療」。『夢判断』『日常生活の精神病理学』『性欲論三篇』『トーテムとタブー』『快感原則の彼岸』『自我とエス』『文化への不満』。ユングとアドラーと別れた。葉巻を1日20本、顎の癌を33回手術した。1938年、ナチスがウィーンに来て、ロンドンへ。翌年、モルヒネで死んだ。
- フレデリック・テイラー人物AD1856年3月20日 – AD1915年3月21日フィラデルフィアの裕福なクエーカーの家。ハーヴァードに合格しながら、視力を理由に進学せず、機械工の徒弟に入った。ミッドヴェール製鋼で職長になり、労働者との対立から、作業を計測する方法に向かう。高速度鋼の開発でも知られる。ストップウォッチと分析用紙を持ち込み、無駄な動作を削る。1911年『科学的管理法の原理』。効率の思想としてフォードにもレーニンにも受け入れられた。極端な性格で、庭の芝の刈り方まで最適化しようとしたと伝えられる。
- オックスフォード英語辞典できごとAD1857年精神病院からの寄稿者語の意味を定めるのではなく、その語が歴史の中でどう使われてきたかを、用例で示す。1857年に文献学協会が構想し、完成まで71年かかった。方法は市民の参加である。世界中の読者に本を割り当て、語の用例をスリップに書いて送らせた。集まった紙片500万枚。編集主幹マレーは庭に鉄板の小屋を建て、1000個の仕切りにそれを収めた。最大の寄稿者の一人マイナーは、殺人を犯してブロードムア精神病院に収容されていた軍医だった。1928年完成、全10巻、41万4825語。オックスフォード

- エリエゼル・ベン・イェフダー人物AD1858年1月7日 – AD1922年12月16日リトアニアの生まれ。本名はペレルマン。イェシーバーで学び、そこで世俗の書に触れて追い出された。パリで医学を志し、結核で断念する。1881年、妻とともにエルサレムへ移り、家庭でヘブライ語しか使わないと決めた。長男イタマルは、その言語の最初の母語話者である。新聞を出し、語を作り、辞書の編纂に生涯を費やした。正統派の一部は、聖なる言葉を日常に落とすことに強く反対した。辞書は死後、十七巻で完成した。
- 『種の起源』できごとAD1859年11月24日人を特別な生き物の座から降ろした種が変化することを膨大な観察で示した。人間が特別ではないという考えが広がる。ロンドン

- ルドヴィコ・ザメンホフ人物AD1859年12月15日 – AD1917年4月14日ビャウィストクの生まれ。ユダヤ人で、家庭ではイディッシュ語とロシア語を話した。父は語学教師である。町では四つの言語集団が反目しており、その原因を言葉に見た。学生のころから人工言語を作り始め、眼科医として開業しながら完成させた。1887年、妻の持参金で小冊子を出版する。運動が広がると、彼はその指導者であることを避け、言語は誰のものでもないと述べた。三人の子は、後にナチスによって殺されている。
- 『ソルフェリーノの思い出』できごとAD1859年6月24日通りがかりの商人が、敵の兵も同じように手当てした北イタリアのソルフェリーノで、フランス・サルデーニャ軍とオーストリア軍が一日戦い、死傷者は数万にのぼった。商用で通りがかったジュネーヴの実業家アンリ・デュナンは、近くの町の教会に運び込まれた負傷兵が、手当てを受けられずに死んでいくのを見た。軍の衛生隊はわずかしかいない。彼は町の女たちを集め、敵のオーストリア兵も同じように手当てした。女たちは「みな兄弟」と言ったと伝えられる。三年後、彼は自費でその光景を本にし、戦争のたびに負傷者を助ける民間の団体を、平時から各国に作っておくべきだと書いた。ソルフェリーノ
- ミル『自由論』できごとAD1859年多数派による社会の専制人が他人に力を振るってよいのは、その人が他人に害を与えるのを防ぐときだけである。1859年、ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』でこう論じた。本人のためを思って、という理由で個人の生き方に口を出してはならない。恐れていたのは王の専制よりも、多数派の意見が少数派を黙らせる、社会の専制だった。前の年に亡くなった妻ハリエット・テイラーとの共同の仕事だとミル自身が書いている。いまも自由をめぐる議論の出発点になる本である。ロンドン
- ピエール・ド・クーベルタン人物AD1863年1月1日 – AD1937年9月2日借りてきた言葉パリの貴族の家。普仏戦争の敗北を子供の頃に見て、フランスの再生には教育とスポーツが要ると考えた。イギリスのパブリック・スクールとアーノルド校長の理念を研究した。1894年、ソルボンヌで国際会議を開き、オリンピックの復興を決めた。IOC会長を29年。「参加することに意義がある」(実際にはペンシルベニアの主教の説教から借りた言葉)。女性の参加には最後まで否定的だった。
- ヘンリー・フォード人物AD1863年7月30日 – AD1947年4月7日20世紀の工業とその影ミシガンの農家。機械が好きで、農業が嫌いだった。エジソン照明会社の技師から、1903年、フォード自動車。1908年、T型。1913年、流れ作業。1914年、日給5ドル。1500万台。「顧客は好きな色を選べる。それが黒である限り」。同時に、労働組合を暴力で潰し、反ユダヤ主義の新聞を出し(後に謝罪した)、ナチスが彼を讃えた。20世紀の工業と、その影を、一人で体現した。
- 第一インターナショナルできごとAD1864年9月28日労働者自身の仕事セント・マーチンズ・ホール。イギリスの労働組合、フランスのプルードン派、イタリアのマッツィーニ派、ドイツの亡命者。国際労働者協会。マルクスが創立宣言と規約を書いた。「労働者階級の解放は労働者階級自身の仕事である」。バクーニンとマルクスが割れ、1872年、本部をニューヨークに移して、1876年、解散した。第二インターは1889年。ロンドン

- マックス・ウェーバー人物AD1864年4月21日 – AD1920年6月14日資本主義を生んだのは強欲ではなく、来世の不安から来る勤勉だと論じた。社会学という学問の骨格を作り、56歳でスペイン風邪に倒れた。
- 第一回ジュネーヴ条約できごとAD1864年8月22日デュナンの本に動かされたジュネーヴの五人が委員会を作り、各国の代表を呼んで話し合いを重ねた。1864年8月、十二か国が条約に署名する。戦場の傷病兵は、どちらの国の兵であっても収容して手当てする。野戦病院とそこで働く者は攻撃しない。そのしるしとして、白地に赤い十字を掲げる。わずか十条の取り決めだった。戦争そのものは禁じていない。戦争をする国どうしが、戦争の最中にも守る決まりを、戦争の前に約束したのは、これが初めてである。ジュネーヴ
- アポマトックスの降伏できごとAD1865年4月9日また我々の同胞だリー将軍の北ヴァージニア軍は2万8000に減って、食糧がなかった。マクリーンの家の居間で、リーは正装で、グラントは泥のついた兵卒の服で会った。降伏の条件:武器を置いて帰れ、馬は持って帰ってよい、春の耕作に要る。逮捕しない。北軍の兵が祝砲を撃ち、グラントが止めた。「彼らはまた我々の同胞だ」。5日後、リンカーンが撃たれた。アポマトックス

- ドストエフスキー『罪と罰』できごとAD1866年賭博の借金に追われていたフョードル・ドストエフスキーは、1866年、雑誌に長編の連載を始めた。ペテルブルクの貧しい学生ラスコーリニコフが、選ばれた人間は社会のためなら悪人を殺してよい、という考えに取りつかれ、金貸しの老婆を殺す。そのあと彼を苦しめるのは、法の罰よりも自分の良心だった。犯人の心の中を、読者が一緒にたどる小説である。理屈で人を殺してよいとする考えへの問いは、次の世紀の独裁の時代に、いっそう重くなった。サンクトペテルブルク
- マリ・キュリー人物AD1867年11月7日 – AD1934年7月4日放射能の研究でノーベル賞を二度受けた。扱った物質が原因とみられる病で死んでいる。
- 『資本論』できごとAD1867年9月14日大英博物館で20年大英博物館の閲覧室で20年。第1巻、ハンブルクで1000部。商品、価値、剰余価値、労働日、機械、本源的蓄積。「資本は頭から足の先まで、毛穴という毛穴から血と汚物を滴らせて生まれてくる」。マルクスは第2巻と第3巻を書き終えずに死に、エンゲルスが草稿から編集した。19世紀で最も影響の大きい本の一つを、ほとんど誰も最後まで読んでいない、と言われる。ロンドン

- クインズベリー・ルールできごとAD1867年それまでの拳闘は、素手で殴り合い、投げても組み付いてもよく、どちらかが立てなくなるまで続いた。賭けと結びつき、死人も出るので、多くの土地で禁じられていた。1867年、ウェールズの運動家ジョン・チェンバーズが書き、クインズベリー侯爵の名を冠して出された決まりは、様子を一変させた。手袋をはめる。一回は三分、間に一分休む。倒れた者は十数えるうちに立たなければ負け。組み付き、投げは禁止。殴り合いは、時間と数で区切られた競技になった。暴力を消したのではなく、決まりの枠に収めたのである。ロンドン
- 幸徳秋水人物AD1871年11月5日 – AD1911年1月24日アナキズム土佐の生まれで中江兆民の弟子。『廿世紀之怪物帝国主義』を書き、日露戦争に反対して『平民新聞』を出し、渡米してアナキズムに転じた。大逆事件で首謀者とされ、絞首刑。裁判で「私は計画を知らない」と言った。
- 散髪脱刀令できごとAD1871年8月9日(明治4年)髷は、身分と所属を示す記号だった。1871年、政府は髪型と帯刀を自由にすると布告する。強制ではない。だが役人が先に切り、学校が続き、切らない者が遅れているように見られた。散髪した頭を叩いてみれば文明開化の音がする、という戯れ句が流行る。地方では逆に、髷を切らせる強制と受け取られて騒動も起きた。明治天皇が断髪したのは二年後である。身体の見た目が制度から切り離されたようでいて、別の規範がすぐに埋めた。東京
- 文化闘争できごとAD1871年ドイツ帝国ができたばかりの1871年、宰相ビスマルクは、ローマ教皇に従うカトリック教会が国の中の国になることを恐れた。学校の監督を教会から国に移し、イエズス会を追放し、結婚は役所に届け出るものに改め、従わない司教や司祭を投獄する。だが信者たちはかえって結束し、カトリックの政党は議席を増やした。ビスマルクは十年足らずで矛先を社会主義者へ移し、多くの法を緩めた。国家と宗教の境をどこに引くかをめぐる争いだった。ベルリン
- 『学問のすゝめ』できごと1872年「天は人の上に人を造らず」。300万部以上が読まれ、新しい世の考え方が広まった。東京
- 国立公園できごとAD1872年手つかずの自然という考えが、人がいた事実を消した間欠泉と渓谷の写真と絵が議会に届き、1872年、アメリカは広大な土地を「人々の利益と楽しみのため」に保護すると定めた。世界で最初の国立公園とされる。売らず、開発させず、国が持ち続ける。新しい発想だった。一方で、その土地には先住の人々が季節ごとに入り、狩りをしていた。公園には人が住んでいないという前提で線が引かれ、彼らは締め出される。手つかずの自然という考え方自体が、そこに人がいた事実を消すことで成り立っていた。同じ形は、各国の国立公園に引き継がれている。イエローストーン
- バジョットと最後の貸し手できごとAD1873年2008年にも引かれた恐慌が起きると、誰もが現金を求めて銀行に走る。健全な銀行でも、全員が同時に来れば潰れる。『エコノミスト』の編集長ウォルター・バジョットが『ロンバード街』で原則を書いた。中央銀行は、危機のとき、良質な担保に対して、高い金利で、惜しみなく貸せ。高い金利は、本当に困っている者だけを来させる。良質な担保は、潰れるべき者を救わないためである。この一行が、以後150年の中央銀行の教科書になった。2008年にも引かれた。ロンドン
- バイロイトと『指環』できごとAD1876年8月13日ニーチェが去ったワーグナーは、自分の作品のためだけの劇場を作った。オーケストラを床下に隠し(音が溶け、視界を遮らない)、客席を扇形にして貴賓席をなくし、上演中に客席を暗くした(当時、劇場は明るいままで、社交の場だった)。4夜15時間の『ニーベルングの指環』。26年かけて書いた。第1回の祝祭に、皇帝とブラジル皇帝とリスト、そしてチャイコフスキーが来た。ニーチェは失望して去った。バイロイト
- 博愛社できごとAD1877年(明治10年)5月1日西南戦争のさなか、元老院議官の佐野常民と大給恒は、ヨーロッパで見た赤十字のような救護団体を作ろうとした。政府は初め、許さなかった。反乱軍の兵まで手当てするというのが、引っかかったとされる。佐野は熊本の征討総督の本営まで出向いて、有栖川宮熾仁親王に直接願い出て、許しを得た。救護員は官軍の兵とともに、薩摩軍の負傷兵も手当てした。日本がジュネーヴ条約に加わったのは九年後で、翌年、博愛社は日本赤十字社と名を改めた。内戦で敵を手当てすることから、日本の赤十字は始まった。熊本
- フランシス・パーキンズ人物AD1880年4月10日 – AD1965年5月14日マサチューセッツの生まれ。1911年3月25日、友人宅でお茶を飲んでいて騒ぎを聞き、通りへ出て、トライアングル工場から人が落ちてくるのを見た。以後、労働の安全に生涯を費やした。ニューヨーク州の工場調査委員会で三十を超える法を作らせ、州の労働長官を経て、1933年、合衆国初の女性閣僚となる労働長官に就いた。十二年在任し、社会保障法、公正労働基準法、最低賃金、週四十時間、児童労働の禁止を実現した。
- 魯迅人物AD1881年9月25日 – AD1936年10月19日医学を捨てて小説を書いた。『阿Q正伝』で、変わらない社会を内側から抉る。
- ヘブライ語の復活できごとAD1881年死んだ話し言葉が、日常語に戻った唯一の例典礼と学問には使われ続けたが、日常の話し言葉としては千数百年、誰も使っていなかった。エリエゼル・ベン・イェフダーは、パレスチナへ移り、家庭で息子にヘブライ語だけで話しかけた。近代の生活に必要な語が無い。彼は古い文献から掘り出し、アラビア語の語根から作り、辞書を編んだ。息子イタマルは、数年間、話し相手が父しかいなかった。学校での教授が広がり、二世代で話者が生まれる。死んだ言語が日常語に戻った、唯一の例である。エルサレム
- 神は死んだできごとAD1882年拠り所を失う時代の予感1882年に出版されたフリードリヒ・ニーチェの本の中で、狂った男が昼間に灯りを掲げて市場を歩き、神を探していると叫ぶ。そして、神は死んだ、われわれが殺したのだ、と告げる。教会の信仰が力を失い、人びとが何を拠り所に生きるのか分からなくなる時代を、ニーチェは予感していた。翌年からの『ツァラトゥストラはこう語った』で、自ら価値を作り出す超人を説く。病と孤独のうちに正気を失った後、彼の言葉は妹の手で都合よく編集され、ナチスに利用された。ケムニッツ
- ベルティヨンの人体測定法できごとAD1883年同じ寸法の別人が現れた常習犯を見分けたい。名前は偽れる。顔も変わる。パリ警視庁の書記アルフォンス・ベルティヨンは、成人の骨格は変わらないという前提で、身長、頭の長さと幅、中指の長さ、左足の長さ、前腕、耳の形など11項目を測り、カードに記録した。正面と横顔の写真を規格化して添えた(現在の顔写真の形式はここから来る)。導入の翌年、241人の再犯者を特定した。世界中の警察が採用し、そして1903年、測定値がほぼ同じ別人が現れて、崩れた。パリ
- カール・ポランニー人物AD1886年10月25日 – AD1964年4月23日ウィーンで経済誌の編集をし、ナチスを逃れてイギリスへ渡った。市場が社会に埋め込まれていた歴史を示し、その逆転が20世紀の破局を生んだと論じた。
- 国境を越える著作権できごとAD1886年自国では守られても、国境を越えれば守られない。十九世紀のアメリカでは、イギリスの小説が作者に断りなく刷られ、安く売られていた。ディケンズは講演旅行でこれを訴え、逆に反感を買っている。1886年、ヨーロッパ各国がベルヌで条約を結んだ。加盟国は、他国の著作物を自国のものと同じに扱う。登録や手続きは要らず、書いた時点で権利が生まれる。アメリカが加わるのは百年後の1989年になる。守る側に回るまで、守らない利益のほうが大きかったことになる。ベルン
- 言文一致できごとAD1887年話すように書くのは作られたもの明治まで、日本語の書き言葉は話し言葉と別物だった。漢文訓読体、候文、雅文。二葉亭四迷は『浮雲』を書くとき、どう書けばよいか分からず、坪内逍遥に相談した。「三遊亭円朝の落語通りに書いてみろ」と言われた。速記された落語の本が売れていた時代である。「だ」で終える文体ができた。山田美妙は「です」、尾崎紅葉は「である」。学校教育と新聞と、そして活版印刷が、これを全国の標準にした。話すように書く、という当たり前が、作られたものである。東京
- エスペラントできごとAD1887年7月26日国家に採用されたことは、一度も無いビャウィストクは、ポーランド語、ロシア語、ドイツ語、イディッシュ語が入り混じる町だった。眼科医ザメンホフは、諍いの根に言葉の壁があると考えた。誰の母語でもない、学びやすい共通語を作る。文法は十六の規則で、例外が無い。語彙は主にロマンス語とゲルマン語から採った。ドクトーロ・エスペラント、希望する者、という筆名で出した小冊子が、書名ではなく言語の名になった。話者は数十万から二百万と推定が割れる。国家に採用されたことは、一度も無い。ワルシャワ
- バスケットボールの考案できごとAD1891年桃の籠を手すりに釘で打ったマサチューセッツのYMCA訓練校で、体育の教師ジェームズ・ネイスミスが、上司から2週間の宿題を出された。冬の間、屋内でできる、退屈しない運動を考えよ。彼は既存の競技を分解して、けがの原因は走りながらの接触だと考えた。だからボールを持って走ることを禁じ、得点する的を頭より高い水平の位置に置いた(上から落とすので、強く投げても意味がない)。桃を入れる籠を手すりに釘で打ちつけた。13条の規則を紙に書いて壁に貼った。最初の試合の得点は1対0だった。スプリングフィールド
- アンベードカル人物AD1891年4月14日 – AD1956年12月6日カースト制度そのものを否定した不可触民として生まれ、憲法起草委員長になった。カースト制度そのものの否定を主張し、ガンディーと対立する。
- 万国宗教会議できごとAD1893年9月11日宗教どうしの対話1893年、コロンブスの到達400年を祝うシカゴの万国博覧会に合わせて、世界の宗教の代表を集める会議が開かれた。キリスト教とユダヤ教だけでなく、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、イスラム、神道などの代表が、同じ壇上で自分たちの教えを語った。インドの若い僧ヴィヴェーカーナンダは「アメリカの姉妹、兄弟たちよ」と呼びかけて喝采を浴び、一躍名を知られた。日本からは臨済宗の釈宗演ら仏教の僧が加わった。釈宗演の縁で、のちに鈴木大拙が禅を西洋に紹介していく。東洋の宗教が、西洋の人々の前に、対等な教えとして現れた場だった。シカゴ
- ドレフュス事件できごとAD1894年12月22日ヘルツルが見たユダヤ人の砲兵大尉が、ドイツへの通敵の罪で、筆跡だけで、終身流刑になった。悪魔島。真犯人エステラジーが分かっても、軍は隠した。1898年1月13日、ゾラの「私は弾劾する」。フランスが二つに割れた。再審、有罪、特赦、1906年に無罪。反ユダヤ主義が街に出た。ウィーンの記者ヘルツルはそれを見て、ユダヤ人の国を考えた。パリ

- 第1回近代オリンピックできごとAD1896年4月6日全員が男性だったクーベルタンが1894年にパリで提唱し、2年でアテネに開いた。14か国、241人(全員男性)。9競技43種目。パナシナイコ・スタジアム、6万人。マラソンは、この大会のために創られた種目(フェイディッピデスの伝説から。古代の競技にはなかった)。ギリシアの羊飼いスピリドン・ルイスが勝った。優勝者に与えられたのは銀のメダルとオリーブの枝。金銀銅は1904年から。アテネ(近代)
- ラジウムの発見できごとAD1898年数トンの鉱石から0.1グラムを取り出した。放射能という現象が物質の性質だと分かる。パリ
- 田園都市できごとAD1898年ロンドンは煤煙と過密で、地方は仕事が無く寂れていた。速記者だったエベネザー・ハワードは、両方の良いところを取る第三の道を本に書く。人口三万程度の町を作り、周りを農地の帯で囲んで広がりを止める。土地は住民の共同体が所有し、地価の上昇分は町の財産にする。工場も学校も町の中に置き、通勤を短くする。レッチワースとウェリンで実際に作られ、各国の郊外開発に影響した。もっとも、多くの国では土地の共有という肝心の部分が外され、住宅地の意匠だけが真似られた。ロンドン
- 『夢判断』できごとAD1899年11月4日無意識への王道出版社は1900年の日付にした。「新しい世紀の本」。600部が6年で売れた。夢は願望の充足。無意識。抑圧。検閲。エディプス。自分の夢を材料にした(父の死の後の自己分析)。「無意識への王道」。精神分析。20世紀の人間観を変えた。科学かどうかは、いまも争われる。ウィーン

- プランクの量子仮説できごとAD1900年12月14日とびとび黒体放射のスペクトルを説明する式を作るために、プランクは「エネルギーはとびとびの値しか取れない」と仮定した。E=hν。h=6.626×10⁻³⁴。「絶望的な行為」と自分で言った。信じていなかった。5年後、アインシュタインが光そのものが粒だと言い、13年後、ボーアが原子に使い、25年後、量子力学になった。物理学会での発表の日が、量子論の誕生日。ベルリン
- ジョージ・ギャラップ人物AD1901年11月18日 – AD1984年7月26日アイオワの生まれ。大学院で、新聞のどの記事が実際に読まれているかを測る方法を研究し、それが博士論文になった。広告会社で読者調査を担い、1935年に世論調査所を設立する。翌年の大統領選で、大手雑誌の巨大な調査を、はるかに小さく設計された標本で覆した。母の義理の親が州の役職に立候補したとき、その当落を予測したことが、出発点だと語っている。世論は測れるものであり、測ることが民主主義に資する、という信念を持ち続けた。
- アインシュタインの奇跡の年できごとAD1905年時間と空間が観測者によって違う特許局の職員が一年で物理学を書き換える論文を4本出した。時間と空間が絶対でなくなる。ベルン

- ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理』できごとAD1905年鉄の檻なぜ資本主義は西ヨーロッパで生まれたのか。マルクスは経済が意識を決めると言った。ウェーバーは、逆の方向も見た。カルヴァン派の予定説——救われるかどうかは既に決まっていて、行いでは変えられない——が、人に不安を与え、その不安が「職業に励み、禁欲し、儲けを使わずに再投資する」生き方を作った。宗教の動機が消えた後も、その生き方だけが残って、機械のように回る。「鉄の檻」。ベルリン
- ハンナ・アーレント人物AD1906年10月14日 – AD1975年12月4日私が愛するのは友人だけハノーファーのユダヤ人の家。マールブルクでハイデガーに学び、18歳で関係を持った(彼は後にナチスの学長になった)。ヤスパースの下で学位。1933年、ゲシュタポに8日拘束され、パリへ亡命、1940年に収容所を脱出して、1941年にニューヨークへ。『全体主義の起原』『人間の条件』『革命について』『イェルサレムのアイヒマン』。「私は民族を愛したことがない。私が愛するのは、友人だけである」。
- 純正食品薬事法できごとAD1906年6月30日入っているものを書け瓶に何が入っているか、誰も保証していなかった。乳児用の鎮静剤にはアヘンが入り、牛乳にはホルマリン、肉には亜硫酸が入っていた。農務省の化学者ハーヴェイ・ワイリーは、志願した若い職員に防腐剤入りの食事を摂らせ、体調の変化を記録した。新聞が毒物班と呼んだ。同じ年、シンクレアの小説『ジャングル』が食肉工場の内情を描いて反響を呼び、法が通った。表示の義務と、有害物の禁止。後の食品医薬品局につながる。ワシントンD.C.
- 湯川秀樹人物AD1907年1月23日 – AD1981年9月8日中間子の存在を予言し、日本人で初めてノーベル賞を受けた。戦後は核兵器廃絶を訴える側に立つ。
- モンテッソーリの子どもの家できごとAD1907年1月6日教え込まずに待つローマのスラム、サン・ロレンツォ地区。親が働く間、放置されていた3歳から6歳の子ども50人余りを預かる施設として始まった。医師マリア・モンテッソーリは、知的障害児の教育で用いた教具を、ここで健常児に試した。子どもは自分で教具を選び、集中し、繰り返し、そして満足すると自分で片付けた。大人が教え込むのではなく、環境を整えて子どもが自分で学ぶのを待つ。子どもの背丈に合わせた家具も、彼女の考案である。ローマ
- クロード・レヴィ=ストロース人物AD1908年11月28日 – AD2009年10月30日悲しき熱帯ブリュッセルのユダヤ系フランス人の家。哲学の教授資格。1935年、サンパウロ大学へ。マト・グロッソとアマゾンで、カデュヴェオ、ボロロ、ナンビクワラを調査した。戦争でニューヨークへ亡命し、そこで言語学者ヤコブソンに会って、音韻論の方法を人類学へ移した。『親族の基本構造』『悲しき熱帯』『野生の思考』『神話論理』4巻。アカデミー・フランセーズ。100歳を超えて生きた。
- 科学的管理法できごとAD1911年考える人と、動く人を、分けるフレデリック・テイラーは、製鋼所で、労働者が意図的に手を抜いていると考えた。作業を要素に分解し、ストップウォッチで測り、最も速い手順を決め、それを守らせる。銑鉄を運ぶ量が一人あたり数倍になったと彼は書いた。数字には脚色があると、後の検証が指摘している。核心は、作業の知識を職人の手から取り上げて、管理する側に移すことである。労働者は考えなくてよい、と彼は明言した。効率は上がり、そして仕事は分解された。フィラデルフィア
- ジョン・ケージ人物AD1912年9月5日 – AD1992年8月12日ロサンゼルスの生まれ。シェーンベルクに学び、和声の才が無いと言われた。打楽器と、ピアノの弦にねじや消しゴムを挟むプリペアド・ピアノで作曲した。鈴木大拙の講義を聴き、易経で音を決める方法に移った。作曲家が選ばないこと、聞こえるものすべてを音楽として聞くことを主張した。菌類の研究家でもあり、イタリアのクイズ番組できのこの知識で賞金を得ている。
- 『変身』できごとAD1915年カフカ的「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢から目覚めると、ベッドの中で自分が巨大な虫に変わっているのに気づいた」。1912年に3週間で書いた。保険局の役人で、夜に書き、ほとんど出版せず、友人ブロートに「原稿は焼け」と遺言した。ブロートは焼かなかった。『審判』『城』。「カフカ的」。理由の分からない官僚の迷路。20世紀の言葉になった。プラハ

- 受験と学歴できごとAD1918年失敗が本人の責任になる1872年の学制で学校ができ、1886年の学校令で帝国大学を頂点とする階梯が固まった。中学、高等学校、帝国大学。定員が限られ、入るには試験がある。1918年の高等学校令で高校が増設されたが、競争は緩まなかった。新聞が合格者名を載せ、「受験地獄」の語が大正期に定着した。家柄でなく試験で人を選ぶという建前は、機会を開くと同時に、失敗を本人の責任にした。予備校、模擬試験、偏差値(1960年代)。科挙と同じ構造が、別の形で現れた。東京
- 五四運動できごとAD1919年5月4日白話文が政治にパリ講和会議が、ドイツの山東の権益を日本に渡した。北京の学生3000人が天安門に集まり、親日派の曹汝霖の家を焼いた。逮捕、ストライキ、上海の商人の休業、日本製品の不買。政府は調印を拒んだ。新文化運動(『新青年』、陳独秀、胡適、魯迅、白話文)が政治になった。李大釗と陳独秀がマルクスを読み、1921年、共産党。北京

- 体臭を売るできごとAD1919年存在しなかった不安を作り、それを解く商品を売るシンシナティの外科医が、手が汗ばまないようにと作った塩化アルミニウムの液を、娘のエドナ・マーフィーが「オドロノ」の名で売り出した。売れない。広告代理店のジェイムズ・ウェッブ・ヤングが、女性向けの雑誌に一文を載せた。腕の内側の曲線に、恥ずべき匂いがある——それを本人だけが知らない、と。抗議が来て、購読を止めた読者もいたが、売上は跳ね上がった。存在しなかった不安を作り、それを解く商品を売る。広告というものの性格が、この一件で、はっきり見えた。シンシナティ
- ヘンリエッタ・ラックス人物AD1920年8月1日 – AD1951年10月4日墓に石がなかったヴァージニアのタバコ農家。曾祖母は奴隷だった。14歳で最初の子を産み、5人の母になり、メリーランドの造船所で働く夫とボルティモアへ移った。31歳、子宮頸がん。ジョンズ・ホプキンス病院の有色人種用病棟で治療を受け、8か月で死んだ。本人の知らないところで採られた細胞が、以後70年、世界中の研究室で増え続けている。墓には長く石がなかった。2013年、家族が細胞の遺伝情報の利用に関与する取り決めが結ばれた。
- 無名戦士の墓できごとAD1920年11月11日第一次世界大戦のイギリスの戦死者のうち、何十万人かは、遺体が見つからないか、誰か分からなかった。従軍牧師デイヴィッド・レイルトンは、前線で「名も知れぬイギリス兵」と書かれた十字架を見て、その一人を国の真ん中に葬ることを思いつく。1920年11月、いくつかの戦場から掘り出された遺体が並べられ、准将が、どこの遺体か知らされないまま一つを選んだ。誰であるかを、誰も知らない。11月11日、その棺はウェストミンスター寺院に納められた。同じ日、フランスも一人を凱旋門へ運んだ(その下に葬ったのは翌年1月)。遺族は、そこに自分の息子がいるかもしれないと思うことができた。ロンドン
- ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』できごとAD1921年語りえぬものについては沈黙するウィーンの大富豪の家に生まれたルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、第一次世界大戦に志願して前線に立ちながら、ノートに短い命題を書き続けた。言葉で言えることの限界を定める本である。1921年に出版されたその本は、語りえぬものについては沈黙しなければならない、という一文で終わる。これで哲学の問題はすべて解いたと考えた彼は、財産を手放して小学校の教師になった。のちに哲学に戻り、自分の考えを大きく改めることになる。ウィーン
- 壁に描かれた歴史できごとAD1923年から革命のあとのメキシコで、教育相になったバスコンセロスは、国民の大半が字を読めないという現実に向き合った。学校を建てるのには年月がかかる。彼は画家たちに、役所や学校の壁を開け放った。ディエゴ・リベラは、もとは修道院だった教育省の建物に、五年をかけて百を超える場面を描いた。畑を耕す農民、鉱山の労働者、先住民の祭り。そこに描かれたのは、王や将軍ではなく、名もない人々の国だった。かつて修道士たちが、字の読めない先住民に壁の絵で教えを説いたのと同じ場所で、今度は国が、自分たちの歴史を壁に描いた。メキシコシティ
- フランツ・ファノン人物AD1925年7月20日 – AD1961年12月6日カリブ生まれの精神科医。アルジェリアの病院で拷問する側とされる側の両方を診て、植民地支配が人の心を壊す仕組みを書いた。36歳で死ぬ。
- 数を絵で見せるできごとAD1925年数が倍なら、記号を大きくせず、倍に並べる社会党が市政を握った「赤いウィーン」で、哲学者オットー・ノイラートは、社会と経済の博物館を開いた。住宅はいくつ足りないのか、乳児はどれだけ死んでいるのか。そうした数字を、学校に通えなかった労働者にも見てもらいたい。そこで、人や家や工場を簡単な形の記号にし、一つの記号が決まった数を表すと決めた。数が倍なら、記号を大きくするのではなく、数を倍に並べる。版画家ゲルト・アルンツが、その記号を一つずつ彫った。のちにこの方式はイソタイプと名づけられ、いまの図表や案内の記号の祖先になった。ウィーン
- 不確定性原理できごとAD1927年3月自然がそうできている位置と運動量を同時に正確には測れない。Δx·Δp≥h/4π。測り方が下手なのではなく、自然がそうできている。ハイゼンベルクが23歳で、ヘルゴラント島の花粉症の療養中に行列力学を作り(1925年)、2年後、25歳でこれを書いた。ボーアの相補性と合わせて「コペンハーゲン解釈」。アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言い、ボーアは「神に指図するな」と答えた。コペンハーゲン
- 宇宙が膨張しているできごとAD1929年ルメートルの論文は無名の雑誌にあったウィルソン山の口径2.5メートルの望遠鏡で、エドウィン・ハッブルは、遠くの星雲までの距離を測った。それらは、銀河系の中の雲ではなく、はるか外にある別の銀河だった。宇宙の大きさが、一挙に広がった。さらに、それらのスペクトルが赤くずれていた。遠いものほど、速く遠ざかっている。距離と速度が比例する。宇宙は、静止していない。膨張している。ルメートルが2年前に同じ結論を理論から導いていたが、フランス語の無名の雑誌に載っていた。ウィルソン山天文台
- イマニュエル・ウォーラーステイン人物AD1930年9月28日 – AD2019年8月31日アフリカ研究から出発し、国を単位に発展を語ることをやめた。中心と周辺からなる一つの世界経済として、16世紀以降を書き直す。
- 新聞の星占いできごとAD1930年1930年8月、イギリスの日曜新聞が、生まれたばかりの王女の星回りを占星術師に書かせた。評判がよく、占星術師は続けて寄稿する。十月、イギリスの飛行船に危険があると書いた直後、飛行船R101がフランスで墜落し、予言が当たったと騒がれた。やがて新聞は、生まれ月の十二の星座ごとに今週の運勢を並べる欄を定番にする。個人の生年月日と時刻を細かく読む占星術が、十二に分けた大量生産品になった。ロンドン
- タスキーギ梅毒研究できごとAD1932年ペニシリンを与えなかったアメリカ公衆衛生局が、アラバマの黒人小作農399人の梅毒患者を「治療せずに経過を観察する」研究を始めた。参加者には「悪い血」の治療と告げ、無料の食事と埋葬費を与えた。1940年代にペニシリンが治療薬になっても、与えなかった。研究は40年続き、1972年に内部告発で報道されて中止された。死者128人、妻への感染40人、先天梅毒の子19人。1997年、大統領が謝罪した。医学研究への不信が、いまも残っている。タスキーギ
- 国民所得の発明できごとAD1934年福祉は推し量れないと警告した大恐慌のさなか、政府は経済がどれだけ縮んだかを知らなかった。統計がなかったからである。上院の求めで、サイモン・クズネッツが国民所得の推計を作った。1934年、報告書を提出した。彼はその中で警告している。国民所得から、一国の福祉を推し量ることはできない。何を数えるかは選択であり、彼は軍事支出と広告と投機を除くことを主張した。採用されなかった。そして家事と育児と介護は、市場で取引されないという理由で、はじめから外にある。ワシントンD.C.
- 長征できごとAD1934年10月16日負けて逃げた話が神話に蒋介石の第5次囲剿で江西の根拠地を失って、紅軍8万6000が瑞金を出た。1年、1万2500キロ。湘江で半分を失い、遵義会議で毛沢東が指導権を取り、金沙江、瀘定橋(13本の鉄の鎖の橋を22人が渡った、と伝える)、大雪山、草地(沼)。1935年10月、陝西の呉起鎮に着いたのは8000人。負けて逃げた話が、党の神話になった。瑞金
- エドワード・サイード人物AD1935年11月1日 – AD2003年9月25日エルサレム生まれのパレスチナ人で、ニューヨークで英文学を教えた。西洋が「東洋」を語る型そのものを批判し、学問と支配のつながりを問うた。
- ケインズ『一般理論』できごとAD1936年長期には皆死んでいる不況は、賃金が高すぎるからでも、放っておけば直るものでもない。人が使わなければ、誰かの所得が減り、その人がまた使わなくなる。均衡は、失業を抱えたままでも成り立つ。だから、政府が支出して、有効需要を作る。「穴を掘って埋め戻す仕事でも、何もしないよりましだ」。長期には我々は皆死んでいる。ニューディールと戦後の福祉国家の理論の基礎になり、1970年代のスタグフレーションで批判され、2008年にまた読まれた。ケンブリッジ
- ヴァーツラフ・ハヴェル人物AD1936年10月5日 – AD2011年12月18日力なき者たちの力ブルジョワの家の子で大学に入れず、劇場の舞台係から劇作家に。『ガーデン・パーティー』。1968年後、上演禁止。憲章77。獄に5年。『力なき者たちの力』。「真実の中に生きる」。1989年12月、大統領。1993年、チェコの大統領。13年。
- リテラリー・ダイジェストの失敗できごとAD1936年11月3日雑誌リテラリー・ダイジェストは、それまで五回続けて、大統領選を的中させていた。1936年は千万通の葉書を送り、二百四十万通の回答を得る。予測はランドン勝利、ローズヴェルトは四割強。結果は、ローズヴェルトが六割を超える圧勝だった。名簿を電話帳と自動車の登録から作ったため、大恐慌下で電話と車を持てる層に偏っていた。回答した者だけが集計されたことも効いている。一方、五万人の設計された標本で当てたギャラップが世に出た。数の多さは、偏りを直さない。ニューヨーク
- エリキシル・スルファニルアミド事件できごとAD1937年10月売る前に安全だと示せ効く薬だった。子どもが飲みやすいよう甘い液にしたい。テネシーの製薬会社の主任化学者は、溶かす液にジエチレングリコールを選んだ。味と香りは試したが、毒性は試していない。当時の法は、それを求めていなかった。腎不全で105人が死に、その多くが子どもだった。連邦の査察官が処方箋をたどって回収した。翌1938年、連邦食品医薬品化粧品法が成立し、販売の前に安全性を示すことが初めて義務になった。ワシントンD.C.
- 円筒分水できごとAD1941年(昭和16年)多摩川から水を引く二ヶ領用水では、下流の村々が水の分け方をめぐって、江戸時代から何度も争ってきた。堰の板を一枚ずらせば、隣の村の田が干上がる。神奈川県の技師平賀栄治は、水を円い筒の真ん中から噴き上げさせ、縁から四方へ溢れさせる装置を設計した。縁の長さを、それぞれの用水路が潤す田の広さに合わせて区切っておけば、水の量が増えても減っても、分かれる割合は変わらない。人が板を動かす余地がないので、疑う余地もない。争いを、話し合いではなく形で終わらせた。この形は、全国の農村に広まった。久地(川崎)
- 延安整風できごとAD1942年2月自己批判と告白延安の洞窟の街で、毛沢東が党の「作風を正す」運動を始めた。主観主義、宗派主義、党八股。学習、自己批判、告白。康生が「搶救運動」でスパイを探し、1000人以上を自白させた。王実味が処刑された。ソ連帰りの王明の派が消え、毛沢東思想が党の指導理念になった(1945年)。文革の型が、ここでできた。延安

- スティーヴ・ビコ人物AD1946年12月18日 – AD1977年9月12日制度の前に意識を変えるべきだと説いた黒人意識運動を起こした。「抑圧者の最も強力な武器は、被抑圧者の心である」。拘禁中に殴られて死んだ。30歳。
- ニュルンベルク綱領できごとAD1947年自発的な同意が不可欠ニュルンベルク継続裁判の「医師裁判」。強制収容所で行われた人体実験——低体温、与圧、海水、毒ガス、双子の研究——について、23人が裁かれ、7人が処刑された。判決文に添えられた10項目が、この綱領である。第一条「被験者の自発的な同意が、絶対に不可欠である」。1964年のヘルシンキ宣言、各国の倫理委員会、そして「インフォームド・コンセント」という語の系譜が、ここから始まる。ニュルンベルク
- レヴィ=ストロース『親族の基本構造』できごとAD1949年思考の質に差はないブラジルの奥地で先住民と暮らした人類学者が、婚姻の規則を、言語学の音韻論と同じ方法で分析した。婚姻は、女性を集団の間で交換する体系であり、その交換の規則が社会を作る。「未開」と「文明」に、思考の質の差はない。『野生の思考』『神話論理』。構造主義。サルトルの実存主義と論争になった。100歳を超えて生きた。パリ
- 『一九八四年』できごとAD1949年6月8日監視と嘘が問題になるたびに売れ直すスペイン内戦で共産党の粛清を目にしたジョージ・オーウェルは、結核に冒されながら、スコットランドの島で最後の小説を書き上げた。1949年6月8日に出版される。党が歴史を書き換え、言葉を減らして考えられることを減らし、画面が人びとを見張る国の話である。偉大な兄弟があなたを見ている。二重思考、思想警察といった言葉が、そのまま日常の言葉になった。オーウェルは翌年死ぬ。監視と嘘が問題になるたびに、この本は売れ直している。ロンドン
- ボーヴォワール『第二の性』できごとAD1949年人は女に生まれるのではない人は女に生まれるのではない、女になるのだ。1949年、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは『第二の性』でこう書いた。女らしさは生まれつきではなく、社会が女性を男性に対する他者として作り上げてきたものだと、生物学、歴史、神話、文学、日々の暮らしを通して論じる。出版されると、性や母性をあからさまに論じたとして激しい非難を浴び、ローマ教皇庁は禁書にした。二十年後、世界の女性解放の運動は、この本を土台の一つにした。パリ
- マッカーシズムできごとAD1950年2月9日品位のかけらもウィスコンシンの上院議員がウェストヴァージニアの婦人会で「国務省に205人の共産主義者のリストがある」と言った。リストは見せなかった。4年。ハリウッド、大学、軍。「赤狩り」。1954年、テレビで陸軍と対決して、「あなたには品位のかけらもないのか」と言われ、上院が非難決議をした。ワシントンD.C.

- ヒーラ細胞できごとAD1951年本人は知らなかったジョンズ・ホプキンス病院で、31歳の黒人女性ヘンリエッタ・ラックスが子宮頸がんの治療を受けた。担当医が、本人に知らせず腫瘍の一片を研究室に送った。その細胞は、それまでのどの細胞株とも違い、培養皿の中で無限に増え続けた。彼女はその年に死に、細胞は生き続けた。ポリオワクチンの試験、遺伝学、宇宙実験、無数の論文。家族が事実を知ったのは20年以上後で、その間、医療費に苦しんでいた。同意とは何かを問う事件になった。ボルティモア

- アーレント『全体主義の起原』できごとAD1951年悪の陳腐さ反ユダヤ主義と、帝国主義と、そして全体主義。三部。ナチズムとスターリニズムを、暴政の一種でなく、新しい種類の支配として分析した。孤立した大衆、イデオロギーとテロル、そして「あらゆることが可能である」という信念。強制収容所は、人間を余計なものにする実験室だった。1961年、アイヒマン裁判を傍聴して『イェルサレムのアイヒマン』。「悪の陳腐さ」。友人の多くを失った。ニューヨーク
- 写真51番できごとAD1952年5月6日確証を積んでから発表する方針キングス・カレッジで、ロザリンド・フランクリンと大学院生レイモンド・ゴスリングが、DNAの繊維にX線を当てて撮った。露光62時間。写真に、はっきりとしたX字の模様が出た。らせん構造の証拠である。フランクリンは、確証を積み上げてから発表する方針だった。1953年1月、同僚のモーリス・ウィルキンズが、彼女に断りなく、この写真をワトソンに見せた。ワトソンは後に「それを見た瞬間、私の口はぽかんと開き、脈が速くなった」と書いている。ロンドン
- ケージ『4分33秒』できごとAD1952年8月29日聞こえてくるものが曲になるデイヴィッド・チュードアがピアノの前に座り、蓋を閉じ、三つの楽章のあいだ何も弾かなかった。楽譜には TACET とだけ書かれている。無音の曲ではない。ケージはハーバードの無響室で、自分の神経系と血流の音を聞いた。完全な沈黙は無いと考えた。聞こえてくるものが曲になる。屋根を打つ雨と、退席する客の足音が、その日の演奏だった。ウッドストック
- レム睡眠の発見できごとAD1953年眠りは一様な休息ではないシカゴ大学の大学院生ユージン・アセリンスキーが、眠る子どもの眼球の動きを記録した。装置は、指導者クライトマンの研究室にあった古い脳波計である。眠っている間、目が速く動く時間帯が、周期的に現れた。そのとき起こすと、多くが夢を見ていたと答えた。眠りは、一様な休息ではなく、構造を持つ過程である。彼は最初の被験者に、8歳の自分の息子を使った。論文は1953年の『サイエンス』に載った。睡眠が、科学の対象になった。シカゴ
- 公団住宅と2DKできごとAD1956年抽選倍率数十倍の中間層戦後の住宅不足は420万戸と見積もられた。1955年、日本住宅公団が発足し、翌年から鉄筋コンクリートの集合住宅を大量に建てた。間取りの標準が2DK。食事をする場所と寝る場所を分ける(食寝分離)という設計思想である。ダイニングキッチン、ステンレスの流し台、水洗便所、そしてベランダ。畳に布団を敷いて一家が寝る暮らしから、椅子とテーブルの暮らしへ。「団地族」と呼ばれた入居者は、抽選の倍率が数十倍の中から選ばれた中間層だった。東京
- フルシチョフの秘密報告できごとAD1956年2月25日代表は泣き気絶した第20回党大会の最終日、深夜、外国の代表を外して4時間。「個人崇拝」。粛清、拷問、追放、戦争の失敗。レーニンの遺言。代表は泣き、気絶した。「秘密」は3か月でCIAが手に入れて新聞に載った。ポーランドとハンガリーが動いた。中国が怒った。モスクワ
- 種苗と育成者の権利できごとAD1961年12月2日数千年の慣行と開発費用新しい品種を作るには、時間と金がかかる。しかし、種は殖える。誰かが一袋買えば、翌年から自分で殖やせる。1961年、パリで植物新品種保護条約が結ばれ、育成者に排他的な権利が与えられた。当初は、農民が自家採種することは認められていた。1991年の改定で、その例外が各国の裁量になった。以後、種苗の権利をめぐる対立が続いている。企業は開発の費用を回収できなければ品種を作れないと言い、農民と途上国は、種を自分で採る権利は数千年の慣行だと言う。パリ
- サリドマイド禍できごとAD1961年約1万人つわりに効く安全な睡眠薬として西ドイツで市販され、46か国に広がった。動物実験では毒性が出ず、処方箋なしで買えた国もあった。生まれた子に、腕や脚のない、あるいは極端に短い障害が現れた。世界で約1万人。1961年、ドイツのレンツとオーストラリアのマクブライドが薬との関係を指摘し、回収された。アメリカでは審査官フランシス・ケルシーが承認を保留し続けて被害を防いだ。以後、薬の承認に催奇形性の試験と厳格な手続きが要求されるようになった。ハンブルク

- デヴィッド・グレーバー人物AD1961年2月12日 – AD2020年9月2日マダガスカルを調べた人類学者で、借金の5000年を書き、ウォール街占拠の運動に加わった。59歳で急死し、最後の本は共著者が出した。
- ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』できごとAD1961年戦後のアメリカの都市では、古い下町を「スラム」として取り壊し、高層の住宅と高速道路と広場を造る再開発が進められていた。ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに住む建築雑誌の記者ジェイン・ジェイコブズは、1961年、『アメリカ大都市の死と生』を出し、専門家たちの都市計画を正面から批判した。都市の活気と安全は、住まいと店と仕事場が混じり合い、短い街区に古い建物と新しい建物が並び、通りに人の目が絶えないことから生まれる。彼女は、街を貫く高速道路の計画に反対する住民の運動を率い、計画を撤回させた。ニューヨーク
- 『沈黙の春』できごとAD1962年鳥が鳴かない春海洋生物学者レイチェル・カーソンが、農薬、特にDDTの生態系への影響を、平易な散文で書いた。冒頭は寓話である。ある町で、春が来ても鳥が鳴かない。彼女は乳癌を患いながら、4年かけて資料を集め、註を並べた。化学業界は、彼女を「ヒステリックな独身女性」と攻撃した。ケネディが諮問委員会を作り、報告書が彼女を支持した。1970年、環境保護庁の設立。1972年、アメリカでのDDTの農業使用が禁止された。ニューヨーク
- 住居表示できごとAD1962年5月10日日本の住所は、明治の地租改正で土地に振った番号、つまり地番をそのまま使っていた。地番は税をかけるための土地の番号で、家を探すための番号ではない。土地が分けられれば枝番が付き、隣り合う家の番号が飛び、同じ番号の家がいくつもある。郵便配達も、訪ねる客も迷った。1962年、住居表示に関する法律が作られ、町を道路で囲まれた区画に分け、区画ごとに建物へ番号を振り直すことになった。何丁目何番何号という住所は、ここから広まった。ただし、土地の登記には、いまも元の地番が使われている。東京
- ミランダ判決できごとAD1966年6月13日1963年、アリゾナ州フェニックスで、誘拐と強姦の疑いで捕まったエルネスト・ミランダは、2時間の取り調べで自白し、有罪になった。黙っている権利も、弁護士を呼べることも、告げられていなかった。1966年6月13日、合衆国の最高裁判所は5対4で、警察に身柄を押さえられた人を取り調べる前には、黙っている権利があること、話したことは不利な証拠に使われうること、弁護士を付けてもらえること、払えなければ国が付けることを告げなければならず、告げずに得た自白は証拠にできないと判断した。刑事ドラマでおなじみの「あなたには黙秘権がある」は、ここから来ている。ワシントンD.C.
- 最初の心臓移植できごとAD1967年12月3日死とは何かケープタウンのフルート・スキュール病院。交通事故で脳死になった25歳の女性デニス・ダーヴァルの心臓が、50代半ばのルイス・ワシカンスキーに移された。執刀はクリスチャン・バーナード。手術は成功し、患者は18日後に肺炎で死んだ。免疫抑制のために抵抗力を落としていた。世界が沸き、そして「死とは何か」が問われた。心臓が止まった時ではなく脳の機能が失われた時を死とする定義が、この後、各国で整えられていく。ケープタウン
- 出口調査できごとAD1967年予測しているのではない。測っているのである開票を待たずに結果を知るには、投票を終えた人に、いま何を書いたかを聞けばよい。CBSのウォーレン・ミトフスキーが、投票所を無作為に選び、一定の間隔で出てくる人に用紙を渡す方法を組んだ。速い。そして、誰がなぜそう投票したかも分かる。当選確実の報道が、まだ投票時間の残る西部の投票率を下げるという批判が起き、各局が発表の時刻を遅らせた。2000年のフロリダでは、二度、誤って当確が出されている。ニューヨーク
- 全人的な痛みできごとAD1967年7月痛みは身体だけのものではなく、意味を失うことも痛みであるシシリー・ソンダースは看護師、医療ソーシャルワーカーを経て、四十歳近くで医師になった。死にゆく人の痛みを見て、それが身体だけのものではないと考えた。体の痛み、気持ちの痛み、社会から切り離される痛み、そして意味を失う痛み。彼女はこれを「全人的な痛み」と呼んだ。痛みが来てから薬を出すのではなく、来る前に定時で与える。眠らせるためではなく、起きていられるために。ロンドン郊外に開いたセント・クリストファー・ホスピスから、この考え方が世界へ広がった。ロンドン
- リサイクルのマークできごとAD1970年メビウスの帯には終わりが無い1970年の第一回アースデイに合わせ、段ボール会社が学生を対象に意匠を公募した。南カリフォルニア大学の学生ゲイリー・アンダーソンが、メビウスの帯を三本の折り返す矢印にした案を出し、選ばれた。会社は商標登録を試みたが争われ、結局、権利を主張せず公共の財産として開放した。誰でも使える。そのため、実際には再生されない製品にも印刷されるようになり、何を意味するのか分かりにくい記号になった。シカゴ
- 国境なき医師団できごとAD1971年12月22日中立を守るのか、見たことを語るのかビアフラ戦争で、赤十字を通じて派遣されたフランスの医師たちは、封鎖された土地で子どもが飢えて死んでいくのを見た。赤十字は、どの陣営にも入れてもらうために、見たことを外で語らない決まりを守っていた。医師の一部は、黙っていることが虐殺の手助けになると考え、帰国して声を上げた。1971年、彼らと、医学雑誌の記者たちが、パリで新しい団体を作った。国境や政府の許しにとらわれずに入り、手当てをし、見たことを証言する。中立を守るのか、語るのか。同じ人道の中に、二つの考え方ができた。パリ
- 役を与えるとできごとAD1971年大学の地下に模擬の監獄を作り、学生をくじで看守役と囚人役に分けた。数日で看守役の一部が嫌がらせを始め、囚人役が精神的に参り、予定の二週間を待たずに中止された。人は役を与えられると、その役らしく振る舞ってしまう。長くそう語られてきた。近年、この実験には批判が強い。看守役が厳しく振る舞うよう促されていた記録が見つかり、参加者の証言も食い違う。それでも、状況が人の行動を大きく左右するという問い自体は残った。実験の信頼性と、問いの重さは別のことになる。スタンフォード
- ロールズ『正義論』できごとAD1971年無知のヴェール自分が金持ちに生まれるか貧しく生まれるか、どんな才能を持つかを知らない状態で、社会の決まりを選ぶとしたら、人はどんな決まりを選ぶだろうか。ハーヴァード大学のジョン・ロールズは、1971年の『正義論』でこの思考実験を示した。そうした無知のヴェールの下では、誰もが平等な自由を求め、最も恵まれない人の暮らしを最もよくする不平等しか認めないはずだ、と論じる。政治の哲学の議論を、この一冊がよみがえらせた。ケンブリッジ(マサチューセッツ)
- 家事労働に賃金をできごとAD1972年資本は無償の労働の上に立つ1972年、パドヴァで国際フェミニスト連合が結成され、この要求が掲げられた。マリアローザ・ダラ・コスタとセルマ・ジェイムズ。主張は素朴に見えて、鋭い。家事は愛の行為とされ、報酬がない。しかし、それがなければ労働者は明日、工場へ行けない。つまり、資本は、無償の労働の上に立っている。運動の内部でも論争になった。賃金を払えば、女性を家に固定するのではないか。運動は賃金そのものより、見えない労働を可視化する言葉として残った。パドヴァ
- ソルジェニーツィン『収容所群島』できごとAD1973年収容所で八年を過ごしたアレクサンドル・ソルジェニーツィンは、生き残った人びとの証言を密かに集め、収容所の仕組みを群島にたとえて描いた大著を書いた。原稿を預かった女性が秘密警察に尋問され、隠し場所を明かしたのち命を絶つ。作家は国内での出版をあきらめ、1973年の暮れ、パリで出版させる。翌年、国外に追放された。西側の知識人の中に残っていたソ連への幻想を、この本が大きく崩した。パリ
- フーコー『監獄の誕生』できごとAD1975年見られているかもしれない、だけで人は律する十八世紀の半ばまで、罪人は広場で公開の拷問と処刑を受けた。それが百年足らずで、塀の中で時間割どおりに暮らさせる監獄に変わる。人道的になったように見えるこの変化を、ミシェル・フーコーは1975年の本で別の角度から描いた。罰の対象は体から心へ移り、人を見張り、記録し、規律に従わせる技術が、監獄だけでなく学校や軍隊や工場や病院に広がったのだ、と。見られているかもしれないと思うだけで、人は自分を律するようになる。パリ
- フランスの死刑廃止できごとAD1981年10月9日ギロチンの終わり1981年、大統領選挙に勝ったミッテランは、世論の6割ほどが死刑の存続を望んでいると知りながら、死刑の廃止を約束していた。法務大臣に選ばれた弁護士ロベール・バダンテールは、9月の国民議会で、死刑は犯罪を減らさず、裁きの誤りを取り返せないと説いた。法案は議会と元老院を通り、10月9日に公布された。ギロチンによる最後の処刑は、1977年だった。フランス革命の時代から二百年近く使われた断頭台は、ここで止まった。ヨーロッパではこのあと、死刑の廃止が欧州評議会とヨーロッパ連合に加わる条件になっていく。パリ
重なっているストーリー
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科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。大学の講義で学ぶ歴史5件を共有 / 東京大学の公開講座や放送大学の動画から、歴史の項目に当たる講義を選んで付けた。研究者が自分の専門を語る、長めの講義が中心になる。ローマ人の物語4件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。接触前のアメリカ4件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。『想像の共同体』で読む歴史4件を共有 / 国民とは、会ったこともない人を同じ仲間だと思える想像力のことだ、という本。性の歴史4件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。障害の歴史4件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。メディアの歴史4件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。住まいの歴史4件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。二つの大戦3件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。帝国と独立3件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。『繁栄』で読む歴史3件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『大転換』で読む歴史3件を共有 / 市場はずっと社会の一部だった。それが逆転して、社会のほうが市場に合わせはじめた19世紀に何が起きたか。差別の歴史3件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。お金の歴史3件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。食の歴史3件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。アレクサンドロスの東方遠征2件を共有 / 20歳で王になった男が、11年でギリシアからインダス川まで到達した。そして32歳で死ぬ。中華の統一2件を共有 / 殷を倒した周から、初めて中国をひとつにした秦まで。800年かけて「天下」という考えが育つ。三国志2件を共有 / 400年続いた漢が壊れ、三つに割れ、そしてまた一つに戻るまでの約100年。東ローマ千年2件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。冷戦のあと2件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史2件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『万物の黎明』で読む歴史2件を共有 / 狩猟採集から農耕へ、村から都市へ、そして国家へ。その一本道の筋書きそのものが間違いだ、という本。『負債論』で読む歴史2件を共有 / お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後2件を共有 / 冷戦が終わったあと、世界はどうなるのか。3年違いで出た二冊が、正反対の答えを出した。『地に呪われたる者』で読む脱植民地2件を共有 / 植民地支配が人の心に何をするかを、精神科医が診察室から書いた。36歳で死ぬ年に口述された本。国風文化 — かなと宮廷の女たち2件を共有 / 唐の文化をまねる時代のあとに、かな文字と宮廷の女性たちが、日本の言葉で書く文学を生んだ。10世紀から11世紀の、平安の宮廷の文化。明治・大正の文化 — 文明開化から大衆文化へ2件を共有 / 西洋の思想・学校・新聞・文学が一度に入ってきた明治と、ラジオと雑誌と映画で文化が大勢のものになった大正から昭和の初め。探検と発見1件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。草原の帝国1件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。民族移動の時代1件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ1件を共有 / ギボンが1776年に出しはじめた、トラヤヌスからコンスタンティノープル陥落までの1300年。「なぜ滅びたか」を問う型はここで作られた。『大分岐』で読む歴史1件を共有 / 1800年まで、長江下流とイングランドは同じくらい豊かだった。分かれたのは石炭と植民地のせいだ、という本。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で読む歴史1件を共有 / 資本主義を生んだのは強欲ではなく、救われているか分からない不安だった、という100年前の論文。『オリエンタリズム』で読む歴史1件を共有 / 西洋が「東洋」について語ってきたことは、東洋についての知識ではなく、西洋についての物語だった、という本。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀1件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。『日本の歴史をよみなおす』で読む日本1件を共有 / 日本は農業の国で、百姓は農民だった。その前提を、史料の側から崩した本。『反穀物の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が穀物を育てたのではなく、穀物と国家が人を囲い込んだ。最初の国家は、なぜ壁の内側に人を閉じ込めたのか。『近代世界システム』で読む歴史1件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。『歴史とは何か』で読む歴史の読み方1件を共有 / 事実は自分では語らない。誰がどれを選んだかが、そのまま歴史になる。この年表そのものへの問いかけ。『ホモ・デウス』で読む次の歴史1件を共有 / 飢餓と疫病と戦争を抑え込んだ人類が、次に何を目指すか。『サピエンス全史』の続編。『中国の科学と文明』で読む技術の歴史1件を共有 / 中国には長い科学技術の蓄積があった。では、なぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス1件を共有 / 「ルネサンス」という時代の像そのものを作った本。150年たっても、まだその像の中にいる。『黒い皮膚・白い仮面』で読む植民地の心1件を共有 / 支配される側が、支配する側の目で自分を見てしまう。27歳の精神科医が書いた最初の本。鎌倉文化 — 武士と民衆の仏教1件を共有 / 源平の争乱で焼けた寺の再建と、新しい仏教の広がり。12世紀の終わりから14世紀の初めにかけての、武士と民衆が担い手になった文化。元禄から化政へ — 江戸の町人文化1件を共有 / 戦のない時代が続いた江戸時代、文化の担い手は大名と公家から、上方の、そして江戸の町人へ移っていった。寛永・元禄・宝暦天明・化政と、時代ごとに中心が変わる。