シャルトル大聖堂
概要
6月の火事で街と聖堂が焼け、聖母の衣が地下室から無事に出てきた。「聖母が建て直せと」。26年で建った。飛び梁、ステンドグラス176枚、青。ゴシックの完成形。二つの塔は形が違う。北は300年後に建った。
場所
48.45°N 1.49°E · フランス
本文
パリの南西およそ80キロ、ボースと呼ばれる平らな麦畑の地方を走っていくと、地平線の上に二つの塔が見えてくる。シャルトル大聖堂である。1194年の大火のあと、驚くほどの速さで建て直されたこの聖堂は、ゴシック建築の完成された姿として知られ、中世のステンドグラスをほぼそのまま残す建物として、ヨーロッパに比べるもののない存在になっている。
シャルトルは古くから聖母マリアの町だった。876年、カール大帝の孫である西フランク王シャルル2世(禿頭王)が、マリアの衣と伝えられる布をこの町の教会に寄進したとされる。受胎告知のとき、あるいはイエスを産んだときにマリアが身に着けていたという聖遺物で、これを拝もうとする巡礼が各地から集まった。11世紀には司教フルベールのもとで大聖堂の学校が栄え、12世紀には古代の学問を重んじる「シャルトル学派」の学者たちがここで教えた。

聖堂はたびたび火事に見舞われた。11世紀の初めにフルベールが建てたロマネスク様式の大聖堂は、1134年に町を焼いた火事のあと、西側の正面が新しく造り直された。三つの入口を持つこの正面は「王の扉口」と呼ばれ、1145年ごろから1150年代にかけて彫られた。柱と一体になったように細長く引き伸ばされた王や王妃の像が並び、その上にはキリストの栄光の姿が刻まれている。少し前にパリの北のサン・ドニ修道院で始まった新しい建築の流れ(サン・ドニ修道院とゴシックの始まり)を受け継ぐ、初期ゴシックの代表的な彫刻である。
1194年6月10日の夜、再び火が出た。町の多くが焼け、大聖堂も屋根が落ち、身廊は崩れた。残ったのは、西の正面と二つの塔の下の部分、そして地下の礼拝堂だけだった。町の人びとは、聖母の衣も焼けてしまったと思い、絶望した。ところが3日後、地下室に逃れていた聖職者たちが、衣を抱えて無傷で姿を現した。ちょうどこの町に来ていた教皇の特使は、これは聖母がもっと美しい聖堂を望んでいるしるしだと説いた。人びとは奮い立ち、再建の工事がすぐに始まった。

寄付は、町の司教や聖堂参事会、市民だけでなく、フランスの各地から、さらに国外からも寄せられた。フランス王フィリップ2世や、敵対していたイングランドのリチャード1世(獅子心王)も寄進したと伝えられる。工事の進みは異例の速さだった。新しい身廊や内陣の主な部分は、1220年ごろまでのおよそ四半世紀でほぼ形になり、細部や彫刻の仕上げを経て、1260年に聖別された。古い西正面を生かしながら、その東に新しい聖堂を一気に建て上げたため、シャルトルは様式が大きく混ざることなく、一つのまとまった姿を持つことができた。
新しい聖堂は、全長およそ130メートル、身廊の天井の高さはおよそ37メートルに達した。高く薄い壁を外から支えるのが、建物の外側に並ぶ飛び梁である。壁が屋根の重みを支える必要がなくなったことで、壁の大部分を窓にすることができた。シャルトルは、建物の設計の最初から飛び梁を全体に組み込んだ最も早い聖堂の一つとされ、高い窓の列と三層の内部の構成は、その後のフランスのゴシック大聖堂の手本になった。

窓を満たしているのが、170枚あまりのステンドグラスである。その面積は2千数百平方メートルにのぼり、大半が13世紀の初めに作られたものだ。聖書の物語や聖人の生涯が、小さな区画をつないで絵巻のように描かれ、文字の読めない人びとにも教えを語った。特に深い青の色は「シャルトルの青」として名高い(シャルトルの青)。1194年の火事を生き延びた12世紀のガラスもあり、聖母子を描いた「美しき絵ガラスの聖母」はその一つである。北と南と西には巨大なバラ窓が開いている。窓の下の方には、パン屋、肉屋、樽職人、両替商といった町の職人や商人たちが、仕事をする姿で描かれている場面がある。窓の費用を出した同業者の組合が、自分たちの姿を描かせたものと考えられてきた。
床には、直径およそ13メートルの円い迷路が描かれている。13世紀の初めのもので、行き止まりのない一本道をたどって中心に至る作りになっている。信者が祈りながら歩いたとも言われるが、本来の使い道ははっきり分かっていない。扉口や内陣の囲いには、数千体の彫刻が刻まれている。

二つの塔の形が違うのも、この聖堂の歴史を物語っている。南の塔は12世紀に建てられたもので、簡素な八角形の石の尖塔を載せている。北の塔は下の部分こそ同じころのものだが、木造の尖塔が雷で焼けたあと、16世紀の初めに、炎のように装飾の多い後期ゴシックの様式で石の尖塔が新たに築かれた。350年あまりの時を隔てた二つの塔が、一つの正面に並んでいる。
その後もシャルトルは、幸運に恵まれた。フランス革命のさなか、多くの教会が壊され、彫刻が打ち砕かれたが、シャルトルの大聖堂は大きな破壊を免れた。1836年には屋根裏の木組みが火事で焼けたが、鉄の骨組みと銅板の屋根に替えられた。第二次世界大戦が始まった1939年には、ステンドグラスが一枚ずつ外されて安全な場所に隠された。1944年8月、町に迫ったアメリカ軍は、塔にドイツ軍の見張りが潜んでいるとみて砲撃しようとしたが、一人の将校が自ら確かめに行き、敵がいないことを見届けて砲撃をやめさせた、という話が伝えられている。

シャルトルは1979年にユネスコの世界遺産に登録された。2009年からの修復では、何世紀ものすすや汚れで黒ずんでいた内部の壁が洗われ、中世の姿にならって明るい色で塗り直された。もとの輝きを取り戻したとたたえる声がある一方で、歴史の時間の重みを消してしまったという批判も起き、論争になった。
20世紀の初め、詩人シャルル・ペギーは、パリから麦畑を越えて数日かけてシャルトルまで歩き、その巡礼の思いを詩に書いた。その道をたどって、今も毎年、多くの学生や若者たちが歩いて大聖堂を目指す。麦畑の向こうに二つの塔が見えたとき、800年前の巡礼者も同じ姿を目にしていたのである。