人物

クラウディオ・モンテヴェルディ

Claudio Monteverdi
AD1567年5月15日 – AD1643年11月29日(享年76)
イタリア重要度 4

概要

クレモナの医者の子。マントヴァのゴンザーガ家に仕え、待遇の悪さに苦しみ、妻を病で失った。『オルフェオ』『アリアンナ』。不協和音を、言葉の感情のために使ってよいと主張し、理論家アルトゥージと論争した(「第二の作法。言葉が音楽の主人である」)。1613年、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂楽長。晩年、70代で世界最初の商業歌劇場のために『ポッペアの戴冠』を書いた。

関わったできごと(1)

モンテヴェルディ『オルフェオ』AD1607年2月24日 · 作曲した

本文

クラウディオ・モンテヴェルディは1567年5月15日、北イタリアのクレモナで洗礼を受けた。父バルダッサーレは薬を調合し、外科の処置もする医者だった。ヴァイオリン作りで知られるこの町の大聖堂の楽長インジェニェーリに音楽を学び、早熟の才を示した。15歳で最初の曲集を出版し、20代の初めには、詩に曲をつけて数人で歌う多声の歌曲マドリガーレの作曲家として名が知られていた。

クラウディオ・モンテヴェルディではないかと考えられている音楽家の肖像、1597年頃、画家不明(オックスフォード・アシュモリアン美術館所蔵)。モンテヴェルディが30歳頃、マントヴァのゴンザーガ家に仕えていた頃の画像ではないかと言われている。真正であれば現存する最古の画像であると考えられている。
クラウディオ・モンテヴェルディではないかと考えられている音楽家の肖像、1597年頃、画家不明(オックスフォード・アシュモリアン美術館所蔵)。モンテヴェルディが30歳頃、マントヴァのゴンザーガ家に仕えていた頃の画像ではないかと言われている。真正であれば現存する最古の画像であると考えられている。Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

1590年頃、彼は北イタリアの宮廷都市マントヴァに移り、ゴンザーガ家の公爵ヴィンチェンツォ1世にヴィオール奏者として雇われた。やがて宮廷の楽長に昇る。公はハンガリーでのオスマン帝国との戦いにも、フランドルへの旅にも、彼を同行させた。ところが給料はたびたび遅れ、待遇は働きに見合わなかった。彼が残した手紙には、長年仕えてもなお貧しいままだという訴えが繰り返し出てくる。1599年、宮廷の歌手クラウディア・カッタネオと結婚した。

1600年、ボローニャの聖職者で音楽理論家のアルトゥージが、新しい音楽の欠陥を論じる本を出し、名前を伏せたままモンテヴェルディのマドリガーレを攻撃した。不協和音が規則どおりに準備されず、解決もされずに現れる、というのである。モンテヴェルディは自分の曲集の序文で応じ、1607年の曲集では弟ジュリオ・チェーザレがその考えを詳しく説明した。音楽の書き方には二つある。一つは、パレストリーナらの時代に完成した、和声の規則が言葉を従える「第一の作法」。もう一つは、言葉が和声の主人となり、言葉が表す感情のためなら規則を破ってもよい「第二の作法」である。彼は古い書き方を捨てたわけではなく、教会音楽では古い様式でも書き続け、二つを使い分けた。

『ウリッセの帰還』(1641年)の写本譜
『ウリッセの帰還』(1641年)の写本譜Wikimedia Commons Public domain

同じ1607年2月、マントヴァの宮廷で彼の『オルフェオ』が初演された(モンテヴェルディ『オルフェオ』)。ギリシア神話の歌い手オルフェウスが、死んだ妻を冥界から連れ戻そうとする物語である。少し前にフィレンツェで、劇の台詞を歌で語らせる試みが始まっていたが、彼はそこに多彩な楽器と合唱、舞曲を盛り込み、音楽で劇を動かす作品に仕上げた。上演され続けるオペラの中で、最も古い作品とされる。

その年の9月、妻クラウディアが病で死んだ。彼は幼い二人の息子を抱えて悲嘆に暮れたが、翌1608年、公の息子の婚礼のための新作オペラ『アリアンナ』を書かされた。稽古の途中で主役の若い歌手が天然痘で死に、代役を立てての上演になった。この作品の楽譜は失われ、島に置き去りにされたアリアドネが嘆く「アリアンナの嘆き」の一曲だけが残っている。初演では聴衆の多くが涙を流した、と伝えられる。1610年には大作『聖母マリアの夕べの祈り』を出版し、ローマ教皇に献じた。古い様式と新しい劇的な様式を一つの曲集に並べたこの作品は、新しい職を求めるための作品見本でもあったと考えられている。

『オルフェオ』(ヴェネツィア版、1609年)の表紙
『オルフェオ』(ヴェネツィア版、1609年)の表紙Wikimedia Commons Claudio Monteverdi (1567–1643) · Public domain

1612年、ヴィンチェンツォ公が死ぬと、跡を継いだ息子は彼を解雇した。21年仕えた宮廷を、わずかな金を手に去り、クレモナの父の家に戻った。だが翌1613年、ヴェネツィア共和国(ヴェネツィア共和国)のサン・マルコ大聖堂が彼を楽長に迎えた。共和国の宗教儀式と祝祭の音楽を一手に担う、イタリアの音楽家として最高の地位の一つである。給料は十分で、遅れることもなかった。ヴェネツィアへの道中で追いはぎに襲われ、持ち物を奪われたことを、彼は手紙に書き残している。以後30年、彼はこの職にあった。

1630年、ヴェネツィアをペストが襲い、市民の3分の1ほどが死んだ。その後まもなく、60代のモンテヴェルディは司祭に叙階された。

クレモナ大聖堂。モンテヴェルディの師インジェニェーリが楽長を務めた
クレモナ大聖堂。モンテヴェルディの師インジェニェーリが楽長を務めたWikimedia Commons Public domain

1637年、ヴェネツィアに、入場料を払えば誰でも見られる世界最初の公開のオペラ劇場が開いた。王侯の婚礼や祝祭のための贅沢な余興だったオペラが、切符を買う市民の娯楽になったのである。70代の彼は、この新しい劇場のために再び筆をとった。1640年に『ウリッセの帰還』、1643年に『ポッペアの戴冠』が上演された。『ポッペア』は、皇帝ネロの愛人ポッペアが、皇后を追い落とし、諫める哲学者セネカを死に追いやり、ついに皇后の座に就く物語である。悪が罰せられず、二人の甘美な愛の二重唱で幕が下りる。この結末の二重唱は、他の作曲家の手によるという説が有力で、楽譜の成り立ちには謎が多い。

1643年11月29日、モンテヴェルディはヴェネツィアで死んだ。76歳。フラーリ聖堂に葬られた。彼の生涯は、ルネサンスの多声音楽から、言葉と感情を前に出す新しい音楽への転換と重なっている。のちにアントニオ・ヴィヴァルディやヨハン・ゼバスティアン・バッハへと続くバロック音楽の時代は、彼の「第二の作法」の宣言から始まったと言われることが多い。

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