線遠近法の発見
概要
ブルネレスキが、洗礼堂を正確に描いた板に穴を開け、裏から覗いて、鏡に映した像と実景を見比べる実験をした。一点に収束する消失点。1435年、アルベルティが『絵画論』で理論にした。「絵は、開かれた窓である」。それから500年、ヨーロッパの絵は、この規則で空間を作った。1907年、ピカソがそれを壊すまで。
場所
43.77°N 11.26°E · イタリア・トスカーナ州
関わった人(2)
ブルネレスキAD1377年–AD1446年4月15日 · 実験したレオン・バッティスタ・アルベルティAD1404年2月14日–AD1472年4月25日 · 理論にした本文
中世ヨーロッパの絵では、人物の大きさは大切さで決まった。聖母やキリストは大きく、絵を寄進した人はその足もとに小さく描かれる。背景はしばしば金一色で、建物は見る角度のばらばらな箱のように並んだ。描かれていたのは、目に見える世界の姿というより、信仰の上での秩序だった。14世紀に入ると、ジョットが人物に重さと奥行きを与え(ジョットのスクロヴェーニ礼拝堂)、シエナの画家たちも床や建物を奥へ縮めて描く工夫を重ねたが、どこから見た空間なのかを一つの規則で決める方法は、まだ無かった。古代のローマの壁画にも奥行きを感じさせる描き方はあったが、その規則は伝わっていない。
15世紀の初め、その規則を見つけたのが、フィレンツェの建築家ブルネレスキである。もとは金細工師で、彫刻のコンクールでギベルティに敗れたのち、ローマで古代の建築を測って回ったと伝えられる。のちに大聖堂の巨大なドームを架けることになる人物だ(ブルネレスキのドーム)。1413年頃から1420年代のどこかで、彼は二つの実験をした。

一つめの実験では、大聖堂の正面の扉を少し入った場所に立ち、向かいに建つサン・ジョヴァンニ洗礼堂を、見えるとおりに小さな板に描いた。空の部分には磨いた銀を貼り、本物の空と雲が映るようにした。そして、描いた絵の中で、見る人の目の正面にあたる一点に、小さな穴を開けた。見る人は、絵の裏側からその穴をのぞく。前には鏡を差し出してあり、鏡には絵が映っている。鏡を下ろすと、同じ場所から本物の洗礼堂が見える。鏡を上げ下げすると、絵と実物が、同じ位置に、同じ大きさで重なった。見る人の目の位置を一点に固定すれば、絵は世界とそっくり同じ見え方をする。それを、のぞき穴という装置で示したのである。
二つめの実験では、シニョリーア広場のパラッツォ・ヴェッキオを斜めから描き、空の部分の板を建物の輪郭に沿って切り抜いた。絵を掲げると、切り抜いたところから本物の空が見える。どちらの板も、いまは残っていない。ブルネレスキ自身は何も書き残さず、実験のことは、彼の死後に書かれたアントニオ・マネッティの伝記で知られる。

規則は、まとめれば単純である。奥へ向かってまっすぐ延びる平行な線は、絵の上ではすべて一点に集まる。その消失点は、見る人の目の高さにある。同じ間隔で並ぶ柱や床のタイルは、遠ざかるにつれて決まった割合で詰まっていく。こうして、画面の中の空間は、測ることのできるものになった。
これを文章にしたのが、人文主義者で建築家のレオン・バッティスタ・アルベルティである。1435年、彼はラテン語で『絵画論』を書き、翌年には自分でイタリア語に直して、ブルネレスキに献じた。描こうとする面の上に、好きな大きさの四角形を描く。これを私は、描くものを見通すための開かれた窓とみなす、という一節は有名である。アルベルティは、画面の下の辺を人の背丈を基準に等分し、目の高さに置いた一点へ線を引き、床のタイルの奥行きを正しく縮める作図の方法を、画家が使える手順として示した。

画家たちはすぐにこの方法を自分のものにした。1427年頃、マザッチョはフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の壁に『三位一体』を描いた。平らな壁に、存在しない礼拝堂の奥行きがぽっかりと開いていて、町の人々を驚かせたという。パオロ・ウッチェロは遠近法に取り憑かれ、夜更けに妻が寝ようと呼んでも、遠近法とはなんと甘美なものか、と答えたと、16世紀の伝記作者ヴァザーリが書いている。画家で数学者のピエロ・デッラ・フランチェスカは、遠近法についての本を著した。レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』では、壁の線と天井の線がすべてキリストの頭に向かって集まり、見る人の目を自然に中心へ導く。
遠近法は、単なる技法以上の意味を持った。絵は、ある一人の人が、ある一点から見た世界として作られる。見る人の目が、世界の秩序の基準になる。そこに、人間を中心に世界をとらえ直そうとしたルネサンスの考え方を重ねて読む人は多い。また、空間を数で測るこの考え方は、建築の設計図や、機械の図、地図の作り方にも広がっていった。

ただ、それは一つの約束事でもあった。人の目は二つあり、絶えず動く。実際に見える世界は、平らな窓の上の像のようにはなっていない。中国や日本の絵巻や山水画は、見る人の視点が画面の中を移っていく別の約束を使い続けた。日本では18世紀に、オランダの銅版画を通じて西洋の遠近法が伝わり、奥行きを大げさに強調した浮絵が流行して、のちの葛飾北斎らの風景版画にも影響を与えている。
ヨーロッパの絵は、ほぼ500年にわたって、この窓の約束の上に空間を組み立てた。19世紀の終わりから画家たちはそれを疑い始め、1907年、パブロ・ピカソは『アヴィニョンの娘たち』で、人の顔や体を複数の方向から見た形のまま一枚の画面に押し込んだ(『アヴィニョンの娘たち』)。のぞき穴から始まった一点の視点は、そこで解体された。それでも、写真やコンピューターの立体の画像は、いまもブルネレスキの規則に従って世界を平面に写している。