人物

ジョージ・ガーシュウィン

George Gershwin
AD1898年9月26日 – AD1937年7月11日(享年38)
アメリカ合衆国重要度 4

概要

ブルックリン。ロシア帝国から来たユダヤ人移民の子。12歳で家に来たピアノに取り憑かれ、15歳で学校をやめ、楽譜屋で流行歌を弾く仕事に就いた。兄アイラが詞を書き、二人で数百の歌を作った(「サマータイム」「ス・ワンダフル」)。『ラプソディ・イン・ブルー』『パリのアメリカ人』、そして黒人の歌手だけで演じる歌劇『ポーギーとベス』。ラヴェルに弟子入りを断られた(「一流のガーシュウィンが、二流のラヴェルになる必要はない」)。38歳、脳腫瘍。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

『ラプソディ・イン・ブルー』AD1924年2月12日 · 作曲した

本文

ジョージ・ガーシュウィンは1898年9月26日、ニューヨークのブルックリンに生まれた。出生時の名はヤコブ・ガーショヴィッツ。父モリスと母ローズは、ロシア帝国から渡ってきたユダヤ人だった。父は料理店、トルコ風呂、ビリヤード場と商売を次々に替え、一家は20回以上も引っ越したという。

ラヴェルとガーシュウィン(右端)
ラヴェルとガーシュウィン(右端)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

本人の回想では、6歳のとき、遊技場の前で自動ピアノが鳴らすルビンシテインの「へ調のメロディ」に足を止め、動けなくなった。学校では講堂で同級生マックス・ローゼン(のちに演奏家になった)のヴァイオリンを聴き、音楽に取り憑かれた。12歳のとき、母が兄アイラのためにアップライトピアノを買い、窓から吊り上げて部屋に入れた。ところが鍵盤に向かったのは弟のジョージで、彼は近所のピアノですでに独学で弾けるようになっていた。

15歳で学校をやめ、ティン・パン・アレー(マンハッタンの楽譜出版社が集まる一角)で「ソング・プラガー」の職に就いた。出版社の店先でピアノを弾き、客や歌手に新曲を売り込む仕事で、週給は15ドル。毎日何十曲も弾くうちに、流行歌の作りと、聴き手が何に反応するかを体で覚えた。

ジョージ・ガーシュウィンの肖像
ジョージ・ガーシュウィンの肖像Wikimedia Commons Carl Van Vechten · Public domain

1919年、アル・ジョルソンが歌った「スワニー」が大当たりし、レコードも楽譜もそれぞれ100万を超えて売れた。ジョルソンはのちに初期の発声映画『ジャズ・シンガー』で主演する歌手である(映画がしゃべる)。以後、兄アイラが詞を書き、弟が曲を書く兄弟の仕事が始まった。ブロードウェイのミュージカルを20作以上手がけ、「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー」「ス・ワンダフル」「アイ・ガット・リズム」「エンブレイサブル・ユー」が生まれた。政治を風刺した『オブ・ジー・アイ・シング』(1931年)は、ミュージカルとして初めてピュリッツァー賞(戯曲部門)を受けた。ただ、賞は台本と詞に与えられ、作曲したジョージは受賞者に含まれなかった。

彼は流行歌の外にも出た。1924年2月、楽団を率いるポール・ホワイトマンの演奏会で、クラリネットの長いグリッサンドで始まる『ラプソディ・イン・ブルー』が初演された。管弦楽への編曲はホワイトマンの楽団のファーディ・グローフェが受け持ったが、翌1925年の『ピアノ協奏曲へ調』は自分で管弦楽を書いた。1928年の『パリのアメリカ人』では、パリで買い込んだタクシーの警笛を楽器として楽譜に指定している。ジャズと呼ばれた新しい響き(ジャズの最初のレコード)を、演奏会場の音楽に持ち込んだのである。

『ラプソディ・イン・ブルー』に関わる図版:Rhapsody in Blue cover
『ラプソディ・イン・ブルー』Wikimedia Commons Harms · Public domain

それでも彼は、和声と対位法を正式に学び直したがった。ラヴェルに弟子入りを申し込むと、一流のガーシュウィンがなぜ二流のラヴェルになる必要があるのか、と断られたと伝えられる。パリの名教師ナディア・ブーランジェも、あなたの持ち味を損なうと言って引き受けなかった。イーゴリ・ストラヴィンスキーに頼んだところ年収を聞かれ、答えると「では私があなたに習いたい」と言われた、という話も有名だが、相手をラヴェルにした版もあり、真偽ははっきりしない。

最大の野心作が、1935年の歌劇『ポーギーとベス』である。舞台はサウスカロライナ州チャールストンの黒人の住む一角で、原作はデュボーズ・ヘイワードの小説。ジョージは1934年の夏、近くのフォリー島に数週間滞在し、ガラと呼ばれる人々の教会の歌や、掛け合いで進む祈りと手拍子を聴いて回った。そして、歌手は全員黒人でなければならないと条件を付けた。1930年代のアメリカで、黒人の歌手が主要な役を歌える数少ない舞台になった一方、白人が黒人の暮らしを描くことへの批判も受け続けた。デューク・エリントンは当初、厳しく批判している。

ジョージ・ガーシュウィン(1935年頃)
ジョージ・ガーシュウィン(1935年頃)Wikimedia Commons Mishkin · Public domain

初演は興行として失敗し、オペラなのかミュージカルなのかで評は割れた。いまではアメリカのオペラを代表する作品とされ、劇中の子守歌「サマータイム」は、世界で最も多く録音された歌の一つになった。

1936年、兄弟はハリウッドへ移り、映画『踊らん哉』などの音楽を書いた。翌1937年の初め、演奏会の最中に一瞬意識が途切れ、焼けたゴムのような匂いを感じるようになった。頭痛が続いたが、医師たちは神経の疲れと見た。7月9日に昏睡に陥り、脳の腫瘍が見つかって手術を受けたが、7月11日に死んだ。38歳だった。

自作の油絵とともに写るガーシュウィン(1931年)
自作の油絵とともに写るガーシュウィン(1931年)Wikimedia Commons Associated Press · Public domain

作家ジョン・オハラは、ガーシュウィンは死んだが、自分はそれを信じなくてもかまわない、と書いた。兄アイラはその後半世紀近く生き、弟の残した旋律に詞を付け、作品を守り続けた。

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