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Person / 人

ギュスターヴ・フローベール

Gustave Flaubert
AD1821年12月12日 – AD1880年5月8日(享年58)
フランス重要度 5

概要

ルーアンの外科部長の子。病院の敷地で育ち、父の解剖を窓から見た。法学生の頃、てんかんの発作で学業を断念し、以後、母の家(クロワッセ)で書くことだけをした。1日に数行。声に出して読んで、耳で確かめた(「怒鳴り部屋」)。『ボヴァリー夫人』に4年半、『サランボー』に5年、『感情教育』に7年。「ボヴァリー夫人は私だ」と言った、と伝えられる。

関わったできごと(1)

『ボヴァリー夫人』裁判AD1857年1月31日 · 書いた

本文

1821年12月12日、ルーアン。父アシル=クレオファスは市立病院の外科部長。一家は病院の敷地内の官舎に住んだ。庭の塀の向こうが解剖室で、少年たちは塀に登って中を覗いた。姉が言った。「ぼうやたち、覗いてはいけません」。

彼はその環境を、生涯、持ち続けた。病と、死体と、細部の観察。

ルーアンの王立中学。15歳の夏、トゥルーヴィルの海辺で、11歳年上の人妻エリザ・シュレザンジェに会った。恋。彼女は『感情教育』のアルヌー夫人になる。

1841年、パリ大学法学部。嫌々。1844年1月、兄と馬車で夜道を走っていて、突然、意識を失って倒れた。てんかんの発作(当時の診断。近年、側頭葉てんかんと考えられている)。以後、繰り返した。

その病気が、彼を法学から解放した。1846年、父が死に、続いて姉カロリーヌが出産後に死んだ。彼は、母と、姉の遺児と共に、ルーアン近郊クロワッセのセーヌ河畔の家に移った。以後、ほぼ生涯、そこで書いた。

ルイーズ・コレ。詩人、10歳年上。1846年から8年、断続的に。彼女はパリに、彼はクロワッセにいて、月に一度会うか会わないか。手紙が残った。文学についての、最も濃密な書簡の一つ。

「私が美しいと思うもの、私が作りたいものは、何も書かれていない本、外部への繋がりのない本、文体の内的な力だけで自立する本だ。……最も美しい作品とは、素材が最も少なく、主題が見えないものだ」(1852年1月16日)。

「作者は、その作品の中に、宇宙における神のようでなければならない。どこにでもいて、しかもどこにも見えない」(1857年3月18日)。

1849年9月、彼は友人ブイエとデュ・カンの前で、4日間、32時間かけて『聖アントワーヌの誘惑』の初稿を朗読した。読み終えると、友人たちは言った。「原稿を火に投げて、二度と口にするな」。そして、平凡な、当たり前の題材を、平凡な調子で書けと勧めた。

1849〜51年、エジプト、パレスチナ、ギリシア、イタリア。デュ・カンと。ナイル、娼婦キュチュク・ハーネム、そして梅毒。

1851年9月19日、『ボヴァリー夫人』に着手。1856年4月、脱稿。4年半。

方法。1日7時間、机に。書けるのは数行から1頁。同じ語を近くで繰り返さない。文の終わりの音を測る。書いた文を、庭に面した部屋で、声を張り上げて読む(「怒鳴り部屋」)。息が続かなければ、文が悪い。「文体そのものが、物を見る絶対の方法である」。

そして、取材。農業共進会の場面のために、実際の共進会に行った。砒素中毒の症状を医学書と医師で確かめた。ノルマンディーの薬局と、辻馬車の値段と、ドレスの生地。

1857年、連載、そして裁判。

以後の作品。『サランボー』(1862年。カルタゴ。傭兵戦争。5年。カルタゴの遺跡へ行った)。『感情教育』(1869年。7年。1848年革命の中の青年。何も成就しない小説。同時代の評価は低かった)。『聖アントワーヌの誘惑』(1874年。3度書き直した)。『三つの物語』(1877年。「素朴なひと」——生涯、他人のために働いた女中フェリシテが、剥製の鸚鵡を聖霊と重ねて死ぬ)。

『ブヴァールとペキュシェ』(未完)。二人の筆写人が、遺産で田舎に引っ込み、農学、化学、医学、地質学、考古学、歴史、文学、政治、哲学、宗教、教育を、順に、独学で試して、全部失敗する。彼はこの小説のために1500冊以上を読んだ。付録として『紋切型辞典』(世間で言われる決まり文句の一覧)を付ける予定だった。

生活。母と、姪カロリーヌと。1872年、母が死んだ。1875年、姪の夫の破産を救うために、自分の全財産を投げ出した。晩年は貧しかった。

友人。ジョルジュ・サンド(20年の文通。彼女は彼に「もっと人生を愛しなさい」と書き続けた)。ツルゲーネフ。モーパッサン(姉の友人の息子。彼が文章を見て、鍛えた)。ゾラ、ドーデ、ゴンクール(「五人の晩餐」)。

1880年5月8日、クロワッセ。脳出血。58歳。

「ボヴァリー夫人は私だ(Madame Bovary, c'est moi)」。彼が言ったと伝えられるが、一次史料はない。それでも、この言葉が残り続けている。

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