接触前のアメリカ
概要
旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。
この物語について
旧大陸を一度も見ないまま、同じところへ辿り着いた社会がある。似ていたのは何で、違っていたのは何だったのか。アメリカ大陸は、人類の歴史にとってただ一度の、大きな独立した実験だった。
人がこの大陸に入ってきたのは、氷期の終わりごろである(アメリカ大陸への到達)。海面が下がってシベリアとアラスカが陸続きになっていたベーリング海峡のあたりを、狩りをする人々が渡ってきた。時期は少なくとも1万5千年前とされ、チリ南部のモンテ・ベルデの遺跡がそれを示す。もっと古い時期を示す足跡の発見もあるが、年代をめぐって議論が続いている。人が広がるのと前後して、マンモスや大型のナマケモノ、アメリカ大陸の馬などが姿を消した。気候の変化と狩りのどちらが主な原因だったかは、決着していない。この絶滅が、のちの歴史を大きく分けることになる。
その後、旧大陸との行き来はほとんど途絶えた。1000年ごろ北欧の人々がニューファンドランド島に着いたが、数年で去っていった。だからこそ、アメリカ大陸で起きたことは、旧大陸とは別に、人が農耕や都市や国家にどう行き着くのかを見せてくれる。

農耕の柱になったのはトウモロコシだった(トウモロコシの栽培化)。いまのメキシコ南部で、テオシントという小さな穂の野草が、9千年ほど前から何千年もかけて、人の手で大きな穂の作物に作り変えられていった。豆とカボチャを一緒に植えるやり方が広がり、アンデスではジャガイモとキヌア、リャマとアルパカが暮らしを支えた。夜の凍結と昼の乾燥を使ってジャガイモを干し、何年も保存できるチューニョにする技も生まれている。
都市も、旧大陸とほぼ同じころに現れた。ペルーの海岸に近いカラルでは、エジプトでピラミッドが築かれていたのと同じ前3千年紀に、大きな基壇と広場を持つ都市が作られていた(カラルの都市)。不思議なことに、ここからは武器も城壁も見つかっていない。メキシコ湾岸では前1200年ごろからオルメカ文明の人々が、巨大な石の頭像を刻み、のちの中米の文明に受け継がれる球技や暦や神々の原型を作った。アンデスの山中ではチャビンの神殿が、海岸の砂漠ではナスカの人々が地上に巨大な絵を描いた。
メキシコ高原には、紀元後の数世紀に巨大な都市が育った(テオティワカンの隆盛)。最盛期の人口は10万人を超えたと推定され、同じころのローマと並ぶ規模で、「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」を大通りが結ぶ。だが、誰が建てたのか、どんな言葉を話していたのかはいまも分かっていない。テオティワカン、つまり「神々の生まれた場所」という名は、廃墟となって数百年後にやって来たアステカの人々がつけたものだ。都市は6世紀ごろに中心部が焼かれ、衰えていった。
南のユカタン半島と熱帯の低地では、マヤの人々が数十の都市国家を並べた。マヤは統一国家にはならず、ティカルとカラクムルのような大きな都市が、同盟と戦争を繰り返した。彼らはアメリカ大陸で最も完成した文字を持ち、ゼロを含む記数法で、何千年もの日を数える長期暦を刻んだ。パレンケのパカル王の石棺には、王の死と再生が刻まれている。マヤ文字は長く解けなかったが、20世紀の半ばにソ連の学者クノロゾフが、文字が音を表すことを示し、以後、碑文から王の名や即位の年、戦争の記録が読めるようになった。

ところが9世紀、マヤ低地の都市は次々と捨てられた(マヤ低地の崩壊)。最後の年号が刻まれ、人々は去っていく。湖の堆積物からは長い旱魃の跡が見つかっているが、都市どうしの戦争、人口の増えすぎによる森の伐採と土地の疲弊も重なったとみられ、どれか一つには決まっていない。ただ、マヤの人々が消えたわけではなく、北のチチェン・イッツァはその後も栄え、マヤ語を話す人々はいまも数百万人いる。
北アメリカにも大きな社会があった。ミシシッピ川の流域では、トウモロコシの農耕を土台に、土を盛った巨大な塚を中心とする町が生まれた。いまのセントルイスの近くにあったカホキアは、11世紀から12世紀に最盛期を迎え、人口は1万から2万ほどと推定される(カホキアの繁栄)。当時のロンドンに匹敵する規模だった。南西部の乾いた土地では、先祖プエブロの人々がチャコ・キャニオンに何百もの部屋を持つ大きな建物を築いた。どちらも13世紀ごろまでに人が去っている。北東部の森では、のちにイロコイ連邦と呼ばれる五つの部族が「大平和の法」で結ばれ、合議で物事を決めた。その成立の時期には、12世紀から15世紀まで諸説がある。

15世紀、二つの大きな国が並び立った。メキシコ盆地では、1325年ごろにアステカの人々が湖の島にテノチティトランを建てたと伝えられる。彼らは周りの都市と同盟を結んで勢力を広げ、征服した土地を直接治めるのではなく、貢ぎ物を取る形で支配した。神々に捧げる生贄のための捕虜をとる「花の戦争」も行われた。湖の上の都は人口20万ともいわれ、のちに訪れたスペイン人を驚かせた。
アンデスでは、1438年ごろから王パチャクテクのもとでインカが急速に広がった(インカ帝国の拡大)。最盛期には、いまのエクアドルからチリまで南北4千キロに及ぶ帝国になる。インカは文字を持たなかったが、紐に結び目をつけたキープで人口や税を記録し、結び目のない位置で零を表した。車輪も馬もないまま、総延長3万キロともいわれる道を山と谷に通し、走り手の交代で知らせを運び、各地の倉に食料をため込んだ。山の上のマチュピチュは、隙間なく組まれた石で今も残っている。

違いも、はっきりしている。車輪は玩具にはあったが、荷を運ぶのに使われなかった。牛や馬にあたる、荷を引かせ畑を耕させる大型の家畜がいなかったからだとされる。鉄も作られなかった。そして、家畜と密に暮らしてこなかった人々は、家畜から人へ移ってきた病気に免疫を持っていなかった。
1492年、コロンブスがカリブ海の島に着いた。この独立した実験は、そこから数十年で断ち切られる。1519年、コルテスは数百人のスペイン人とともにメキシコに上陸し、アステカに反感を持つ周りの都市の人々を味方につけた。通訳を務めた先住民の女性マリンチェがいなければ、征服は成り立たなかったともいわれる。そして決定的だったのは、天然痘だった(天然痘のアメリカ大陸上陸)。1520年に持ち込まれた病はテノチティトランを襲い、翌1521年8月、包囲された都は落ちた(テノチティトランの陥落)。アンデスでは、スペイン人が来る前に病が届いて皇帝が死に、跡目をめぐる内戦が起きていた。1532年、ピサロはわずか百数十人でカハマルカの皇帝アタワルパを捕らえ、翌年処刑した。

その後の百年で、アメリカ大陸の先住民の人口は、地域によっては9割ほど減ったとされる。もとの人口の推定に大きな幅があるため、正確な数は分からない。スペイン人の修道士ラス・カサスは、征服者たちの残虐さを告発する本を書いた。
一方で、この大陸が育てたものは世界を変えた。トウモロコシとジャガイモはヨーロッパやアフリカ、中国の人口を支え、トマトや唐辛子は各地の料理に入り、タバコとカカオは新しい嗜好を作った。大陸どうしの動植物と病気のやり取りは「コロンブス交換」と呼ばれる。アマゾンの森の土には、人が何百年もかけて作った肥えた黒い土が見つかり、手つかずの自然だと思われていた森の多くが人の手の入った風景だったことも分かってきた。マヤ語やケチュア語はいまも数百万の人々が話し、メキシコの「死者の日」には、先スペイン期の祭りの記憶が重なっている。断ち切られた実験は、完全に消えたわけではない。
この物語が起きた場所
筋(85)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- アメリカ大陸への到達できごと約1万6000年前(2万3000〜1万5000年前と幅がある)ここから1万5000年、旧大陸と行き来がないシベリアからアラスカへ渡り、数千年で大陸の南端に達した。人類が住み着いた最後の大陸で、ここから先は海の島だけになる。モンテ・ベルデ
- アメリカ大陸の大型動物の絶滅できごと約1万2500年前馬はここで一度消え、スペイン人が連れてくるまで戻らないマンモス、地上性のナマケモノ、剣歯虎。人が着いてから2000年ほどで、大型哺乳類の属の大半が消えた。オーストラリアで起きたことが、もう一度起きている。ブラックウォーター・ドロー
- トウモロコシの栽培化できごと約9000年前この作物なしにマヤもアステカも無い実が指ほどしかない野生のテオシントから、数千年かけて作った。新大陸で農耕の立ち上がりが遅れた理由の一つに挙げられる。バルサス川流域(位置は特定されていない)
- カラルの都市できごと紀元前26世紀武器も城壁も見つかっていないピラミッドを持つ都市が、ギザとほぼ同じ頃にペルーの海岸に建っていた。武器も城壁も見つかっていない。カラル
- ポバティ・ポイントの土塁できごとBC17〜12世紀農耕をしない狩猟採集の人びとが、100万立方メートルの土を運んで半円の土塁を築いた。農業が無ければ大工事もできない、という前提が崩れる。ポバティ・ポイント
- オルメカ文明できごとBC1200年頃中米の最初の文明メソアメリカ最初の高文明。巨石人頭像を残し、暦・球技・神々の型が後の文明に受け継がれる。ラ・ベンタ
- チャビン文化できごとBC900年頃アンデス最初の広域文化。宗教を核に山地と海岸が結ばれ、インカまで続く伝統の土台になる。チャビン・デ・ワンタル
- アマゾンの黒い土できごとBC5世紀〜AD10世紀アマゾンは人が作った風景だった痩せた熱帯の土の中に、人の手で作られた真っ黒な肥沃地が広がっている。手つかずの原生林と思われていた場所に、大勢が住んでいた証拠になる。サンタレン
- ラ・ベンタの放棄できごとBC400年頃暦と球技と神々は後の文化に受け継がれたメソアメリカで最初に大きな都市を作った文化が、その中心を捨てた。巨石人頭像が意図的に壊された跡がある。暦と球技と神々は、後の文化に受け継がれた。ラ・ベンタ
- マヤの諸都市国BC250年頃(先古典期の終わり) – AD900年頃(低地の古典期マヤの崩壊)統一国家にならず、数十の都市が並んだ統一国家にはならず、数十の都市が争いながら並んだ。ゼロを含む記数法と、正確な暦と、南北アメリカで唯一の完全な表記体系を持つ。9世紀に低地の都市が次々に放棄される。
- ナスカの地上絵できごとBC100年数百の巨大な線と図形が乾いた台地に描かれた。目的は分かっていない。ナスカ
- マヤの長期暦できごとBC36年(現存最古の刻銘)ゼロを持つ記数法は世界に数えるほどしかないBC3114年を起点として日を数え続ける暦。ゼロを含む記数法を使い、5000年を超える周期を刻む。チアパ・デ・コルソ(位置は特定されていない)
- テオティワカンの隆盛できごとAD100年誰が建てたのかいまも分かっていない人口10万を超え、同時代のローマと並ぶ規模だった。誰が建てたのか、どの言語を話したのかも分かっていない。テオティワカン
- モンテ・アルバンのサポテカできごとAD1世紀最も早い文字と暦の記録山の頂を平らに削って広場を作った。メソアメリカで最も早い文字と暦の記録がここに残る。征服した町の名を刻んだ石板が並ぶ。モンテ・アルバン
- モチェ文化できごと100年文字を持たずに、土器で暮らしを残した砂漠に運河を引いて谷を潤し、日干し煉瓦の巨大な神殿を建てた。写実的な土器が数万点残り、文字のない社会の暮らしと儀礼を細かく伝えている。モチェ渓谷(位置は特定されていない)
- マヤ古典期できごとAD250年独立した都市国家が競い合った。ゼロを含む数の体系と、南北アメリカで唯一の完全な文字を持つ。ティカル
- ティワナク国AD3世紀頃 – AD1000年頃(干ばつによる衰退とされる)標高3800メートルで人口を養った標高3800メートルの湖畔に、精密に切り出した石の建築を残した。畝と水路を組み合わせた耕作で、この高さで人口を養っている。
- カラクムルとティカルの戦争できごとAD562年蛇の王国マヤの二つの超大国。「蛇の王国」(当時の都はジバンチェで、のちカラクムルへ移る)が562年にティカルを破り、130年、ティカルは碑を建てなかった。695年、ティカルの王ハサウ・チャン・カウィールが仕返しした。同盟と結婚と戦争。二つとも9世紀に捨てられた。カラクムル
- パカル王人物AD603年3月23日 – AD683年8月28日68年在位し、パレンケを最盛期に導いた。生没年が日まで分かるのは、マヤが精密な暦と文字を持っていたため。
- ヤシュチランのまぐさ石できごとAD724年頃舌に縄を通すウスマシンタ川の湾曲に建つマヤの都市。神殿の入口のまぐさ石に、王「盾ジャガー」と妃「シュック夫人」が彫られている。妃は棘のついた縄を舌に通し、血を紙に落として、香を焚いた煙の中から蛇が立ち上がり、その口から祖先の戦士が現れる。放血儀礼。王権は、痛みと血で、祖先とつながった。大英博物館にある。ヤシュチラン
- コパンの階段碑文できごとAD755年2200の文字63段、2200の文字。マヤで最も長い碑文。コパンの16人の王の歴史。第15代の王が建てた。17年前、第13代の王が隣国キリグアに捕えられて首を斬られ、その屈辱を書き直した石。1世紀後、コパンは捨てられた。コパン
- ボナンパクの壁画できごとAD791年平和な天文学者の像が消えた1946年、アメリカ人がラカンドン人に連れられて見た。三部屋。行列、戦い、捕虜の拷問、生贄。指の爪を剥がれた捕虜の手から血が落ちる。「マヤは平和な天文学者」という像が、この絵で消えた。描かれた10年後、街は捨てられた。ボナンパク
- ミシシッピ文化国AD800年頃 – AD1600年頃トウモロコシで人口を養い、土のピラミッドを築いた。カホキアは12世紀に人口1万を超え、当時のロンドンより大きかった。ヨーロッパ人が来る前に、多くの都市が放棄されている。
- 祖先プエブロ国AD850年頃(チャコの建設の始まり) – AD1300年頃(放棄)13世紀の干ばつで放棄された砂漠の峡谷に、石を積んで数百室の建物を建てた。チャコ・キャニオンから真っ直ぐな道が四方に延びる。13世紀の干ばつで放棄され、人びとは南へ移った。
- マヤ低地の崩壊できごとAD900年頃9世紀に次々と捨てられた。理由には諸説ある南部の都市が次々に放棄された。干ばつ、戦争、環境の疲弊が挙げられるが、決着していない。ティカル
- チムー王国国AD9世紀頃 – AD1470年頃(インカによる併合)インカに併合される直前まで海岸最大の国だった砂漠の海岸で、谷と谷を運河でつないだ。都チャン・チャンは日干し煉瓦の都市として世界最大級になる。インカに水源を押さえられて降伏した。
- トルテカのトゥーラできごとAD950年頃チャクモールテオティワカンの後、メキシコ中央の中心。4.6メートルの戦士の石柱。チャクモール。ケツァルコアトルを名乗った王が追われて東へ去った、と伝える。アステカは自分たちの祖をトルテカに求め、「トルテカ」は「職人」の意味になった。1150年頃に焼かれた。トゥーラ
- チチェン・イッツァの繁栄できごとAD1000年頃マヤ北部の中心。天文台とされる建物があり、春分と秋分に階段へ蛇の影が降りる。チチェン・イッツァ
- ヴィンランド到達できごとAD1000年頃最初の接触。ただし何も動かなかったヨーロッパ人が北アメリカに着いた。集落は数年で放棄され、この到達は大陸の歴史を動かさなかった。ランス・オ・メドー
- ホホカムの運河できごとAD1000年頃去った者たちアリゾナの砂漠に、石の道具で1000キロの運河を掘った人々。トウモロコシ、豆、綿。球戯場。メキシコからの貝と鸚鵡。1450年頃、消えた。干魃か洪水か。フェニックスの運河は、その上に掘られた。「ホホカム」は「去った者たち」。スネークタウン(ホホカム)
- カホキアの繁栄できごとAD1050年当時のロンドンに匹敵する人口だったとされるミシシッピ川流域の巨大な土塁都市。人口は当時のロンドンに匹敵したとされ、北米最大の遺跡になる。カホキア
- プエブロ・ボニートできごとAD1050年頃木材20万本を人が担いだチャコ・キャニオンの谷底に、石を積んだ4階建て、部屋650、大キヴァ(円形の儀礼の部屋)3つ。木材20万本を80キロ先の山から運んだ(馬も車輪もなく、人が担いだ)。谷から放射状に、幅9メートルのまっすぐな「道」が何百キロも延びる。人はあまり住んでいなかった、と考えられる。巡礼と再分配の中心。1130年からの50年の旱魃で、放棄された。プエブロ・ボニート
- チャコ・キャニオンの大集落できごとAD1050年頃(最盛期)砂漠の峡谷に、数百室・五階建ての石造建築が十数棟並んだ。数十キロ先まで真っ直ぐな道が延び、太陽と月の周期に合わせた建物の向きが残る。チャコ・キャニオン
- チャン・チャンの造営できごとAD1100年頃雨のほとんど降らない海岸に、日干し煉瓦で20平方キロの都市を建てた。谷と谷を運河でつないで水を配る。チャン・チャン
- テノチティトランの建設できごとAD1325年湖上の島に築かれた都。運河と浮き島の農地を備え、スペイン人が見たとき人口20万を超えていた。テノチティトラン
- カホキアの放棄できごとAD1350年頃北米最大の都市が、200年で人口を失った。洪水、森の消費、内紛、気候の寒冷化。理由は一つに絞れていない。カホキア
- ネサワルコヨトル人物AD1402年4月28日 – AD1472年三国同盟の一角の王であり、詩人であり、技師でもあった。堤防を築いて湖の塩水と真水を分けている。
- パチャクテク人物AD1418年頃 – AD1471年頃小さな王国を帝国に変えた。マチュ・ピチュを築き、道路網でアンデス全域を結ぶ。
- アステカ国AD1428年(三国同盟) – AD1521年(テノチティトラン陥落)征服した土地を直接治めず、貢納を取る形で広げたメキシコ盆地の三つの都市が結んだ同盟。征服した土地を直接治めず、貢納を取る形で広げた。100年足らずでスペイン人と天然痘に倒れる。
- インカ帝国の拡大できごとAD1438年文字を持たず、結び目で記録した文字を持たないまま、4万kmの道路網と結縄で南米西岸を統治した。クスコ
- インカ帝国国AD1438年(パチャクテク即位) – AD1533年(アタワルパの処刑)文字を持たないまま南北4000kmを道と結縄で束ねた文字を持たないまま、南北4000kmを道と結縄(キープ)で束ねた。95年で最大になり、内戦の直後に180人足らずのスペイン人に倒される。
- パチャクティの拡大できごとAD1438年石が兵になったチャンカ族がクスコを攻め、王は逃げ、息子が残って勝った。「世界を変える者」。パチャクティ。父を退けて王になり、クスコをピューマの形に作り直し、チチカカからチャンチャンまで取った。30年で村がタワンティンスーユになった。クスコ
- テスココ湖の堤防できごとAD1449年詩人でもある王が16キロの堤防を設計した洪水のあと、詩人でもある同盟国の王が16キロの堤防を設計した。塩水と真水を分け、湖上の都を守る。水道橋も引いている。テノチティトラン
- イロコイ連邦国AD15世紀頃(成立年には1142年説もある) – AD1783年(パリ条約。土地がアメリカに渡る)合意で決め、氏族の母たちが首長を選んだ五つの部族が争いをやめて一つの長屋になる、という誓いで結ばれた。決定は会議の合意で、氏族の母たちが首長を選ぶ。イギリスとフランスの間で200年、独立を保った。
- 花の戦争できごとAD1450年頃殺さずに捕えるアステカとトラスカラが、生贄のための捕虜を取るために、決められた場所と日に戦った。殺さずに捕える。「花のように美しい戦い」。それで神に太陽を回させた。トラスカラは滅ぼされず、恨みを溜め、1519年にコルテスに兵を出した。テノチティトラン
- マチュピチュの建設できごとAD1450年頃隙間なく組んだ石パチャクティが、ウルバンバ川を見下ろす標高2400メートルの尾根に建てた。王の離宮か、聖地か、両方か。スペイン人は来なかった。100年で捨てられた。1911年、ビンガムが地元の農民に案内された。石は隙間なく組まれ、地震で崩れない。マチュピチュ
- イロコイ連邦の成立(大平和の法)できごとAD15世紀頃(1142年説もある)合議と、氏族の母による首長の選出五つの部族が争いをやめ、一つの長屋に住むと誓った。武器を白い松の根元に埋めた、と伝承は語る。合議と氏族の母による首長の選出が、その法の中身になる。オノンダガ(位置は特定されていない)

- キープできごとAD15世紀結び目のない桁がゼロだった。文字を持たずに帝国の帳簿を回したインカには文字がなかったと言われるが、記録は膨大にあった。主縄から何十本もの副縄を垂らし、そこに結び目を作る。結びの位置が桁を、形が数を表し、十進法で記す。ゼロは、その桁に結び目を作らないことで示した。色と撚りの向きも情報を持つ。倉の中身、人口、労役の割り当てが、これで管理された。読み書きする専門職がいて、駅伝の走者が運んだ。スペイン人は当初これを証拠として法廷で認め、後に偶像崇拝として焼いた。数の部分は解けたが、物語を記したとされる縄は、いまも読めない。クスコ
- チューニョと倉できごとAD15世紀夜の寒さと昼の日差しで、何年も腐らない芋を作ったアンデスの高地では、昼は日が照り、夜は凍る。人々はジャガイモを地面に広げて夜の寒さで凍らせ、昼に足で踏んで水を絞り出し、また日に干した。こうしてできたチューニョは、軽く、何年も腐らない。インカの国は、山の斜面に石の倉を何百、何千と並べ、チューニョや干し肉やトウモロコシを蓄えた。倉は風通しのよい高みに建てられ、中は涼しく乾いている。蓄えは、道を行く兵と役人を養い、不作の年には民に配られた。文字を持たない国が、結び目の紐で数を記し、食べ物を貯めて、広い領土を治めていた。クスコ
- インカ道できごとAD15世紀車輪も馬も無いまま、三万キロの道で国を動かしたインカの国は、山脈に沿って南北四千キロに伸びていた。それを結んだのが、総延長三万キロを超える道の網である。車輪も馬も無い。人が歩き、リャマが荷を負う。険しい斜面には石の階段を刻み、谷には草を編んだ吊り橋を架け、毎年架け替えた。道沿いには一定の間隔で宿が置かれ、食料と衣類が備えられている。走る飛脚は区間ごとに交代し、クスコから海岸の魚を数日で運んだと伝えられる。文字を持たない国が、紐の記録と、この道で、広大な領土を動かしていた。クスコ
- モクテスマ2世人物AD1466年頃 – AD1520年アステカ最後の全盛期の王。コルテスを迎え入れ、その混乱のなかで死ぬ。
- インカによるチムー併合できごとAD1470年頃征服した相手の職人を連れ去るのがインカのやり方だった山からの水路を断たれ、戦わずに降伏したと伝わる。海岸最大の国が、山の国に呑まれた。チャン・チャン
- トラテロルコの併合できごとAD1473年三つの文化の広場テノチティトランの隣の島の双子の街。アステカ最大の市場。王アシャヤカトルが攻め、トラテロルコの王は神殿から落ちて死んだ。市場は残り、1521年に最後の戦いの場所になり、1968年に学生が撃たれた広場になった。三つの文化の広場。トラテロルコ
- コロンブスの到達できごとAD1492年10月12日断ち切られる側から見た始まり二つの大陸が結ばれた。人・作物・家畜・病原体が行き来し、両側の世界が作り替えられる。サン・サルバドル島(位置は特定されていない)
- コロンブス交換できごとAD1500年頃1万年ぶりに繋がった1492年を境に、1万年ぶりに二つの生物界が繋がった。アメリカからヨーロッパ・アジア・アフリカへ、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、キャッサバ、トマト、唐辛子、カカオ、落花生、タバコ。逆向きに、小麦、米、サトウキビ、コーヒー、馬、牛、豚、羊、そして天然痘・麻疹・インフルエンザ。旧世界の人口は新作物で増え、新世界の人口は病で9割減った。イタリア料理のトマトも、四川の唐辛子も、この交換の産物である。メキシコシティ
- マリンチェ人物AD1500年頃 – AD1529年頃通訳がいなければ征服は成り立たなかったナワトル語とマヤ語を話し、コルテスの通訳を務めた。裏切り者とも、生き延びるしかなかった者とも呼ばれる。
- アタワルパ人物AD1502年頃 – AD1533年7月26日内戦に勝った直後にピサロに捕らえられた。部屋を埋める金を渡したが、処刑される。
- 天然痘のアメリカ大陸上陸できごとAD1520年接触の直後に起きたことスペイン人より先に、病が帝国を崩した。免疫を持たない大陸で、人口の大半が一世紀のうちに失われる。テノチティトラン
- テノチティトランの陥落できごとAD1521年アステカが滅びた。決め手は武器よりも、持ち込まれた疫病だった。テノチティトラン

- コチニールできごとAD1523年ウチワサボテンに寄生する小さな虫の、雌の体を乾かして砕くと、鮮やかな深紅が採れる。メソアメリカでは千年以上前から栽培されていた。スペインが植民地の産物として送り出すと、ヨーロッパの染色が変わる。それまでの赤は茜と地衣で、くすんでいた。枢機卿の緋衣も、イギリス軍の赤い上着も、これである。原料が虫であることをスペインは長く伏せ、生産をオアハカに独占させた。銀に次ぐ輸出品になり、そして合成染料が、それを終わらせた。オアハカ
- カハマルカの戦いできごとAD1532年11月16日168人のスペイン人が、数万の軍の目の前で皇帝を捕らえた。スペイン側の死者はいない。ダイアモンドはこの日を本の問いの出発点にする。カハマルカ

- インカ帝国の滅亡できごとAD1533年内戦で弱っていたところを、200人足らずのスペイン人に崩された。クスコ
- 死者の日できごとAD1550年頃先スペイン期の祭祀と重なった11月1日と2日、死者が帰ってくる。家に祭壇を作り、故人の写真と、好きだった食べ物と、匂いの強い花(センパスチル)を置く。墓地で夜を明かし、そこで食べ、歌う。先スペイン期のメソアメリカの死者の祭祀と、カトリックの諸聖人の日・死者の日が重なってできた。死を隠さず、笑いと結びつける。19世紀末、ポサダが描いた骸骨の風刺画(カラベラ)が、その図像を決定づけた。2008年、ユネスコの無形文化遺産。メキシコシティ
- ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』できごとAD1552年4000万人ドミニコ会の司教が、自分が見たスペイン人の殺戮を王子に報告する形で印刷した。「1200万人を超え、実は1500万人を超える」。数字は誇張とされるが、告発は本物で、敵国が訳して回覧し、「黒い伝説」の元になった。セビリャ

- タバコの伝播できごとAD1560年頃儀礼の草が世界へアメリカ大陸原産。先住民が儀礼と医療に使っていた。コロンブスの一行が持ち帰り、当初は薬として広まった。フランス大使ジャン・ニコがカトリーヌ・ド・メディシスに勧めたことから、ニコチンの名が付いた。100年でユーラシア全域に達した。オスマン、ムガル、明、そして日本。各地の君主が禁じ、破れば死罪とした例もある。誰も止められなかった。植民地の主要な換金作物になり、ヴァージニアの奴隷制の基礎になった。セビリャ
- ポペ人物AD1630年頃 – AD1692年頃結び目の紐で日を合わせた祈祷師魔術の罪で鞭打たれた祈祷師が、結び目の紐で日を合わせ、各集落を同時に立たせた。スペイン人を12年追い払った。その像がいま連邦議会に立つ。
- カリブの砂糖プランテーションできごと1640年島の先住民が消えたあとに来たもの小さな島が、世界で最も利益の出る土地になった。砂糖のために数百万人が大西洋を運ばれ、ヨーロッパの食卓に甘さが日常として入る。工場に似た労働の管理も、ここで先に生まれた。バルバドス(位置は特定されていない)
- カンディアロンク人物AD1649年頃 – AD1701年8月2日先住民の側から、ヨーロッパの社会を論じた五大湖のウェンダットの指導者で、外交と弁論で知られた。フランス人との対話の記録が本国で読まれ、ヨーロッパ人が自分たちの社会を疑う材料になった。
- ドードーの絶滅できごとAD1662年豚と鼠が卵を食べたモーリシャス島には捕食者がいなかった。だから、この鳩の仲間は飛ぶ必要がなく、地面に巣を作り、人を恐れなかった。1598年にオランダ人が上陸し、100年経たずに姿を消した。人が食べた数より、持ち込まれた豚と鼠と猿が卵を食べた影響が大きい。最後の確実な目撃は1662年。標本はほとんど残らず、オックスフォードの一体も1755年に大半が焼却された。「絶滅」という現象を、人が初めて自分の目で確かめた例になった。モーリシャス
- プエブロの反乱できごとAD1680年8月10日北米で先住民が植民者を追い払った唯一の例結び目を作った紐で日を合わせ、各集落が同時に蜂起してスペイン人を追い出した。北米で先住民が植民者を追い払った唯一の例で、12年続いた。サンタフェ(ニューメキシコ)
- ソル・フアナ「フィロテア修道女への返答」できごとAD1691年女性が世俗の学問に耽るのは本分から外れる、という司教の書簡に反論した。禁じる根拠は聖書に無い、台所でも哲学はできる、と。その後、筆を折る。テノチティトラン
- トゥパク・アマル2世人物AD1738年3月19日 – AD1781年5月18日インカの記憶が250年後の蜂起に使われたインカ最後の皇帝の子孫を名乗り、植民地体制に対して蜂起した。処刑の様子が、以後の抵抗の記憶になる。
- テカムセ人物AD1768年頃 – AD1813年10月5日部族の枠を越えた連合で入植の波を止めようとした。土地は誰か一人のものではない、という主張を貫く。
- 六マイル四方できごとAD1785年5月20日独立したばかりの合衆国には、金は無いが西の土地があった。連合会議は、売る前に測ることを決めた。六マイル四方をタウンシップとし、それを一マイル四方の三十六の区画に割る。番号を振り、地図にし、区画ごとに売る。現地を見ずに、番号だけで買える。十六番目の区画は学校のために取り置くと定めた。実際の土地には川も丘もあるが、線は構わず引かれた。いまも飛行機から中西部を見下ろすと、地平線まで正方形が続く。所有が土地の形を決めたのではなく、測量が先にあった。ニューヨーク
- テカムセの部族連合できごと1808年接触のあとも、土地をめぐる主張は続いた部族の枠を越えた連合で入植を止めようとした。土地は誰か一人が売れるものではない、という主張だった。プロフェッツタウン(位置は特定されていない)
- 涙の道できごと1830年接触の300年後に起きたこと南部の五つの部族が、法律で西へ移された。チェロキーは最高裁で勝訴したが、大統領が判決を無視した。移動の途中で4000人以上が死んでいる。ニュー・エコタ

- シッティング・ブル人物AD1831年頃 – AD1890年12月15日リトルビッグホーンで合衆国軍を破ったラコタの指導者。のちに保留地で警察官に射殺される。
- アメリカバイソンの激減できごとAD1875年糧食庫を殺す19世紀の初め、北アメリカに3000万頭以上いた。1889年、野生の個体は1000頭を割った。鉄道が平原を横切り、なめし技術の改良で皮が工業用ベルトに使えるようになると、狩猟者が押し寄せた。一人で一日100頭を撃った記録がある。骨は肥料に、皮は工場へ。軍がこれを黙認あるいは奨励した面がある。平原の先住民はバイソンに依存していた。獣を絶やせば、彼らは居留地へ来るしかない。「インディアンの糧食庫を殺す」と、ある将軍が書いている。グレートプレーンズ
- ウーンデッド・ニーの虐殺できごとAD1890年12月29日武装解除の最中に発砲が起き、300人近いラコタが殺された。北米先住民との戦争の終わりとされる。ウーンデッド・ニー

- 米西戦争できごとAD1898年スペインからの独立を求めるキューバの戦いが続いていた。1898年2月、ハバナの港でアメリカの軍艦メイン号が爆発して沈む。原因ははっきりしなかったが、アメリカの大衆紙はスペインの仕業だと煽り立てた。四月に始まった戦争は、四か月足らずでアメリカが勝つ。スペインはキューバを手放し、プエルトリコとグアムとフィリピンをアメリカに譲った。独立を助けるはずの戦争で、アメリカは海の向こうに植民地を持つ国になった。ハバナ
- ユーリー・クノロゾフ人物AD1922年11月19日 – AD1999年3月31日猫を共著者にしようとしたハリコフ近郊生まれ。第二次大戦の末期に赤軍でベルリンに入り、燃える図書館からマヤの写本の複製本を持ち出した、という有名な話がある(本人は後に、単に図書館から支給されたと否定した)。レニングラードの民族学研究所で、ランダ司教の「アルファベット」を音節表として読み直し、1952年に発表した。西側の権威トンプソンに罵倒され、無視された。彼が実際にマヤの遺跡を訪れられたのは、1990年、68歳のときである。愛猫アシャを共著者として論文に載せようとして、編集部に断られた。
- マヤ文字の解読できごとAD1952年王の名と即位の年アメリカの権威エリック・トンプソンは、マヤ文字は表意的な絵であって言語を書き写したものではない、と主張し、その説が数十年、分野を支配した。レニングラードの若い研究者ユーリー・クノロゾフは、16世紀の司教ランダが残した「マヤのアルファベット」の写しを読み直し、それが音節を表す表だと見抜いた。1952年に発表した。冷戦下で、西側は「ソ連の宣伝」として無視した。1970年代以降、若い世代が彼の方法で読み進め、マヤの王の名と即位の年と戦争の記録が、次々に読めるようになった。サンクトペテルブルク
- 『収奪された大地』の刊行できごとAD1971年ラテンアメリカ500年の歴史を、金と銀とゴムと砂糖とコーヒーが持ち去られた記録として書いた。チリ、アルゼンチン、ウルグアイの軍事政権が発禁にし、著者は亡命した。ブエノスアイレス
- サパティスタの蜂起できごとAD1994年1月1日1994年1月1日、北米の自由貿易協定が発効したその日に、メキシコ南部チアパスの先住民を中心とするサパティスタ民族解放軍が、サン・クリストバル・デ・ラス・カサスなどの町を占拠した。協定は先住民への死刑宣告だと訴える。戦闘は十数日で止んだが、彼らは覆面の代弁者の声明をインターネットで世界に発信し続けた。武器よりも言葉で戦う運動として、世界の反グローバル化の運動に影響を与える。自治の村々は、いまも続いている。サン・クリストバル・デ・ラス・カサス
- ハイアワサ人物伝承の中の人。連邦を作った弁士伝承の中の人。娘たちを殺されて森をさまよい、預言者デガナウィダに出会い、その言葉を部族に伝えて連邦を作った。ロングフェローの詩の主人公とは別の人物。
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
都市の歴史16件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。帝国と独立12件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史12件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『1491』『1493』で読む新大陸11件を共有 / コロンブス以前のアメリカは人の少ない原野ではなかった。以後の世界は、生き物の大移動でできている。『サピエンス全史』で読む歴史9件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『文明崩壊』で読む歴史9件を共有 / イースター島、マヤ、グリーンランドのノルウェー人。環境を使い尽くした社会と、そうしなかった社会。大航海時代7件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。感染症と人類7件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。主権はだれのものか7件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。交易路とお金6件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。『収奪された大地』で読むラテンアメリカ6件を共有 / 500年の歴史を、何が持ち去られたかで書く。金、銀、砂糖、ゴム、コーヒー、銅、石油。誰が書き残したか5件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。考えることの歴史4件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。文明のはじまり4件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。表現の歴史4件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。『万物の黎明』で読む歴史4件を共有 / 狩猟採集から農耕へ、村から都市へ、そして国家へ。その一本道の筋書きそのものが間違いだ、という本。食の歴史4件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。探検と発見3件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。『疫病と世界史』で読む歴史3件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。確かめるという方法2件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『物質文明・経済・資本主義』で読む三つの層2件を共有 / 毎日の暮らし、市場での取引、そしてその上に乗る資本主義。ブローデルは経済を三層に分けた。海の歴史2件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史2件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。冷戦1件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。女性の権利1件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。技術と産業1件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。ヴァイキング1件を共有 / 襲撃者として現れ、交易者になり、入植者になった。北アメリカにも、ロシアにも、イングランドにも痕跡がある。民族移動の時代1件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。冷戦のあと1件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。キリスト教のひろがり1件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史1件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『地中海』で読む歴史1件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『近代世界システム』で読む歴史1件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。『暴力と不平等の人類史』で読む格差1件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。『砂糖の世界史』で読む世界商品1件を共有 / 一つの白い粒を追いかけると、カリブの奴隷とイギリスの朝食と産業革命が一本につながる。『交易の世界史』で読む物の流れ1件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。『リオリエント』で読む世界経済1件を共有 / 1800年まで、世界経済の中心はアジアだった。ヨーロッパは、その列に遅れて並んだ客にすぎない。差別の歴史1件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。老いと死の歴史1件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。お金の歴史1件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。戦争と平和の歴史1件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。交通と旅の歴史1件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。言葉と文字の歴史1件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。住まいの歴史1件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。