概要
クレモナの医者の子。マントヴァのゴンザーガ家に仕え、待遇の悪さに苦しみ、妻を病で失った。『オルフェオ』『アリアンナ』。不協和音を、言葉の感情のために使ってよいと主張し、理論家アルトゥージと論争した(「第二の作法。言葉が音楽の主人である」)。1613年、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂楽長。晩年、70代で世界最初の商業歌劇場のために『ポッペアの戴冠』を書いた。
関わったできごと(1)
モンテヴェルディ『オルフェオ』AD1607年2月24日 · 作曲した本文
1567年5月15日、クレモナで洗礼を受けた。父バルダッサーレは薬剤師で、外科と理髪も兼ねた(当時は同じ職域)。
15歳で最初の曲集を出版した。以後、マドリガーレの作曲家として名を上げた。
**マントヴァ**(1591年頃〜1612年)。ゴンザーガ家のヴィンチェンツォ1世に、ヴィオール奏者として雇われた。やがて楽長。
公はハンガリーのトルコ戦線にも、フランドルの旅にも、彼を連れて行った。給料は遅れ、少なかった。彼が父に宛てた手紙、公に宛てた嘆願が残っている。「25年もお仕えして、私はまだ貧しい」。
1599年、歌手クラウディア・カッタネオと結婚。三人の子。1607年9月、クラウディアが死んだ。『オルフェオ』初演の7か月後、28歳。
その悲しみの中で、翌1608年、公の息子の婚礼のために『アリアンナ』を書かされた。歌手の少女も、稽古中に死んだ。この作品は失われ、「アリアンナの嘆き」の一曲だけが残っている。捨てられたアリアドネが叫ぶ。「私を死なせて」。当時、聴衆が皆泣いた、と伝えられる。
1610年『聖母マリアの夕べの祈り』。教会音楽の様式と、新しい劇的な様式を、一つの曲集に並べた。就職活動のための作品集だった、という見方がある。
1612年、公が死に、後継者に解雇された。荷馬車一台分の家財と、25スクードを持って、クレモナの父の家に帰った。
**ヴェネツィア**(1613年〜1643年)。サン・マルコ大聖堂の楽長。共和国の音楽の頂点の職。給料は良く、支払いは滞らず、住居が付いた。彼はここで30年働いた。
道中、山賊に襲われて所持金を全部奪われた、という記録がある。
**論争**。1600年、ボローニャの参事会員ジョヴァンニ・マリア・アルトゥージが、著書でモンテヴェルディのマドリガーレを(名を伏せて)攻撃した。不協和音が準備も解決もなく現れる、と。
弟のジュリオ・チェーザレが、1607年の曲集の序文で答えた。兄の考えでは、書き方には二つある。**第一の作法**(プリマ・プラティカ)——ネーデルラントとパレストリーナの、和声の規則が言葉を統べる書き方。**第二の作法**(セコンダ・プラティカ)——言葉が和声の主人となり、感情のためなら規則を破る書き方。
彼は前者を捨てなかった。宗教曲では古い様式でも書いた。二つを使い分けた。
**晩年**。1630年、ペストがヴェネツィアを襲い、人口の三分の一が死んだ(次男が医師として関わった)。1632年頃、司祭に叙階された。
1637年、ヴェネツィアに世界最初の公開の(入場料を取る)歌劇場サン・カッシアーノが開いた。オペラが、宮廷の余興から、市民の娯楽になった。
70代のモンテヴェルディが、そのために新作を書いた。1640年『ウリッセの帰還』。1643年『**ポッペアの戴冠**』。
『ポッペア』の主題は、ネロの愛人ポッペアが、皇后を追い、哲学者セネカを死なせ、皇后の座に就く話である。悪が勝ち、最後に二人が甘美な愛の二重唱を歌って終わる。道徳的な結末がない。76歳の作曲家が書いた。
(終幕の二重唱は、他の作曲家の手によるという説が強い。)
1643年11月29日、ヴェネツィアで死んだ。76歳。フラーリ聖堂に葬られた。