ミマール・スィナン
概要
オスマンの主席建築家。50年で300を超える建物を設計し、ハギア・ソフィアを超える大屋根を目指しつづけた。
所属
オスマン帝国関わったできごと(1)
セリミエ・モスクの完成AD1575年 · 設計本文
「ミマール」は建築家という意味の称号で、名はスィナンという。1489年頃、アナトリア中部のカイセリに近いアウルナスという村で、キリスト教徒の家に生まれた。ギリシア系ともアルメニア系ともいわれ、はっきりしない。

20代の初め、オスマン帝国の「デヴシルメ」によって徴集された。キリスト教徒の農村から少年や若者を集め、イスラームに改宗させ、トルコ語と規律を叩き込んで、皇帝直属の兵や官僚に育てる制度である。徴集された者は家族から切り離されるが、能力しだいで帝国の頂点近くまで上れた。スィナンはイスタンブールで木工や石工の技術を学び、常備歩兵軍団イェニチェリに入った。
それから25年ほど、軍人として遠征に従った。1521年のベオグラード、翌年のロドス島、1526年のモハーチの戦い、1529年の第一次ウィーン包囲。皇帝スレイマン1世の大遠征のほとんどに加わっている。工兵として、橋を架け、要塞を築き、攻城の道具を作った。イラン方面への遠征では、湖を渡るための船を作って評価され、モルダヴィアへの遠征では、川に短い日数で橋を架けた。遠征のたびに、中東やバルカン、ハンガリーの古い建物を見て歩いたことが、のちの仕事の糧になった。

1538年頃、およそ50歳で、宮廷の主席建築家に任じられる。そこから亡くなるまでの約50年、スレイマン1世、セリム2世、ムラト3世の三代の皇帝に仕えた。晩年に友人に語って書き取らせた自伝的な記録には、自分の手がけた建物として、モスク、小さな礼拝所、学院、病院、隊商宿、公衆浴場、橋、水道など、300を優に超える名が並ぶ。もちろん一人ですべてを描いたわけではなく、多くの弟子と職人を率いる建築の役所の長として、帝国じゅうの工事を指揮した。
スィナンには、生涯を通じた目標があった。イスタンブールのハギア・ソフィアの完成である。6世紀にビザンツ帝国が建てたこの大聖堂は、コンスタンティノープル陥落の後にモスクに改められ、オスマン帝国のものになっていた。中央の巨大な円屋根は、建てられてから1000年近く、それを超えるものがなかった。オスマンの建築家たちにとって、それは乗り越えるべき手本であり、挑戦状だった。

本人は自分の代表作を三つ挙げている。最初が、スレイマンの早世した皇子のために建てたシェフザーデ・モスクで、これを「見習いの作」と呼んだ。次が、スレイマン自身のためにイスタンブールの丘の上に建てたスレイマニエ・モスクで、1557年に完成した。礼拝堂のまわりに学院、病院、救貧の給食所、浴場などを配した一大複合施設で、これを「職人の作」と呼んだ。スレイマニエの円屋根は、高さではハギア・ソフィアに迫ったが、直径では及ばなかった。
最後が、セリム2世のために旧都エディルネに建てたセリミエ・モスクである(セリミエ・モスクの完成)。完成は1575年頃、スィナンは80代半ばになっていた。これを「親方の作」と呼んだ。八本の柱で支えた円屋根は直径およそ31メートルで、ハギア・ソフィアとほぼ同じか、わずかに上回るとされる(測り方によって値に幅がある)。ただし高さでは及ばない。外から見ると、四隅に細く高い尖塔が立ち、内に入ると、柱に遮られずに一つの大きな空間が広がる。ムスリムの建築家にはハギア・ソフィアを超える円屋根は造れない、と言われてきたが、自分はそれを造った、とスィナンは語ったと伝えられる。

モスクだけが仕事ではなかった。イスタンブールの人々に水を届けるため、郊外から水を引く水道を整え、谷を越える水道橋をいくつも架けた。いまのボスニア・ヘルツェゴヴィナのヴィシェグラードには、彼の設計による石の橋が残る。この橋は、のちにノーベル文学賞作家イヴォ・アンドリッチの小説『ドリナの橋』の舞台になった。
1588年7月17日、イスタンブールで亡くなった。100歳近かったとされる。墓は、自分で設計したスレイマニエ・モスクのすぐそばの、小さな三角形の敷地に置かれている。

弟子たちはその仕事を引き継いだ。弟子の一人セデフカール・メフメト・アアは、のちに「ブルー・モスク」の名で知られるスルタンアフメト・モスクを建てた。インドのタージ・マハルの建築にもスィナンの弟子が関わったという話があるが、確かな証拠はない。
スィナンの建物は、いまもイスタンブールの丘の上の眺めを形づくっている。帝国の力を誇示するための建物でありながら、そのまわりには学校や病院、給食所が並び、町の人々の暮らしを支えていた。戦場で橋を架けていた工兵は、首都の暮らしそのものを設計する建築家になった。