
概要
洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。
この物語について
私たちは、屋根と壁に囲まれ、水道と電気とトイレのある家に住むことを当たり前だと思っている。だが、そうした住まいは、いつ、どのようにしてできてきたのか。人は、どこに、誰と、どう住んできたのか。
最初の住まいは、洞窟の入口や、獣の皮を張った小屋だった。人は一か所に定まって住むようになると、地面を掘りくぼめて屋根をかけ、石を積み、泥を固めて家を建てた。家の真ん中には炉があり、火が暖と光と料理を与えた。遊牧の人々は、たたんで運べる家を工夫した。
都市が生まれると、人は限られた土地に積み重なるように住んだ。ローマの集合住宅、江戸の裏長屋。貴族と王は広い屋敷と宮殿に住み、庶民は狭い部屋で井戸と便所を分け合った。煙突、窓ガラス、畳、布団、こたつと、住まいの道具は少しずつ暮らしを快適にしていった。
19世紀、工業の都市に人があふれ、貧民街の不衛生が問題になった。水洗の便所と下水、ガスの灯り、改造された大通り、田園都市の構想。20世紀には、鉄筋コンクリートの集合住宅と、機能を重んじる建築が、多くの人に光と風と水のある住まいを届けようとした。戦後の世界では、団地とニュータウン、郊外の一戸建てが大量に造られた。
だが、上から計画された団地は荒れ、郊外は車に頼る暮らしを生み、古い町並みは壊された。いま、住まいは高齢化と空き家、住宅の値段の高騰という新しい問題に直面している。この物語は、人が住まいに求めてきたものと、住まいが人の暮らしと社会を形作ってきた歩みを並べたものになる。
この物語が起きた場所
筋(49)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ショーヴェ洞窟の壁画できごと約3万6000年前洞窟の住まいと絵馬、獅子、犀、そして壁に押し当てた手。1994年の発見時、これほど古いとは誰も信じなかった。描いた人が何を思っていたかは、分からないままになる。ショーヴェ洞窟
- チャタル・ヒュユクできごと紀元前71世紀屋根から出入りする町道が無く、屋根の上を歩いて天井の穴から家に入る町。数千人が住んだが、王の家らしきものが見つからない。チャタル・ヒュユク
- 三内丸山の集落できごとBC3900年ごろ竪穴住居の集落いまの青森市の丘の上に、縄文時代の人々がおよそ1700年にわたって暮らし続けた大きな集落があった。1992年、野球場を造る工事の前の調査で、その跡が姿を現した。地面を掘り下げて屋根をかけた竪穴住居の跡は数百にのぼり、長さ30メートルを超える大きな建物の跡や、直径1メートルの栗の柱を6本立てた巨大な建物の跡も見つかった。人々は栗の林を育て、魚や木の実を食べ、遠くの土地と翡翠や黒曜石をやりとりしていた。狩猟採集の暮らしでも、人は一か所に長く定まって住めたことを、この集落は示している。三内丸山
- スカラ・ブレイの石の家できごとBC3180年ごろ石の家具の家1850年の冬、スコットランドの北のオークニー諸島を襲った嵐が、海辺の砂丘をはぎ取り、石造りの家の跡を露わにした。スカラ・ブレイと呼ばれるこの村は、5千年あまり前の新石器時代に、8軒ほどの家が身を寄せ合うように建てられていた。木の少ない島で、家具まで石で作られた。家の真ん中に炉があり、その両側に石の箱の寝台が、奥には石の棚が据えられていた。家どうしは屋根のある通路で結ばれ、下水の溝まで備えていた。エジプトのピラミッドより古い、ヨーロッパで最もよく残った先史時代の村である。スカラ・ブレイ
- ゲルできごとBC500年頃運べる家柳の格子を蛇腹に広げて壁とし、放射状の垂木を輪で受けて屋根にする。羊毛を圧縮したフェルトで覆い、毛の縄で締める。釘も接着も使わない。二人で一時間ほどで組み、また畳める。頂の輪は煙を出し、光を入れ、そして時刻を測る目安になった。入口は必ず南を向く。内部の位置には決まりがあり、北が上座、西が男の側、東が女の側である。移動する家であると同時に、方位と序列を持つ小さな宇宙だった。カラコルム
- ローマ大火できごとAD64年7月燃える都市の大半が焼けた。ネロが放火犯としてキリスト教徒を処断したとタキトゥスは書く。ローマ

- ヴェスヴィオ火山の噴火できごと79年8月24日(近年は10月説が有力)火山灰に埋もれた家々ポンペイとヘルクラネウムが埋まった。小プリニウスの書簡が当時の様子を伝える唯一の同時代記録。ポンペイ

- ローマのインスラ(集合住宅)できごとAD1〜2世紀ローマの集合住宅人口が百万人に近づいた帝政のローマでは、市民の大多数が、インスラと呼ばれる何階建てもの集合住宅に住んでいた。一階には通りに面して店が並び、上の階ほど狭く、家賃は安く、貧しい人が住んだ。台所も便所も水道も無い部屋が多く、人々は公衆の浴場と便所、屋台の食べ物に頼った。急ごしらえの建物はしばしば崩れ、火事も絶えなかった。皇帝たちは建物の高さを制限し、64年の大火のあとには、ネロが通りを広げ、燃えにくい材料を使うよう命じた。詩人たちは、崩れかけた高い部屋の暮らしの惨めさを書き残している。ローマ
- 家にかまどが入るできごとAD5世紀家にかまどが入る縄文から弥生の竪穴住居では、家の真ん中の炉で火を焚き、土器を直に火にかけて煮た。五世紀ごろ、朝鮮半島から、壁際に粘土で作り付けるかまどが伝わる。煙は壁の外へ抜け、火は囲まれて熱が逃げにくい。蒸し器を載せて米を蒸すこともできた。家の中心にあった火が壁際へ移り、家の間取りが変わる。かまどはその後、家そのものの言い換えにもなり、分家して新しく所帯を持つことを、かまどを分けると言った。平城京
- 寝殿造できごとAD10〜11世紀壁の無い屋敷平安時代の京の貴族たちは、寝殿造と呼ばれる屋敷に住んだ。敷地の中央に南を向いた寝殿を置き、その東西や北に対屋を配して渡り廊下で結び、南には池と築山のある庭を設けた。建物の中には、ほとんど固定した壁が無く、広い板敷きの空間を、御簾や几帳、屏風で仕切って使った。畳は、人が座ったり寝たりするところにだけ敷く敷物だった。開け放たれた屋敷は、庭の四季を楽しむには向いていたが、冬は寒かった。のちの書院造では、部屋を襖で仕切り、畳を敷き詰め、床の間を設けるようになり、日本の和室のもとになった。京都
- チャコ・キャニオンの大集落できごとAD1050年頃(最盛期)石の大集落砂漠の峡谷に、数百室・五階建ての石造建築が十数棟並んだ。数十キロ先まで真っ直ぐな道が延び、太陽と月の周期に合わせた建物の向きが残る。チャコ・キャニオン
- 煙突のある暖炉できごとAD13〜14世紀煙突が部屋を分ける中世のはじめ、ヨーロッパの館では大広間の真ん中で火を焚き、煙は屋根の穴から抜いた。主人も家来も同じ火の周りで食べ、眠った。壁に炉を寄せ、煙を煙突で上へ導く造りが広がると、暖かい部屋を一つの火にまとめる必要がなくなる。部屋ごとに暖炉を置き、主人の家族は広間を離れて小さな私室で過ごすようになった。煙突の数が富の目印になり、のちに税の対象にもなる。暖める仕組みが変わると、誰とどこで過ごすかが変わった。ロンドン
- こたつできごとAD15世紀日本の家は夏の風通しを重んじて建てられ、冬は寒い。部屋全体を暖めるのではなく、火の近くの体だけを温めてきた。室町の頃、囲炉裏の上に木の櫓を組み、布団を掛けて足を入れる形が生まれたとされる。江戸時代には、炭の火鉢を入れて好きな場所へ動かせる置きごたつが広まった。家族は一つの布団に足を入れて集まる。家を暖めずに人を暖めるやり方は、燃料を節約する知恵でもあり、寒い家を続けさせた理由でもある。京都
- 銀閣と東山文化できごとAD1482年書院造と畳応仁の乱で京が焼けた後、足利義政が東山に山荘を建てた。銀は貼られていない。観音殿と東求堂。同仁斎は、四畳半に付書院と違い棚を備えた、書院造の最初期の形で、いまの和室の原型になった。義政の周りに、同朋衆(能阿弥、芸阿弥、相阿弥)が集まり、唐物の鑑定、座敷飾り、立花、香、そして茶の作法を整えた。政治に失敗した将軍が、日本の生活の形を残した。銀閣寺(慈照寺)
- 江戸の湯屋できごとAD1591年(天正19年)町の湯屋徳川家康が江戸に入った翌年、伊勢与市という者が銭瓶橋のほとりに銭湯を建てたと記録にある。当初は蒸し風呂に近い形で、湯気を逃さないよう入口を低くしてあった。江戸の町家は火事を恐れて内風呂をほとんど持たず、人々は毎日のように湯屋へ通う。二階には座敷があり、湯上がりに茶を飲み、碁を打ち、噂を交わした。男女の別は長く緩く、寛政の改革などで繰り返し禁じられては戻る。裸で身分の差が見えにくくなる場所として、川柳にも多く詠まれた。東京
- 板ガラスと窓できごとAD1688年ガラスの窓は、ローマにもあったが、中世には教会と宮殿のものだった。小さな円形ガラス(クラウン・ガラス)を鉛の桟で継ぐ。1688年、フランスのサン=ゴバン王立工場が、溶けたガラスを鉄の台に流して延べ、冷ましてから磨く方法を工業化した。大きな平らな板が作れる。ヴェルサイユの鏡の間はこの技術による。19世紀、円筒法と機械研磨で値段が下がり、庶民の家に窓が入った。室内が明るくなり、そして店の陳列窓が生まれた。パリ
- 窓税できごとAD1696年窓に税をかける家の中を調べずに、豊かさを測りたい。1696年、イングランドは窓の数に課税する仕組みを作った。外から数えられるので、徴税人が家に入らなくてよい。私有の領域を侵さない税として歓迎された面もある。だが人々は窓を塞いだ。煉瓦で埋めた跡が、いまもイギリスの古い家に残っている。安い集合住宅ほど窓が減り、暗く、風の通らない部屋が増えた。医師が健康を害すると訴え、1851年に廃止される。測りやすいものを測ると、測られる側がその形に合わせて変わる。ロンドン
- 江戸の裏長屋できごとAD18世紀九尺二間の裏長屋百万の人が暮らした江戸では、町人の多くが、表通りの裏の路地に建つ長屋を借りて住んだ。典型的な住まいは「九尺二間」と呼ばれ、間口が9尺(およそ2.7メートル)、奥行き2間(およそ3.6メートル)で、土間のかまどと流しのほかは、四畳半ほどの板の間か畳の部屋が一つきりだった。井戸と便所とごみ溜めは、路地の住人が共同で使った。壁は薄く、隣の話し声も筒抜けで、住人どうしは否応なく助け合った。家主に代わって長屋を管理する大家が、住人の世話と町の役目を担った。風呂は町の湯屋に通った。江戸
- 江戸の上水井戸できごとAD18世紀共同の井戸江戸の井戸の多くは、地下水を汲むものではない。上水から木の樋で引いた水を、地中の枡に溜め、桶で汲み上げる仕組みだった。井戸の底が四角いのはそのためである。裏長屋では一つの井戸を十数世帯で共有し、年に一度、総出で樋と枡を洗った。井戸端は、水を汲む場所であり、洗い物と噂話の場所でもある。水道料は大家がまとめて払った。使う人が共同で管理する水は、誰のものでもなく、誰もが責任を負う水だった。江戸
- 綿の布団できごとAD18世紀綿の布団中世の日本の庶民は、藁や筵の上に寝て、昼の着物や夜着を掛けて眠った。綿は輸入品で高かった。木綿の栽培が西日本に広がると、綿を入れた敷き布団と掛け布団が、都市の家にも入っていく。十八世紀の江戸には、布団を貸す商売があった。婚礼の支度として布団を持たせる習わしも、この頃に形になる。昼は畳んで押し入れにしまえば、同じ部屋が居間にも寝室にもなった。寝る場所を決めない住まいは、布団と組になっている。江戸
- 家に番号を振るできごとAD1770年家に番号を振る七年戦争でプロイセンに敗れたハプスブルク家は、兵をどこから何人集められるかを、正確に知りたかった。マリア・テレジアは1770年、領内の男と家畜を数え上げる調査を命じ、そのためにすべての家の壁に番号を書かせた。それまで家は、持ち主の名や屋号や、どの領主に属するかで呼ばれていた。番号は、それを村ごと、町ごとの通し番号に置き換える。役人と兵が戸口を一軒ずつ回り、数字を塗っていった。家に番号が付くと、そこに住む人は、国から見つけられる人になる。番地は、郵便より先に、徴兵のために生まれた。ウィーン
- 水洗便所とS字トラップできごとAD1775年水洗便所水洗の便器は1596年にジョン・ハリントンが考案していたが、広まらなかった。下水管から悪臭と害虫が逆流するからである。1775年、時計職人アレクサンダー・カミングスが、排水管をS字に曲げて水を溜める仕組みを特許にした。溜まった水が蓋になる。翌年、ジョセフ・ブラマーが弁を改良した。この単純な曲がりが、家の中に便所を置くことを可能にした。上下水道の整備と合わせて、19世紀後半、都市の家の間取りが変わった。ロンドン
- ガス灯と夜の街できごとAD1807年ガスの灯り石炭を蒸し焼きにして出るガスを管で送り、燃やす。1807年、ロンドンのポール・モール街に最初のガス灯が並んだ。それまで、夜の街は月と手提げの提灯だけだった。夜間の労働、夜の店、夜の劇場、そして夜の警察と犯罪。人の一日の使い方が変わった。副産物のコールタールは、当初は厄介な廃棄物で、そこからモーヴが、薬が、そして20世紀の有機化学工業が出てくる。ロンドン
- オスマンのパリ改造できごとAD1853年大通りで中世の町を貫く19世紀の半ばのパリは、中世からの狭く曲がりくねった路地に人がひしめき、コレラが繰り返し流行し、革命のたびに路地にバリケードが築かれた。1853年、皇帝ナポレオン3世は、セーヌ県の知事にジョルジュ・オスマンを任じ、都の大改造を命じた。古い家並みを取り壊して、広くまっすぐな大通りを貫き、下水道と上水道を整え、公園を造り、建物の高さと正面の形をそろえた。17年にわたる工事で、パリはいまの姿になった。だが立ち退かされた貧しい人々は町の外れへ追いやられ、莫大な借金が残り、オスマンは1870年に職を解かれた。パリ
- 銀座煉瓦街できごとAD1872年(明治5年)燃えない町1872年2月、東京の和田倉門の近くから出た火は、銀座から築地にかけての一帯を焼き尽くした。江戸の町は火事に弱かった。政府は、焼け跡を燃えない煉瓦の町に作り変えることを決め、イギリス人の技師トーマス・ウォートルスに設計を任せた。広い通りの両側に歩道と街路樹を設け、二階建ての煉瓦造りの洋風の建物を並べた。1877年に完成した煉瓦街は、文明開化の見本とされたが、湿気がこもって住みにくいと嫌われ、はじめは空き家が目立った。やがて新聞社や洋品の店が集まり、銀座は日本で最も華やかな通りになった。1923年の関東大震災で、煉瓦の建物の多くは崩れた。東京
- 最初の摩天楼できごとAD1885年上へ伸びる建物組積造では、高くするほど下の壁を厚くしなければならない。十六階建てなら、一階の壁が二メートルを超える。窓も床面積も失われる。ウィリアム・ル・バロン・ジェニーは、シカゴのホーム・インシュアランス・ビルで、鉄と鋼の骨組みに建物の重さを負わせ、壁を単なる覆いにした。十階、四十二メートル。壁が薄くなり、大きな窓が開いた。エレベーター、鉄骨、電話、そして大火の後の地価が、同じ場所で重なった。シカゴ
- リース『向こう半分の人々の暮らし』できごとAD1890年貧民街の暮らしデンマークから移民した新聞記者ジェイコブ・リースは、警察の担当の記者として、ニューヨークの下町の貧民街を歩き回った。そこでは、移民の家族が、窓の無い部屋の並ぶ集合住宅に詰め込まれ、ひとつの便所を何十人もが使っていた。リースは、発明されたばかりの閃光の粉を使って、暗い部屋の中や路地の奥を写真に撮った。1890年、写真と文章で貧しい人々の暮らしを伝えた『向こう半分の人々の暮らし』を出すと、豊かな人々は衝撃を受けた。のちに大統領となるセオドア・ローズヴェルトはリースとともに夜の貧民街を回り、1901年には、集合住宅に光と風と便所を義務づける法ができた。ニューヨーク
- 田園都市できごとAD1898年田園都市ロンドンは煤煙と過密で、地方は仕事が無く寂れていた。速記者だったエベネザー・ハワードは、両方の良いところを取る第三の道を本に書く。人口三万程度の町を作り、周りを農地の帯で囲んで広がりを止める。土地は住民の共同体が所有し、地価の上昇分は町の財産にする。工場も学校も町の中に置き、通勤を短くする。レッチワースとウェリンで実際に作られ、各国の郊外開発に影響した。もっとも、多くの国では土地の共有という肝心の部分が外され、住宅地の意匠だけが真似られた。ロンドン
- 空気を調えるできごとAD1902年7月17日空気を調えるブルックリンの印刷工場が困っていた。夏になると紙が湿気で伸び縮みし、色が重ならない。若い技師ウィリス・キャリアは、冷やした管に空気を通せば水分が結露して落ちることに着目し、温度と湿度を同時に制御する装置を設計した。目的は人の快適さではなく、紙の寸法である。工場、繊維、たばこ、薬品と広がり、1925年にニューヨークの映画館が導入すると、夏の興行が成り立つようになった。人が涼しさに金を払うと分かってから、この技術は建物そのものの形を変えていく。ニューヨーク
- ニューヨークのゾーニング条例できごとAD1916年7月25日用途を分ける1915年、ニューヨークの下町に、38階建てのエクイタブル・ビルが完成した。敷地いっぱいにまっすぐ立ち上がる巨大な建物は、周りの通りと建物に一日じゅう影を落とし、周囲の不動産の値打ちを下げた。1916年7月25日、ニューヨーク市は、アメリカで初めての都市全体にわたるゾーニング条例を定めた。土地を住宅、商業、工業などの用途に分け、建物は高くなるほど通りから後ろへ下げなければならないとした。この決まりから、上に行くほど段々に細くなる、ウェディングケーキのような摩天楼の形が生まれた。用途を分けるゾーニングは、アメリカ中の都市に広がった。ニューヨーク
- バウハウスの創立できごと1919年4月機能の建築第一次世界大戦に敗れた直後の1919年4月、建築家ヴァルター・グロピウスは、ドイツのヴァイマルで、美術の学校と工芸の学校を一つにした新しい学校、バウハウスを開いた。芸術家と職人の垣根を取り払い、建築を中心に、すべての造形をひとつにまとめることを目指した。教師には、画家のクレーやカンディンスキーらが招かれた。やがて学校は、芸術と工業の技術の結びつきを掲げ、量産できる簡素で機能的な家具や照明、建物を生み出した。1925年にデッサウへ移ったが、ナチの圧力で1933年に閉じられた。亡命した教師たちが、その考えを世界に広めた。ワイマール
- 関東大震災できごとAD1923年9月1日10万人以上が死んだ。混乱のなかで流言により朝鮮人らが虐殺される。東京

- 揺れに耐える建物の決まりできごとAD1924年揺れに耐える建物関東大震災で、東京と横浜の煉瓦の建物は多くが崩れた。建築学者の佐野利器は、建物の重さの一定の割合の力が横から加わっても壊れないように設計せよ、という考え方を唱えていた。震災の翌年の1924年、それが建築の法律に書き込まれる。地震の力を数字で見込んで設計することを、国の決まりとして求めた最初の例の一つとされる。揺れに耐えるかどうかを、建てる人の経験ではなく計算で確かめる時代が始まった。東京
- 同潤会アパートできごと1924年5月鉄筋コンクリートのアパート関東大震災のあと、家を失った人々のための住まいを造るため、1924年5月、国内外から寄せられた義援金をもとに、財団法人同潤会が作られた。同潤会は、木造の住宅とともに、燃えにくく地震に強い鉄筋コンクリートの集合住宅を、東京と横浜に16か所建てた。表参道の青山アパート、代官山アパート、江戸川アパートなどである。水洗の便所やガス、電気を備え、食堂や共同の浴場、娯楽の部屋を持つものもあった。集合住宅という住まい方を日本に根づかせる先がけとなった。同潤会は1941年に解散し、アパートは老朽化してほとんどが建て替えられた。東京
- フランクフルト・キッチンできごとAD1926年台所を作り直すウィーン初の女性建築家マルガレーテ・シュッテ=リホツキーが、フランクフルト市の公営住宅1万戸のために設計した台所。6.5平方メートル。彼女は主婦の動きを撮影して歩数を数え、作業の順に棚と流しと竈を並べた。回転椅子、引き出し式の材料入れ、作り付けの収納、そして床の色まで(青は蝿が寄らないとされた)。工場の動作研究を家庭に持ち込んだのである。現代のシステムキッチンの原型になった。彼女自身は、後に「私は料理をしたことがなかった」と語っている。フランクフルト

- 郊外住宅の量産できごとAD1947年郊外の一戸建て復員兵に住宅がなかった。レヴィット父子は、ロングアイランドのジャガイモ畑を買い、家を工場方式で建てた。基礎を打たず、コンクリート板の上に建てる。部材を寸法通りに切って運び、27の工程に分けた職人の班が家から家へ移動する。1日30戸以上。7990ドル、頭金なしで復員兵に売った。1万7000戸。アメリカの郊外と自動車社会の原型になった。当初の売買契約には、白人以外への転売を禁じる条項があった。レヴィットタウン
- ル・コルビュジエのユニテ・ダビタシオンできごとAD1952年10月14日住むための機械スイス生まれの建築家ル・コルビュジエは、家は住むための機械であると唱え、緑地の中に高層の住宅を建てる都市を構想していた。第二次世界大戦のあと、住まいを失った人々のために、フランス政府は彼にマルセイユの集合住宅を任せた。1952年10月14日に完成したユニテ・ダビタシオンは、柱で持ち上げた高さ56メートルの建物に、337の住戸と、商店の並ぶ中の通り、屋上の幼稚園やプールを収めた、一つの町のような建物だった。打ち放しのコンクリートの荒々しい表情は、のちの建築に大きな影響を与え、戦後の世界の大規模な団地の手本にもなった。マルセイユ
- 三種の神器できごとAD1950年代後半家電が暮らしを変える白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫。この三つが、戦後の日本で豊かさの目標として並べられた。神話の宝になぞらえた呼び方が広まり、月賦で買う家が増えていく。冷蔵庫が来ると、毎日の買い物が減り、作り置きができる。洗濯機が来ると、冬の水仕事から解放される。家事にかかる時間が減り、その時間の多くは女性のものだった。家電は、家の中の労働の形を変え、働きに出る前提を作った。同時に、電気の使用量が跳ね上がり、発電と送電の計画が引き直されることになる。東京
- 公団住宅と2DKできごとAD1956年団地と2DK戦後の住宅不足は420万戸と見積もられた。1955年、日本住宅公団が発足し、翌年から鉄筋コンクリートの集合住宅を大量に建てた。間取りの標準が2DK。食事をする場所と寝る場所を分ける(食寝分離)という設計思想である。ダイニングキッチン、ステンレスの流し台、水洗便所、そしてベランダ。畳に布団を敷いて一家が寝る暮らしから、椅子とテーブルの暮らしへ。「団地族」と呼ばれた入居者は、抽選の倍率が数十倍の中から選ばれた中間層だった。東京
- シンガポールの住宅開発庁できごとAD1960年2月1日国民の8割が公営住宅に1950年代のシンガポールでは、人口の多くが、燃えやすい木造の小屋が密集する集落や、すし詰めの長屋に暮らしていた。自治を始めたリー・クアンユーの政府は、1960年2月1日、住宅開発庁を作り、高層の公営住宅を猛烈な速さで建て始めた。1961年に大火で一万六千人が家を失うと、建設はさらに急がれた。1964年からは、住む人が99年の借地権つきで住戸を買える制度を始めた。民族ごとに住む地区が偏らないよう、棟ごとの割合も定めた。いまでは国民のおよそ8割が公営住宅に住み、その大半が自分の住戸を持っている。シンガポール
- 冷房が変えた人口できごとAD1960年代冷房が人を南へアメリカ南部と南西部は、夏の暑さと湿気のため、長く人口の少ない地域だった。役所も議会も、夏は閉じるのが普通である。家庭用の冷房が安くなると、それが変わった。工場が移り、退職者が移り、企業の本社が移る。フェニックス、ヒューストン、アトランタが急速に大きくなり、連邦議会の議席も南へ動いた。冷房は快適さの道具であると同時に、人口と政治の地図を書き換える装置でもあった。その電力の多くは、いまも化石燃料から来ている。涼しくするほど、外は暑くなるという循環も抱えている。ヒューストン
- ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』できごとAD1961年通りの目戦後のアメリカの都市では、古い下町を「スラム」として取り壊し、高層の住宅と高速道路と広場を造る再開発が進められていた。ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに住む建築雑誌の記者ジェイン・ジェイコブズは、1961年、『アメリカ大都市の死と生』を出し、専門家たちの都市計画を正面から批判した。都市の活気と安全は、住まいと店と仕事場が混じり合い、短い街区に古い建物と新しい建物が並び、通りに人の目が絶えないことから生まれる。彼女は、街を貫く高速道路の計画に反対する住民の運動を率い、計画を撤回させた。ニューヨーク
- 千里ニュータウンできごと1962年9月ニュータウン高度経済成長の時代、仕事を求めて大都市に人が押し寄せ、住まいが足りなくなった。大阪府は、大阪の北の千里の丘陵を切り開き、日本で初めての大規模なニュータウンを造った。1962年9月、最初の住民が入居した。小学校を中心にした近隣住区ごとに、団地と一戸建て、商店、公園を配置し、鉄道で大阪の都心と結んだ。1970年には隣で大阪万博が開かれた。人口は13万人に達し、多摩ニュータウンなど全国のニュータウンの手本になった。同じ世代の家族が一斉に入居したため、のちには住民の高齢化と建物の老朽化が一斉に進んだ。千里ニュータウン(位置は特定されていない)
- 住居表示できごとAD1962年5月10日住所を整える日本の住所は、明治の地租改正で土地に振った番号、つまり地番をそのまま使っていた。地番は税をかけるための土地の番号で、家を探すための番号ではない。土地が分けられれば枝番が付き、隣り合う家の番号が飛び、同じ番号の家がいくつもある。郵便配達も、訪ねる客も迷った。1962年、住居表示に関する法律が作られ、町を道路で囲まれた区画に分け、区画ごとに建物へ番号を振り直すことになった。何丁目何番何号という住所は、ここから広まった。ただし、土地の登記には、いまも元の地番が使われている。東京
- プルーイット=アイゴーの爆破できごとAD1972年3月16日近代建築が死んだ日1950年代の半ば、アメリカのセントルイスに、11階建ての33棟からなる巨大な公営住宅、プルーイット=アイゴーが完成した。設計したのは、のちにニューヨークの世界貿易センターを設計する日系の建築家ミノル・ヤマサキだった。だが、住む人の多くを占めた貧しい黒人の家族の暮らしは支えられず、維持の予算も足りず、建物は荒れ、犯罪と空き家が増えた。1972年3月16日、最初の棟が爆破されて崩れ落ちる様子がテレビで流れた。ある建築の評論家は、近代建築はこの日に死んだと書いた。セントルイス
- 九龍城砦の取り壊しできごと1993年3月世界で最も密な場所香港の九龍城砦は、もとは清朝の小さな砦だった。1898年にイギリスが九龍の北の土地を借りたとき、この砦だけは清の管轄として除かれ、どちらの政府の手も及ばない場所になった。第二次世界大戦のあと、中国本土から逃れた人々がここに住みつき、無秩序に建て増しを重ねた。わずか2.6ヘクタールの土地に、十数階の建物がすき間なくつながり、三万人を超える人が住んで、世界で最も人口の密度が高い場所といわれた。無許可の医者や工場、闇の商売もあった。イギリスと中国の合意で住民は立ち退かされ、1993年から1994年にかけて取り壊されて、跡は公園になった。九龍城砦
- 清渓川の復元できごとAD2005年10月1日ソウルの中心を流れる清渓川は、朝鮮戦争のあと、川辺にあふれた避難民のバラックと汚れた水に悩まされ、1950年代の末から蓋をされて道路になり、1970年代にはその上に高架の高速道路が架けられた。急成長する都市の象徴だった高架の道は、やがて老朽化した。2003年、ソウル市長の李明博は、高架の道路を取り壊し、川を地上に戻す工事に踏み切った。2005年10月1日、5.8キロにわたる川の流れが姿を現した。周りの気温が下がり、市民の憩いの場になったが、漢江から水をくみ上げて流す人工の川だという批判もあった。道路を壊して水辺を取り戻す試みとして、世界の都市の注目を集めた。ソウル
- 世界金融危機できごとAD2008年住宅ローンの破綻住宅ローンの証券化が世界に連鎖した。国境を越えた金融の速さが、そのまま危機の速さになる。ニューヨーク
- 台所の煙できごとAD2010年台所の煙世界ではいまも二十億を超える人が、薪や炭や家畜の糞を燃やして煮炊きをしている。家の中にこもる煙は肺と心臓を傷め、毎年数百万人の早すぎる死につながると推計される。煙をいちばん吸うのは、台所に立つ女性と、そばにいる幼い子どもである。2010年、煙の少ないかまどを広める国際的な連合がニューヨークで立ち上げられた。だが新しいかまどは、料理の作法に合わなければ使われない。技術を配るだけでは台所は変わらない。ニューヨーク
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
都市の歴史35件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。技術と産業11件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。武士の700年5件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。交易路とお金4件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。考えることの歴史4件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。日本の古代4件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。表現の歴史4件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。女性の権利3件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。冷戦のあと3件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。文明のはじまり3件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。感染症と人類2件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。確かめるという方法2件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『サピエンス全史』で読む歴史2件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『ローマ人の物語』で読むローマ2件を共有 / 塩野七生が15年かけて15巻で書いた、建国から西の帝国の終わりまで。このデータベースの第一期と同じ範囲になる。『万物の黎明』で読む歴史2件を共有 / 狩猟採集から農耕へ、村から都市へ、そして国家へ。その一本道の筋書きそのものが間違いだ、という本。ローマ人の物語1件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。明治1件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。朝鮮半島1件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。草原の帝国1件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。主権はだれのものか1件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。帝国と独立1件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。接触前のアメリカ1件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。『文明崩壊』で読む歴史1件を共有 / イースター島、マヤ、グリーンランドのノルウェー人。環境を使い尽くした社会と、そうしなかった社会。『繁栄』で読む歴史1件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『負債論』で読む歴史1件を共有 / お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。お金の歴史1件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。差別の歴史1件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。支え合いの歴史1件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。老いと死の歴史1件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。メディアの歴史1件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。