ブルネレスキ
概要
金細工師。1401年、洗礼堂の扉のコンクールでギベルティに負けた。ローマへ。ドナテッロと古代の遺跡を測った。「宝探し」と思われた。線遠近法を発明した。板に穴を開けて洗礼堂を描いた。ドーム。捨子養育院。サン・ロレンツォ。大聖堂の下に葬られた。
関わったできごと(2)
線遠近法の発見AD1413年頃 · 実験したブルネレスキのドームAD1436年 · 建てた本文
フィリッポ・ブルネレスキは1377年、フィレンツェに生まれた。父は公証人で、息子にも同じ道を望んだが、少年は絵と機械に夢中だった。父は諦めて、彼を金細工師の工房に入れた。当時の金細工師は、宝飾品だけでなく、浮き彫りや鋳造、彫刻までをこなす職人である。ブルネレスキは1398年に金細工師の組合に登録され、歯車やおもりを工夫して時計も作った。のちの建築の仕事を支える機械の才は、この時期に育った。

1401年、フィレンツェの毛織物商の組合が、大聖堂の前に立つ洗礼堂の北側の扉を青銅で作ることを決め、作者を競技で選ぶことにした。課題は旧約聖書の「イサクの犠牲」を浮き彫りにすることだった。最後に残ったのが、24歳のブルネレスキと、さらに若いロレンツォ・ギベルティである。二人の試作の浮き彫りは、今もフィレンツェのバルジェッロ美術館に並んで残っている。ブルネレスキの伝記を書いたマネッティによれば、審査員は二人で共同で作るよう提案したが、ブルネレスキはそれを拒んだという。ギベルティ自身は、自分が文句なしに勝ったと書いている。いずれにせよ扉はギベルティが作り、完成までに20年余りを費やした。
競技に敗れたブルネレスキは、彫刻をやめ、友人の彫刻家ドナテッロとともにローマへ向かったと伝えられる。二人は古代の遺跡の間を歩き回り、柱や梁、アーチ、ドームを測っては記録した。地面を掘って土台を調べる二人は、土地の人々から宝探しをしていると思われた、とマネッティは書いている。滞在の時期や長さには不確かな点も多いが、ブルネレスキがハドリアヌスのパンテオンをはじめとする古代ローマの建築から、比例と構造の原理を学び取ったことは、のちの作品が示している。
1410年代、ブルネレスキはもう一つの発見をした(線遠近法の発見)。大聖堂の扉口の内側に立ち、向かいの洗礼堂を小さな板に描く。板の消失点にあたる所に小さな穴をあけ、絵の裏側から穴をのぞき、前に鏡を掲げて絵を映す。鏡を外すと、本物の洗礼堂が絵と同じように見える。平行な線が一点に集まるように描けば、平らな面に奥行きのある空間を正確に写せることを、彼は実験で示したのである。数年後、若い画家マザッチョはこの方法を用いて、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の壁に「三位一体」を描いた。1435年、レオン・バッティスタ・アルベルティは『絵画論』でこの方法を理論として書き、翌年のイタリア語版をブルネレスキに献じた。ルネサンスの絵画の空間は、ここから始まった。
だがブルネレスキの名を不朽にしたのは、大聖堂のドームである(ブルネレスキのドーム)。フィレンツェの大聖堂は14世紀から建設が続けられていたが、交差部には直径40メートルを超える八角形の穴が空いたままだった。これほど大きな丸屋根を、どうやって架けるのか。ふつうは木材で仮の枠を組んでその上に石を積むが、この大きさでは、それだけの木材をどこから持ってきても支えきれない。1418年、組合が案を公募すると、ブルネレスキは、仮枠を使わずに架けられると主張した。審査員たちは彼を狂人扱いし、会議の場から担ぎ出させたという。卵を立ててみせ、殻の端をつぶして立てた、という有名な話は、後世のヴァザーリの伝記に出てくるもので、真偽は分からない。

1420年、工事が始まった。監督には、ブルネレスキと並んでギベルティも任じられた。ブルネレスキはドームを内と外の二重の殻にして軽くし、煉瓦を魚の骨のような模様に組む方法で、積んだ煉瓦が内側に崩れ落ちないようにした。石の鎖と木の鎖で殻を締め、外へ広がろうとする力を抑えた。資材を高く吊り上げるため、牛が同じ方向に回るだけで歯車を切り替えて上げ下げができる巻き上げ機を考案し、上空で荷を左右に動かす起重機も作った。職人たちが昼食に下りる時間を惜しんで、ドームの上に食堂と酒場を作らせたという。途中でギベルティが病を装って現場を休み、何も進まなかったので、ブルネレスキに任せるほかなくなった、という話も伝記は伝えている。ドームは1436年に閉じられ、教皇によって献堂された。頂の採光塔は、彼の死の直前に着工された。
同じ時期に、ブルネレスキは新しい建築の言葉を次々に生み出した。1419年に着工した捨子養育院の柱廊は、細い円柱と半円アーチを規則正しい比例で並べ、ルネサンス建築の最初の作品とされる。ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチの依頼で建てたサン・ロレンツォ聖堂の旧聖具室、サント・スピリト聖堂、パッツィ家礼拝堂。正方形と円を組み合わせた明快な空間は、のちの建築家たちの手本になった。
人としてのブルネレスキは、背が低く、機知に富み、議論好きで、敵も多かった。若い頃、仲間とたくらんで、太った木彫り職人に、自分が別人になってしまったと信じ込ませる手の込んだ悪戯を街ぐるみで仕掛けた話が、短編小説として伝わっている。職人は恥じてハンガリーへ去ったという。1421年には、アルノ川で大理石を運ぶ船を考案して、フィレンツェから3年間の特許を与えられた。記録に残る最も古い特許の一つとされるが、船は積荷ごと沈んだ。1430年には、戦争中のルッカを川の水で水攻めにする計画を立てたが、堤が切れてフィレンツェの陣のほうが水浸しになった。1434年には、石工の組合費を払っていないとして、一時投獄されている。
1446年4月15日、ブルネレスキは死んだ。68歳か69歳。その遺体は、自らが架けたドームの下、大聖堂の中に葬られた。職人にとって前例のない栄誉だった。墓は長く場所が分からなくなっていたが、1972年の発掘で見つかった。

ブルネレスキは、建築を職人の技から設計者の仕事へと変えたと言われる。彼は自分の工夫を盗まれるのを恐れて、図面をほとんど残さず、模型も人に見せないようにした。ドームの工法がどこまで彼の計画どおりだったのかも、細部は今も研究が続いている。のちにローマのサン・ピエトロ大聖堂のドームを設計したミケランジェロは、フィレンツェのドームを意識していたと伝えられる。ドームは今も、フィレンツェのどこからでも見える。