『平家物語』と琵琶法師
概要
鎌倉のはじめ、盲目の僧が琵琶を弾きながら平家の滅びを語り歩いた。文字で読む本ではなく、耳で聞く物語。祇園精舎の鐘の声。当道座という盲人の職能集団が、語りの流派と伝授を管理した。1371年、覚一が語りを整理して口述筆記させた(覚一本)。能・浄瑠璃・歌舞伎が、この物語から題材を取り続けた。日本語の散文の調べを作った。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
本文
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。『平家物語』はこう始まる。七五の調子を基にした、耳に心地よく、声に出すと自然に節がつく文である。これは本来、目で読むための文ではない。琵琶の音に合わせて語り、それを耳で聞くための文だった。
物語が語るのは、12世紀後半の平家一門の栄華と滅亡である。武士として初めて朝廷の頂に上り、娘を天皇の后とし、孫を帝位につけた平清盛。その傲りと、各地で兵を挙げた源氏との戦い。清盛の死、都落ち、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、そして1185年の壇ノ浦の戦いで、一門は西の海に沈む。清盛の孫の安徳天皇は、数えで8歳、祖母の二位尼に抱かれて入水した。物語は、生き残った天皇の母、建礼門院が京の北の大原の庵で一門の菩提を弔い、静かに世を去るところで終わる。

この物語を語り広めたのが、琵琶法師と呼ばれる盲目の芸能者たちだった。彼らは僧の姿をして琵琶を抱え、各地を回った。古くは経を唱え、土地の神を祀り、死者の霊を鎮める役目を担っていたと考えられている。平家の物語は、ただの合戦の話ではなかった。非業の死を遂げた者の霊は祟ると、当時の人々は信じていた。幼い帝と一門の滅びを語り、その死を悼むことは、霊を鎮めることでもあった。
物語が誰によって作られたのかは、はっきりしない。14世紀前半の吉田兼好の随筆『徒然草』には、後鳥羽院の時代に、信濃前司行長という学識ある人物が物語を作り、生仏という盲目の者に教えて語らせた、という話が記されている。生仏の語り口を、のちの琵琶法師が受け継いだのだという。しかし、この話をそのまま事実とみる研究者は少ない。13世紀の前半に原形ができ、多くの語り手と書き手が、語る土地や場の求めに応じて場面を足し、削り、磨いていったと考えられている。いま残る『平家物語』の本文が、驚くほど多くの異本に分かれているのはそのためである。

異本は大きく二つの系統に分けられる。一つは「語り本」で、琵琶法師が語るための台本である。もう一つは「読み本」で、延慶本や『源平盛衰記』のように、読むために多くの記事を書き足した、分量の多い本である。語り本の代表で、現在最も広く読まれているのが、覚一本と呼ばれる本である。
覚一は14世紀の琵琶法師で、明石検校とも呼ばれた。足利氏の一族の出身とする伝えがある。1371年(応安4年)、晩年の覚一は、自分の語ってきた物語の詞章を弟子に口述して書き取らせ、正本とした。弟子たちの間で語りが乱れ、争いが起きるのを防ぐためだったといわれる。覚一本は、建礼門院の後日譚を「灌頂巻」として独立させ、物語を鎮魂の結びで閉じる形を整えた。覚一の流れは一方流と呼ばれ、もう一つの八坂流とともに、平家語りの二大流派となった。
覚一の時代に、琵琶法師たちは「当道」と呼ばれる仲間の組織をまとめ上げた。足利将軍家や公家の保護を受け、組織の中には、検校、別当、勾当、座頭という位があり、位に応じて師匠から弟子へ語りが伝授された。位を上がるには年月と金が要り、その収入が組織を支えた。目の見えない人々が、自分たちの技芸で生計を立て、互いに助け合うための仕組みだった。江戸時代には幕府の保護のもとで、当道は全国の盲人を束ねる組織になり、平曲だけでなく、箏や三味線、鍼灸、按摩などを生業とする者も加わった。高い利子で金を貸す「座頭金」でも知られた。
語りには節があった。物語の筋を淡々と運ぶ「口説」、語り口を張り上げる「拾」、感情が高まる場面で高い声を張る「三重」など、場面に応じた多くの曲節が使い分けられた。勇ましい合戦の場面と、女性の悲しみを語る場面とでは、声も節も違う。聞き手は、琵琶の音と声の調子で、場面の色合いを感じ取った。
物語は、のちの日本の芸能と文学に尽きることのない題材を与えた。能では、世阿弥(世阿弥)らが平家の武将の霊を主人公にした曲を作った。熊谷直実に討たれた少年の公達を描く『敦盛』、老いを隠して白髪を染めて戦った斎藤実盛の『実盛』、都を去る前に歌を託した平忠度の『忠度』などである。幸若舞、浄瑠璃、歌舞伎もこの物語から場面を借り、『義経千本桜』や『一谷嫩軍記』が生まれた。那須与一が扇の的を射落とす場面、宇治川の先陣争い、鬼界ヶ島に一人残された俊寛の嘆きなど、日本人が源平の合戦と聞いて思い浮かべる場面の多くは、この物語に由来する。物語の中の源義経の姿も、後の義経の伝説の土台になった。
平曲と呼ばれるこの語り物は、江戸時代には武家や町人の教養としても学ばれたが、民衆の娯楽としては三味線を使う浄瑠璃や歌舞伎に押されていった。1871年、明治政府が当道の組織を廃止すると、語り手は急速に減った。いま、伝統的な平曲を伝える人はごくわずかしかいない。
明治の末、小泉八雲は、平曲を語る盲目の琵琶法師が、夜ごと平家の亡霊に呼び出されて壇ノ浦の物語を語り、耳を奪われる話を、英語で書いた。「耳なし芳一」である。語り手が死者のために語り、死者がそれを聞きに来るという話の芯には、平家物語が鎮魂の語りだった記憶が残っている。耳で聞かれ、声で伝えられてきたこの物語の調べは、日本語の散文のリズムそのものに、深い影響を残した。