冷戦

概要
撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。
この物語について
四十年のあいだ、二つの陣営は直接撃ち合わなかった。撃ち合わずに争うために、何が起きていたのか。
起点は1917年に遡る。第一次世界大戦のさなか、ロシアで帝政が倒れ、その年の11月、レーニンの率いるボリシェヴィキが権力を握った。ロシア革命によって、私有財産を廃し、一つの党が国を導くという、まったく別の原理で動く国が生まれた。資本主義の国々はこれを恐れ、革命直後には軍を送って干渉もした。二つの体制は、互いの存在そのものを脅威と感じながら並び立つことになる。

その二つが同じ側に立ったのは、ヒトラーという共通の敵がいたからだった。第二次世界大戦でソ連は2000万人以上ともいわれる死者を出しながらドイツ軍を押し返し、東ヨーロッパを占領したまま戦争を終えた。スターリンにとって、二度と西から攻め込まれないための緩衝地帯は譲れなかった。ポーランドやハンガリー、チェコスロヴァキアに、次々とソ連に従う共産党の政権が作られていく。1946年3月、首相の座を降りていたチャーチルはアメリカの大学で演説し、バルト海からアドリア海まで、大陸に「鉄のカーテン」が降ろされたと語った。
アメリカの答えは、封じ込めだった。1947年、トルーマン大統領は共産主義の脅威にさらされた国を支援すると宣言し、続いてヨーロッパの復興に巨額の援助を出すマーシャル・プランを打ち出した。ソ連は東側の国々にこの援助を受けさせなかった。ヨーロッパは経済の上でも二つに分かれる。
最初の衝突の舞台はベルリンだった。ソ連の占領地の奥深くにあるこの都市の西半分は、アメリカ・イギリス・フランスが管理していた。1948年6月、西側が独自の通貨を導入すると、ソ連は西ベルリンへの陸路をすべて断った。ベルリン封鎖に対して、西側は飛行機で食糧と石炭を運び続けた。多い日には数分おきに輸送機が着陸し、封鎖は約11か月後に解かれた。撃ち合わずに勝負をつける、冷戦の型がここでできた。1949年、西側は北大西洋条約機構を作り、ソ連は原子爆弾の実験に成功する。同じ年の10月、中国では内戦に勝った共産党が北京で新しい国家を宣言する。中華人民共和国の成立である。

1950年6月、北朝鮮軍が南へ攻め込んだ。朝鮮戦争は、アメリカを中心とする国連軍と、途中から参戦した中国の義勇軍がぶつかる戦争になり、前線は半島を何度も上下した。1953年の休戦までに、兵士と民間人を合わせて数百万人が死んだとされる。休戦の線はほぼ戦争前の境界に戻り、半島は今も二つに分かれたままである。冷戦は、少なくともアジアでは、最初から冷たくはなかった。
核兵器の時代が、争いの形を決めた。1950年代にアメリカとソ連はともに水素爆弾を持ち、太平洋のビキニ環礁の実験では日本の漁船が死の灰を浴びた。1957年10月、ソ連は世界初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げる。ロケットが宇宙に届くなら、核弾頭はアメリカのどこにでも届く。アメリカは衝撃を受け、科学教育と宇宙開発に予算を注ぎ込んだ。宇宙開発の競争は、そのまま軍事の競争でもあった。

日本もこの対立の中で戦後の形を決めた。朝鮮戦争で米軍が日本から大量の物資を買い付けた特需は、敗戦後の経済を立て直すきっかけになった。1951年、日本はサンフランシスコで講和条約を結んで独立を回復したが、ソ連や中国はこの会議に加わらず、同じ日にアメリカとの安全保障条約が結ばれて米軍は日本に残った。日本は西側の一員として、冷戦の前線のすぐ後ろに置かれた。
1959年、アメリカの目と鼻の先のキューバで、カストロらの革命が成功した。キューバはやがてソ連に近づき、1962年10月、ソ連が島に核ミサイルの基地を造っていることを、アメリカの偵察機が見つけた。ジョン・F・ケネディ大統領は海上封鎖でミサイルの搬入を止め、撤去を迫った。13日間、世界は核戦争の淵に立った。最後はソ連のフルシチョフが撤去に応じ、アメリカはキューバに攻め込まないことを約束し、トルコのミサイルの撤去も内々に受け入れた。キューバ危機の後、両国の首脳を結ぶ直通の電話が引かれ、翌年には大気圏内の核実験を禁じる条約が結ばれた。

ベルリンでは1961年8月、東から西への人の流出を止めるため、東ドイツが一夜のうちに有刺鉄線を張り、やがてコンクリートの壁を築いた。家族と隣人が壁で隔てられ、越えようとして撃たれた人も出た。壁は冷戦そのものの姿になった。
東側の国々が自由を求めて動いたとき、ソ連は戦車で応えた。1953年にスターリンが死に、後を継いだフルシチョフがその独裁を批判すると、1956年、ハンガリーで改革を求める市民が立ち上がったが、ソ連軍に鎮圧された。1968年、チェコスロヴァキアで「人間の顔をした社会主義」を掲げた改革、いわゆるプラハの春も、ワルシャワ条約機構の軍に押しつぶされた。西側はこれを非難したが、軍を送ることはなかった。互いの勢力圏には手を出さないことも、撃ち合わないための約束事だった。

直接ぶつかれない二つの大国は、第三の国で争った。1960年はアフリカで17の国が独立した年だったが、独立した国々は、どちらの陣営に付くかを迫られた。コンゴの首相ルムンバは、独立の翌年に殺された。インドのネルーやエジプトのナセルは、どちらにも付かない非同盟の道を掲げた。インドネシアでは1965年の事件の後、共産党員とみなされた人びとが軍と民兵に殺され、その数は50万から100万ともいわれる。1973年のチリでは、選挙で選ばれた社会主義の政権が、アメリカの支援を受けた軍のクーデターで倒された。
最も長く、最も多くの人が死んだのはベトナムだった。フランスの植民地支配を1954年に破ったベトナムは南北に分けられ、アメリカは南の政府を支えて1965年から大規模な地上軍を送った。ベトナム戦争では、アメリカの兵士5万8千人あまりと、はるかに多いベトナムの兵士と民間人が死んだ。戦争の映像は毎晩テレビに流れ、アメリカ国内でも反戦の声が高まった。1973年にアメリカ軍は撤退し、1975年にサイゴンが陥落する。隣のカンボジアでは、権力を握ったクメール・ルージュが自国民を150万から200万人死なせた。

冷戦は国の内側も変えた。アメリカで黒人の公民権運動が勝ち取られていった背景には、自由の国を名乗りながら人種差別を続けることが、ソ連の宣伝に格好の材料を与えていたという事情もあった。一方、中国では大躍進と文化大革命の混乱で膨大な数の人が死に、やがて中国はソ連と対立して、1972年にはアメリカ大統領ニクソンを北京に迎えた。共産主義の陣営も一枚岩ではなかった。
1970年代には核兵器の数を制限する交渉が進み、緊張はいったん和らいだ。だが1979年の暮れ、ソ連が共産党政権を支えるためにアフガニスタンへ軍を送ると、空気は一変する。アメリカはソ連と戦うイスラームの戦士たちに武器を送り、翌年のモスクワ五輪を日本などとともにボイコットした。ソ連軍は10年近く抜け出せず、この戦争はソ連の体力を大きく削った。アメリカから流れ込んだ武器と、そこで育った戦士たちは、のちに別の争いの種になる。

終わりは、内側から来た。軍事費と非効率な計画経済に疲れ切ったソ連で、1985年に指導者になったゴルバチョフは、情報の公開と改革を進め、東ヨーロッパの国々に軍事介入はしないと示した。1989年、ポーランドで自由な選挙が行われ、ハンガリーがオーストリアとの国境を開くと、東ドイツの人びとがそこから西へ流れ出した。11月9日の夜、東ドイツ政府が出国の規制を緩めると発表した記者会見の言い間違いをきっかけに、群衆が検問所に押し寄せ、ベルリンの壁の崩壊に至った。1991年の暮れ、ソ連そのものが解体された。
撃ち合わずに終わった四十年を、私たちは「冷戦」と呼ぶ。だがそれは、ワシントンとモスクワから見た名前である。朝鮮半島、ベトナム、アフガニスタン、アフリカや中南米では、実際に撃ち合いが続き、多くの人が死んだ。核の均衡が大国どうしの戦争を止めたのか、それとも運が良かっただけなのかは、今も答えが出ていない。分断された朝鮮半島と、核兵器を持つ国が増え続ける世界は、この時代が残したものである。
動画(2)
この物語が起きた場所
筋(195)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- レーニン人物AD1870年4月22日 – AD1924年1月21日世界最初の社会主義国家を作った。マルクスの理論を、革命の実務に組み替える。
- 鋲を打ったズボンできごとAD1873年5月20日ネヴァダの仕立て屋ジェイコブ・デイヴィスは、作業ズボンのポケットの角が破れやすいので、銅の鋲で留めることを思いついた。特許の費用が無く、布を仕入れていたサンフランシスコの商人リーヴァイ・ストラウスに持ちかける。1873年5月20日、二人の名で特許が認められた。鉱夫と牧場の労働着は、二十世紀半ばに映画の若者の反抗の服になり、冷戦期の東側では西側の自由の印として闇で取引された。労働着が、世界でいちばん普通の服になった。サンフランシスコ
- チャーチル人物AD1874年11月30日 – AD1965年1月24日「鉄のカーテン」と名づけた英国が単独で枢軸に向き合った時期を率いた。戦後は「鉄のカーテン」を名づける。
- ヨシフ・スターリン人物AD1878年12月18日 – AD1953年3月5日30年ソ連を握った。工業化を急いだ代償に数百万人が餓死し、粛清でさらに多くが殺された。
- ジョージ・マーシャル人物AD1880年12月31日 – AD1959年10月16日勝利の組織者第二次大戦のアメリカ陸軍参謀総長。800万人の軍を作り、アイゼンハワーを選んだ。チャーチルが「勝利の組織者」。国務長官。マーシャル・プラン。国防長官。朝鮮。マッカーシーに「反逆者」と言われた。1953年、軍人で唯一のノーベル平和賞。
- ハリー・トルーマン人物AD1884年5月8日 – AD1972年12月26日原爆の使用を決め、冷戦の封じ込め政策を始めた。副大統領になって82日で大統領になっている。
- ジャワハルラール・ネルー人物AD1889年11月14日 – AD1964年5月27日どちらの陣営にも属さないという選択独立インドの初代首相。どちらの陣営にも属さない道を掲げ、バンドン会議の中心にいた。
- チトー人物AD1892年5月7日 – AD1980年5月4日ノーと言って生き延びたクロアチアの農民の子。第一次大戦でロシアの捕虜、革命。パルチザンでドイツと戦い、自分でユーゴを解放した。スターリンに「ノー」と言って生き延びた唯一の共産党指導者。非同盟。「兄弟愛と統一」。彼が死んで11年で国は割れた。
- 毛沢東人物AD1893年12月26日 – AD1976年9月9日中国共産党を率いて建国した。大躍進と文化大革命で数千万の死を出したとされる。
- ニキータ・フルシチョフ人物AD1894年4月15日 – AD1971年9月11日靴で机を叩いた炭鉱の村の鍛冶屋の子。スターリンの下でウクライナの粛清を執行し、スターリンが死ぬと秘密報告で告発した。ハンガリーに戦車を送り、スプートニクを上げ、靴で机を叩き、キューバにミサイルを置いて引いた。1964年、仲間に追われた。年金生活で回想を録音し、西側で出版された。
- ナジ・イムレ人物AD1896年6月7日 – AD1958年6月16日騙されて捕えられた第一次大戦でロシアの捕虜になり、ボリシェヴィキに。モスクワで20年、NKVDに情報を渡していた。1953年に首相、1955年に追われ、1956年10月に民衆が呼び戻した。中立を宣言し、ソ連の戦車が来て、ユーゴ大使館に逃げ、騙されて捕えられ、絞首刑。1989年6月、25万人が再埋葬に集まった。
- 周恩来人物AD1898年3月5日 – AD1976年1月8日建国から死まで首相を務めた。文化大革命のさなかも実務を回し、米中の接近を用意する。
- ユナイテッド・フルーツと「バナナ共和国」できごと1899年1954年のグアテマラ介入一つの会社が、中米数か国の鉄道と港と土地を握った。1954年、農地改革を進めたグアテマラ政権が、この会社の働きかけを受けたアメリカの介入で倒される。グアテマラシティ
- 鄧小平人物AD1904年8月22日 – AD1997年2月19日黒い猫でも白い猫でも市場を導入して中国を世界の工場に変えた。同時に天安門では武力を用いた。
- レオニード・ブレジネフ人物AD1906年12月19日 – AD1982年11月10日勲章114個ウクライナの製鉄の街。フルシチョフを追って18年。プラハに戦車、「制限主権論」。デタント、SALT、ヘルシンキ、そしてアフガニスタン。勲章が好きで114個。晩年は薬で呂律が回らなかった。「停滞の時代」。石油の値で国を回し、それが落ちると国も落ちた。
- ジョゼフ・マッカーシー人物AD1908年11月14日 – AD1957年5月2日テイルガンナー・ジョーウィスコンシンの農家。判事。海兵隊の「テイルガンナー・ジョー」。1946年、上院。1950年、リスト。4年、アメリカを怯えさせた。1954年、上院が67対22で非難。3年後、48歳、アルコールで死んだ。「マッカーシズム」は彼の名の語として残った。
- クワメ・エンクルマ人物AD1909年9月21日 – AD1972年4月27日サハラ以南で最初に独立を勝ち取った国の指導者。アフリカは一つになるべきだと説き、クーデタで倒される。
- ウ・タント人物AD1909年1月22日 – AD1974年11月25日キューバ危機で降りる階段を用意したアジア初の国連事務総長。キューバ危機の仲介に入り、両国の顔を立てる形を用意した。
- ロナルド・レーガン人物AD1911年2月6日 – AD2004年6月5日この壁を壊しなさいイリノイ。ラジオのアナウンサー、俳優、俳優組合の委員長、GEのスポークスマン、カリフォルニア州知事。69歳で大統領。「悪の帝国」。SDI。軍拡。それからゴルバチョフと4回会って、INF。「ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい」。1994年、アルツハイマーを公表した。
- ローザ・パークス人物AD1913年2月4日 – AD2005年10月24日バスで席を譲らなかった。偶然の一件のように語られるが、本人は以前から運動に関わっていた。
- ロシア革命できごとAD1917年二つの体制が並ぶ起点世界最初の社会主義国家が生まれた。以後70年、世界は二つの体制に分かれる。ペトログラード

- ジョン・F・ケネディ人物AD1917年5月29日 – AD1963年11月22日キューバ危機を核戦争の手前で収めた。月へ行くと宣言し、その2年半後に暗殺される。
- ガマール・アブドゥル=ナセル人物AD1918年1月15日 – AD1970年9月28日スエズ運河を国有化し、旧宗主国の出兵を退けた。アラブ世界に「自分たちで決める」という気分を作る。
- ニコラエ・チャウシェスク人物AD1918年1月26日 – AD1989年12月25日1000部屋の宮殿靴職人の徒弟。1965年から24年。プラハ侵攻に反対して西に好かれ、ニクソンとエリザベスが来た。外債を返すために国民を飢えさせ、暖房を止めた。1000部屋の宮殿。妻エレナは「科学者」。1989年12月25日、兵舎の壁の前で。裁判は2時間。
- アレクサンデル・ドゥプチェク人物AD1921年11月27日 – AD1992年11月7日森林局の役人スロヴァキア人。ソ連で育った。1968年1月、第一書記。「人間の顔をした社会主義」。8月、モスクワに連れて行かれた。翌年解任、森林局の役人。20年。1989年11月、ヴァーツラフ広場のバルコニーにハヴェルと。連邦議会議長。1992年、交通事故で死んだ。国が割れる2か月前。
- ジョージ・H・W・ブッシュ人物AD1924年6月12日 – AD2018年11月30日新世界秩序上院議員の子。海軍で最年少の飛行士、撃墜されて泳いだ。テキサスの石油、国連大使、北京、CIA長官、副大統領8年。大統領は4年。冷戦の終わり、パナマ、湾岸戦争、天安門への静かな対応。「新世界秩序」。息子も大統領になった。
- パトリス・ルムンバ人物AD1925年7月2日 – AD1961年1月17日コンゴ独立の初代首相。首相を2か月余りで解任され、外国の関与のもとで殺された。独立の難しさの象徴になる。
- フィデル・カストロ人物AD1926年8月13日 – AD2016年11月25日アメリカの目の前で革命を成功させた。冷戦の最前線が西半球に生まれる。
- チェ・ゲバラ人物AD1928年6月14日 – AD1967年10月9日アルゼンチンの医学生が大陸を旅し、キューバ革命に加わった。ボリビアで殺され、その顔だけが世界中に残る。
- キング牧師人物AD1929年1月15日 – AD1968年4月4日非暴力で公民権運動を率いた。ガンディーの方法を、別の大陸で受け継ぐ。
- 休みをずらすできごとAD1929年ソ連は1929年、工場を止めないために週を作り替えた。一週を五日とし、労働者を五つの組に分けて、順番に休ませる。機械は動き続け、生産は上がるはずだった。実際には、家族が別々の日に休むことになる。夫婦が一緒に過ごせず、友人とも会えない。設備は休みなく動いて傷み、誰が何を管理するのか曖昧になった。不満は大きく、1931年に六日週へ変わり、1940年には七日の週に戻された。休日を分散させると、社会の側の予定が組めなくなる。休みが同じ日であることには、それ自体の働きがある。モスクワ
- 収容所の網できごとAD1930年工業化を担った強制労働1930年、ソ連は矯正労働収容所の管理を一つの役所にまとめた。その頭文字からグラーグと呼ばれる。反革命の罪、農民の抵抗、冗談の密告など、さまざまな理由で送られた人びとが、シベリアや北極圏の収容所で、運河や鉄道や鉱山の工事に使われた。極東のコルイマの金鉱は、特に恐れられた。数十年のあいだに千数百万人が収容所を通り、百万人を超える人が死んだとされる。国の工業化の一部を、強制された労働が担っていた。コルイマ(位置は特定されていない)
- ゴルバチョフ人物AD1931年3月2日 – AD2022年8月30日改革を試み、結果として体制を畳んだ。武力で押さえつけない選択が、冷戦を戦争なしに終わらせる。
- 金本位制の崩壊できごとAD1931年9月戦後の仕組みが一つ外れるイギリスが金との交換をやめ、各国が続いた。世界を一つに縛っていた仕組みが外れ、通貨のブロックに分かれていく。ポランニーはここを19世紀文明の終わりに置いた。ロンドン
- ヴァーツラフ・ハヴェル人物AD1936年10月5日 – AD2011年12月18日真実の中に生きるブルジョワの家の子で大学に入れず、劇場の舞台係から劇作家に。『ガーデン・パーティー』。1968年後、上演禁止。憲章77。獄に5年。『力なき者たちの力』。「真実の中に生きる」。1989年12月、大統領。1993年、チェコの大統領。13年。
- ダンマーム7号井できごとAD1938年3月4日石油と安全保障カリフォルニア・スタンダード石油が1933年に利権を買い、5年掘って何も出なかった。撤退を考えていた。7号井が1440メートルで、1日1500バレル。「繁栄の井戸」。イブン・サウードは1939年、最初のタンカーの栓を自分で開けた。世界最大の油田(ガワール、1948年)。アラムコ。1945年、ローズヴェルトが軍艦で王に会った。石油と安全保障。ダーラン

- 第二次世界大戦できごと1939年同じ側で戦い、終わった途端に向かい合う人類史で最大の戦争。軍民あわせて5000万人以上が死に、世界の枠組みが作り替えられた。ベルリン
- 冬戦争できごとAD1939年11月30日独ソ不可侵条約でフィンランドをソ連の勢力の範囲に置いたスターリンは、レニングラードに近いカレリア地峡の国境を下げるよう求め、フィンランドは拒んだ。1939年11月30日、ソ連軍が攻め込み、ヘルシンキに爆弾が落ちた。人口370万の小国は、雪の森をスキーで動く部隊と、マンネルヘイム線の守りで大軍を食い止め、ソ連は国際連盟から除名される。翌年2月、ソ連は兵と砲を増やして守りを破り、3月の講和でフィンランドは国土の一割ほどを譲った。独立は守ったが、四十万人が故郷を離れた。カレリア地峡(位置は特定されていない)
- カティンの森できごとAD1940年4月1990年まで認めなかったソ連がポーランドの将校、警官、知識人2万2000人を後頭部から撃った。1943年にドイツが森で見つけて発表し、ソ連は「ドイツがやった」と言い続けた。連合国は黙った。1990年、ゴルバチョフが認めた。2010年、追悼に向かうポーランド大統領機がスモレンスクで落ちた。カティン

- レフ・ワレサ人物AD1943年9月29日 – ?私は電気工大工の子。造船所の電気工。1970年のストで解雇。1980年、柵を越えて委員長に。1981年、戒厳令で1年拘束。1983年、ノーベル平和賞。1989年、円卓。1990年、大統領。1995年、負けた。8人の子。「私は、政治家でなく、電気工」。
- ブレトン・ウッズ会議できごとAD1944年7月1日ケインズ案は通らなかったノルマンディー上陸の3週間後、44か国の代表がニューハンプシャーの山中のホテルに集まった。目的は、両大戦の間の混乱——為替の切り下げ競争、ブロック経済、そしてそこから戦争へ至った道——を繰り返さない仕組みを作ることである。ケインズは、どの国にも属さない国際通貨バンコールと、黒字国にも調整を課す清算同盟を提案した。アメリカのホワイト案が通った。ドルを金に固定し(1オンス35ドル)、各国通貨をドルに固定する。IMFと世界銀行ができた。ブレトン・ウッズ
- ベネルクス関税同盟できごとAD1944年9月5日1944年9月5日、ドイツに占領されてロンドンに逃れていたベルギー、オランダ、ルクセンブルクの亡命政府は、戦争が終わったら三国のあいだの関税をなくし、外に向けては同じ関税をかけるという協定に署名した。三国の頭文字を合わせて「ベネルクス」と呼ばれる。同盟は1948年に動き出した。大国にはさまれ、二度の大戦で中立を踏みにじられた小国が、まとまることで生き延びようとする試みだった。三国はそのまま、1951年の石炭と鉄鋼の共同体、1957年のローマ条約に加わり、ヨーロッパの統合の先がけになった。ロンドン
- 広島・長崎への原爆投下できごとAD1945年8月6日核があったから直接ぶつからなかった一発で都市が消えた。人類が自らを絶滅させうる力を持ったことが、この日から前提になる。広島

- ヤルタ会談できごとAD1945年2月4日売られたクリミアの宮殿で8日間。ドイツの分割、ポーランドの国境と政府、国際連合、ソ連の対日参戦と千島樺太。ローズヴェルトは2か月後に死んだ。「ヤルタ」は東欧では「売られた」の意味になった。冷戦の地図は、ここで引かれた。ヤルタ

- ポツダム会談できごとAD1945年7月17日新しい強力な兵器ドイツ降伏の2か月後、ベルリンの郊外。トルーマンは会談の途中で原爆実験の成功を聞き、スターリンに「新しい強力な兵器」とだけ言った。スターリンは知っていた。26日、日本に降伏を求める宣言。日本は「黙殺」し、8月6日。チャーチルは会談中に選挙で負けて帰った。ポツダム

- 「鉄のカーテン」演説できごとAD1946年3月5日分ける線に名前がついたチャーチルがヨーロッパを分ける線を名づけた。冷戦という言葉が現実になっていく。フルトン

- ビキニ環礁の核実験できごと1946年住民は移住させられ、いまも帰れない。1954年の実験では日本の漁船も被曝した。ビキニ環礁
- トルーマン・ドクトリンできごとAD1947年3月12日世界の警察イギリスがギリシアとトルコを支えられなくなり、トルーマンが議会で「武装した少数派や外からの圧力に抵抗する自由な人々を支援する」と言った。4億ドル。「封じ込め」。アメリカが世界の警察になると宣言した日。冷戦はここから数える人が多い。ワシントンD.C.
- マーシャル・プランできごとAD1947年6月5日130億ドル国務長官がハーヴァードの卒業式で「飢えと貧困と絶望と混乱に対する」援助を提案した。4年で130億ドル。西欧16か国。ソ連は東欧に受け取らせなかった。西ドイツが復興し、共産党は西で弱まり、ヨーロッパは二つに固まった。ケンブリッジ(マサチューセッツ)
- コミンフォルムできごとAD1947年9月22日二つの陣営マーシャル・プランへの答え。9か国の共産党がポーランドの山荘で。ジダーノフの「二つの陣営」。世界は帝国主義と反帝国主義に分かれた。翌年、ユーゴスラヴィアを除名した。チトーはスターリンに従わなかった。「一枚岩」に最初のひびが入った。ワルシャワ
- 二・二八事件できごとAD1947年2月28日語ること自体が禁じられた事件日本の統治が終わった台湾に、大陸から国民党の役人と軍がやって来た。汚職と物不足と差別に、島の人びとの不満は高まっていた。1947年2月27日の夜、台北で闇の煙草を売っていた女性を取締りの役人が殴り、抗議した群衆に発砲する。翌28日、抗議は島じゅうに広がった。国民党は大陸から軍を送り、指導者や知識人を含む多くの人を殺す。死者は一万数千から二万を超えるとも言われる。このあと、四十年近い戒厳令が敷かれた。台北
- ベルリン封鎖できごと1948年撃ち合わずに競う戦い方が始まるソ連が西ベルリンへの陸路を絶ち、西側は空輸で1年支えた。撃ち合わずに競う戦い方が始まる。ベルリン

- 世界人権宣言できごとAD1948年12月10日二つの大戦とホロコーストのあとで、国連総会が48か国の賛成、反対なしで採択した。拷問の禁止、奴隷の禁止、法の前の平等。守られない国は多いが、基準はここで書かれた。パリ

- マラヤ危機できごと1948年共産党の武装闘争を、イギリスが50万人の住民を強制移住させて封じ込めた。この方法が、のちにベトナムでアメリカが真似て失敗する。クアラルンプール

- イスラエルの建国できごとAD1948年5月14日同じ一日が、独立の日であり追放の日イギリスの委任統治が終わる前日の1948年5月14日、ダヴィド・ベン=グリオンがテルアビブでイスラエルの独立を宣言した。ホロコーストを生き延びたユダヤ人にとって、ようやく持てた自分たちの国である。翌日、周りのアラブの国々が攻め込み、戦争になる。戦いのなかで、七十万人ほどのパレスチナのアラブ人が故郷を逃れ、あるいは追われた。彼らはこれをナクバ、大災厄と呼ぶ。同じ一日が、一方には独立の日、もう一方には追放の日として記憶されている。テルアビブ
- チェコスロヴァキアの二月事件できごとAD1948年2月25日一滴の血も流さずに奪われた民主主義戦後のチェコスロヴァキアは、共産党が第一党でありながら、ほかの政党とともに議会の政治を続けていた。1948年2月、警察を共産党が握ろうとすることに抗議して、共産党以外の大臣たちが辞表を出した。大統領ベネシュが選挙に打って出ると見込んだのである。共産党は労働者の民兵を街に出し、大規模な集会とストライキで圧力をかける。2月25日、ベネシュは辞表を受け入れ、共産党の主導する内閣を認めた。二週間後、外相ヤン・マサリクが外務省の窓の下で死んでいるのが見つかる。西側は衝撃を受け、翌年のNATOの結成を急いだ。プラハ
- 中華人民共和国の成立できごとAD1949年10月1日内戦に勝った共産党が建国した。東アジアの構図が塗り替わる。北京
- NATOの結成できごとAD1949年4月4日一国への攻撃は、全加盟国への攻撃ベルリンが封鎖され、東ヨーロッパに共産党の政権が次々とできると、西ヨーロッパの国々はソ連を恐れた。1949年4月4日、アメリカとカナダと西欧の十二か国がワシントンで条約に署名し、北大西洋条約機構を作る。一国への攻撃は全加盟国への攻撃とみなす、と定めた。アメリカが平時に他国と軍事同盟を結ぶのは初めてだった。ソ連は1955年にワルシャワ条約機構で応じる。この条項が初めて発動されたのは、冷戦ではなく2001年の同時多発テロの後だった。ワシントンD.C.
- 『一九八四年』できごとAD1949年6月8日スペイン内戦で共産党の粛清を目にしたジョージ・オーウェルは、結核に冒されながら、スコットランドの島で最後の小説を書き上げた。1949年6月8日に出版される。党が歴史を書き換え、言葉を減らして考えられることを減らし、画面が人びとを見張る国の話である。偉大な兄弟があなたを見ている。二重思考、思想警察といった言葉が、そのまま日常の言葉になった。オーウェルは翌年死ぬ。監視と嘘が問題になるたびに、この本は売れ直している。ロンドン
- コメコンの創設できごとAD1949年マーシャル・プランの代わり1949年1月、ソ連と東欧の五か国は、モスクワで経済相互援助会議、コメコンを作った。二年前、アメリカが示したマーシャル・プランへの参加を、ソ連は東欧の国々に禁じていた。その代わりの枠組みである。各国の計画経済をつなぎ、ソ連が石油やガスを安く送り、東欧が機械や消費財を送る分業が作られた。しかし通貨は自由に替えられず、取引は国どうしの物々交換に近かった。西側の市場から切り離された経済は、1980年代に行き詰まり、コメコンは1991年に解散した。モスクワ
- 朝鮮戦争できごと1950年休戦のまま、いまも終わっていない冷戦が実際の戦争になった最初の場。休戦のまま、いまも終わっていない。楽浪郡(位置は特定されていない)

- マッカーシズムできごとAD1950年2月9日205人のリストウィスコンシンの上院議員がウェストヴァージニアの婦人会で「国務省に205人の共産主義者のリストがある」と言った。リストは見せなかった。4年。ハリウッド、大学、軍。「赤狩り」。1954年、テレビで陸軍と対決して、「あなたには品位のかけらもないのか」と言われ、上院が非難決議をした。ワシントンD.C.

- 警察予備隊できごとAD1950年8月10日名前で実態を包むやり方朝鮮戦争が始まり、日本にいたアメリカ軍の多くが朝鮮半島へ向かった。空いた守りを埋めるため、マッカーサーは日本の政府に武装した組織を作るよう指示する。1950年8月10日、七万五千人の警察予備隊が生まれた。名前は警察だが、装備はアメリカ軍の貸与で、軍隊に近かった。1952年に保安隊、1954年に自衛隊となる。戦力を持たないとする憲法のもとで、国を守る組織をどう説明するかという議論は、ここから続いている。東京
- 朝鮮特需できごとAD1950年隣の国の戦争が、復興の足がかりに戦後の日本の経済は、インフレを抑える引き締めで不況に沈んでいた。1950年6月、朝鮮戦争が始まると、アメリカ軍は、トラック、毛布、土嚢の袋、弾薬、車両の修理を日本の企業に大量に注文する。倒産しかけていた会社が息を吹き返し、工場が再び動き出した。政府や財界からは、天の助けだという声が上がったと伝えられる。隣の国の戦争が、日本の復興の足がかりになった。そのことは、朝鮮半島から見れば別の意味を持つ。東京
- 機密指定できごとAD1951年9月24日軍事の秘密は古くからあるが、文書に等級を付けて管理する制度は、二つの大戦を経て整った。1951年、トルーマンが大統領令で、平時の行政機関全体に、極秘、秘、部外秘の三段階を適用した。指定できる人と、解除の手続きも定めた。批判はすぐに出た。都合の悪い情報を隠すのに使える。過剰な指定が常態化し、指定件数は年に数千万に達する。ある元高官は、機密の九割は公開してよいものだと述べた。秘密の量が増えるほど、守るべきものが埋もれる。ワシントンD.C.
- マヤ文字の解読できごとAD1952年ソ連の宣伝として無視されたアメリカの権威エリック・トンプソンは、マヤ文字は表意的な絵であって言語を書き写したものではない、と主張し、その説が数十年、分野を支配した。レニングラードの若い研究者ユーリー・クノロゾフは、16世紀の司教ランダが残した「マヤのアルファベット」の写しを読み直し、それが音節を表す表だと見抜いた。1952年に発表した。冷戦下で、西側は「ソ連の宣伝」として無視した。1970年代以降、若い世代が彼の方法で読み進め、マヤの王の名と即位の年と戦争の記録が、次々に読めるようになった。サンクトペテルブルク
- ローゼンバーグ夫妻の処刑できごとAD1953年6月19日弟が証言した原爆の秘密をソ連に渡したとして、ニューヨークのユダヤ人の夫婦が電気椅子に。妻の弟が証言した。教皇とサルトルとアインシュタインが助命を求めた。二人の息子が残った。1995年に公開されたヴェノナ文書でジュリアスがスパイだったことは確かになり、エセルの役割はいまも争われる。シンシン刑務所
- スターリンの死できごとAD1953年3月5日12時間、医者を呼べなかったクンツェヴォの別荘で倒れて、側近は12時間、医者を呼ぶのを恐れた。「医師団陰謀事件」の最中で、医者は逮捕されていた。4日。葬儀の群衆で数百人が圧死した。ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフ。3月中に収容所から100万人が出た。モスクワ

- モサッデク政権の転覆できごとAD1953年8月19日外から倒した利益は短く、恨みは長いイランの石油は、イギリスの会社がほぼ独占して掘り、利益の大半を持ち去っていた。1951年、首相モハンマド・モサッデクは石油産業を国有化する。イギリスは反発し、アメリカの情報機関と組んで、暴動を仕立て軍を動かした。1953年8月19日、モサッデクは失脚し、国外に逃れていた国王が戻る。国王はアメリカの後ろ盾で強権をふるい、その反発が二十六年後の革命につながった。アメリカ政府が関与を公式に認めたのは、六十年後のことである。テヘラン
- 朝鮮戦争の休戦できごとAD1953年7月27日世界で最も長く続く仮の平和朝鮮戦争は、開戦から一年ほどで、もとの境界のあたりで戦線が動かなくなった。休戦の話し合いは二年続き、捕虜を本人の意思に反して帰すかどうかで長くもつれる。そのあいだも、丘一つをめぐる戦いで多くの兵が死んだ。1953年7月27日、板門店で休戦の協定が署名される。韓国の大統領は署名しなかった。平和の条約は結ばれず、戦争は法の上では終わっていない。南北を分ける非武装地帯は、七十年以上たったいまも続いている。板門店
- ディエンビエンフーの戦いできごと1954年植民地側の軍が、正面からヨーロッパの軍を降伏させた。世界中の独立運動がこれを見ている。ディエンビエンフー

- 第五福竜丸できごとAD1954年3月1日白い灰が、反核の署名三千万を生んだ1954年3月1日の未明、ビキニ環礁の東で操業していた静岡の焼津のマグロ漁船・第五福竜丸は、西の空が明るくなるのを見た。アメリカの水爆実験だった。数時間後、白い灰が降り注ぎ、乗組員二十三人は被曝する。半年後、無線長の久保山愛吉が亡くなった。汚染されたマグロが捨てられ、魚が売れなくなる。核兵器に反対する署名は三千万を超え、翌年、最初の原水爆禁止世界大会が開かれた。その年の秋、映画『ゴジラ』が公開される。ビキニ環礁
- ゴジラできごとAD1954年11月3日水爆実験で眠りを覚まされた太古の怪獣が、東京湾から上陸して街を焼き払う。1954年11月3日に公開された映画『ゴジラ』は、第五福竜丸の事件から八か月後の作品だった。焼け野原の東京を、戦争を覚えている観客が見た。着ぐるみと模型で撮る特殊撮影は、のちに世界に知られる手法になる。怪獣は数十作の続編で子どもの味方にも変わっていったが、最初の一本は、核と戦争の記憶を映した暗い映画だった。東京
- 処女地開拓できごとAD1954年草原を耕して、表土が飛ぶ1954年、ソ連のフルシチョフは、穀物の不足を解くために、カザフスタン北部とシベリア西部の、一度も耕されたことのない草原を畑に変える計画を始めた。「処女地」の開拓である。若者たちが志願してトラクターとともに送り込まれ、数年で日本の国土の面積を上回る土地が耕された。最初の年々は大豊作だったが、雨の少ない土地を休ませずに耕し続けたため、1960年代の初めには砂嵐で表土が飛ばされ、収穫は落ちた。カザフの人々は、自分たちの土地でさらに少数になった。アスタナ
- ベトナム戦争できごと1955年「冷たい」のは当事者から見た話でしかない大国が撤退に追い込まれた。テレビが戦場を茶の間に届け、世論が戦争を左右するようになる。白藤江(位置は特定されていない)

- モンゴメリー・バス・ボイコットできごと1955年一人が席を譲らなかったことから、黒人住民が381日間バスに乗らなかった。公民権運動の始まりとされる。モンゴメリー

- ワルシャワ条約機構できごとAD1955年5月14日軍が動いたのは加盟国に二度西ドイツがNATOに入った直後、ソ連と東欧7か国が軍事同盟を結んだ。「友好協力相互援助条約」。実際に軍が動いたのは、加盟国の中で二度。ハンガリーとチェコスロヴァキア。1991年7月1日、プラハで解散した。ワルシャワ
- マラリア根絶計画できごとAD1955年家の壁にDDTを吹きつければ、そこで休む蚊が死ぬ。1955年、世界保健機関はこの方法でマラリアを地上から根絶する計画を始めた。ヨーロッパや北米、カリブの島々では実際に消える。スリランカでは年に数百万人いた患者が、1963年に十数人まで減った。だが散布をやめると数年で数十万人に戻る。蚊は薬に強くなり、アフリカの大部分は最初から対象外だった。1969年、目標は根絶から抑制へ下ろされる。消せる病と、抑え続けるしかない病がある。ジュネーヴ
- 自由民主党の結成できごとAD1955年11月15日政権の交代は、派閥の間で起きた1955年10月、左右に分かれていた社会党が一つになった。保守の側は危機を感じ、翌月の11月15日、自由党と日本民主党が合同して自由民主党を作る。以後、自民党が政権を握り、社会党が改憲を阻む三分の一の議席を持つ形が、1993年まで三十八年続いた。五五年体制と呼ばれる。政権の交代は選挙ではなく、自民党の中の派閥の間で起きた。安定は高度成長を支え、同時に長く続く一党の政治の癒着も生んだ。東京
- ラッセル=アインシュタイン宣言できごとAD1955年7月9日科学者たちの警告1954年、アメリカがビキニ環礁で行った水爆の実験は、予想を超える規模になり、日本の漁船の乗組員も死の灰を浴びた。1955年7月9日、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、ロンドンで、11人の科学者や知識人が署名した宣言を読み上げた。署名には、その年の4月に亡くなったアインシュタインが死の直前に書いた署名と、日本の湯川秀樹の名もあった。宣言は、核兵器による戦争は人類を滅ぼしうるとして、各国の政府に、争いを戦争でなく平和的な手段で解くよう求めた。この呼びかけから、東西の科学者が核の危険を話し合うパグウォッシュ会議が生まれた。ロンドン
- 原子力潜水艦ノーチラスできごとAD1955年1月17日潜ったまま北極点の下へそれまでの潜水艦は、ディーゼル機関を動かすために空気が要り、たびたび浮上しなければならなかった。アメリカ海軍の技術士官リッコーヴァーは、原子炉で動く潜水艦を造ることに執念を燃やし、1955年1月17日、コネティカット州グロトンで、ノーチラス号は「原子力で航行中」と信号を送った。空気も燃料の補給も要らず、何週間も潜ったまま進める。1958年には北極の氷の下をくぐって、潜ったまま北極点を通過した。原子力潜水艦は、やがて核ミサイルを積んで深い海に隠れる、冷戦の抑止の主役になった。グロトン
- フルシチョフの秘密報告できごとAD1956年2月25日個人崇拝第20回党大会の最終日、深夜、外国の代表を外して4時間。「個人崇拝」。粛清、拷問、追放、戦争の失敗。レーニンの遺言。代表は泣き、気絶した。「秘密」は3か月でCIAが手に入れて新聞に載った。ポーランドとハンガリーが動いた。中国が怒った。モスクワ
- ハンガリー動乱できごとAD1956年10月23日20万人がオーストリアへ学生のデモがスターリン像を倒した。ナジ・イムレが首相になり、ワルシャワ条約からの脱退を宣言した。11月4日、ソ連の戦車。2500人が死に、20万人がオーストリアへ逃げた。ナジは2年後に秘密裁判で絞首刑。1989年6月16日の再埋葬に25万人が集まり、それが体制の終わりだった。ブダペスト

- 州間高速道路できごとAD1956年アイゼンハワーは若いころ、陸軍の車列で大陸を横断し、二か月かかった経験を持つ。大統領になった彼は、ドイツで見たアウトバーンを引き合いに、全国を結ぶ高速道路の建設を進めた。1956年の法は、費用の九割を連邦が負う仕組みを作る。核攻撃のときの避難路という理由づけも使われた。四万マイルを超える網ができ、郊外の住宅地とトラック輸送が広がり、鉄道と都心は衰える。都市を通す区間は、地価の安い地区、多くは黒人の住む地区を貫いた。道をどこに通すかは、誰の暮らしを壊すかを決めることでもあった。ワシントンD.C.
- 日ソ共同宣言できごとAD1956年10月19日平和条約はいまも結ばれていないサンフランシスコの講和条約にソ連は加わらず、日本とソ連の間は、法の上では戦争の状態が続いていた。1956年10月19日、鳩山一郎首相はモスクワで共同宣言に署名する。戦争の状態を終わらせ、国交を回復し、抑留されていた人びとを帰すことが決まった。歯舞と色丹の二つの島は、平和条約を結んだあとに引き渡すとされた。ソ連が反対をやめ、その年の暮れ、日本は国際連合に加盟する。平和条約は、いまも結ばれていない。モスクワ
- ポズナン暴動できごとAD1956年6月28日パンから自由へ1956年6月28日、ポーランド西部のポズナンで、機関車などを作る大工場の労働者たちが、給料の引き下げとノルマの引き上げに抗議して街に出た。「パンをよこせ」の叫びは、やがて「自由を」「ロシア人は出て行け」に変わる。群衆は刑務所や秘密警察の建物を襲い、軍は戦車を出して鎮圧した。死者は五十人を超えた。この年の2月、フルシチョフがスターリンを批判しており、東欧じゅうが揺れていた。10月、ポーランドでは改革派のゴムウカが指導者に返り咲き、その動きはハンガリー動乱へ連なった。ポズナン
- 国連平和維持軍の始まりできごとAD1956年11月5日1956年秋、エジプトがスエズ運河を国有化すると、イギリス、フランス、イスラエルがエジプトに攻め込んだ。アメリカもソ連もこれを非難し、事態は大国どうしの対立に広がりかねなかった。カナダの外相レスター・ピアソンは、国際連合の部隊を送り、攻め込んだ軍の撤退を見届け、両者の間に立たせることを提案した。1956年11月5日、国連の総会は国連緊急軍を作ることを決め、事務総長ハマーショルドは、受け入れ国の同意、どちらにも肩入れしないこと、自衛のほかは武器を使わないことを原則に定めた。兵士たちは、ヘルメットを国連の青に塗った。平和維持活動の始まりである。シナイ半島(位置は特定されていない)
- スプートニク1号できごとAD1957年10月4日ソ連が人類初の人工衛星を上げた。西側は技術で後れを取ったと衝撃を受け、宇宙開発競争が始まる。モスクワ
- ローマ条約できごとAD1957年3月25日石炭と鉄鋼を共同で管理するところから始めて、経済共同体を作った。EUの原型になる。ローマ
- リトルロックの九人できごとAD1957年9月25日ブラウン判決から三年、アーカンソー州リトルロックの白人の高校に、九人の黒人の生徒が入学することになった。州知事は州兵を出して、彼らが校舎に入るのを阻んだ。罵声を浴びせる群衆の中を一人で歩く少女の写真が、世界に配信される。1957年9月25日、アイゼンハワー大統領は陸軍の空挺部隊を送り、兵士に守られて九人は登校した。冷戦のさなか、アメリカの人種差別はソ連の宣伝の格好の材料にもなっていた。リトルロック
- 国際原子力機関の設立できごとAD1957年7月29日平和のための原子力1953年12月、アメリカのアイゼンハワー大統領は国際連合の総会で、核の技術を兵器ではなく、電力や医療など平和のために使おうと呼びかけ、そのための国際機関を作ることを提案した。「平和のための原子力」と呼ばれる演説である。1957年7月29日、国際原子力機関、IAEAがウィーンに生まれた。原子力の平和な利用を広めると同時に、核の物質が兵器に回されていないかを確かめる査察を担う。核拡散防止条約ができると、その査察の役目はさらに重くなった。2005年、IAEAと事務局長エルバラダイはノーベル平和賞を受けた。ウィーン
- 大躍進できごと1958年鉄鋼と穀物の増産を号令したが、統計が上へ行くほど水増しされた。数千万人が餓死したとされる。北京
- タラ戦争できごとAD1958年9月1日NATOの基地を交渉の札に輸出の大半を魚に頼るアイスランドは、イギリスのトロール船に近海のタラを獲り尽くされることを恐れ、漁業の水域を広げていった。1958年に12カイリ、1972年に50カイリ、1975年に200カイリ。そのたびにイギリスは軍艦を送って自国の漁船を守り、アイスランドの沿岸警備隊は、トロール船の網を切る刃物で応じた。小さな巡視船と英国海軍のフリゲート艦が何度も体当たりし合った。人口二十数万の国はNATOからの脱退と米軍基地をちらつかせ、1976年、イギリスは200カイリを受け入れた。200カイリはのちに国連海洋法条約で世界の決まりになる。レイキャヴィーク
- キューバ革命できごとAD1959年1月1日アメリカの目の前に社会主義国家が生まれた。3年後のキューバ危機につながる。ハバナ

- チベット動乱できごとAD1959年3月10日ラサで蜂起が起き、鎮圧された。23歳の指導者はヒマラヤを越えてインドへ逃れ、以後亡命政府を率いる。8万人以上が続いた。ラサ

- アフリカの年できごとAD1960年独立した国々が、どちらに付くかを問われる一年で17か国が独立した。ただし国境は分割のときのまま引き継がれ、後の紛争の種になる。ガオ
- U2撃墜事件できごとAD1960年5月1日気象観測機アメリカの偵察機がウラルの上でミサイルで落ちた。アイゼンハワーは「気象観測機」と言い、フルシチョフは操縦士パワーズと写真を出した。2週間後のパリの首脳会談は初日に壊れた。パワーズは1962年にベルリンの橋でソ連のスパイと交換された。スヴェルドロフスク(エカテリンブルク)
- インダス川水利条約できごとAD1960年9月19日インドとパキスタンが分かれたとき、国境はインダス川の支流を横切って引かれた。川の上流はインド側にあり、パキスタンの畑を潤す水の多くはインドを通って流れてくる。1948年、インドが用水路の水を止め、パキスタンは震え上がった。世界銀行が仲立ちに入り、九年の交渉の末、六つの川を東西に分けて、東の三つをインドに、西の三つをパキスタンに割り当てた。水を分け合うのではなく、川ごと分けたのである。条約は、その後の三度の戦争を越えて守られてきた。だが2025年、テロ事件を受けて、インドは条約の停止を宣言した。カラチ
- 安保闘争できごとAD1960年6月15日政治の季節が、経済の季節に替わった岸信介の内閣は、アメリカとの安全保障条約を改め、より対等な形にしようとした。だが戦争に巻き込まれるという不安と、戦前の閣僚だった岸への反発が重なり、1960年5月、衆議院で強行採決すると、国会の周りを連日数十万人が囲んだ。6月15日、国会に入ろうとした学生の中で、東京大学の樺美智子が死ぬ。条約は6月19日に自然に成立し、岸は退陣した。次の内閣は所得倍増を掲げ、政治の季節は経済の季節に替わった。東京
- 三池争議できごとAD1960年石油が安く大量に入ってくると、日本の炭鉱は次々に行き詰まった。福岡の三井三池炭鉱で、会社は千二百人あまりの指名解雇を通告し、労働組合は無期限のストライキで応じた。1960年、全国から支援の労働者が集まり、総資本と総労働の対決と呼ばれる。組合の中にも分裂が起き、第二組合員の入坑を阻むピケ隊が暴力団員に襲われ、組合員が刺殺された。安保闘争と同じ年、闘いは組合の敗北で終わる。三年後、同じ炭鉱の爆発で四百人を超える人が死んだ。大牟田
- ベルリンの壁の建設できごとAD1961年8月13日一夜で有刺鉄線が張られ、街と家族が分断された。逃げる人を止めるために作られた壁だった。ベルリン
- ピッグス湾事件できごとAD1961年4月17日私が愚かだったCIAが訓練した亡命キューバ人1400人が上陸し、3日で敗れ、1100人あまりが捕まった。ケネディは空爆を減らし、艦隊を出さなかった。「私が愚かだった」。カストロはソ連に寄り、翌年ミサイルが来た。捕虜は薬と食糧5300万ドルと交換された。ピッグス湾

- 人が初めて宇宙へできごとAD1961年4月12日宇宙競争は、体制の見せ合いでもあった1961年4月12日、ソ連の空軍中尉ユーリ・ガガーリンを乗せた宇宙船ヴォストーク1号が、カザフの草原の発射場から打ち上げられた。地球を一周し、百八分で帰る。最後は宇宙船から飛び出し、落下傘で降りた。人類で初めて宇宙へ出た人となり、世界じゅうを回って歓迎を受ける。アメリカは衝撃を受け、翌月、大統領が十年のうちに人を月へ送ると宣言した。ガガーリン自身は、七年後に訓練中の飛行機の事故で死んでいる。バイコヌール
- キューバ危機できごとAD1962年核戦争に最も近づいた13日間核戦争に最も近づいた13日間。以後、米ソは直通回線を引く。ワシントンD.C.

- 中印戦争できごとAD1962年10月20日非同盟の外交の挫折インドと中国の国境は、ヒマラヤの山々の中で、イギリスの時代から決まらないままだった。西ではアクサイチンの高原に中国が道路を通し、東ではイギリスが引いたマクマホン・ラインを中国が認めていなかった。1959年のチベット動乱でダライ・ラマがインドへ逃れると、両国の仲は冷え込む。1962年10月20日、中国軍は東西で一斉に攻め込み、準備の無いインド軍を破った。一か月後、中国は一方的に停戦して兵を引いたが、アクサイチンは手放さなかった。非同盟を掲げたネルーの外交の挫折だった。タワン
- ワシントン大行進できごとAD1963年8月28日冷戦のさなか、内側で問われたこと「私には夢がある」。翌年、公民権法が成立する。ワシントンD.C.

- ケネディ暗殺できごとAD1963年11月22日26秒のフィルム12時30分、オープンカーで。教科書倉庫の6階から3発。オズワルドは2日後に警察の地下でルビーに撃たれた。ウォーレン委員会は「単独犯」。国民の6割はいまも信じない。ザプルーダーの8ミリフィルム、26秒。1992年の法で文書は公開されることになり、まだ全部ではない。ダラス

- 部分的核実験禁止条約できごとAD1963年8月5日地下は残ったキューバ危機の10か月後。大気圏内、宇宙、水中での核実験を禁じた。地下は残った。米英ソ。フランスと中国は署名しなかった。「ホットライン」と同じ夏。核の冬に一歩近づいてから、一歩下がった最初。モスクワ
- トンキン湾事件できごとAD1964年8月2日二度目はなかった駆逐艦マドックスが北ベトナムの魚雷艇と交戦した。2日後の二度目の「攻撃」は、なかった。ジョンソンは議会に決議を求め、下院は416対0、上院は88対2。「大統領は必要なあらゆる手段を」。宣戦布告なしの戦争が始まった。2005年、NSAの文書が「二度目はなかった」と認めた。トンキン湾

- 東京オリンピックできごとAD1964年10月10日敗戦から十九年、復帰を目に見える形で1964年10月10日、アジアで初めてのオリンピックが東京で開かれた。聖火の最後の走者は、広島に原爆が落とされた日に広島県で生まれた十九歳の学生だった。首都高速、地下鉄、ホテルが開会に間に合わせて造られ、東京の姿が数年で変わる。女子バレーボールの金メダルの試合は、テレビで国じゅうが見た。敗戦から十九年で、日本は国際社会への復帰を目に見える形で示した。その裏で、川は蓋をされ、古い町並みは壊された。東京
- ビートルズがアメリカへできごとAD1964年2月9日リヴァプールの港町のクラブで演奏していた四人組は、イギリスで熱狂を巻き起こしていた。1964年2月9日、ニューヨークのテレビの人気番組に出演すると、七千万人を超える人が見たとされる。ケネディ暗殺から三か月足らずで、沈んでいたアメリカの若者たちが叫び声を上げた。自分たちで曲を書き、自分たちで演奏するバンドの形が、ここから世界の標準になる。1966年の日本公演では、武道館で演奏してよいかをめぐって議論が起きた。ニューヨーク
- インドネシアの九・三〇事件できごと1965年数も経緯もいまだ確定していない共産党員とされた人びとが50万人以上殺されたとされる。数も経緯もいまだ確定していない。ジャカルタ

- 日韓基本条約できごとAD1965年6月22日戦後二十年、日本と韓国は十年以上の交渉を重ねていた。1965年6月22日、国交を開く条約が結ばれる。日本は、無償の三億ドルと有償の二億ドルを、経済協力として韓国に出した。請求権の問題は、完全かつ最終的に解決された、と協定に書かれる。韓国では屈辱の外交だとして激しい反対運動が起き、日本でも反対があった。その資金は韓国の高度成長の元手の一つになったが、戦時の動員をめぐる個人の請求は、のちに大きな争いになった。東京
- モブツの独裁できごとAD1965年11月24日盗む政治の代表例独立直後のコンゴの混乱の中で、陸軍の指揮官モブツは、アメリカやベルギーの後ろ盾を受けて力を伸ばした。1965年11月24日、クーデターで全権を握る。国の名をザイールに改め、植民地の名残の地名や西洋風の名前を捨てさせ、アフリカの誇りを説いた。だが銅やダイヤモンドの富は彼と取り巻きに流れ、国は貧しいままだった。冷戦のあいだ、西側は反共の同盟者として彼を支え続ける。三十二年後、反乱軍に追われて国を去った。キンシャサ
- 文化大革命できごと1966年10年にわたり社会が引き裂かれた。学問と文化財が破壊され、多数が命を落とす。北京

- ムルロアの核実験できごとAD1966年フランスが30年で193回行った。本国から見て地球のほぼ反対側を選んでいる。抗議船を沈めた事件(レインボー・ウォリアー号)が、国家によるテロとして問題になった。ムルロア環礁
- ビートルズの日本公演できごとAD1966年6月30日1966年6月29日の未明、ビートルズが羽田に着いた。公演の会場は、東京オリンピックの柔道のために建てられたばかりの日本武道館である。武道の殿堂で「エレキの音」を鳴らすのはけしからん、という声が上がり、右翼の団体も抗議した。警察は来日から帰国まで、延べで数万人の警官を動員する。6月30日から7月2日まで、一回30分ほどの公演が5回行われた。客席は警官に囲まれ、立ち上がることも許されなかった。この公演のあと、日本でもエレキギターを持った若者のバンドが次々に生まれ、グループ・サウンズの流行が始まった。日本武道館
- ビアフラ戦争できごとAD1967年ナイジェリア東部が分離を宣言し、3年で100万から200万が死んだ。その多くが飢餓による。飢えた子どもの写真が世界に流れ、国境なき医師団が生まれる契機になった。エヌグ
- 第三次中東戦争できごとAD1967年6月5日六日で得た土地が、半世紀の争いの中心にエジプトがティラン海峡を封鎖し、周りのアラブ諸国が軍を国境に集めると、1967年6月5日、イスラエルは先に空から攻め、エジプトの空軍を地上で壊滅させた。六日間で、シナイ半島、ガザ、ヨルダン川西岸、東エルサレム、ゴラン高原を占領する。国の広さは数倍になった。国連は占領地からの撤退を求める決議を出す。ユダヤ教の聖地である嘆きの壁がイスラエルの手に入った一方、西岸とガザのパレスチナ人の暮らしは、いまに続く占領の下に置かれた。エルサレム
- モハメド・アリの徴兵拒否できごとAD1967年4月28日ボクシングの世界ヘビー級王者カシアス・クレイは、1964年、イスラムの教えに入り、モハメド・アリと名を改めた。ベトナム戦争が激しくなると、アリにも徴兵の通知が来た。1967年4月28日、ヒューストンの徴兵の場で、アリは名前を呼ばれても前に進み出ず、入隊を拒んだ。信仰を理由に、自分を差別する国のために、自分に何もしていないベトナムの人々と戦うことはできないと語った。アリは王座を奪われ、3年半にわたって試合を禁じられた。1971年、最高裁判所は有罪の判決を覆し、アリは1974年に王座を取り戻した。ヒューストン
- テト攻勢できごとAD1968年1月30日テレビが映した旧正月の休戦の夜、南ベトナム全土の100の街を解放戦線が襲った。サイゴンの米大使館の庭。フエは1か月。軍事的には解放戦線が壊滅した。だがテレビが映した。クロンカイトが「泥沼」と言い、ジョンソンは「クロンカイトを失えば中間層を失った」と言って、再選に出なかった。フエ

- プラハの春できごとAD1968年8月21日人間の顔をした社会主義ドプチェクの「人間の顔をした社会主義」。検閲の廃止。8か月。8月20日の夜、ワルシャワ条約軍20万と戦車2000両。市民は道路標識を外し、戦車の前に座り、ラジオで抵抗した。その年のうちに137人が死んだ。ドプチェクはモスクワに連れて行かれ、署名させられた。「正常化」。翌年、パラフが焼身した。プラハ

- 表彰台の拳できごとAD1968年10月16日1968年10月16日、メキシコシティのオリンピックの男子二百メートルで一位と三位になったアメリカの黒人の選手トミー・スミスとジョン・カーロスは、表彰台で国歌が流れるあいだ、黒い手袋をはめた拳を突き上げ、頭を垂れた。靴を脱いで黒い靴下で立ったのは、黒人の貧しさを示すためだった。二位のオーストラリアの白人の選手も、人権を訴えるバッジをつけて並んだ。二人は選手村から追放され、国に帰っても長く冷遇された。メキシコシティ
- ソンミ村虐殺できごとAD1968年3月16日戦場の真実を伝える記者1968年3月16日、南ベトナムのソンミ村に入ったアメリカ陸軍の中隊は、敵の兵がいるとされた村で、老人や女性や子どもを含む数百人の村人を殺した。ヘリコプターで上空を通りかかった兵士が、自分の機体の銃を味方に向けて村人をかばったことも知られている。軍は事件を一年以上伏せていたが、記者が掘り起こして報じた。有罪となった将校は一人だけで、刑も短く済んだ。戦争への支持は、さらに大きく崩れた。ソンミ村
- 五月革命できごとAD1968年倒れなかった政権と、変わった社会1968年5月、パリの大学生たちが、古い大学の仕組みやベトナム戦争に抗議して校舎を占拠し、カルチエ・ラタンの通りに石畳をはがしてバリケードを築いた。警察との衝突に共感した労働者たちが加わり、ストライキは一千万人近くに広がって国が止まる。壁には、想像力に権力を、といった落書きがあふれた。ド・ゴールは議会を解散し、選挙では与党が大勝する。政権は倒れなかったが、性や家族や権威に対する社会の考え方は、この年を境に大きく変わった。パリ
- 核拡散防止条約できごとAD1968年7月1日核を持つ国を増やさない1960年代、核兵器を持つ国はアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国の五つになり、このままでは数十の国が持つようになると恐れられた。1968年7月1日、ワシントン、ロンドン、モスクワで署名が始まった核拡散防止条約は、核を持たない国は今後も持たないと約束し、持つ五か国は核軍縮に誠実に取り組むと約束する取り引きだった。原子力の平和な利用は、査察を受けることを条件に認められた。1970年に発効し、いまでは世界のほとんどの国が加わっている。だが、インド、パキスタン、イスラエルは加わらずに核を持ち、北朝鮮は脱退して核実験を行った。持つ国の軍縮も進んでいない。ワシントンD.C.
- アポロ11号の月面着陸できごとAD1969年7月20日競争がそのまま到達点になった人類が地球以外の天体に立った。冷戦の競争が、そのまま到達点になった。
- 氷から、昔の気温を読むできごとAD1969年グリーンランドの氷の下に、アメリカ軍が基地を掘った。その一角で、氷床を岩盤まで貫く掘削が行われ、1966年に千三百八十七メートルの氷の柱が抜き出された。デンマークのウィリー・ダンスガードは、雪に含まれる酸素の重い原子と軽い原子の割合が、降ったときの気温で変わることに着目していた。氷は毎年降り積もる。深いほど古い。柱を上から下まで測れば、十万年分の気温が並ぶ。1969年に出た記録は、氷期のなかで気候が何度も急に変わっていたことを示した。過去の温度計が、氷の中にあった。キャンプ・センチュリー(位置は特定されていない)
- 誕生日で決まる徴兵できごとAD1969年12月1日公平に見えるくじも、混ぜ方までは見えなかったベトナム戦争のさなか、誰を戦場へ送るかは、地域の徴兵委員会の判断に委ねられていた。大学に行ける者は猶予を受け、行けない者が送られる。不公平だという声に押されて、政府はくじに切り替えた。1969年12月1日の夜、三百六十六の誕生日を入れたカプセルが一つずつ引かれ、その様子はテレビとラジオで流された。一番目は9月14日だった。若い男たちは、自分の誕生日が何番目に出るかを見守った。のちに統計学者が、カプセルがよく混ざっておらず、年末の日付ほど早い番号が出ていたことを示した。公平に見えるくじも、混ぜ方までは見えなかった。ワシントンD.C.
- ウッドストックできごとAD1969年8月15日1969年8月15日から三日間、ニューヨーク州の農場に四十万人を超える若者が集まった。音楽の祭典として計画されたが、予想をはるかに超える人が押し寄せ、柵は倒れて無料になった。雨で農場はぬかるみ、食べ物も便所も足りなかったが、大きな暴力は起きなかったとされる。ジミ・ヘンドリックスはアメリカ国歌を、爆撃の音のように歪ませて弾いた。ベトナム戦争の時代に、若者たちの文化が一つの場所に姿を現した。ベセル
- 安田講堂事件できごとAD1969年1月18日医学部の研修の制度をめぐる争いから始まった東京大学の紛争は、全学の学生が大学のあり方そのものを問う運動に広がり、学生たちは安田講堂を占拠した。1969年1月18日、八千人を超える機動隊が入り、放水と催涙ガスで二日かけて学生を排除する。攻防はテレビで中継された。この年、東京大学は入学試験を行わなかった。全国の大学の紛争は、このあと急速にしぼんでいく。東京
- 中ソ国境紛争できごとAD1969年3月2日冷戦が二つの陣営の争いではなくなった同じ社会主義の国どうしとして手を組んでいた中国とソ連は、1950年代の終わりから、路線と主導権をめぐって激しく対立していた。1969年3月2日、国境のウスリー川の中州の島で、両国の兵が撃ち合い、多くの死者が出る。ソ連が核兵器で中国を叩くことまで検討したと伝えられ、両国は戦争の瀬戸際に立った。この対立が、中国をアメリカとの接近に向かわせる。三年後、アメリカの大統領が北京を訪れた。珍宝島
- 五・一三事件(マレーシア)できごとAD1969年5月13日民族の取り分を国が決める仕組み独立したマレーシアでは、政治の力はマレー人が、商業と都市の富は華人が多く握っていた。1969年5月の総選挙で、華人の多い野党が議席を伸ばし、勝利を祝う行進が行われる。13日、クアラルンプールでマレー人と華人の衝突が起き、数日の暴動で、公式の発表でも二百人近く、実際にはさらに多くが死んだ。議会は止められ、政府は、マレー人を教育や雇用や事業で優遇する新しい経済政策を始める。民族の間の取り分を国が決める仕組みは、いまも続いている。クアラルンプール
- ヤン・パラフの焼身できごとAD1969年1月16日諦めへの抗議1969年1月16日、プラハのヴァーツラフ広場で、20歳の大学生ヤン・パラフが、自らの体にガソリンをかけて火を付けた。前の年の8月、ソ連とワルシャワ条約機構の軍が攻め込んで「プラハの春」を押しつぶしてから、人々は検閲の復活と改革の後退を黙って受け入れはじめていた。パラフは、その諦めに抗議するためだったと書き残している。三日後に死んだ彼の葬儀には、数万人が集まった。二十年後の1989年1月、彼の死を悼む集会が警官に蹴散らされ、それが秋のビロード革命へつながる抗議のうねりの始まりになった。プラハ
- アースデイできごとAD1970年4月22日川が燃え、石油が海岸を覆い、都市はスモッグにかすんでいた。上院議員ゲイロード・ネルソンは、ベトナム反戦の集会のやり方で、環境について全国の学校と町で語り合う日を呼びかけた。1970年4月22日、アメリカで二千万人が参加したとされる。その年のうちに環境保護庁が作られ、大気を守る法律が強められた。環境の問題が、専門家や愛好家のものから、選挙で票を動かす問題になった。ワシントンD.C.
- 国境なき医師団できごとAD1971年12月22日ビアフラ戦争で、赤十字を通じて派遣されたフランスの医師たちは、封鎖された土地で子どもが飢えて死んでいくのを見た。赤十字は、どの陣営にも入れてもらうために、見たことを外で語らない決まりを守っていた。医師の一部は、黙っていることが虐殺の手助けになると考え、帰国して声を上げた。1971年、彼らと、医学雑誌の記者たちが、パリで新しい団体を作った。国境や政府の許しにとらわれずに入り、手当てをし、見たことを証言する。中立を守るのか、語るのか。同じ人道の中に、二つの考え方ができた。パリ
- 十八歳に下げるできごとAD1971年ベトナム戦争で、十八歳で徴兵され戦地へ送られる若者が、投票はできなかった。「戦えるのに、選べないのか」という言い方が広まり、1971年、アメリカは憲法を修正して選挙権の年齢を十八歳に下げた。批准は百日ほどで済み、最も早い修正になる。イギリスは1969年、日本は2016年に同じ年齢へ下げた。誰が有権者かを決める線は、成人の定義でも、能力の判定でもなく、その時代に何を負わされているかで動いてきた。負担を求めるなら、決める場にも入れるという理屈になる。ワシントンD.C.
- ペンタゴン・ペーパーズできごとAD1971年6月13日戦争の嘘1971年6月13日、『ニューヨーク・タイムズ』は、国防総省がまとめたベトナム戦争の秘密の報告書の中身を載せはじめた。歴代の政権が、勝てる見込みが乏しいと知りながら戦争を広げ、国民に偽ってきたことが記されていた。報告書を持ち出したのは、作成にかかわった分析官ダニエル・エルズバーグである。ニクソン政権は掲載の差し止めを求めて裁判を起こしたが、最高裁判所は、政府が事前に報道を止めることは許されないとして、新聞の側を勝たせた。ワシントンD.C.
- ニクソン訪中できごとAD1972年2月21日拒まれた握手反共の大統領が、国交のない国へ。空港で周恩来と握手した。ダレスが1954年に拒んだ握手。毛沢東と1時間。万里の長城。上海コミュニケ。「一つの中国」。ソ連への牽制。テレビ生中継。「世界を変えた週」。日本は頭越しに知らされた。北京

- 古い処方から新しい薬できごとAD1972年ベトナムの戦場で、北ベトナムの兵士が薬の効かないマラリアに倒れていた。1967年5月23日、中国は秘密の研究計画を始め、日付から「523」と呼んだ。屠呦呦の組は二千を超える処方を洗い出し、四世紀の葛洪の書に、青蒿を水に浸して絞った汁を飲む、とあるのに目を留める。煮出さないことに意味があると考え、低い温度で抽出すると効き目が出た。1972年に有効成分を取り出す。屠は自分でも飲んで安全を確かめた。2015年、ノーベル賞を受けている。北京
- あさま山荘事件できごとAD1972年2月28日学生運動が、世間の支持を失った1972年2月、警察に追われた連合赤軍の五人が、軽井沢の山荘に管理人の妻を人質にとって立てこもった。十日間の攻防の末、2月28日、機動隊が鉄球で山荘の壁を壊して突入する。警察官二人らが死に、その日のテレビ中継は各局を合わせて九割近い世帯が見たとされる。逮捕のあと、組織が山の中で仲間十二人を総括と称して殺していたことが分かった。学生運動は、世間の支持を決定的に失った。軽井沢
- 沖縄返還できごとAD1972年5月15日戦後、沖縄はアメリカの統治下に置かれ、本土へ渡るにも旅券が要り、通貨はドルだった。基地の拡張で土地を奪われ、米兵の事件は裁けない。島ぐるみの復帰運動が続き、1972年5月15日、沖縄は日本に戻った。核を置かず本土と同じに、と約束されたが、基地はほとんどそのまま残った。いまも日本にあるアメリカ軍専用の施設の七割ほどが、国土の一パーセント足らずの沖縄に集まっている。那覇
- 日中国交正常化できごとAD1972年9月29日頭越しの転換のあとでアメリカの大統領が中国を訪れると発表したのは1971年で、日本は頭越しの転換に驚いた。首相になったばかりの田中角栄は、1972年9月、北京へ飛ぶ。周恩来と交渉し、9月29日、両国は共同声明に署名して国交を開いた。中国は戦争の賠償を求めないとし、日本は台湾との国交を断った。翌月、二頭のパンダが上野動物園に贈られ、長い行列ができる。経済の結びつきは、その後の数十年で両国の形を変えていく。北京
- ミュンヘン・オリンピック事件できごとAD1972年9月5日祭典の中に持ち込まれた争い戦後の西ドイツは、1972年のミュンヘン大会を、明るく開かれた国の姿を見せる場にしたかった。警備も目立たないようにした。9月5日の未明、パレスチナの武装組織の八人が選手村に入り込み、イスラエルの選手団を人質にとる。最初に抵抗した二人が殺され、空港での救出の作戦も失敗して、選手団の十一人が死んだ。大会は一日止まったあと、続けられた。この事件のあと、スポーツの大会は厳重な警備の中で開かれるものになった。ミュンヘン
- マルコスの戒厳令できごとAD1972年記憶は選挙で書き換えられる二期目の任期の終わりが近づいたフィリピンの大統領フェルディナンド・マルコスは、1972年9月、共産主義の反乱の脅威を理由に、国じゅうに戒厳令を敷いた。議会は閉じられ、野党の指導者や記者が捕らえられ、新聞と放送は押さえられる。戒厳令は九年続き、その後も独裁は続いた。政府に反対する数千人が殺され、多くが拷問を受けた。大統領一家とその取り巻きは国の富を私物化し、妻の靴の数まで語り草になる。独裁は1986年の人びとの力の革命で倒れた。マニラ
- チリのクーデターできごとAD1973年9月11日選挙で選ばれた社会主義政権が軍に倒された。冷戦下で外国の関与もあった。サンティアゴ

- 第四次中東戦争できごとAD1973年10月6日勝てない戦争が、和平の条件を作った1973年10月6日、ユダヤ教の最も神聖な贖罪の日に、エジプトとシリアが同時に攻め込んだ。エジプト軍は放水で砂の堤防を崩してスエズ運河を渡り、イスラエルの防衛線を破る。イスラエルは立て直して押し返したが、不敗の神話は崩れた。アラブの産油国は、イスラエルを支える国への石油の輸出を絞り、値段を四倍に上げる。石油危機が世界を揺らした。戦争で面目を取り戻したエジプトは、数年後にイスラエルと和平を結ぶ。スエズ運河
- ソルジェニーツィン『収容所群島』できごとAD1973年数字ではなく、人の声で示した収容所で八年を過ごしたアレクサンドル・ソルジェニーツィンは、生き残った人びとの証言を密かに集め、収容所の仕組みを群島にたとえて描いた大著を書いた。原稿を預かった女性が秘密警察に尋問され、隠し場所を明かしたのち命を絶つ。作家は国内での出版をあきらめ、1973年の暮れ、パリで出版させる。翌年、国外に追放された。西側の知識人の中に残っていたソ連への幻想を、この本が大きく崩した。パリ
- ウォーターゲート事件できごとAD1974年8月9日大統領も法の下にある1972年6月、ワシントンのウォーターゲート・ビルにある民主党の本部に、盗聴器を仕掛けようとした男たちが捕まった。ただの侵入事件に見えたが、新聞記者たちが金の流れを追うと、大統領の再選委員会とホワイトハウスにつながった。大統領ニクソンが執務室の会話を録音していたテープが、裁判所の命令で提出され、もみ消しの指示が明らかになる。1974年8月9日、ニクソンは任期の途中で辞任した。大統領も法の下にあることが示された。ワシントンD.C.
- カンボジアの大量虐殺できごと1975年都市を空にし、知識人を殺した。人口の2割近くが失われたとされる。プノンペン

- ポルトガル領の独立できごとAD1975年アンゴラとモザンビークが独立した。他のアフリカ諸国より15年遅い。本国の政変(カーネーション革命)が先に必要だった。独立の直後から、冷戦の代理戦争としての内戦が始まる。ルアンダ
- ヘルシンキ宣言できごとAD1975年8月1日ソ連は紙だと思った35か国。ソ連は戦後の国境の承認を得た。西側は「人権と基本的自由の尊重」を第7原則に入れた。ソ連は紙だと思った。東欧の反体制派はそれを盾にした。「ヘルシンキ・グループ」。憲章77。それが1989年につながった、と言われる。ヘルシンキ
- サイゴン陥落できごとAD1975年4月30日戦争の終わりは、難民の始まりアメリカ軍が引き揚げてから二年、北ベトナムの軍は南への攻勢を強め、南ベトナムの軍は崩れていった。1975年4月、アメリカ大使館の屋上からヘリコプターで人びとを運び出す最後の脱出が行われる。4月30日、北の戦車が大統領官邸の門を突き破り、南ベトナムは降伏した。ベトナムは一つの国になり、サイゴンはホーチミン市と改められる。その後、多くの人が小さな船で国を逃れ、海で命を落とした。サイゴン
- レバノン内戦できごとAD1975年4月13日分け合う仕組みが崩れたレバノンは、キリスト教とイスラム教のさまざまな宗派が、人口の割合に応じて大統領や首相の地位を分け合う仕組みで成り立っていた。人口の比率が変わり、パレスチナの武装組織が入り込むと、その均衡が崩れる。1975年4月13日、ベイルートでバスが銃撃された事件をきっかけに、内戦が始まった。シリアとイスラエルが介入し、首都は東西に分断される。十五年続いた戦いで、十数万人が死んだ。中東のパリと呼ばれた町は、瓦礫になった。ベイルート
- ロッキード事件できごとAD1976年7月27日金で動く政治と、それでも集まる票1976年2月、アメリカ上院の公聴会で、航空機会社ロッキードが旅客機を売り込むため、日本の政界に巨額の金を渡していたことが明らかになった。7月27日、前首相の田中角栄が外国為替法違反の疑いで逮捕され、のちに受託収賄の罪でも起訴される。首相経験者の逮捕は戦後初めてだった。田中は裁判のあいだも派閥を率い、選挙区では圧勝を続けた。金で動く政治への怒りと、それでも票が集まる地元への利益の配分が、同時に見えた事件である。東京
- 五月広場の母たちできごとAD1977年4月30日黙って歩くことで、独裁に向き合った1976年、アルゼンチンで軍がクーデターを起こし、反対する者を次々に連れ去った。遺体は見つからず、行方不明者と呼ばれる。その数は数万人ともいわれる。1977年4月30日、子どもを奪われた母親たちが、大統領府の前の五月広場に集まり始めた。集会が禁じられていたので、二人ずつ腕を組んで広場を歩き続ける。頭には白い布を巻いた。毎週木曜日、その行進は独裁が倒れた後も続いた。祖母たちは、奪われた孫を遺伝子の鑑定で探し出している。ブエノスアイレス
- キャンプ・デーヴィッド合意できごとAD1978年9月17日アラブの国として初めての和平四度戦ったエジプトとイスラエルのあいだで、エジプトの大統領サーダートは1977年、敵の国会で演説するためにエルサレムへ飛んだ。翌年、アメリカの大統領カーターは、両国の首脳を山荘に招き、十三日間閉じこもって交渉させた。1978年9月17日、合意が成る。イスラエルはシナイ半島を返し、エジプトはイスラエルを国として認めた。アラブの国がイスラエルと和平を結んだのは初めてで、エジプトはアラブの国々から裏切り者とされた。キャンプ・デーヴィッド
- ソ連のアフガニスタン侵攻できごとAD1979年12月24日最後の戦車が橋をクリスマスイヴ、空挺部隊がカブールに降り、大統領アミンが宮殿で殺された。10年。ソ連兵1万5000人、アフガン人100万人が死んだ。アメリカとサウジとパキスタンがムジャヒディンに金と武器を送った。1989年2月15日、最後の戦車が橋を渡った。ソ連は2年後になかった。カブール
- イラン革命できごとAD1979年2月1日宗教が、近代の革命の旗になったイランの国王は、アメリカの後ろ盾で近代化を急ぎ、秘密警察で反対を抑えた。石油の富は一部に集まる。1978年、宗教家から学生、商人、労働者までが加わる抗議が国じゅうに広がり、1979年1月、国王は国を離れた。2月1日、亡命していた宗教指導者ホメイニーが帰国し、四月には国民投票でイスラム共和国が成立する。十一月、学生がアメリカ大使館を占拠し、人質は四百四十四日とらわれた。宗教が近代の革命の旗になり得ることを、世界は知った。テヘラン
- ニカラグア革命できごとAD1979年7月19日革命が、選挙で政権を手放したニカラグアは、ソモサ家の三代が四十年余り支配し、国の富の多くを一族が握っていた。1972年の大地震の復興の援助金まで着服したとされる。反独裁の戦いを続けてきたサンディニスタ民族解放戦線が、1979年7月19日、首都マナグアに入った。読み書きの運動と農地改革を進めたが、アメリカは反政府の武装勢力を支援し、内戦になる。その資金をめぐる裏工作は、アメリカの政権を揺るがす事件になった。1990年の選挙で、サンディニスタは政権を失った。マナグア
- スリーマイル島原発事故できごとAD1979年3月28日1979年3月28日、アメリカのペンシルベニア州の原子力発電所で、冷却の水を送る仕組みが止まり、弁の故障と運転員の判断の誤りが重なって、炉心の半分近くが溶けた。放射性の物質の一部が外へ出て、妊婦と幼い子どもに避難が勧告される。死者は出なかったとされるが、偶然にも十二日前に原発事故を描いた映画が公開されていたこともあって、不安は全国に広がった。アメリカでは、その後長く新しい原発の建設が止まった。スリーマイル島
- ブットの処刑できごとAD1979年4月4日軍が選ばれた首相を吊るすズルフィカール・アリー・ブットは、バングラデシュの独立で国が割れたあとのパキスタンを率い、「イスラームの核爆弾」を作ると宣言した首相だった。1977年、選挙の不正をめぐる混乱の中で、陸軍参謀長のジア・ウル・ハクがクーデターを起こして権力を握る。ブットは政敵の殺害を命じた罪に問われ、1979年4月4日、ラーワルピンディーの刑務所で絞首刑にされた。各国の首脳が助命を求めていた。ジアは法律をイスラームの教えに寄せて統治する。ブットの娘ベーナズィールはのちにイスラーム世界で初めての女性の首相になったが、2007年、同じ町で暗殺された。ラーワルピンディー
- ヨハネ・パウロ2世のポーランド訪問できごとAD1979年6月2日この地の面を新たに1978年、ポーランドのクラクフの大司教カロル・ヴォイティワが、455年ぶりのイタリア人でない教皇に選ばれ、ヨハネ・パウロ2世となった。翌年6月、教皇は共産党が治める祖国を訪れた。ワルシャワの広場で開かれたミサで、教皇は、聖霊よ降りて地の面を新たにしてください、この地の面を、と祈り、群衆は何分も歌い続けた。9日間の訪問で、国民のおよそ三分の一が教皇を直に見た。人々は、国が許さなくても、これほど多くの仲間がいることを知った。翌年の夏、造船所のストライキから自主管理の労働組合「連帯」が生まれた。ワルシャワ
- 光州民主化運動できごとAD1980年5月18日戒厳令と空挺部隊朴正熙の暗殺後に軍を握った全斗煥が戒厳令を広げ、光州の学生デモに空挺部隊を送った。市民が武器を取り、10日間街を持った。5月27日、戦車。公式の死者は165人、行方不明が多い。1996年に全斗煥は死刑判決を受け(翌年、無期懲役で確定)、1997年に特赦された。光州
- 連帯の結成できごとAD1980年8月31日1000万人グダンスクの造船所の電気工が柵を越えて、ストライキを率いた。政府が独立自主管理労組を認めた。「連帯」。1000万人。ソ連圏で初めての、党の外の組織。1981年12月、戒厳令。地下へ。1989年、円卓。選挙。ワレサは1990年に大統領になった。グダンスク
- イラン・イラク戦争できごとAD1980年9月22日八年戦って、国境はほとんど変わらなかった革命で混乱するイランを見て、イラクのサッダーム・フセインは、国境の川と油田地帯を奪える好機と考えた。1980年9月22日、イラク軍が攻め込む。だがイランは持ちこたえ、戦争は八年に及んだ。塹壕と人海戦術の、第一次世界大戦のような戦いになる。イラクは毒ガスを使い、自国のクルド人の町にも撒いた。両国の石油タンカーが攻撃し合う。1988年に停戦したとき、国境はほとんど変わっておらず、数十万人が死んでいた。バスラ
- 一人っ子政策できごとAD1980年9月25日やめても元に戻らなかった人口が十億に迫り、経済の発展を食いつぶすと恐れた中国の指導部は、1980年9月25日、夫婦に子を一人にとどめるよう呼びかける公開の書簡を出した。都市では厳しく守らされ、違反すれば罰金や職を失うこともあった。強制された中絶や不妊の手術も各地で起きる。男の子を望む家では、女の子が生まれて届け出されないこともあり、男女の比率が大きく崩れた。2016年に二人まで、のちに三人まで認められたが、出生数は減り続けている。北京
- モスクワ・オリンピックのボイコットできごとAD1980年7月19日スポーツが政治の道具に1979年の暮れ、ソ連がアフガニスタンに攻め込むと、アメリカのカーター大統領は、翌年のモスクワ・オリンピックへの不参加を西側の国々に呼びかけた。日本、西ドイツ、カナダ、中国など、60を超える国と地域が参加を見送った。日本のオリンピック委員会が不参加を決めた日、柔道の山下泰裕らの選手たちは涙で抗議したが、決定は覆らなかった。4年後のロサンゼルス・オリンピックには、ソ連と東欧の国々が報復のように参加しなかった。スポーツは政治から離れているべきだという建前は、冷戦の中で崩れた。選手たちの4年に一度の機会が、国の政治の道具にされた。モスクワ
- サーダートの暗殺できごとAD1981年10月6日和平を結んだ者が、和平を理由に殺された1981年10月6日、カイロで、第四次中東戦争の開戦を祝う軍の行進を観閲していたサーダート大統領の前で、行進のトラックから兵士たちが飛び降り、観閲席に銃弾と手榴弾を浴びせた。イスラエルとの和平に反対するイスラム主義の組織の者たちだった。大統領は死に、副大統領のムバーラクが後を継ぐ。ムバーラクは非常事態を三十年続け、アラブの春で倒れるまで権力を握った。和平を結んだ者が、和平を理由に殺された。カイロ
- フォークランド紛争できごとAD1982年4月2日アルゼンチンが島を占領し、イギリスが1万3千キロ先へ艦隊を送った。74日で奪回する。両国の政権の行方が、この戦争で分かれた。ロンドン
- 「離散家族を探します」できごとAD1983年6月30日朝鮮戦争の休戦から三十年、韓国の放送局KBSは、戦争で生き別れた家族を探す番組を一晩だけ生放送するつもりだった。申し込みの電話が鳴りやまず、局の前の広場には、探している人の名前と特徴を書いた紙を持つ人々が集まり、壁も地面も紙で埋まった。放送は延長を重ね、11月14日まで百三十八日、四百五十三時間に及んだ。画面に映った人と、テレビの前の人が、互いの顔や幼いころの話で確かめ合い、一万百八十九の家族が再会した。北に残された家族は、この番組では探せなかった。汝矣島(ヨイド)
- 戦略防衛構想できごとAD1983年3月23日作ろうとすることが効いたアメリカとソ連は、互いに相手を滅ぼせるだけの核兵器を持ち、先に撃てば撃ち返されて共に滅びる、という恐怖の均衡で平和を保っていた。1983年3月23日、レーガン大統領は、飛んでくるミサイルを宇宙から撃ち落とす防衛の網を作る構想を発表する。映画の名を取ってスター・ウォーズ計画とも呼ばれた。技術の上では実現が危ぶまれたが、同じ競争に莫大な金を注ぐ余力の無いソ連の指導部に、大きな圧力をかけたと言われる。ワシントンD.C.
- 黄金寺院への突入できごとAD1984年6月6日宗教と国家の暴力が呼び合ったパンジャーブでは、シク教徒の一部が独立した国を求めて武装し、その指導者たちがシク教の最も神聖な黄金寺院に立てこもった。1984年6月、首相インディラ・ガンディーは軍に突入を命じる。戦闘で指導者たちとともに多くの巡礼者も死に、聖地は深く傷つけられた。四か月後、首相は自分のシク教徒の護衛に撃たれて死ぬ。その直後、デリーなどでシク教徒が群衆に襲われ、数千人が殺された。宗教と国家の暴力が、互いを呼び合った。アムリトサル
- エチオピア飢饉とライヴ・エイドできごとAD1985年7月13日善意の寄付が、受け取る側の政治を通る1983年から1985年にかけ、エチオピアの北部を干ばつと飢饉が襲い、数十万人が死んだ。内戦と、政府の強制的な移住の政策が被害を広げた。やせ細った子どもたちの映像をテレビで見た歌手ボブ・ゲルドフは、音楽家を集めて慈善の歌を作る。1985年7月13日、ロンドンとフィラデルフィアで同時に開かれた大規模な演奏会が、衛星で世界に中継され、多額の寄付が集まった。だが援助の一部は、政府の強制移住に使われたとも批判された。ロンドン
- レインボー・ウォリアー号の爆破できごとAD1985年7月10日友好国の港での国家のテロ1985年7月10日の夜、ニュージーランドのオークランドの港で、環境団体グリーンピースの船レインボー・ウォリアー号が二つの爆弾で沈められ、写真家のフェルナンド・ペレイラが死んだ。船はフランスのムルロア環礁での核実験に抗議に向かうところだった。捕まった二人はフランスの情報機関の工作員で、フランス政府は初め関わりを否定したが、やがて国防相が辞任し、首相が国の仕業だったと認める。友好国の港で他国が起こしたテロとして、ニュージーランドの人々の怒りを買った。オークランド
- チェルノブイリ原発事故できごとAD1986年4月26日2日黙った午前1時23分、試験中の4号炉が爆発した。黒鉛が10日燃えた。政府は2日黙り、スウェーデンの観測所が気づいた。プリピャチの5万人は36時間後に出た。消防士と「リクビダートル」60万人。死者は31人とも数万人とも。ゴルバチョフは「これが本当のペレストロイカの始まり」と言った。チェルノブイリ
- チャレンジャー号の事故できごとAD1986年1月28日1986年1月28日の朝は、フロリダでは珍しく冷え込んだ。スペースシャトル・チャレンジャーは、初めて民間の教師を乗せていた。打ち上げから七十三秒後、機体は空中で分解し、七人全員が死ぬ。授業の一環として、多くの子どもがテレビで見ていた。燃料の継ぎ目を塞ぐゴムの輪が、寒さで硬くなって役目を果たさなかった。技術者たちは前夜、延期を訴えていたが退けられた。組織が危険の声を聞かなかったことが、事故の本当の原因とされた。ケープカナベラル
- ペレストロイカとグラスノスチできごとAD1986年自由になった言葉が、体制に向かった1985年にソ連の指導者となったゴルバチョフは、停滞した経済と社会を立て直そうとした。1986年、経済の仕組みを改める建て直し、ペレストロイカと、情報を公開して批判を許す、グラスノスチを掲げる。その年のチェルノブイリの事故で、隠す体制の害はさらにはっきりした。新聞は過去の粛清や現在の不正を書き始め、人びとは声を上げる。だが自由になった言葉は、共産党の支配そのものと、連邦の中の民族の不満にも向かった。改革は、国の解体で終わった。モスクワ
- ドイモイできごとAD1986年一党の支配のまま、経済だけを開く戦争に勝って国を一つにしたベトナムは、集団農業と計画経済のもとで、ひどい物不足とインフレに苦しんだ。国を逃れる人も後を絶たない。1986年12月、ベトナム共産党は刷新、ドイモイを掲げ、市場の仕組みを取り入れ、農家が自分で作物を売ることや外国の投資を認めた。共産党の一党の支配は変えないまま、経済だけを開く道である。米を輸入していた国は、数年で世界有数の米の輸出国になった。中国の改革開放と並ぶ、もう一つの形である。ハノイ
- パルメ首相の暗殺できごとAD1986年2月28日1986年2月28日の夜11時すぎ、スウェーデンの首相オロフ・パルメは、妻と映画を観た帰り、護衛を付けずにストックホルムの繁華街を歩いていて、背後から撃たれて死んだ。パルメは社会民主党の党首で、ベトナム戦争でアメリカを強く批判し、南アフリカのアパルトヘイトと闘い、大国のどちらにも付かない外交を掲げた。首相が地下鉄で通勤するような開かれた国で起きた事件は、社会に深い傷を残した。逮捕された男は控訴審で無罪になり、捜査は34年続いた。2020年、検察はすでに死んでいた別の男を犯人と名指しして捜査を閉じたが、証拠は決定的ではない。ストックホルム
- 中距離核戦力全廃条約できごとAD1987年12月8日信頼せよ、だが検証せよ射程500から5500キロのミサイルを、米ソが全部壊す。2692基。初めて核兵器の「削減」でなく「全廃」。レーガンは「信頼せよ、だが検証せよ」とロシアの諺を言い、ゴルバチョフが「毎回それを言う」と笑った。2019年、アメリカが離脱した。ワシントンD.C.

- インティファーダできごとAD1987年12月9日石を投げ、店を閉め、税を払わない占領が二十年に及んだ1987年12月、ガザで、イスラエルの軍用トラックが事故を起こしパレスチナ人四人が死んだ。これをきっかけに、ガザと西岸で一斉に抗議が起きる。若者たちは石を投げ、商店は店を閉め、人びとは税を払わず、イスラエルの製品を買わなかった。インティファーダ、振り払うこと、と呼ばれる。戦車に石で向かう少年の映像は世界の見方を変えた。同じ時期、武装闘争を掲げる組織ハマースが生まれている。ガザ
- 台湾の戒厳令解除できごとAD1987年7月15日独裁から民主への移行二・二八事件のあと、1949年から台湾には戒厳令が敷かれ、政党を作ることも、政府を批判することも厳しく禁じられた。多くの人が政治犯として捕らえられた時代は、白色テロと呼ばれる。1987年7月15日、三十八年続いた戒厳令が解かれた。前の年には、禁じられていた野党が結成されていた。以後、新聞は自由になり、1996年には総統を住民の直接選挙で選ぶようになる。アジアで最も自由な民主の国の一つへの道が、ここから始まった。台北
- ニュージーランドの非核法できごとAD1987年6月8日同盟を失っても核の傘を拒む1984年に首相になったデビッド・ロンギは、核兵器を積んでいるかを明かさない艦船の寄港を認めない方針をとった。アメリカは、核を積むかどうかを明かさないのが決まりである。1985年、アメリカの駆逐艦の寄港が断られ、アメリカは同盟の義務を止めた。1987年6月8日、ニュージーランドは国の全体を非核地帯とする法律を定める。同盟を失ってでも核の傘を拒んだ小国の選択として知られ、いまもこの国の外交の柱になっている。ウェリントン
- 8888民主化運動できごとAD1988年8月8日軍と民主化の綱引き二十六年続いたビルマの軍の独裁は、経済を行き詰まらせた。突然の高額紙幣の廃止で、人びとの貯えは紙くずになる。1988年8月8日、八並びの日を選んで、学生たちが全国で一斉に立ち上がり、僧侶や市民が加わった。軍は発砲し、数千人が殺された。この運動のなかで、独立の英雄アウンサンの娘アウンサンスーチーが人びとの前に立つ。軍は選挙を行ったが、彼女の党が圧勝すると結果を認めず、彼女は長い自宅軟禁に置かれた。ヤンゴン(ラングーン)
- ベルリンの壁の崩壊できごとAD1989年11月9日28年間ドイツを分けた壁が一夜で開いた。冷戦の終わりが目に見える形になる。ベルリン
- ビロード革命できごとAD1989年11月17日鍵を鳴らした学生のデモが警棒で打たれ、翌日から劇場が閉まり、市民フォーラムができた。11日。ヴァーツラフ広場に50万人。鍵を鳴らした。党が指導的地位を放棄し、12月29日、獄にいた劇作家が大統領に。血は流れなかった。「ビロード」。1993年、国は二つに分かれた。それもビロードだった。プラハ
- ルーマニア革命できごとAD1989年12月22日唯一、血で終わったティミショアラの牧師の追放から。12月21日、宮殿前の集会でチャウシェスクが演説中に群衆が叫び、テレビが止まった。翌日、屋上からヘリで逃げ、捕まり、25日、クリスマスの日に2時間の裁判で夫婦とも銃殺された。1989年の東欧で、唯一、血で終わった。ブカレスト
- マルタ会談できごとAD1989年12月2日ヤルタからマルタへブッシュとゴルバチョフが嵐の中、ソ連の客船で。「冷戦の終わり」を二人で言った。ヤルタから44年。「ヤルタからマルタへ」。条約はなかった。ゴルバチョフは「我々は互いを敵と見ない」。東欧はもう崩れていた。2年後、ソ連も。マルタ(ヴァレッタ)
- 汎ヨーロッパ・ピクニックできごとAD1989年8月19日三時間だけ開いた門1989年8月19日、ハンガリーとオーストリアの国境の町ショプロンの近くで、両国の市民が国境の門を三時間だけ開けて交流する「ピクニック」が開かれた。ハンガリーの改革派の政治家と、ハプスブルク家の末裔オットー・フォン・ハプスブルクが後ろ盾になっていた。噂を聞いて集まっていた東ドイツの人々が門に押し寄せ、国境の警備兵は撃たずに見送った。六百人を超える人が西へ逃れた。三週間後、ハンガリーは東ドイツの人々に国境を開き、11月にはベルリンの壁が崩れる。ショプロン
- バルトの道できごとAD1989年8月23日二百万人の手の鎖1989年8月23日の夕方、エストニアのタリンから、ラトビアのリガを通り、リトアニアのヴィリニュスまで、およそ二百万人が手をつないで、600キロを超える人の鎖を作った。ちょうど50年前のこの日、ドイツとソ連は不可侵条約の秘密の議定書で、バルトの三国をソ連の勢力の範囲とした。三国は翌年ソ連に呑み込まれる。人の鎖は、その併合が不当だったことを世界に示すためのものだった。三国ではこのころ、民族の歌を大勢で歌う集会が続き、「歌う革命」と呼ばれた。1991年、三国は独立を回復した。リガ
- ドイツの再統一できごとAD1990年10月3日ベルリンの壁が崩れてから十一か月、東ドイツで初めての自由な選挙が行われ、統一を急ぐ勢力が勝った。通貨をまず一つにし、戦勝四か国の同意を取りつける。1990年10月3日、東ドイツの諸州が西ドイツに加わる形で、ドイツは再び一つの国になった。東の工場の多くは西との競争に耐えられずに閉じ、失業が広がる。統一から三十年以上たっても、東と西の賃金や意識の差は残っている。ベルリン
- 8月クーデターできごとAD1991年8月19日兵は撃たなかった新連邦条約の前日、強硬派8人がゴルバチョフをクリミアの別荘に閉じ込め、戦車をモスクワに入れた。エリツィンが戦車の上で「違法だ」。3日。兵は撃たなかった。3人が死んだ。ゴルバチョフは戻ったが、力はエリツィンに。共産党は禁止され、4か月後にソ連はなかった。モスクワ

- ソ連の解体できごとAD1991年12月25日69年12月8日、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの首脳がベロヴェーシの森で「ソ連は存在しない」。21日、アルマアタで11か国がCIS。25日、ゴルバチョフが辞任の演説をし、クレムリンの赤い旗が降りて三色旗が上がった。69年。核のボタンはエリツィンに渡った。モスクワ
- セミパラチンスク核実験場の閉鎖できごとAD1991年8月29日知らされないまま降った放射能ソ連は1949年から40年にわたり、カザフスタンの東の草原に設けた実験場で、四百回を超える核実験を行った。最初の十数年は空中や地表での爆発で、風下の村の人々には、何も知らされないまま放射能が降った。がんや生まれつきの障害が多いことは、長く伏せられていた。1989年、詩人オルジャス・スレイメノフが呼びかけた核実験に反対する運動は、数十万人の署名を集めた。1991年8月29日、ソ連の崩壊が迫るなか、カザフの指導者ナザルバエフは実験場を閉じた。カザフスタンは独立後、引き継いだ核兵器をすべて手放している。セミパラチンスク核実験場(位置は特定されていない)
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
主権はだれのものか30件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史16件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。戦争と平和の歴史13件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。帝国と独立11件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。二つの大戦10件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。イスラム世界10件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。技術と産業9件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。中国の王朝7件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。交易路とお金7件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。確かめるという方法7件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。差別の歴史7件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。考えることの歴史6件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。朝鮮半島5件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。女性の権利5件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。冷戦のあと5件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史5件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史5件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。表現の歴史4件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。『サピエンス全史』で読む歴史4件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『暴力の人類史』で読む歴史4件を共有 / 人が人を殺す率は、狩猟採集の時代から今まで、長い目で見ればずっと下がってきた、という本。反論も多い。働くことの歴史4件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。お金の歴史4件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。メディアの歴史4件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。近代と宗教4件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。誰が書き残したか3件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。『世界史』(マクニール)で読む歴史3件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後3件を共有 / 冷戦が終わったあと、世界はどうなるのか。3年違いで出た二冊が、正反対の答えを出した。感染症と人類2件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。都市の歴史2件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。民族移動の時代2件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。『大転換』で読む歴史2件を共有 / 市場はずっと社会の一部だった。それが逆転して、社会のほうが市場に合わせはじめた19世紀に何が起きたか。『ホモ・デウス』で読む次の歴史2件を共有 / 飢餓と疫病と戦争を抑え込んだ人類が、次に何を目指すか。『サピエンス全史』の続編。『暴力と不平等の人類史』で読む格差2件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。『収奪された大地』で読むラテンアメリカ2件を共有 / 500年の歴史を、何が持ち去られたかで書く。金、銀、砂糖、ゴム、コーヒー、銅、石油。教育の歴史2件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。支え合いの歴史2件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。明治1件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。探検と発見1件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。接触前のアメリカ1件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。キリスト教のひろがり1件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。コテンラジオで聞く歴史1件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『近代世界システム』で読む歴史1件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。『菊と刀』で読む日本1件を共有 / 一度も日本へ行かないまま、戦時中のアメリカで書かれた日本人論。読み継がれ、批判され続けている。『失敗の本質』で読む日本軍1件を共有 / なぜ負けたのかを、作戦ではなく組織の性質から説明した本。六つの作戦を並べて、同じ型を取り出す。『地に呪われたる者』で読む脱植民地1件を共有 / 植民地支配が人の心に何をするかを、精神科医が診察室から書いた。36歳で死ぬ年に口述された本。『歴史とは何か』で読む歴史の読み方1件を共有 / 事実は自分では語らない。誰がどれを選んだかが、そのまま歴史になる。この年表そのものへの問いかけ。食の歴史1件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。法と裁判の歴史1件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。海の歴史1件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。子どもの歴史1件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。交通と旅の歴史1件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。言葉と文字の歴史1件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。